日本的美意識覚書16-20

佐藤宏

エセー

3,524文字

所謂日本的美意識についてつらつら書き記している。論理的破綻もあれば飛躍もあろうが、覚書という様式であるので許されたし。いずれまとまった著作(?)とする予定である。

16.

幽玄の定義は揺れており、論者によって概念内容にずれがあって(共通点はあろうとも)、一義的定義は見られない。ここでは正徹の説を検討する。歌人であり幽玄の理論家でもあった正徹は次のように述べる。

 

幽玄と云ふ物は、心にありて言葉に言はれぬものなり。月に薄雲のおほひたるや、山の紅葉に秋の露のかかれる風情を、幽玄の姿とするなり。これはいづくか幽玄ぞと問ふにも、いづくと言ひがたきなり。それを心得ぬ人は、月はきらきらと晴れて、あまねき空にあるこそ面白けれと言はん道理なり。幽玄といふは、さらにいづくが面白しとも、妙なりとも言はれぬところなり。(正徹物語)

 

僕の理解するところはこうだ。幽玄には対象の幽玄と心情の幽玄とがある(あるいは客観的幽玄と主体的幽玄である)。対象の幽玄としては、ここで述べられているように、情景の重層性とでも言えそうである。人の抱く対象の表象が複数の要素から折り重なって成り立っており、そのいずれの要素とも決定的支配的立場とはなっていない状態である。アルチュセールの「重層的決定」という言葉にならっていえば、対象の幽玄とは重層的未決定である、と言えそうである。例えば、月に薄雲が覆っている情景である。月があり、薄雲があり、前者は後者によって覆われているのであるが、とはいっても、そのいずれとも情景を支配する要因とはなっていない。この情景の主要な要素は月であるとも薄雲であるともいえない。だから、「月と薄雲とのどちらが幽玄なのか」と仮に問われたとしても、どちらとも答えようがないのであり、その意味において「いづくが面白しとも、妙なりとも言はれぬ」ということになるのである。この事情は紅葉する山に秋の露がかかっている状態にしても同じでなのある。

 

17.

幽玄体は行雲廻雪体こううんかいせつていとも呼ばれる(と言われる)。正徹は以下のように説く。

 

行雲廻雪体とて、雪の風にふかれ行きたる体、花に霞のたなびきたる体は何となくおもしろく艶なるものなり。飄白ひやうびやくとしてなにともいはれぬ所の有るが無上の歌にて侍るなり。みめのうつくしき女房の、もの思ひたるが、物をもいはでゐたるに、歌をばたとへたるなり。物をばいはねども、さすがにものおもひゐたるけしきはしるきなり。又をさなき子の二、三なるが、物を持ちて、人に「是々」といひたるは、心ざしはあれどもさだかにいひやらぬにもたとへたるなり。さればいひのこしたるやうなりう歌は、よきなり。

 

行雲廻雪体とは、鑑賞対象がゆっくりと動きゆく様であり、あるいは鑑賞対象を構成する一部がその動きを逡巡とさせる様をいうようである。花に霞がたなびく様であり、霞が花から移り行く速度はあまりにもゆったりとしているので、あるいは霞が花のところに揺蕩っていて離れられないので、結果的に霞が花に折り重なっていることになる。このゆっくりとした速度は、人間が言葉を発する際の速度にもなぞらえられている。ある人があることを述べようとしても、適切な言葉がなかなか見つからないでいる。思いから言葉への移行があまりにもゆっくりとしており、あるいは思いが言葉を見つけたと思っても、その言葉が不適切なのでまた思いへと帰ってきており、言葉へと移行する目途が立たないでいるのである。このように考えると、行雲廻雪体には自然情景としてのものと人間精神としてのものとがあるようである。前者は客観的幽玄であり、後者は主体的幽玄である(これらの呼び名は飽くまでも仮のものであるが)。後者は、人間が何かの物事に思い悩む姿である、といってもいいであろう。

 

18.

縁語とは、「中心の思想とは別に、一首のなかで、ある語と意味上縁のある語を用いて、それを相互に照応させ機知を示すなど、表現上効果を増そうとする技術」〔ブリタニカ〕である。例えば、「鈴鹿山うき世をよそにふり捨てていかになり行く我が身なるらむ」という和歌においては、「ふり」「なり」が「鈴」の縁語となっている。また、「白雪の降りてつもれる山里は住む人さへや思ひ消ゆらむ」という和歌においては、「雪」に対して「消ゆ」が縁語となっている。つまり、縁語という現象においては、ある語はその中心的意味が作品の主軸を成すが、その周辺的意味は作品においては背景を成す。ゲシュタルト説風に言えば、縁語となる語においては図と地との意味がある、と言えそうである。

 

これに対して掛詞となると、また話は別である。掛詞とは、「同音異義を利用して、1語に二つ以上の意味を持たせたもの」〔広辞苑〕であり、例えば、「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざとぶらはむ」〔よみ人しらず、古今集〕においては、「まつ」は「待つ」と「松」の掛詞である。この場合には、「待つ」と「松」とは、その両方の意味が等しく自らの存在を主張しており、図と地といった関係性はない。ともに同等の地位を有するのである。

 

縁語と掛詞については、和歌だけにとどまるものではない。掛詞についていえば、思いつくところでは、堀口大学の訳詩に用いられている。ジャン・コクトーの「山鳩」の訳詩である。

 

二羽の山鳩が
やさしい心で
愛し合いました

その余は
申し上げかねまする

 

「その余は」は同時に「その夜は」とも解釈できる。二羽の山鳩が夜に愛を一層深め合ったのである。これは夜におけるエロチシズムであり、それを「その余」という一語で表しているのである(堀口本人もどこかでこのようなエロチズムを語っていたように記憶する)。これもまた掛詞である。

 

19.

ベルグソンは「時間と自由」において次のように述べる。「意識は、言葉によってぞうさもなく表現できるようなきっぱりとした区別や、空間の中に認められる事物と同様なはっきりとした輪郭をそなえた事物を好む」と〔白水ブックス、p.20〕。言葉はある事物を周囲の事物と区別して、その輪郭をはっきりとする機能を持つ、とするのである。然るに、このような解釈では縁語や掛詞の機能が説明しつくせないようにも思う。論理は明晰を好むのであろうが、詩歌は必ずしもそうではないのである。そして幽玄なる美的観念は、明晰からは程遠いように思われるのである。

 

20.

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」には、次のような記述がある。

 

日本の厠は実に精神が休まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。そうしてそれには、繰り返して云うが、或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の唸りさえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。

 

これに続く文章も読み落とすことができないが、あまりに引用の長くなるのも宜しからぬところであろう。いずれにせよ、この谷崎のいうところの「陰翳」なるものは日本的美意識にぴたりと合致するものである。そして僕はこの引用した文章を読んだ際に、ふと例の三夕の歌を連想した。特にこの二つである。

 

さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ(寂連)

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ(藤原定家)

 

いずれにおいても、時は秋の夕暮れであり、作者は徐々に夜の闇に飲み込まれつつある。そこには目立った色彩はない(無彩色の美)。自我が自然に、あるいは光が闇に、飲み込まれつつあるのであり、そこに寂しさが感じられている。谷崎の場合には無彩色とは必ずしも言えない。そこには青葉の匂や苔の匂いがあり、青空や青葉の色がある。然るに、谷崎は向こう側に薄暗い空間を見出しており、用を足しにそこに向かっていくのである。三夕では、昼から夕暮れそして夜の闇へと徐々に闇が光を包みつつある。谷崎の陰翳においては、光の満ちる母屋から薄暗い離れへと、あるいは文明から野蛮へと、または理性から本能へと、赴く(ふと「啓蒙の弁証法」を思い出す)。三夕の美意識と陰翳とには、何がしかの共通点がないとは言えないように思う。いずれにも幽玄なる美意識の面影があるように思う。

2021年4月23日公開

© 2021 佐藤宏

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