佐藤宏

小説

1,101文字

習作です。

その小さな公園には桜が所狭しと植えられてあり、春には見上げれば視界はすべて桜となった。やがて歩みを止めるのが躊躇われるようになり(足元は何処も彼処も花弁に溢れたから)、春の強い風が吹くと一面に花弁が舞い乱れ、いつしか空が青緑一色となった。公園の常連たちはもう空を仰ぐこともなくなった。

常連の一人に爺さんがいた。いつもぶつぶつ呟いており、誰とも目を合わせず、話もしなかった。怪しんで近寄る人はおらず、まして話し掛ける者なんぞ一人もいなかった。私は爺さんに関心を抱いたが、遠巻きに眺めるだけだった。爺さんは花が満開の頃は俯きながら狭い公園を行き来した。足元にピンク色が滲み出す頃には、何も視界に映らないのか、無遠慮にざくざくと音を立てて歩いた。そして葉桜が空を透かし始める頃、爺さんは空を見上げるようになった。よくぽつねんと佇んでいる姿を見るようになった。その時ばかりは、ぶつぶつ言うこともなく、口を心持ち開き、ほんのりと両頬を上気させていた。

私は不思議に思った。満開の頃には見向きもしなかった花。確かに葉桜とて澄んだ味わいではあるが、それにしても何故今更になって、あんなにも邪気の無い横顔を見せつつ、天を仰ぐのか。聞いてみようかと迷いつつ、それとなく近づくと、爺さんはふと私を振り向いた。幾重にも皺が刻まれた顔であったが、爽やかな笑顔だった。「どうしたのですか」と、つい私は尋ねた。爺さんは「なあに、あんた、見えないのかい、この満開の花が」と、そう言うと一刻も惜しむかのように、また熱心に空を見上げた。「満開ですか」と、私は戸惑いつつ口にしてしまった。「そうじゃ」と、今度は視線を上空に固定したまま答えた。「懐かしいのう」と漏らしながら。もう爺さんは何も言わなかった。誰も傍にはいないかのようだった。

私は何と言っていいのかわからなかった。何か挨拶をしてその場を離れようとしたが、爺さんがあまりにも見入っているので、何も言わずに家に帰った。その翌日もずっと爺さんはいた。その翌日も。十日ほど続いたであろうか。やがて爺さんは姿を見せなくなった。葉桜はいまや逞しくなり、日増しに夏めいた陽気となった。そうして一か月が過ぎ、一年が過ぎ、もう何年もが過ぎた。爺さんは二度と公園を訪れることはなかった。

いまも私は葉桜の頃にその公園に行くと、あの爺さんを思い出す。爺さんは何を見たのか。そして何処へと行ってしまったのか。私もいまや爺さんの年となった。私にも桜が散りはてた後にも空がピンクに覆われるのが見えるようになった。それは幼少の頃に見た地元の夕焼けの思い出に酷似していた。「懐かしいのう」と、知らず私も呟いていた。

2022年4月29日公開

© 2022 佐藤宏

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