白の玉(9)

安藤秋路

小説

6,641文字

・9・諦めに似た微笑み

舞台の上では素人ソムリエ大会決勝の準備が進められている。数人の会場スタッフが舞台の上でグラスを運んだり、テーブルクロスを交換したりしている。使われたクロスはワインのシミが目立ち、躾の悪い犬なら喜んで舐め出しそうだ。

涼介はぼんやりとした頭のまま準備中の舞台を眺めていた。後ろから大量の試飲カップを抱えた女性スタッフが現れ、涼介は彼女に話しかけた。

「このタグって、クジになっていると聞いたんだけど。当選の発表はいつやるの?」

「素人ソムリエ大会決勝の後なので、4時頃に発表されます。お客様はVIP参加者でご登録されています。景品のワインも期待を裏切らないモノをご用意していますので、おたのしみに。」

「それって、もし俺が当たった場合、君と一緒に飲んだりできないかな」

「えっ…でも、もしよろければ、是非ご一緒させていただきたいです。ワイン好きなら一度は飲んでみたいと思うワインなんですよ。是非、当ててください」

「そっか、景品のワインだから期待はしてなかったんだけどな。それなら楽しみにしているよ。それと、この会場はとっても賑わっているみたいだけど、どこか静かに落ち着ける場所はないかな、酔を醒ましたいんだけど。」

「でしたら、会場の外に別館があるんです。この会場から少し離れた森の中に建っているので、リラックスにはいいじゃないかと。それと地下にはワインセラーもあって、主任の本田がワインについての詳しいご説明をさせてもらっています。良かったら、参加してみて下さい」

「へえ、ワインセラーか。その別館へはどうやって行けば?」

「会場を一旦出て頂いて、出口から出たら左手側に向かって下さい。別館への看板が道標になっているので、その案内にしたがって進んで下さい。ここから、歩いて十分程です」

「出口を左ね。どうもありがとう」

涼介は会場の出口に向かった。

主任の本田か。主任?あのホクロの女が話していたヤツか。あんな美人を泣かせるなんて、許せん。しかし、星にはいつになったらたどり着けるのやら。ダクシャか被害者のどっちかにぶつかれば話は早いんだけどな。このまま何も無かったら月下に怒られそうだ。とにかく別館でも何でも探しに行こう。

※   ※  ※

 白い綿のように浮かぶ雲がゆっくりと頭上を流れていく。尾の黒い鳥が涼介の頭上を飛び交い、遠くの方から風がこの葉を揺らす音が涼しげに聞こえる。森の緑は優しく映り、風は心地よく体を冷ます。案内に従って道を進み、川に掛かる橋を渡ると古い建物が見えてきた。

建物には数段のコンクリートで出来た階段が付いていて、その上には干からびた土の足跡が残っていた。森の中を歩いてきた人のモノだろう。扉を開けようと手をかけると、突然階段の横からデンが顔を出した。とっさの事に身構えるがデンだと分かって胸をなで下ろす。涼介が手を伸ばすとデンは駆け寄ってきて、涼介の手に鼻を近づけて臭いを嗅いだ。

デンがいるって事は、月下もここにいるのか?デンの柔らかい眉間を親指で擦ると、デンは目を細めて尻尾を空に向かって真っ直ぐに立てた。デンをつなぎに外に出て、そのまま星にでくわしたか。

デンから手を離して扉を開けると、葡萄の匂を感じた。葡萄?とふと思い、葡萄の房が写っている写真を思い浮かべていると、玄関の隙間からデンが入り込んでそのまま廊下を走り出した。小さな足をモーターでも入っているかの様に素早くばたつかせて走っていく。涼介も慌ててその後を追って走り出したが、左手に持っていた長い棒が案内板に当たってしまった。

まったく、長いっつーの。黒い布に包まれた棒に軽蔑の眼差しを向けると、棒が震え確かな振動が涼介の手に伝わる。やっぱり、当たりを引いたみたいだ。仲間に気がつきやがった。

涼介はデンの走っていく方に付いていき、階段を駆け下り、廊下を進んだ。地下はガラス張りの部屋が廊下の両側に広がり、ワインが静かな眠りに着いている。辺りは薄暗く、デンの足音だけが先のほうから不安定なリズムで聞こえてくる。走っては止まり、また走り出しを繰り返し、木の扉の前でついに止まった。

涼介はその扉を開け、デンも足元から部屋の中に入る。薄暗い部屋の中には壁一面にワインが並べられ、部屋の中心には人が立っている様に見える。薄暗い道を進んで来たので暗さに目が慣れてはいたが、顔は影が落ちたかの様に黒くよく見えない。

「私から玉を奪い返そうなんてやめておきなさい」闇の中で男が静かに言った。

「俺のツレも一緒かと思ったんだけど」

「玉の事を聞かないのね」

「ジョブはこなすよ。お前を片付ければ済む話しだ。」

「明日の事は、明日にならなくともわかる。雨が降って、それでおしまい。まったく、憂鬱になる。いくら期待しても、それ以上の結末に落ち着く事はない」

「月下はどこだ」

涼介は黒い布から黒い刀を取り出し、重心を低くし左腰に刀を構える。静かに息を吸い込み大きな目を鋭く男に向け、右手を柄に添えた。

男は首元に手を伸ばし、その手で後頭部を何度か摩する。遠くから見ていると自分自身に手を突っ込んでいる様に見える。実際、男は自分の後頭部の皮の下に手を入れ、ズルズルと人の皮を脱いでいく。体をモゾモゾと動かし、完全に皮を脱いでしまった。五体は人と何ら変わらず、従って人の気配を残しつつある。しかし皮を脱いだ彼には五体の他に何も無かった。頭頂部から足元までしっとりと湿り気を帯びた全身は卑猥ですらあった。

涼介も脱皮は何ども見ているが、人の姿から皮を脱いで現れる五体だけを持つ異形な姿は慣れるなんて事は決してない。全身が嫌悪で泡立つ。

「何を言っても無駄みたいね、ちっぽけな人間。この姿を見ても物怖じせず、貴方が構えているのは同胞の変わり果てた姿。まったく、ここまで私たちを激怒させるなんて…人間て本当におバカさんね。」

「貴様らの言う事に、聞く耳なんて持っていないんだよ。」

 雨水を踏んだ様な耳に残る音を立ててダクシャは歩き、涼介の目の前で鋭く腕をひと振りする。空気は裂け、涼介の鼻にうっすら浮かぶ汗の雫が弾ける。涼介は紙一重の儚さでダクシャの一撃を交わし、同時に体が同調するかの様に居合切りを放ち後の先を取る。刀から伝わる手応えはあったが、肉を切っている感触ではない。まるで硬い岩を叩いた様な痺れが右手に残る。

「私達の手はとても硬い。どんな物でも断ち切ってしまう。人の体、こんな腐った葡萄酒のビン、もちろん人が紡ぎ出す儚く脆い玉糸ですら」

「ごちゃごちゃと、うるさい野郎だぜ」

 涼介は左手に持った鞘をダクシャの頭に目掛けて振り切る。鞘は虚しく空を切るが、ダクシャは一歩引いた。

「貴重な時間を無駄な努力で浪費するのはもう止めるべき。いくら頭をすり減らしながら玉糸の研究を続けてもダメ。どこへも行けやしないのだから。二千年かけても解明出来ず、ただ私達を利用する事しか出来ない。まったく、おバカな人間ども。あらゆる物を欲し、満足する事を知らない。一体、お前たちは何が手に入ったら満足するんだろうな」

「おしゃべりが好きな野郎だな。俺たちがそんな立派じゃないのは知っているよ」

「せっかく欲の螺旋を断ってあげているんじゃない。人、物、欲。そんなモノがあるから人は争いを止める事ができない。この世界にはろくなものなんて一つもありはしない。混沌に落ちて行けばいい」

「ろくな世界じゃなくっても、俺たちはここで生きているんだ。直ぐに人の物をほしがる、醜い人間だ。奪おうが、例え殺してしまおうが自分の物にならないと気が済まない。欲の渦巻くツボの中で泥だらけだ。泥の凡夫さ。俺たちに出来る事なんて世の中を生きていく事くらいだ。例え泥の掛け合いになろうとな」

 刀を鞘に納め再び構え、ダクシャを見据える。居合切りは先の先手を取る事以外に勝ちはない。紙一重でよけるなんて何度もうまくはいかない。さっきはただ運が良かったんだ。やつの言葉に惑わされるな。言葉は所詮、言葉だ。どれだけ俺を煙に巻こうが、命を賭ける戦いにおいてその本質とは関係ない。俺が殺るか、相手が殺るかの二択。煙に巻かれながら最後に相手の首を掴んだ奴の勝ちだ。奴の動きに、呼吸に、気配に全神経を集中させ、俺の初撃に全てを込める。

「この凡夫どもめ、これで終わりにしよう」

「俺もそう思っていたとこだ」

 人間、そして玉なんてどうなってもいい。私の存在ってやつは…。ブンブン飛び回る、うるさい、頭の中を蝿みたいに。疑問?たまに感じる。しかし急に訪れる沈黙。頭の中に降ってくる雪の音ですら聞こえるくらいに静かで、綿に火がつくみたいに紅蓮の海が一瞬で広がる。ああ…冷たい。これが、ああ…熱い。楽になりたい。この手を振り下ろして、この凡夫を、この人間を。

 迷い、隙、雑念、緊張、緊迫、何かはわからないが、体が反応する。刀を抜けと。

しかし体は反応しても刀が反応していない。やっぱり、腐ってもダクシャの体の一部を武器にしている事が原因か。こいつらの体は、人間の刃物では歯が立たない。こいつらの体は、こいつらの体で叩くしかない。人間にできる事は、利用できるモノはなんでも利用する事だけだ。ふふ、まったく泥の凡夫だよ。ツボの中を泥だらけで歩く自分が頭をよぎった…その時、歯車の噛み合うような心地よい感触と共に突然刃が鞘から抜き放たれた。

「ここで私を殺せばそれが良い証拠になる。そうやって、ずっと、ずっとツボの中を歩き回っていろ」

「あいにく、それが俺たちのやり方だ」

 涼介の刃がダクシャの腹から肩までを斜めにつんざき、ダクシャの体が泥の塊であったかの様に地面の上に崩れ落ちていく。粉塵が部屋に立ち上って、薄暗い部屋の中で鈍く光りを乱反射させた。涼介はダクシャの粉々になった体をあさって2本の玉糸を拾い上げ、その2本を丁寧に結んだ。

 こんな風に結んだだけでつながるのに、どうして切り離す事はできないんだかな。こいつを結んでいる時、人間ってのは単純そのものみたいに思える。しかしいざダクシャを目の前にするとどうしても無力さを感じてしまう。まあ、どこまで行っても泥凡夫ってことか。それより、月下はどこだ?

 涼介はその部屋の中を探したが、月下は見つからなかった。仕方なく事務所に電話しようとすると、部屋の外でビンの割れる音がした。突然の異音に涼介の体は硬直し、携帯電話を握る手に力が入った。

廊下に出て音の聞こえた方に向かってみると、ガラス張りの部屋の中で床の上に赤い液体が広がっているのが見える。デンがそれを一なめし、体をブルブルと震わせワンと鳴く。躾の悪い犬のやりそうな事だ。一体誰に似たんだか。

涼介が顔を上げ棚の間を覗き込むと、棚と棚の狭い隙間から曇った声が聞こえてくる。涼介がポケットから小型のライトを取り出して光を当てると、月下がそこに押し込められているのが見えた。

「いいざまだな、月下嬢。箱入り娘にはピッタリだ」

 月下は唸る事しか出来ず、代わりに『出せ』と視線で訴えてきた。

※   ※   ※

「それから、涼介と月下は暗がりの中でムチューっとして。アイタタタ、痛い、痛いです。あ、月下さん…」とミっちゃんは言った。

「あんた、どこまで話したんだか知らないけど。尾ひれを付けて話すのはやめなさいね。それと吉田ちゃん、そのうちあのバカも帰って来るから後処理はお願いできる」と月下が言った。

「おかえりなさい、月下。今回はずいぶんと早く片付いたようだね。いつもは出先から電話してくるのに」と吉田ちゃんが言った。

「あのバカが近くまで来たから、ここに寄りたいってさ。本当はアメ横で何かろくでもないモノでもが欲しかったんでしょ。あっ、あたしにもコーヒー貰える?」

 吉田ちゃんが月下に缶コーヒーを渡すと、彼女は片手でタブを開け喉を鳴らして飲み始めた。

「この人が、今の話に出てきたゲッカさん、ですか。コンニチハ、ボクはロックだよ」とロックが言った。

「そうそう、この二人は今日面接に来てくれたアルバイトの子達ね。この外国人の子がオーストラリア出身のロック君、それと同じ大学に通う…えっとシロ君」と吉田ちゃんが言った。

 白は顔を赤くして唇を軽く噛んで、頭を書きながらそっと言った。

「えっと、紛らわしくてすみません。ハクって読むんです」

「ああ、ごめんなさい。私って本当におバカさんで。どうもごめんさないね、ハク君」と吉田ちゃんが言った。

 白は小さく手を振って、慣れているのでと言いお茶に口を付ける。このバイトは本当に僕みたいな普通な大学生が来ても良かったのだろうか。ヤバイって言うか、超やばいんですけど。掌とか汗でべっとりだし、シャツも冷やせで冷たくなっています、ナウ。

 月下は蓮華の様な凛とした笑顔を二人に向け、よろしくねと言った。世の中の不浄はこの笑顔で浄化されてしまいそうだ。

「よろしくね、ゲッカ」とロックが言い、握手の手を差し出した。

月下はその手を見て口元にうっすらと笑を浮かべ、両手でロックの手を握り返した。

コイツは本当にいつも素直に色んな事ができるよな。俺にはマネできないな。白はまたお茶に手を伸ばし、一口すすり自分を落ち着かせようとする。はあ、でも俺ってザ・ジャパニーズじゃん。自他共に認めて、さらに親まで公認のアイアム・イエスマンだし。やっていけんのかよ、こんなハードそうなバイト。

「よろしくね、ハク君」と月下が言って、白にも手を伸ばした。白は恥ずかしそうにその手を握った。その手は、なんとも暖かかった。

「それで、ケッキョク、ワインはどうなりましたか」とロックがミっちゃんに聞いた。ミっちゃんはロックのお茶のおかわりを注ぐために冷蔵庫からお茶の入ったビンを取り出し、足早に会話に参加しようとした。

しかしその時、店の扉が開きカーテンから金髪頭の男が姿を現した。腰を屈めてカーテンをくぐり、宇多田ヒカルの曲を口ずさみながらこちらに歩いてくる。

「ワインは結局、本人の手元にまだ戻っていない。世の中そんなに上手くいかないんだ」

 男はミっちゃんの持っていたお茶のビンを受け取り、そのままゴクゴクと飲みだした。

 この長身の金髪の男はまさかとハクが思っていると、月下が金髪頭のケツを引っぱたいた。

「このバカ、リョウ!まだ皆が飲んでいるでしょ。まったく」と月下が言った。

「おお、これはすまん、すまん。悪いね吉田ちゃん、喉が砂漠化しちゃっててさ。あと月下、俺のケツが鏡餅みたいに割れたらどうしてくれるんだ」と涼介は言って、ケツを摩った。

「ワインは本人の手元にもどってないですか。なんか、残念だね」とロックは言った。

 ロックそんな悲しそうな顔するなよ。世の中そんなもんなだぞ。良い女しかり、釣りそびれた魚しかり、なかなか上手くいかないもんなんだ。しかし、白も内心ちょっと残念だった。

「どこにあっても、人と玉は結びついている。本人の手元にワインはない。でも、奴とワインは確かに結び着いているから心配はない」と涼介は言った。

 吉田ちゃんは引き出しから緑色のタグの付いた鍵を手に取り、部屋の隅の扉に向かう。鍵を扉に突き刺し、グイと回すと大きな音を立たて扉が開いた。吉田ちゃんはその中に入って行って、一本のワインを手に持って出てきた。ワインには『済』と書かれたタグが掛かっていて、静かに眠る赤ん坊の様に見えた。

「これがそのワイン。ちゃんと本人と繋がっているだよ。」と吉田ちゃんが言い、また直ぐに扉を閉めた。

 ロックと白が目を丸くして見ていると、涼介が咳払いをしてこう言った。

「俺様が当ててしまったのだ」

「神様って、本当に危ない賭けが好きね。どうせ当選させるなら私を選べば良かったのに」と月下がすかさず言った。

「ダーリンも、もうすぐ出てくるしね。ミっちゃん」と吉田ちゃんが言った。

ミっちゃんは暖かな微笑みを浮かべ「やっとだわ」と言った。

「後は私が、私の玉の問題を解決すれば…痛い、痛い。」とミっちゃんは言い、月下の顔を見上げた。月下が『止めなさい』と言う様にミっちゃんの耳を引張っている。

 これから玉に関わっていくと思うと、思わず溜息が出てしまう。隣で目を星の様に輝かせているロックを見ると、道は果てしないように思えてくる。しかもロックは一緒になって皆と笑っている。心許ないし、不安だ。でもなぜだろう、白の口元にもまた諦めに似た小さな笑が浮かんでいた。

「主人公、全く活躍しないまま第一部が完結(笑)」

★次回は新章・どうぞおたのしみに★

2012年8月15日公開

© 2012 安藤秋路

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