日本的美意識覚書21-25

佐藤宏

エセー

2,913文字

所謂日本的美意識についてつらつら書き記している。論理的破綻もあれば飛躍もあろうが、覚書という様式であるので許されたし。いずれまとまった著作(?)とする予定である。

21.

 

広辞苑によれば、みやびには

 

①宮廷風・都会風・優美・上品

②洗練された感覚をもち、恋愛の情趣や人情などによく通じること・風雅・風流

 

などの意味がある。②の意味で伊勢物語がみやびの文学となる。「初冠」には「昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける」とあり、ここでいう「みやび」は垣間見た気になる女性にすぐに歌を贈ることである。

 

みやびとは、人と人との関係が政治経済から解放されて、純然たる情(恋情と友情)によって結ばれることを、折々の自然の情景を織り込みつつ、文学的に表現することに美を見出す意識である。

 

一般に、みやびの反意語となるのが「さとび」(「田舎びていること」であり、①田舎風である、田舎じみること②所帯じみること、をいう。「さとびたる声したる犬どもの出で来てののしるも、いと恐ろしく」(源氏・浮舟)などは①の意味で、宮廷人からすると恐怖の対象ですらあり得る。ある観点からは、みやびわび・さびは対立概念であり、ゆえにさとびわび・さびは類似概念となる。

 

「伊勢物語」は「みやび」である。労働に苦労することなき貴族であり、また政略に巻き込まれる主流派政治家でもない傍流貴族がみやびの社会的条件となる。主人公とされる在原業平は、労働らしい労働を知らず、政略に頭脳を巡らせることもない。みやびの人は、労働と政略から解放され、純然たる情〔友情と恋情〕によって、他者と結ばれる。業平はあまたの女性を浮名を流し、そして友情に厚く濃やかである。(なお、こういった経済と政治の周辺にいる貴族の生き方並びに美意識は、19世紀ロシアのツルゲーネフなどの貴族文学にも連なるようにも思われる)。

 

「伊勢物語」の83段「小野」では、惟喬の親王が突如比叡山のふもとに出家する。在原業平が正月にそこを訪れると、雪は高く道中は難儀であり、親王は所在なく物悲しそうである。平安時代はみやびの文学の全盛期であり、いまだ中世的わび・さびの価値は見いだされておらず、ゆえに何らかの事情で僻地に暮らさざるを得ない親王は精神的に自足できずに、悲嘆に暮れるしかないのである。

 

22.
社交上の優美が礼ならば文芸上の優美はみやびとなる。みやびもまた礼儀に従う。「伊勢物語」では、ある夜、男は女に会おうとするが、出張先の人から手厚い接待を受ける。ハリウッド映画ならば、そんな接待から抜け出して女と逢引をするであろう。しかしこの男は最後まで接待に付き合うのであり、ここで礼儀を従順に守るのである。

 

「伊勢物語」69.の「君や来し」について。現代風に言うと、得意先への出張である女を見初めて関係を持ち、翌日にどうしてもまた二人きりになりたくなったが、得意先の手厚い接待を受けて、夜通しの宴会から退出できず、男はついに女に会えずに自宅に帰ってしまう。ハリウッド映画ならば、男は宴会なんぞすっぽかして女に会いに行くかもしれぬ。社会規範なんかくそ食らえである。このみやびの小説ではそうはならぬ。女に強く惹かれながらも、歓待を無視できなかったのは何故か。男が逢い引きのために酒宴から抜け出さなかったのは礼儀を守ったからであり、その意味でも男はみやびであったのだ。礼儀を守るのが優美の一条件なのだから、いかに好色であろうと酒宴に出ないわけにもいかなかったのだ。

 

なお、ツルゲーネフの「父と子」、「片恋」、「初恋」がみやびでないのは反礼儀的傾向があるからであろう。「貴族の巣」はみやびであり得ると思われる。

 

23.
ツルゲーネフの「貴族の巣」はみやびであり、かつ無常である。みやびというのは主人公は貴族であり、農民ほど日々の労苦に苦しめられておらず、また立身出世を強く指向する政略家でもないからであり、過激な革命思想を奉じるのでもないからである。「父と子」は子があまりにも反逆的で礼を失しており、「片恋」や「初恋」では異常なる恋愛事情が描かれているので礼に反するのであり、従って優美でなく、みやびではないのである。またこの作品が無常であるのは、すぐにも滅ぶべき宿命にある貴族階級を描いているからである。

 

24.
「みやび」は動詞「みやぶ」の連用形からであり、「宮廷風・都会風に洗練されていること、上品で優美あること」などの意味を持ち、「里び」「鄙び」(田舎びていること)などがその反意語となる。「里び」「鄙び」は「侘び」「寂び」と親近性の強い概念であるが、前者が朴訥なままであるのに対して、後者は文芸上の一大観念へと美的に昇華された。

 

25.
みやびの一要素として間接性がある。間接的であればみやびであるとは限らぬが、みやびなるものは常に間接的である。詩歌はそれ自体がみやびの一形式である。なんとなれば、ある男が、惚れた女がいるからといって、女のもとに駆けよって「お前が好きだ」と叫ぶとしたら、それは少々乱暴で武骨であって優美でない。直接的に過ぎる。しかしその心情を五七五七七に載せれば間接化して、優美になる。詩歌は心情表現の間接化であるので、詩歌そのものが優美なのである。

つれない男に対して女が恨みつらみを日記に書くとしたら、それは男に対する「私を大切にしてほしい」という心情の表明である。また浮気に出掛ける男を送り出した後に男の無事を祈るとしたら、それは男に対する愛情表現である。前者の言葉の意を汲めば、男は女を大切にするだろう。この意味で前者は直接的である。後者の祈りに対して素直に応じたとしても、男は浮気に出掛けるのを止める必要はない。その意味で、後者は間接的である。みやびは後者に相当する。

 

「伊勢物語」23.の「筒井つの」の話では、幼なじみどうしが両想いの末に結婚する。やがて女の親が亡くなり、生活の拠り所もなくなると、男は惨めな暮らしが嫌になって他に通うところができた。知ってか知らでか、女は平気で男を送り出すと、男は浮気を案ずるが、女はと言えば、丁寧に化粧をすると、夜中に山越えをする男の身を心配するのだった。それを知って女がより愛しくなって、男は浮気相手のところへは通わぬようになるのだった。この女の男に対する気持ちは不満でなく心配であり、しかもそれを本当ならば男の気づかぬところで吐露している。優美であり、みやびである。

「蜻蛉日記」の「町の小路の女」の件を読むと、男女の関係性ががらりと様変わりするのに驚く。妻は夫が他の女に遣ろうとする手紙をふと見てしまう。せめて自分が気づいたことだけでも分からせようと、妻は不満の和歌を敢えて気づかれるように書き記す。そして召使いに夫を尾行させて女の住まいを突き止め、なかなか来ない夫には、嘆きの和歌に枯れた菊を添えて送る。町の女はやがて男子を出産し、妻は衝撃を受けるが、やがて夫は町の女への興味を失い、しかも子供は死んでしまうと、妻は溜飲を下げるのである。妻の心情は愛情というよりは嫉妬であり、否むしろ憎悪にも近い。しかも妻はその心情を露骨に示すのであり、どうあがいても優美とは言いがたい。

2022年6月2日公開

© 2022 佐藤宏

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