白の玉(7)

安藤秋路

小説

3,631文字

・7・奔走

ワインの紅色とトロっとした液体がグラスの中で揺れる。そのまま人の体に流れていてもおかしくない。ドロドロだろうがトロトロだろうが、血液の質の問題ではなくその人の持っている生命力が人を生かしもし、殺しもする。自分の中心にある強い塊が生命力を支え、その塊が命だ。そして人の命とは不思議で他人の命と触れ合うことで、輝きを増したり、また濁ったりもする。干渉し合い、互いに削れ、ぶつかって凹み、命はその人だけの姿を形作る。玉は全く同じ原理で人から生まれる。人肌の様に温かく、出来立てのパンの様に輝き、目を瞑っていてもいつでもその鼓動を確かめることができる。人は自分でも知らないし、気がつきもしない、そんな無意識の中でもはっきりと玉を形作っていく。

会場でワインの下見をする業者や一般の参加者は首からタグをぶら下げて会場をウロウロと歩き回っている。一人くらい千鳥足で踊ってくれれば笑えるんだけど、だいたいのヤツは仕事って感じだ。タグにはVIP、一般の二種類がありVIPのタグには赤い数字が印刷されており、一般には黒い数字が印刷されていた。VIPに比べて一般の参加者がだいぶ少ない。会場の中心にはイベント専用の舞台が用意されており、丁度、素人ソムリエの予選が行われようとしていた。舞台裏には鍵付きの小型ワイン保管庫が設置され、余興の景品用ワインが3本入っていた。一本は素人ソムリエの景品、残りの2本はVIPと一般の入場者にクジの景品として使われる物だ。素人ソムリエの景品は一万円のワイン。一般用のクジ景品は十万円程の価値のあるワイン。そしてVIP用の景品はプレミア付きワイン、時価で百万円相当する物が用意されていた。南川のワインはVIP用の景品として、遮光された暗いワイン保管庫の中で眠っていた。ワイン保管庫の鍵は主任が管理し、彼のスーツの内ポケットに入っていた。

南川はワインセラーから会場中心の舞台に向かった。舞台の上ではミっちゃんが素人ソムリエの司会進行をしていた。仕事なのか、ただの遊びなのか、どっちらにしても予想以上の盛り上がりだ。顔を林檎の様に赤くして参加している会社員風の男もいれば、ドレスアップした女性がいたり、舞台袖から眺めると結構面白いものだ。笑っていられれば楽なもんだ。南川は舞台袖からミっちゃんを眺めていた。こんなに近くに居るはずなのに手は絶対に届かない様な気持ちになる。求めても、求めても。そんなに無理に笑うなって。悲しくなるだろ、馬鹿やろう。自分を外から見ている様な不思議な感じだ。いつからこんな風になったんだ。まったく思い出せない。どこまでも沈んでいって、それから…。俺は俺なんだけど、真っ暗な暗い檻から眺めているような…自分の影から少しだけ首をだして自分を眺めている様な感じだ。顔色悪なあ、俺。つーか、体がまったく言うこと聞かない。ポケットから何か取り出したぞ、紙切れ?「ミっちゃんの時計」なんだよこれ。そう言ってる間に…俺の右手が時計に伸びている。

「南川、ここでいったい何してるの?」とミっちゃんが言って部屋の入口に立っていた。

「うう、pp、ww、おお、俺は。」と南川が唸った。

「それ、私の時計じゃない。なんの冗談なの?もしかして、あなたワインの事を怒ってるの?あれは、どうしても必要な物だったの。今回の試飲会にだけは、これって目玉が欲しかったの。あなたには直接関係の無い事なんだけ、実はある女と賭けをしていて、私はどうしても負ける訳にはいかなかったの。自分ではどうしようも無かったの。生半可なワインじゃ勝てないと思って、わたし、わたし、わたし、どうしても勝ちたかったのね。どうしようもなく自己中心なわたしね、でも、この気持ちは止められないし、主任は誰にも渡したくなかったのよ。今更、謝っても済まないわよね。わたし、あのワインが貴方の大切なワインだって知っていて奪ったんだもん。あれは、本当に私が、わるかっ…ああああ。がっは、もう、ばか、やめてよ。離してよ。もうう。」南川がミっちゃんに掴みかかった。ミっちゃんの両手を掴んでロッカーに押し付けた。肩を上下に揺らして、荒い呼吸から発せられた空気が部屋に漂った。ミっちゃんは体を南川に密着させて、手を上下に振ってどうにか左手を外した。

「どうしたって言うの南川?こんな事をするヤツじゃないだろ。」とミっちゃんが言うと、南川が一瞬動きを止めた。

「おお、お、お前は、ん、なん、ど、どう、どうなんだよ。くる、くす、苦しいぞ。俺は、俺は、おおおおおおおおおお。俺は苦しいぞおおおおおおお。」と南川は叫んだ。叫びはまるで針の山の上でも歩いているかのように苦痛に満ちていた。南川はミっちゃんの手を離して、頭を抱えた。頭の中で大量の蝿が飛びかっている様なもがき方で床の上をたうち回った。

「お、おれ、おれの、せせ、ようう。返せ。かえせええええええええっえ、ええ。」南川は急に立ち上がってミっちゃんの首元めがけて拳を投げかけた。しかし、拳は大きな音を立ててロッカーに突き刺さった。南川はよろけて部屋の中心にある机に手をついた。机がギシギシと音を立てて床を勢い良く滑った。机が滑った拍子に、机の上にあったミっちゃんのバックやら化粧道具が床に落ちた。落ちた化粧道具の隣にミっちゃんの時計があった。ミっちゃんが屈んで時計に手を伸ばした瞬間、南川の手が伸びてミっちゃんのスーツの襟を掴んでミっちゃんを後ろに倒した。ブラウスの首元に付いていた小さなボタンが弾け飛んだ。南川は倒れたミっちゃんの上に立ってブラウスに手を掛けた。しかしその途端、自分の体が強力な力でミっちゃんの方に引っ張られ、大きく体勢を崩された。おおおお、りゃああああああ。ミっちゃんは掛け声と一緒に南川を巴投げで思いっきり投げ飛ばした。ブラウスの上から2つのボタンが南川の手に引っ掛かって飛んで行ってしまった。南川は体をガッシャンとロッカーにぶつけて、頭から床に激突した。そのまま動かない。いや、足が動いた。そのすきにミっちゃんは時計を掴み取って部屋を出て走った。

涼介は女性と一緒にワインを飲みながら話をしていた。女は会場の関係者で紫色のドレスを着ていた。

「しかし、その主任さんも人が悪いね。女性二人に競争させて、凄い方のワインを景品にするなんて。」

「それが結局両方とも景品になったのよ。私のワインが一般用の景品になって、相手のワインはVIP用の景品になったの。でも勝負はついたわ。私の完敗。相手のワインは私のとは桁が一つ違うわ。そんなものを持ってこられて、私は何も言えなかった。」

「それで、その人にイライラしているとか?」

「いいえ。むしろ自分自身によ。ふふ、馬鹿らしい賭けに負けたから本当は会うつもりも無かったんだけど。最後に一目みておこうかと思って。相手が悪かったわ、ワインの輸入を本業にしているヤツにワインで勝負を挑んだから。久しぶりに、もいきり転んだ感じね。」

「賭け事なんてするようには見えないけど、よっぽど負けたくなかったんだ。」

「私が提案した企画だったの。ワインの詳しい内容についてはワインの輸入会社の人に任せていたんだけれど…少しだけでいいから足跡を残したかったし、それに担当の主任さんが熱意に満ちていたから、私も手伝ってあげたいって気持ちになったの。簡単にいうと、惚れちゃったのよね。でも、あの段階で私の提案に耳を貸してくれたのはよかったけれど。一見、全て丸く収まっている様に見えているこのイベントも、箱を開けてみれば中身は色々な人の思惑や策略、様々な狙いが見え隠れしていて…こんな事を言って馬鹿って思われるかもしれないけど、とっても汚れて見えたの。色んな人のアイディアが混じって一つのイベントになっているのは、とっても良い事だと思う。そのアイディアを利用して人を集めるのもいいと思う。全部きっと成功につながっていると思う。全部がたった一つの成功の為に集まっている。そんな理想を皆で叶えたかった。私もそんな理想を持った人の一人だったはずなのに、人の心って不思議ね。立派な理想を思い描いても、気が付けば私利私欲に汚そうとしてしまうんだもの。これだけ、汚いとか、そんなイベントにしたくないと思っていても、私自身もその汚さに混じって同じ灰色よ。賭けを持ち出すなんて最低なやり方。」会場のアナウンスで素人ソムリエの予選が終わった事を告げた。本戦は昼を挟んで、2時30分から始まるらしい。紫のドレスを着た女性はワインのカップに口を付け、溜息をついた。それからホクロのある口元に笑を浮かべた。ドレスの端をそっと持って椅子から立ち上がり。さようならと言った。涼介が待ち人はと聞くと、自分から会いに行くと言った。

「私も奔走中。どうにかなりそうです。なってしまえばいいのか…諦めるにはまだ早い。」

★次回こそ、ドッカーンでズハーンだ!…次回もどうぞよろしく★

2012年7月16日公開

© 2012 安藤秋路

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