日本的美意識覚書31-35

佐藤宏

エセー

4,428文字

美意識のデモンに襲われ、脳内を引きずり回され、挙句ペンを手放せないでいます。毎日のように考えています。読むことよりも考えることのほうが多い日々です。破滅派のテーストと異なるようで気が引けますが、破滅派の異端児として御赦しいただければ幸いです。

31.徒然草37段について。

花は盛りに、月は隈なきを見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛ゆくへ知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。

 

この冒頭部分は有名であろう。少し分析してみよう。

第一文は、美的対象は知覚できないほうがしみじみとして趣深い、と述べている。対象が知覚できないといっても、作者からは対象が完全なる異次元世界にあるのではない。そうではなく、時間なり空間なりのいずれかは作者と対象とで共有されているのである。

第二文は、美的対象は、同一空間は共有していないが隣接する空間にあり、かつ同一時間が共有されている(空間が隣接するといっても、必ずしも近いというわけではないが)。だから、雨の夜に月を見たければ月の見えるところまで移動すれば可能であり、家の外の春の様子を味わいたければいま籠っている部屋から出ていきさえすればよい。これを作者が「白昼の雨の中に月を恋慕う」とすれば、作者と月は同一空間も同一時間も共有していないことになるのであるが、雨の夜に見えない月を恋慕うのであり、また春の中に部屋に籠って春を思うのであるから、空間は隔てられてあるにしても、時間は同じくしているのである。

第三文は、美的対象は同一空間を共有しているとしても同一時間は共有しておらず、隣接する時間にある

 

これを「わび」とするならば、わびとは書き手と美的対象とが空間か時間かのいずれか一方を共有していない場合に、書き手の内部に生じるある種の感情である、と定義できそうに思う。そしてその空間か時間かの不足を想像力で補うのである。

 

想像とは、対象を十全に知覚する際に不足を補う精神機能である。例えば、雨の夜に月を恋慕うが月が見えないので、つまり書き手と月とは時間を共有しても空間は共有していないので、この空間の不足を想像力で補い、書き手は月を思いめぐらすのである。想像機能については、徒然草の同段に以下の記述がある。

 

すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながら思へるこそ、いともたのもしうをかしけれ。

これに対して、試みに定義すれば、妄想とは、対象を十全には知覚できず、さらに時間も空間も共有されていないのに、対象を把捉しようとする精神機能である。例えば、白昼の雨の中にあって月を恋慕うことであり、真冬に部屋に籠って春を夢見ることである。とはいっても、こういうふうに定義した場合の想像と妄想は断絶的でなく連続的概念であるようにも思われるが。

 

 

32.

利休は、侘茶の精神として藤原家隆の和歌を引用していた。

花をのみ待つらん人に山里の雪間ゆきまの草の春を見せばや

 

これは徒然草における「咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」(37段)の精神と近しい。読み手はこの和歌を読み、いまだ見えぬところを想像力でもって補い、これを味わうのであるが、この味わい方といえば作者は明示しておらず、読み手の理解に委ねられている(これも「詞に現れぬ余情」に相当するのであろうか)。

 

ところで、似たことを西洋の詩人が描けば、その様相は全く異なることになるのが興味深い。米国の詩人ホイットマンは、いまだ見えずこれから芽吹こうとするものを以下のように謳うのである(「見えない芽の群」)。

 

見えない芽の群、数かぎりなく、うまく隠され、

雪や氷の下に、暗闇の底に、四角や丸のどんな小さなところにも、

萌え出ようと、精妙で、繊細なレース網状をなし、極微のすがたで、生れないままの、

子宮のなかの赤んぼたちのよう、潜伏し、抱きしめられ、密生し、眠っている、

幾億万もの、幾兆万もの待ち受けている芽また芽の群、

(大地のうえ、大海のなか — 全宇宙 — 九天の星々に、)

ゆっくり追い迫り、着実に前へ進み、果しもなく現れ出てきて、

絶えまもなくもっと多く、永久にさらに多くの芽が、背後で待っていて。(木島始訳)

 

Unseen buds, infinite, hidden well,

Under the snow and ice, under the darkness, in every square or cubic inch,

Germinal, exquisite, in delicate lace, microscopic, unborn,

Like babies in wombs, latent, folded, compact, sleeping ;

Billions of billions, and trillions of trillions of them waiting,

( On earth and in the sea — the universe — the stars there in the heavens, )

Urging slowly, surely forward, forming endless,

And waiting ever more, forever more behind.

 

詩人はいまだ見えぬ芽について想像をめぐらせ、それを詳細に書き連ねる。読み手の想像に委ねるなんぞしようともしてない。このホイットマンの作品はわびとは言えぬ(この作品が悪い、というのではない)。わびとは、対象がよく知覚できないにしても、その不足に自足する態度であり、不足分は想像で補うにしても、そこは作者は十全には描かないこともありそうである。「花をのみ待つらん人に山里の雪間ゆきまの草の春を見せばや」の和歌では、雪間の草の様相について歌人は十全には述べていない(和歌の制約上のことでもあるが)。西洋の詩人は想像力を駆使して言い切ろうとするが、我が国の歌人は想像を読み手に委ねて言い切らぬをよしとするのであり、これが侘びとなるのである。

 

33.

徒然草1337段には、「よろづの事も、始め・終りこそをかしけれ。」とある。これについてもホイットマンの詩を紹介しよう。かの詩人は咲いたばかりのタンポポ(すなわち「始め」に相当する)をこんなふうに謳うのである。(The First Dandelionより)

 

冬の終りから、すうっと新鮮に素朴に美しく現れてきて、

まるで流行や商売や政治の手練手管など何ひとつ存在しなかったかのように、

じっと守られていた草むらの陽あたりのいい片隅から——曙のように無垢で金色で穏やかに、

春の初咲きのタンポポが、その信頼しきった顔をみせる。(木島始訳)

 

Simple and fresh and fair from winter’s close emerging,

As if no artifice of fashion, business, politics, had ever been,

Forth from its sunny nook of shelter’d grass — innocent, golden, calm as the dawn,

The spring’s first dandeliion shows its trustful face.

 

そのうち、これを我が国の何らかの作品と比較してみたい。

 

34.須磨に関する書き散らし

みやびもわびも政略とも労働とも無縁であるという点で共通する。違いといえば、前者は都会暮らしの宮廷に出入りする貴族の在り方であるのに対して、後者は必ずしもそうでないことであり、また前者は恋情と友情を堪能するが、後者は孤独を享受するということである。そして興味深いのが源氏物語における須磨の位置づけである。私見によれば、須磨はみやびとわびの中間ともとれる位置づけができるからである。

 

須磨では源氏はほとんどが悲しみと憂いに閉ざされているが、稀に周囲の事物(主に自然の風景だが)に興が乗って楽しむこともある。従者も少数であろうがいる。これで憂い悲しみよりも楽しむことが増え、かつ従者なく独りとなれば、侘びの境地となる。いまだ恋情から自由でなく宮廷暮らしを懐かしんでいるのでみやびではあるのだが。

 

須磨には「つれづれなるままに」というふうに徒然草と重なる言い回しがある。須磨で光源氏は絵や歌を書き集めているが、これは兼好法師も同じであろう。しかし、光源氏と兼好法師の心情はそれぞれ異なるであろう。兼好法師は自らの境遇に多かれ少なかれ満足していたであろう。須磨にいる光源氏の基調心情は悲しみであろう。

 

悲しみの中にいるとしても、光源氏には稀に興に入るシーンが見られる。「かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。」とあり、「心細さ」は消極的心情であるが、「をかしさ」は積極的心情である。

 

また、光源氏は在原行平の「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」という歌に自らをなぞらえている。行平の和歌は悲しいだけであるが著名であり、この和歌は広く知られていたようなので、人々は須磨なる場所にはそこはかとない興味を抱いており、その須磨に光源氏は来られたのだ、という意味では、光源氏は悲しいながらも何らかの興が乗らないこともないと思われる。

 

在原業平の「いとどしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくも返る波かな」の和歌に、須磨から見る海の情景をなぞらえてもいる。

「海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」とあって、「あはれに」は積極的に評価しており、「すごげなる」は消極的に評価している。

 

要するに、光源氏の須磨に対する態度は主に悲しみと憂いであるが、稀に「あはれ」を催すといった形で積極的に評価しているところもある。ここから悲しみと憂いがずっと減り、逆に「あはれ」の心情がずっと増えれば、「侘び」となりそうである。

 

35.

わび・さびにはそれぞれ消極的意味と積極的意味とがあるが、「わぶ」が悲しいものであれば否定的に理解され、「わび」が積極的意味合いであれば肯定的に見られる。これは「さぶ」や「さび」も同じである(一般に、「わぶ」「さぶ」と動詞として用いられれば否定的であり、「わび」「さび」と名詞化されれば肯定的になる、と言えそうである)これに対して、もののあはれは一語で消極的意味と積極的意味とを併せ持つ。また、わび・さびは積極的意味では宗教的ないし哲学的意味があって高尚なものとも言えるが、もののあはれは身分境遇を問わずに誰もが経験し得る日常的なものであり、必ずしも高尚であるとは限らない。

このようなことから、わび・さびには精神的な意味で貴族趣味があるが、もののあはれは身分境遇を問わずに万人向けで民主的である。わび・さびは中世的理念であり、出家者に固有の美意識であったのに対して、もののあはれは近世の町医者の見出した美的観念である、というのも興味深いところである。

 

2022年6月17日公開

© 2022 佐藤宏

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