昼ごろにめざめ、ブタがたべるような昼食を摂ったのち、冷蔵庫のドアをあけ、ウォッカの入ったビンを手にとってそれを何滴かのどに垂らす。ベッドによこになり、気絶し、夜になると、やみの中でめざめる。電気もつけず、もうろうとした意識のまま、書斎に入り、ちいさなデスクライトで手もとをてらし、原稿用紙に向かう。断片を書き、断片を捨て、外に散歩にでかける。しばらく放浪し、変に高揚したここちのまま家にもどる。冷蔵庫のドアをあけ、ウォッカを胃にながしこむ。ベッドで気絶する。
ここ半月の私の生活である。大学で講義がある一日をのぞけば、このくりかえしで日々は掃かれていった。
無為である。が、私自身、その無為であることに、みょうに晏如としたここちになり、どこかひとごとに感ぜられもした。と思えば、感情が右に左に大きくゆれることもあり、ちょっとしたうつ状態であるらしかった。短編小説を書き上げてからである。いわゆる産後うつのようなものらしい。そうだと判れば、そういうものだと思っておくよりしかたなく、「次」が書けないじぶんを責める必要もなければ、未だ家にもどことのない妻を糾弾する必要もない。ただ、ウォッカをのむためにめざめ、ウォッカをのんでしまえば、ねむりにつけばよい。
めざめて、ウォッカをのんで、またねむる。
めざめて、やみの中で私の目は冴える。
原稿用紙を前に、私はたちどまり、おしたりひいたりするそぶりだけ見せて、一仕事したという思い込みを思い込む。思い込めなくなれば、外に出る。外に出てしまえば、小説のことなんぞ考えないですむのだが、そうすると、小説の方から私にすりよってくるけはいを感じる。それは、ちょっとした書き出しであったり、最後の一文であったりする。しかし、書き出しも最後の一文も小説そのものであるはずがなく、そのあとの何千文や、その前の何千文がなければ、ただの詠み人知らずの一言にすぎない。それらを書きとめておくこともしなければ、あとで思い出そうと呻吟することもしない。詠み人知らずの一言は詠み人知らずの一言のままやみに消え、私はやみの中の住まいにもどり、冷蔵庫のドアをあけ、光の中のウォッカのビンと対峙する。もはやとりわけ強いアルコールとも思えないが、のんで、ベッドによこになると、強いねむりに首ねっこをつかまれる。夢は見ない。
ただ、やみの中で私の精神はたゆたう。
ねむっていて、朝の光や昼の光に、私の精神がもたれかかっているように感じる瞬間がある。ねむりと覚醒の合間にとりのこされた私を、ひどいうつがおそってくる。
文筆業なんぞ廃業してしまおう。
毎日、そう思ってめざめる。私はブタになって、メシを喰らう。
「もう、辞めよう」
そう言葉にすると、胸のすく感じがして、いくらかさわやかなここちで、冷蔵庫に手をのばす。ウォッカをのんで、気絶する。
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