解 説
樋口恭介(SF作家)
夢を見るとき、人は夢だけを見ているのではない。多くの人は、夢に付随する副産物もまた夢想する。
通常、音楽が好きな人は音楽家を志し、小説が好きな人は小説家を志す。音楽が好きだから、小説が好きだから、という理由で。
しかしながら多くの場合、夢に求められるものは夢そのものだけでなく、異性に好かれたいとか、誰かを見返したいとか、コンプレックスを払拭したいとか、それまでの人生を大きく変える、あらゆる「一発逆転」の人生の可能性が賭けられる。
もちろん――当然のことながら――音楽家であることや小説家であることと、異性に好かれることや誰かを見返すこととは関係がない。音楽を作ることで彼や彼女は音楽家になるだろう。小説を書き続けることで彼や彼女は小説家になるだろう。彼や彼女の夢はそのとき叶うだろう。だがそれは、夢見る過程で見られた夢とは異なる形で叶えられる。そうした意味で、夢は決して叶うことはない。
幸せになるために小説家になるというのは端的に論理が破綻している。
幸せになるためには幸せになるための努力をするべきであって、幸せになるために小説家になるための努力をするというのは全くの見当違いであるのだが、多くの場合、青春という時代はそうした勘違いを許容する。やがて多くの人はそうした時代を終える。夢をあきらめ、現実と折り合いをつける。何にも希望を見出すこともなければ、何にも絶望を見出すこともない。
一般に、成熟とはそのようなものだと考えられる。しかし、ときどき青春を終えることなく、いつまでも夢を見続ける人がいる。本作「受賞第一作」の語り手のように。
本稿は佐川恭一の長篇作品「受賞第一作」の解説を目的としている。
*
受験、就活、結婚、出産、育児、介護――いくつかのライフイベントを通過して、多くの人は変わっていく。通過儀礼を終えて変わっていくこと――成長し成熟していくこと――が大人になるということなのだと、社会は様々な仕方でわれわれに語りかける。われわれはそこに疑いを差し挟むことはない。一方、佐川恭一の小説では、ライフイベントだけがただ単に過ぎ去っていく。語り手は変わらず、周りの環境だけが変わっていく。大学に受かっても、就職をしても、結婚をしても、語り手はいつまでも子どものままに、変わらない満たされなさを抱えている。彼は青春の中で夢を叶え続け、夢を叶えることができず、ただ歳だけを重ねていく。
青春小説は青春の終わりを前提とする。少年は夢をいだき、挑戦し、挫折し、諦め、その過程を通じて大人になる。しかし佐川恭一の青春小説はそうではない。そこで描かれるのは迎えられることのなかった青春であり、青春の呪いである。呪いは解かれることなく回帰し、青春は終えられることなく反復する。
本作「受賞第一作」は、内容だけでなく形式においても終わりのない青春を表象する。二〇〇枚を超える原稿の中で改行はほとんどなく、文末は最後の一文を除いて全て読点で統一されている。改行/句点=終焉は置かれることなく、連想によって数珠繋ぎにされた挿話が、読点を介して延々と語られ続けるのだ。
挿話の一つひとつを取り上げることはしない。本作は挿話の連結によって成る小説であり、全ての挿話を取り上げることは本作全文をそのまま引き写すことになるからだ。本作においては全ての挿話に意味があり、意味がない。一つを読むのと全てを読むのは同義であるが、同義であるわけでは決してない。
どういうことか。その疑問は、全ての挿話に共通して見られる構造と、反復そのものの持つ機能に着目することで解消される。
本作を成す全ての挿話は、次のような単純な構造を持っている。
①語り手は夢を見る
②語り手は夢に纏わる妄想を膨らませる
③語り手は夢を叶える
④肥大化した妄想は取り残される
⑤語り手は満たされなさの中で、新たな夢を探し求める
⑥①に戻る
このように、当初の夢と、夢を叶えるための日々を楽しむための妄想はどこかで入れ替わるために、語り手は夢を叶えながら、本当に叶えたかった何かを取り逃がしていく。
たとえば最初の挿話において、語り手は京都大学合格を目指す。彼は青春時代を過酷な受験勉強に費やし、その甲斐あって、念願通り京都大学に合格する。しかし合格した先に待っていたのは合格前と変わらぬ生活だった。自分が目指していた京大合格とは、京大に合格するという事実以外の何物でもなく、人生を救済したり、幸福をもたらすものであるわけではないことに、彼は京大合格という夢を叶えてから初めて気づくのだ。
それから彼は、何者にもなることはなく、異性にモテることもなく、他人と深い関係を築くこともなく、なんとなく大学生活を過ごし、就職する。就職してからも彼はうまく周囲になじめず、仕事を覚えられず、他人に嫌われ続けるだけの無為な日々を過ごす。彼は最初の仕事に見切りをつけ、一念発起して公務員試験の勉強を始め、念願かなって公務員になるが、それも彼の人生の状況を改善することはない。公務員とは公務を行う職員を意味するに過ぎず、当然ながら、民間の会社員と比較して、よりよい人生が保証されているとは限らない。彼はふたたび、周囲になじめず、仕事を覚えられず、他人に嫌われ続けるだけの日常の中へと帰っていく。
やがて語り手はいくつめかの夢として小説家を目指し、そして実際に小説家になる。彼はサービス残業とパワーハラスメントが横行するブラック労働に苦しむ日々の中で、うだつの上がらぬ生活を変えるために小説を投稿し続け、見事純文学の新人賞を受賞するのだ。しかしその事実もまた、彼が本当に欲しかったものを与えることはない。挿話は最後、パワハラ上司に「小説家になったから仕事をやめたい? あほか、お前の小説なんて誰が買うんや」と嘲笑されて終えられる。
本作はこうした挿話の反復によって成立する。反復は挿話の構造を浮き彫りにし強調するが、一方で――ロベルト・ボラーニョ『2666』において、類似の殺人事件が繰り返し書かれることで各々の事件や被害者の命の固有性が薄弱化していったことに顕著なように――、各々の挿話から一回性/唯一性=〈その挿話がその挿話でなければならなかった実存的な意味〉を奪いもする。そして、浮き彫りにされ強調され取り残されるのは、前述の、〈叶えられることによって叶えられなかった夢〉、永遠に横すべりしていく夢の空疎さだけである。
本作のタイトルは「受賞第一作」である。語り手が最後に見る夢は、新人賞受賞後の第一作、つまり、「受賞第一作」と呼ばれる本作を完成させることなのだ。彼は「受賞第一作」と名づけた原稿に挿話を書き続ける。それは編集者から没を食らった未完原稿の墓場の名でもある。彼は既に七〇歳を超えている。
彼は書き続ける。彼は句点を打つことはない。彼はあるとき没原稿を量産し続けるだけの自分の人生に嫌気がさし、壁に飾られた「京大A判定の模試の結果」と「新人賞受賞時の賞状」を破り捨てようとするが、模試の結果を捨てることはできても、賞状を捨てることはできなかった。彼はそのとき自身が身を置いていた「受賞第一作を書く」という青春の呪いから、逃れることはできなかったのだ。
受賞第一作を書き続けること。受賞第一作を完成させること。それが自分の最後の夢になることを彼は知っている。そして彼は、その作品が完成しようと完成しまいと、本当は自分が何も得ることはできないことを知っている。そういう意味で、永遠に自分の夢は完成することはないのだと、彼は知っている。
なぜなら、それまで「受賞第一作」を書き続けることを通して――大量の記憶を掘り返し、大量の挿話を書き、大量の没原稿を書き、夢を何度も反復することを通して――、自分がかつて夢だと思い込んでいたもの、叶える価値があると自分に言い聞かせていたもの、手に入れたいと自分に言い聞かせていたもの、努力に値すると自分に言い聞かせていたものには、何の価値も何の意味もなかったということを、彼はもう十分に学んでいるからだ。
最後の挿話で、彼は自らの記憶とは言い難い、幻覚のようなものを目撃する。それは、四〇年前の黒ギャルのアダルトビデオを観ているときに訪れた。彼は四〇年前のアダルトビデオを観ながら、この黒ギャルも今頃は七〇歳を超えているだろう、などと考えていた。
そのときふいに彼は、「この黒ギャルは〈セトさん〉だ!」という抗いがたい直感に襲われる。セトさんとは、語り手が中学生の頃に好きだった、初恋の女の子のことである。やがて彼は、四〇年前の黒ギャルの姿に子どもの頃のセトさんの姿を投影し、射精に至るのだった。
それから彼は、中学生の頃、セトさんたちと行ったアメリカ研修旅行のしおりを探しはじめる。しおりを探し、その過程で、部屋に堆積した記憶の断片たちをふたたび掘り返そうとするところで、本作は終えられる。
最後の挿話を、われわれはどのように解釈すればよいだろうか。本当に求めていたのは初恋の人だったということなのか、それとも記憶を探る過程そのものなのか、あるいはやはり、それらを束ねる「受賞第一作」の執筆なのだろうか。
書かれた小説には書かれた小説以外の何もなく、そこから作者の本意を読み取ることなどできはしない。われわれ読者には作者の本意などわかるはずもなく、そもそも本意を探る必要もないだろう。たしかなのは、本作が多様な解釈に開かれた、今なお新たな挿話が書き続けられ書き連ねられる、永遠に未完の、終焉を迎えることのない「受賞第一作」であるということだけだ。
本作は未完の小説である。本稿で繰り返し指摘してきた通り、本作は挿話の羅列から成る小説である。挿話はただ書き連ねられ、物語を生むことなく、どこにも着地することなく、単に記述としてそこにある。だから、本作は小説としては壊れている――あるいは佐川恭一の小説はどれも、いつもどこかが壊れている。誤解を恐れずに言えば、佐川恭一の小説は、一般的には優れた小説とは言えないだろう。しかし、その小説の芸術作品としての優劣と、その小説が私にとって大切なものであるかどうかは関係がない。
たとえばミシェル・ウエルベックは「文学だけが、他の人間の魂と触れ合えたという感覚を与えてくれる」と言っている。「ただ文学だけが、他の人間の魂と触れ合えたという感覚を与えてくれるのだ。その魂のすべて、その弱さと栄光、その限界、矮小さ、固定観念や信念。魂が感動し、感動を抱き、興奮しまたは嫌悪を催したすべてのものとともに。文学だけが死者の魂ともっとも完全な、直接的でかつ深淵なコンタクトを許してくれる」のだと。そして――ウエルベックが言うように――、私はまさしく本作に触れることで、魂が震える感覚を覚え、魂を以て、語り手や作者と触れ合えたような気がしたことを、ここでは書き添えておきたい。
つまるところ本作「受賞第一作」は、小説を読むことの原初の喜びを私に与えてくれた。そうした意味で本作は、文学的価値や評価とは無関係な位相において、私にとって、大切で特別で実存的な意味を持つ、この形でしかありえない、たった一つの作品だと言えるのだ。
*
本稿を終える前に、一つの蛇足をお許しいただきたい。
私は佐川恭一の小説が好きだ。佐川恭一の小説を読んでいると、この人は私よりも私のことを理解しているのだろう、というような感覚を覚える。
もちろん、そんな感覚は錯覚に過ぎず、私の妄想の域を出ないのだが、しかし代弁者であると言い換えるならば妥当だろう。
佐川恭一は私の代弁者である。私は私のことをこれほどまでにあけすけに語ることはできない。私は私について語ろうとするとき、どうしてもどこかで良い格好をしようとしてしまう。私は自分の性癖を公開することなどできはしないし、自分の弱さと向き合うこともできない。他人に冷たくされたり、侮られたり、利用されたりした過去の記憶を小説の中で反芻することもなければ、記憶の中で葛藤することも、もちろん記憶を克服することもない。
文章を書くとき、私は、楽しかった思い出をただ単に反復するか、またはかたく口を結び、仏頂面で真面目くさった話をするだけだ。この文章がそうであるように。
佐川恭一は、そんな私の代わりに私を語り、私の欺瞞を暴いてくれる。佐川恭一の小説を読んでいると、そんな気がしてくるのだ。
繰り返すが、私は佐川恭一の小説が大好きだ。
あなたもそうであることを――そのようになることを――、この小さな文章の中で、私はささやかながら願っている。
"『受賞第一作』解説全文(樋口恭介)"へのコメント 0件