小説を読んでその感想を書くことがはたして学問になるのかということを、つい二週間ほどまえにやめたアルバイトさきの学習塾の塾長から訊かれたことがあった。まあ、学問ではないだろう。だから文学研究、ことに近現代文学の作家研究をこころざすということは、学問の探究にきょうみがあるにんげんであるということの証左にはとうぜんならない。文学専攻で大学院にあがる学生に関しては、社会にでるのを嫌がっている、チャランポランなやつだという偏見の方が、より真実にちかいのではないか。すくなくともぼくはそうだ。まわりのやつも、どうかんがえてもそうである。ちょっと小説が好きな、あるいは小説を読むのがさほど苦にならないタチの、いいかげんなやつらである。
そういうやつらと呑みにいくと、まいどのことながら、その人間的なからっぽさにうんざりする。なに、同族嫌悪である。
「修士論文、書いてるか」
「書いてないな」
「やっぱり。書いてないよな。おれも書いてない」
こういう話題になると、いずれか一方がじつは書いている、というどんでんがえしでもあってしかるべきだが、こいつらにかぎってそれはない。修士論文は通常二年で書くものだが、ここにあつまった五人のうち一年の女の子以外は、全員三年以上研究室にいすわっている。残念である。
いちばんまじめなのは、だれよりもガリガリでだれよりも毛深く、ギョロリとした目がこの世ならぬ者と見紛う、大城であるが、かれにしたところで論文になにか勝算があるわけではなく、ここ半年間ほどは研究室にかよいつめて、なにをしているのかと見れば、かれが研究対象としている近現代詩にまつわる古今東西の論文や書籍を、巨大な印刷機をもちいてえんえんとコピーしているのである。で、そのコピー用紙を下宿先のアパートにもちかえっては、ろくに読みもせず段ボールのなかにつめていくのだが、その叡智の結晶たる段ボールが日増しに増えていき、生活範囲を圧迫するのがつらいと、まことに悲痛な表情でうったえてくるのが、おかしい。おかしいが、わらえない。明日は我が身だ。
「場所をとるとかよりも、なにか怨念めいたものがやどってくるんだよ」
と大城は言う。
「思いきってぜんぶすてた方が良いんじゃないか。じぶんの部屋にはときめくものだけを置くのが良いよ」
とぼくは助言した。これはまったくじぶんを棚に上げた助言である。だが、大城のうったえにはかなり思いあたるふしがあった。
冒頭でふれたようにぼくは学習塾でアルバイトをしていた。もとは講師だったのが、授業が不評で事務におとされた。しかし塾内に事務というほどのしごとはなく、たまにかかってくる電話の対応がその業務のほとんどすべてであり、ケチな塾長はそれでぼくにアルバイト代を支払うことをおおいに不満に思っていた。で、思いついたのがポスティングである。塾長のつくった塾のチラシを近所の住宅とかマンションの郵便受けに投函してまわるのだ。
これはぼくにとって行幸だった。なんとなれば、窓のそとにはなったわたり鳥が主人のもとにかえってくることなどないのである。アルバイトの開始時間に塾に着くとぼくは事務室のデスクにおかれたチラシのたばをかかえて学生アパートにかえって二時間ほど仮眠をとり、手ぶらで塾にもどり、「いやあ、やっぱ夏は夜もむしあついですね」なんぞしらこいことを言って業務終了である。そういうことを半年ほどつづけた結果、ぼくはすてるにすてられぬ塾のチラシに生活の領分をうばわれていった。ぼくがアルバイトをやめたのは、悖る行為をやめられないことからくる自責の念からのがれたいとか、塾にバレるのではないかという恐怖に負けたというよりも、塾のチラシのたばからかもしだされる怨念めいたものに、気圧されたからであった。
「紙はよくない。たぶん文字が書かれているのがよくないのだと思う。文字はある種ののろいなのではないかと思う」
とぼくはじぶんの説をとなえた。
「なるほどな」
と大城はあまり感動したふうでもなくうなずいた。焼き鳥に手をのばして、クチャクチャと音を立てて食べる。これはだめだと思った。ぼくはかなり重要なことをつたえたつもりだったし、詩という、文字をまるはだかな形で表現する分野に関心をもつにんげんが文字の呪術性にもうひとつ興味をもてないようでは、見込みがないと思われた。
ぼくはたち上がった。
「わるいが、かえるよ」
そうして、さいふから千円札を三枚とり出してテーブルのうえにおいた。
「なんだよ。カラオケまでつきあえよ」
と吉北が言った。
「わるいけど、ねむいんだよ」
「そうか」
こんな理由で良いのである。こいつらは変にやさしいところがある。社会に出ず、学問にふかくとりくむわけでもないじぶんたちをうしろめたく感じており、同胞をゆるすことが、おのれへのささやかな免罪符になると錯覚している。
そとに出て、風をかんじた。すっかり秋だ。しばらく学生街をあるいた。ラーメン屋がつぶれたところにラーメン屋ができていた。さらに往くと、ラーメン屋がつぶれたところにラーメン屋ができていた。
「学生街にラーメン屋をつくるのがまずまちがっている。つまんであるけるような、串ものなんかが良い」
と、いつだったかの飲み会で担当教授が言っていたのを思い出した。同時に、今週末に論文の進捗具合を報告にいくと約束したことを思い出した。今週末というのは、今日である。先週もおなじ約束をしていて、それもポカしている。二週つづけてポカしている。論文になんらの進捗もない、というのは約束をまもらないことのおおきな理由になるが、単にわすれていた、というのがほんとうのところなので、これはそうとうにマズい。月曜日に謝りにいくと決めた。
「横田さん」
と背後から声がした。ふりむくと、長瀬さんだった。長瀬さんは源氏物語を研究している、大学院の一年であり、唯一の女性である。目が糸だが、スッと鼻筋がとおっていて、肌がすきとおるように白いので、いちおうは美人ということになっていて、よく黒のジャケットを羽織っていて知的な雰囲気もあるが、なに、うちの学生である、こいつだってたぶんかなりいいかげんなところのあるやつだろう。さきほどの飲み会にも参加していた。
「ラーメン屋、はいらないんですか」
「いや、見ているだけだよ」
「なんですかそれ」
とわらわれた。
「長瀬さんもぬけてきたのか」
「横田さんがぬけて、すぐにわたしもぬけました」
"いいかげんな時代"へのコメント 0件