受賞第一作

受賞第一作(第1話)

佐川恭一

小説

82,791文字

学校、恋、受験、仕事、生活、創作――もっとうまくやれたはずのすべてが、青春の呪いとなって永遠に回帰する。著者渾身の〈未完〉の長編登場。
「つまるところ本作は、小説を読むことの原初の喜びを私に与えてくれた。そうした意味で本作は、文学的価値や評価とは無関係な位相において、私にとって、大切で特別で実存的な意味を持つ、この形でしかありえない、たった一つの作品だと言えるのだ」――解説(樋口恭介)より

私は飛行機の窓際席をとれなかった、窓際から一つ左の席だった、クッソーと思っていた、これがはじめての国内線だった、国際線には一度乗ったことがある、中学生のころ、父の会社のアメリカ研修旅行に当選したのだ、私はあまり乗り気でなかったが、タダで西海岸へ行けるというので仕方なくOKした、三十人の中学生と四人の引率者、計三十四人で異国の地へと飛んだ、私たちは六つの班に分かれ、私は四班だった、班長のセトさんはとても聡明できれいなひとだった、セトさんがいるだけで周囲が華やいだ、私はセトさんに恋をした、セトさんは私と話すとき、きれいな顔をクシャクシャにして笑ってくれた、私はますますぞっこんになった、じぶんと話す女の子が無邪気に笑ってくれる、という経験は得がたいものだ、しかしセトさんをよくみてみると、誰と話すときもクシャクシャの笑顔ではないか! 私は結局、セトさんに特別な印象を残すことはできなかった、それどころか友だちもうまく作れず、大体どこへ行くにもはみっていた、サンフランシスコで、シアトルで、ロサンゼルスではみっていた、十日間滞在して十日間はみっていた、帰りの飛行機では誰も私の隣に座ろうとせず、引率のオオサキさんが座った、「きみは年のわりにしっかりして、落ち着いているから、将来が楽しみやね」だが私は落ち着いていたのではない、話す相手がいなかっただけだ、日本に到着すると引率のニシサコさんが「またきっと集まろう、私たちはアメリカ仲間だ、これは永遠の絆だ!」と叫んで、みんなもYEAHとかなんとかいっていた、しかし私は誰が集まるか、と思っていた、お前らに会うのは今日が最後だ、明日お前らが全員死んでもおれは泣かない、お前らが生きていようが死んでいようが、おれの人生になんの影響もない、おれの人生は無問題モウマンタイだ! それが私の国際線にまつわる思い出のすべてである、私が窓際から一つ左の席でぼうっとしていると、女性がひとりやってきて、「あ、すみません、私そこで」といって窓際の席を指さした、そして私の前を申し訳なさそうに通った、そのときにやわらかな、しかし弾力もほのかに感じられる太ももが私の縮こめた膝にしゅっと触れ、それが妙に官能をさそった、飛行機が動き出す、私は飛行機の使い捨てイヤホンをジャックに差し込んでラジオを聴きはじめ、流行の曲が流れている3チャンネルを選んだ、女性もどうやらラジオを聴いているようだった、私はそわそわして、外の景色をみるふりをして女性の顔を何度かみた、女性は化粧をばっちり決めていて美しかったが、目尻のあたりに隠せない疲れがみられた、それはいま、というより積年の疲れという感じだった、ほどなく女性はうつらうつらしはじめた、ジュースを運んできたCAに私はキウイジュースを頼んだが、女性はピクリともしなかった、ひどく疲れているのよ、放っておいて頂戴、きれいな横顔がそういっていた、CAはにこりと笑ってそのまま去った、やがて女性は目を覚まし、右手で頬杖をついて窓の外を眺めはじめた、そして左手の人差し指で、薄いベージュのストッキングに覆われた膝を叩いてリズムをとりはじめた、そのリズムが妙に心地よかったので女性の肘かけを確認すると、やはり3チャンネルを聴いていた、私はそのことで何かじぶんと女性のあいだにつながりが生まれたような気がしたものだ、私は壮麗な白雲の上で、この美しい女性とまったく同じ曲を聴いているのだ、それはほとんど奇跡なのではないか? そのうちに女性はふたたび眠って、私のほうへ頭をかたむけてきた、私はもちろん拒絶することなく、こちらも眠っているふりをして寄り添うように頭をかたむける、すると髪と髪がわずかに触れ合いむずがゆさが全身に走った、それは快感の萌芽だった、私はこれから女性に声をかけ、機内で互いの人生の紆余曲折を語り合い、空港に降りてからディナーをともにし、激しい欲情にかられ然るべき行為にいたる想像をした、私は勃起した、すばらしい勃起の感覚だった、これほど硬く勃起したことは一度もなかったはずだ、もっと若い時分でさえも! しかし、かたむけた首に痛みを感じはじめ、私は泣く泣く頭をまっすぐに戻し、持ってきていた小説を読みはじめた、内容はまるで頭に入らなかった、同じページを延々と読んでいた、いや、読んでいなかった、眺めていた、隣のことばかりが気になった、私は女性の頬に、太ももに、膝に手を触れたかった、写真を撮ろうかとさえ思った、私はその写真があれば無限の妄想をうみだすことができるだろう、私のなかで彼女との物語は際限なくひろがってゆくだろう、しかしもちろん写真は撮らない、私は社会のルールを守って生きる善き市民なのだ、つい先日も同じ市内のサラリーマンが盗撮で捕まったばかりだった、サラリーマンには停職一か月の処分が下ったがそのまま自主退職したらしい、飛行機が着陸の準備をはじめ、気付いたときには女性のチャンネルは10になっていた、こうして私は東京の入社式に向かったのだ、世間的にはだいたい一流とされる損害保険会社の入社式である、私は面接がうまい人間ではない、むしろへただ、大学主催のイベントで挑んだ面接練習では面接官役がぷっと吹き出すほどだった、そうした状況を悲観してその時期にはじめて小説を書いた、小説を書こうと思ったことはそれまでにも何度かあったが、つねに一時的な思いつきにとどまった、しかし非常に厳しい闘いとなるだろう就職活動を目前にして、作家なるものの存在感は一気に肥大した、作家になれれば就職活動もしなくていい、毎朝電車に揺られて通勤もしなくていい、上司や部下に気をつかわなくてもいい、いいことづくめではないか! だが就職活動は予想に反して順調に進んだ、私は京都大学の学生だった、多くの企業は私を落とさなかった、それはやはり私が京都大学だからだ、誰も私のことなんてみていない、大学をみているだけだ、私は密かに開催された京大生限定セミナーにも呼ばれたし、京都大学、大阪大学、神戸大学の学生のみを対象とする京阪神セミナーにも呼ばれた、まさに引っ張りだこといってよかった、そういうものを主催する多くの企業が、全体向けに開かれたセミナーでは別人のように猫をかぶり、「大学は関係ありません、うちは人間力をみます!」などと真顔でいっているのだから、へそが茶をわかすというものだ、短時間の面接で人間を見抜くのは確かに困難かもしれない、しかしここまで徹底的に事実を隠蔽するのは犯罪的ではないか? 私はあきれ返ったが、それは私にとって有利な現実だった、じぶんに有利にことが運んでいるとき、対象に向けてほんとうの敵意を向けることは難しい、私が京都大学に行こうと考えるようになったのは、中学に入ったころ母が「京大に入りなさい」といったからだ、父は高卒だった、私は大学に入る気がなかった、父はよくいっていた、「大学出なんてわしよりできひんやつばっかりや、大学っちゅうのは四年もかけてゴミ作っとるんや!」父は高卒枠で大企業に入っていた、そして本人いわく実力で出世コースに乗っていて、東大や京大をねじふせていた、たぶんそれはほんとうだったのだろう、父は周りの有名大卒を抜き去り同期トップのスピードで出世していた、「ええかお前、人間は学歴やない、ステータスなんか何の意味もない、実力や、実力がどんだけあるか、どんだけ肝が座っとるかや、やられたらやり返す、中途半端が一番あかん、二度と立てんようにブチのめしたる、それは思いやりでもあるんや!」なるほど、と私は思っていた、やられてやり返す根性は私になかったが、とりあえず大学に行くのは面倒くさそうだし、行く意味もないのならどうでもいいや、と思っていた、しかし母が「京大に入りなさい」としつこくいうので参ってしまった、「お父さんは大学入らんでいいってゆうてた」と私はいった、「お父さんも大学行ってないし、行かんでいいって」すると母は私の両肩に手を置いていった、「お父さんのは学歴コンプレックスなんや、お父さんは貧乏で大学に行けんかった、そのコンプレックスをバネにして戦ってるんや、でもそれはちゃんとした戦い方やない、あんたは真っ当に戦いなさい!」マジかよ、と私は思った、明けても暮れてもゲームばかりしていたので、いまから勉強とかいわれても、と思った、ゆいいつ習い事のそろばんは小六まで続けたが、それで算数や数学が好きになったわけでもなかった、私は抵抗むなしく進学塾に入れられた、すると塾は「難関高校!」といっていた、「難関高校難関高校!」といっていた、それをほとんど毎日聞かされ、私もいつのまにか「難関高校!」というようになった、洗脳されてしまったのだ、中学生を洗脳することなど塾にとってはお茶の子さいさいだったのだろう、私は難関高校に入った、男子校だった、全員頭を刈り上げ、九十パーセントの人間がメガネをかけていた、難関高校ははじめにこういった、「人間はおおむね二種類に分けられる、東大京大国公立医学部と、それ以外だ!」いや、それ四種類やん、と思ったが黙っていた、そういうなめたことをいえる雰囲気ではなかった、そういうわけで、私たちは初日から「難関大学!」といっていた、なお、当然この高校で難関大学とは東大京大国公立医学部のみを指し、それ以外の大学はほとんど大学としてさえ認められなかった、私たちは「難関大学難関大学!」といっているだけで友だちになれた、「おれは難関大学に入るよ、お前は?」「おれも難関大学に入る、おれたちは戦友だ!」そういうわけで私には素晴らしいメガネの友だちがたくさんできた、私たちは戦争にのぞむ軍隊のように厳しい課題をこなしていった、脱落者はどんどん増えていった、仲良くしていたやつが「おれはもう阪大でいい、阪大でじゅうぶんだ、もう無理だ!」といって泣きだすのをみて、私たちは笑ったものだった、そしてかれらのことを敗残兵と呼んでいた、「おい、そこの敗残兵、阪大の赤本は楽しいか? 楽しいやろなあ、スラスラ解けるんやから!」私たちはたちの悪い煽り屋だった、ひとの気持ちを少しも考えなかった、神戸大学などといいだす者のことは存在として認めなかった、敗残兵ですらない、無として扱っていた、それはしかし、みずからが軍隊からこぼれ落ちないようにするための悲しい強がりだったのだといまでは思う、もうやめたい、こんなことは……多分かなりのクラスメイトがそう思っていただろう、思ったことがあっただろう、それでもじぶんを鼓舞するために、脱落者を過剰に攻撃せざるをえなかったのだ、それは教師陣にしても同じだったと思う、こんな一挿話が思い出される、あるクラスメイトが家で懸命に考え抜いた英作文を黒板に書きつけた、それをみた英語教師は、突如として豚のように鼻をならしながら、黒板に書かれた英文の匂いを嗅ぎはじめた、フガ、フガ、フガフガ! 私たちはどうしていいかわからずそれをただみていた、すると英語教師は突然、「神戸大学の匂いがする!」と叫んだ、私たちははじけるように笑った、英作文を書いた張本人は顔を真っ赤にして下を向いていた、難関高校ではそれは最大の侮辱なのだった、おい、おい、神大だってよ! 勘弁してくれよ! 私たちは英作文を書いたクラスメイトをひとしきり馬鹿にした、しかし、それはいつじぶんの身に降りかかる厄災なのかわかったものではない、誰もが極度の緊張状態におかれ、倒れそうになりながら耐えていた、私は家でも「京大京大!」といっていた、「京大に落ちたら死ぬ」といっていた、母ははじめこそ「その意気やよし!」などといっていたが、ある時期から「あんた、やりすぎちゃう?」というようになった、「あんた、そんな勉強してて頭おかしならんの? 頭おかしなるで?」しかし私は京大に入れたら頭なんかどうなってもかまわなかった、もう頭なんかとっくにおかしくなっていた、私は気づかいをみせる母に激甚の怒りをぶつけたことがある、「なんやねん、いまさら常識人ぶりやがって、最初に京大行けっていったのはオカンやぞ、それでここまできたんや、遊ぶ時間もぜんぶ捨ててここまでやってきたんや、いまさらやめれるか!」母はびびっていた、のちにのぞきみた母の手記にはこうあった、「京都大学、やっぱり私らの息子にはきつかったのかもしれません、アホの親から生まれて、かわいそうに、死ぬほど勉強しています、あんなふうになるくらいなら、阪大でよいではないの? もうすこしペースを落として、人間らしい活動もして、阪大でよいではないの? そういってあげたいけれども、いえる雰囲気ではありません、あれで京大に落ちたらどうなってしまうのか、恐ろしくて考えたくもありません」結局私は京大に落ちた、それで私は中学時代に流行っていた「完全自殺マニュアル」を買って楽に死ねる自殺の方法を熱心に考えたが、トカトントン、途中でどうでもよくなってしまい、受かっていた同志社に行く、と母に告げた、同志社も世間からみれば立派な大学だ、難関高校がおかしいのだ、僕は同志社に入るよ、胸を張って同志社に行くよ! 母は何も答えなかった、しばらくすると私の模試の成績表を青いリングファイルから取り出し、それを眺めながらすすり泣いた、大抵の模試の成績表には「きみはたぶん京大に受かるよ」と書いてある、AとかBとかの判定が並んでいる、母は泣きながら、突如として成績表を破りだした、「なんやね、こんなん、嘘ばっかり書いて、なんやね!」「おかん、やめろって、おかん!」私は怒っていた、京大A判定の模試は額縁に入れて飾ろうと思っていたからだ、私はただの同志社ではない、京大A判定の同志社だというために……母が落ち着いたあと、私は「同志社でちゃんとがんばるから」といった、何をがんばるかはわからなかったがそういった、しかし母は「もう一年いってみよう!」といった、「一年だけ浪人してみよう!」私は、うーん、という感じだった、もう受験はつらかった、だが母と話すうち、あきらめきれない気持ちもだんだん湧いてきて、三日三晩悩んで延長戦を決めた、父は怒り狂った、「アホが、役にも立たん学歴にいくら金つこてんねん! わしは一円も出さんぞ!」母はそれで昼夜問わずパートに入るようになった、祖父母から借金もしたようだ、私は駿台予備校に入り、一年後京大に合格した、そしてその延長線上で大企業にも内定したというわけだ、地元の知り合いに内定先をいうと、「すげー!」といわれた、「エリートやん!」といわれた、「やっぱお前は違うな」といわれた、そういうわけで、私は内定をもらってから東京で研修を受けるまでのあいだ、じぶんがエリートとしてやっていけるのだと思っていた、大企業のなかで鍛えあげられ、三十歳になる頃には年収一千万円の大台に乗って、洒落たブランド・ファッションに身を包み高級外車を乗り回し、いい感じの腕時計なども揃えて、これまで縁のなかった女たちも金のちからで惹き寄せることができると思っていた、だがもう研修中からして、とんでもないところに来てしまったという後悔の念がすごかった、研修はコンクリート打ちっ放しの閉鎖的かつ殺風景な巨大施設のなかで行われ、それはほとんど宗教セミナーのようだった、仕事のノウハウを身につけるためのテキストの作りや、ひたすら問題を解き続ける「商品知識千本ノック」などの企画はよかったが、仕事がいかに人生を豊かにしてくれるか、いかに仕事に本気になるか、そのためにいかに精神をコントロールするのか、仕事で最大の成果をあげるための生活スタイルとは、といった類の話となると、もう私にはついていけないのだった、実際、やりたい仕事なんていうものをみつけ、それをほんとうに仕事にできた人間なんて、世界にどれだけいるだろうか? まずもって、損保の営業マンになることが夢でした! などという者はいまい、初日の立食パーティの挨拶で、人事担当のヤスダという課長代理がいった、「我が社に入ることのできたきみたちは選ばれし人間です、あの厳しい試験、面接をくぐり抜けたわけですから、じぶんに自信と誇りを持って欲しい、いまこの国に、我が社よりも優れた会社はない、私はそう確信しています、きみたちのなかには、有名企業に内定していた者もたくさんいます、三菱東京UFJ、三井不動産、住友商事、トヨタ、日本生命、そういった企業と比較した結果、我が社を選んでいまここにいるわけです、そしてその選択は確実に正しい! それを私は声を大にしていいたい、きみたちは正しい選択をした!」ウオオオオオオ、と新入社員たちは沸き立った、ヤ・ス・ダ! ヤ・ス・ダ! とコールを始めるものもいて、それは大きな渦のようにみんなを巻き込んで熱狂させた、私はコールに参加する気になれず、即座に同種の人間を探した、二百三十四人の同期のなかから、私は四人の同志をみつけ出した、「なあ、こんなにバカバカしいことが、社会人になるってことなのかよ?」私たちはおおむね冷笑的であった、その会社の総合職の男女比をいえば、男二百二十九人、女五人、そしてその五人はみんな映画主演女優クラスの美人だった、立食パーティーではいかにその五人と仲良くなれるかが争われていた、体育会系のいかにもなやつらが五人に群がって、よろしく! よろしく! といっていた、女五人も酒をがぶがぶ飲んで上機嫌だった、少なくともそのようにみえた、私は場の雰囲気になじめない同志たちと、最初の乾杯で手にとったビールをちびちびやりながら、部屋の壁づたいに並べられた固い椅子に座って語り合っていた、帰りてぇ、帰りてぇ、とみんながつぶやいた、「こんなとこで研修二か月ってありえへんやろ」「付き合ってられへんわ」「でも営業やったらああいうノリも必要やろ」「うそやん」「営業はそうやろ、損害査定は知らんけど」「査定もヤクザみたいな相手出てきたらきついよな」「せやなあ」「八方塞がりやん」「はぁ……やめよかな」「俺もやめたなってきた」私たちはすっかり会社の流れから取り残されてしまった、いつの間にか、京大アメフト部のキャプテンだったアンドウという男が筋骨隆々の上半身を晒して踊っていた、キレキレの踊りだった、アンドウはブレイクダンスをやっていたらしい、ダンスの心得のある者が次つぎに参加していき、大声で歌う者らもあらわれ、だんだんガラの悪いクラブのような雰囲気になっていった、みんなとろけるように幸せそうな顔をしている、明日の朝からTOEICのテストがあるというのにどうでもいいといわんばかりだ、私もさほど気には留めていなかったが、さすがに二日酔いで受けたくはなかった、私たち四人は早くも「やめよう会」を結成した、会長は関西大学から仮面浪人で早稲田に行ったキクチ、副会長は私、神大陸上部のナラハシと立命館で演劇をやっていたカツウラが一般会員だった、次の日のTOEICはボロボロで、その後に続く研修もボロボロだった、特に「熱く語れ!一年後の理想の私」という企画には参った、私は「つねに現状に満足しない姿勢をもち、みずから問題点を洗い出し最適な方法をみつけることのできる、そしてみなから慕われリーダーシップをとることのできる人間になりたい」というようなことを必死で語ったが、「声が小さい!」と何度も怒鳴られた、「そんな小さな声で誰がついてくるんだよ! いまのお前をみて頼りにしようなんて人間、誰もいないぞ! お前覚悟はあるのか?」「はい!」「覚悟はあるのか?」「はい!」「覚悟はあるのか?」「はい!」「覚悟はあるのか?」「はい!」「じゃあもう一度、大きな声でいってみろ!」そんな具合だったから私はもうヘロヘロであった、また「本気じゃんけん」という企画では、じゃんけんで勝った場合には尋常じゃないほどよろこび、負けた場合には尋常じゃないほど悔しがりなさい、と命じられ、がんばってやってみたのだが、「お前全然悔しそうにみえないぞ、本気でやったんだよな、お前の人生のすべてをいまのじゃんけんに賭けたんだよな?」「はい!」「ほんとうに悔しいと思ってるのか?」「はい!」「悔しいと思ってるのか?」「はい!」「悔しいと思ってるのか?」「はい!」「悔しいと思ってるのか?」「はい!」「じゃあもう一度、思い切り悔しがってみろ!」という具合だったため、私はもうしおしおのパーであった、こんなところやめてやる、おれは作家になるのだ、やはりサラリーマンとして消耗するのはごめんだ、こんなボケナスどもとは金輪際付き合わずおれは小説を書く、そうして好きなものとだけ付き合っていくぞ、人生は短いのだから……私はそう思って研修所でも小説を書きはじめた、私はそのとき、理想の小説は三島由紀夫の「金閣寺」だと思っていた、それは大学時代に好きだったヒロセさんという女の子が「金閣寺マジサイコーなんだけど」といっていたからだろう、私は研修所で毎日金閣寺を読まなければ眠れない病にかかった、それだけではない、朝は六時に集合して朝食をとるのだが、金閣寺の何十ページかを読んでからしか部屋を出られなくなっていた、「それは文学依存症だね、よくあるよ」といってきたのは、慶応のカメイという男だった、「おれも結構本が好きでさ、本の世界から出たくないって思うことがある、人間失格とか金閣寺とかさ、ああいうすばらしい本の延長として現実をとらえたい、そう思うことがあるんだよね」何いってんだこいつ、と私は思った、それで「いや全然ちがう、おれは本の延長として現実をとらえたいわけじゃない、ただ金閣寺を読まないと動けないというだけだ」といったら、カメイとはそれっきりになった、カメイは研修中いつもだるそうにしていたが、じつはイスラム圏に日本の優れた損害保険を売りたいという確固たる野望をもって入社してきた男だった、私はカメイを遠くから羨んでいた、ああ、あんな風に、やる気がなさそうにみえて、じつはしっかりした芯をもっていて、キメるところはきちっとキメるみたいな風にやれたらなあ! 私はしかし全然そういうタイプではない、やる気も芯もなくキメるべきところは残らず外す、それが私なのだ、配属先は京都だった、「やめよう会」のナラハシも京都だった、カツウラは広島で、会長のキクチは宮城だった、私はナラハシと一緒に京都支社であいさつ回りをした、ナラハシは「じぶんは陸上の長距離をやっていましたので、持久力には自信があります、ねばり強くがんばりますので、よろしくお願いいたします」みたいなことをいっていた、私は部活にもサークルにも入っていなかった、塾講師のバイトはしていたがそんな話はおもしろくもないだろう、そう思って「趣味は競馬です」といった、「同志がおられましたら、ぜひ共に戦わせてください」といった、特に問題なくあいさつは終わったのだが、その十分後ぐらいに課長に呼び出された、「きみ、なんださっきのは?」「は、さっきのといいますと」「さっきの自己紹介だよ!」課長はマジでキレていた、青筋、というものを私ははじめて認識した、私は震えあがった、「何かまずかったでしょうか?」すると課長は「職場で競馬の話などするな、場をわきまえろ!」と怒鳴ったのだった、え、そんなにあかん? 趣味の話ぐらい別にええやん、AV鑑賞とかじゃないねんから! しかし課長は競馬はNGだと確信していたので素直に謝った、それが地獄の日々のはじまりだった、一般職の女性たちは要領の悪い私をはじめこそかわいがったが、すさまじいスピードで見捨てた、「あいつなんなん、全然仕事覚えへんやん」「返事だけはいいんよな」「ナラハシくんはもう担当持ってんのに、あいつあれで金もらってんの大丈夫? 京大やろ?」「京大いうてもモチヅキさんとかも京大やからな」「あ、そうやモッチーも京大やった、アッハハハハ!」私はたぶんほんとうに仕事の覚えが悪かった、配属から二か月後にはナラハシは次々と案件をこなしていたが、私は先輩の補助が外れなかった、「あいつ一人でやらしたら炎上すんで、絶対誰かみとかなあかん、あいつにやらしたら二倍かかるし!」大体そんなことをいわれていた、私は電話の内容を聞かれてバカにされるのがつらくて、電話にあまり出られなくなった、かけるのにも心の準備がかなり必要だった、そうして私は何もできなくなった、課長は「きみはまずFAXを取るところから始めよう」といった、「FAXに目を光らせて届いた案件を担当に配る、それぐらいならできるだろう?」それで私は日がな一日FAXに目を光らせていた、はずなのだが、なぜか気付いたときには他の社員がFAXを取っているのだった、私は全然取れなかった、やがて会社の腕相撲大会が開催された、ふだんから付き合いのある代理店の社長たちも招待し、酒を酌み交わしながら行われる恒例行事だった、ナラハシが幹事で私は景品を買う係だった、相談相手がいなかったので独断で一位から五位までの景品を買った、ほとんど覚えていないが予算もあまりなく、一位は安物のマッサージクッションだった、大規模代理店IWASE保険サービスのイワセ社長は毎年ここで一位をとる、そもそもイワセ社長が腕相撲に自信があるといったことからこの企画が始まったらしかった、イワセ社長は日常的に身体を鍛えていて軍人のような腕をしていた、そんな男が一位でなくてよいはずがない、しかし当日の私は破竹の勢いだった、誰ひとりとしてまったく私を倒せないのだった、私はじぶんが腕相撲強者であるということにこの日はじめて気付いた、凍り付く空気のなかで上司や社長たちを次々にねじふせ、ついにイワセ社長との決勝に駒を進めた、気付けば一般職の女性陣にひどく睨みつけられていたが、みんな直接注意しにはこなかった、私は言葉を交わしたくもない汚物なのだ、私を諭したのはナラハシだった、「なあ、お前まさか勝つ気ちゃうよな? 調整頼むでほんまに」私はあいまいにうなずいた、その時点では調整するつもりだったのだが、この波に乗ってじぶんのほんとうの力を試したい気持ちもあったし、何より私を無視している場の空気が気に入らなかった、ろくに仕事を教えもせず、すぐに人を追い込んで見捨てる、お前らは一体何様なんだ? テーブルを挟んで対峙したイワセ社長は「本気で来てくれよ」と余裕の笑みを浮かべた、私はそれで全力を尽くすことを決めた、手を抜くことが失礼に当たると思ったからではない、この何もかもじぶんの思いどおりに事が運ぶと信じている男の目に不安の色をみたいと思ったからだった、私は叫び声を上げながらイワセ社長の右手をテーブルに叩きつけた、その瞬間まるで世界が停止したかのような沈黙が訪れ、全員の視線がナイフのように私を刺しつらぬいた、重苦しい雰囲気のまま表彰式がはじまり、ナラハシが五位から順に景品を渡していった、二位のイワセ社長はこわばった表情で奪うように景品を取った、ナラハシは何とかしようと思ったのだろう、「一位はなんと、われらがフジノくんでーす!」とおどけていったが、誰も笑わず拍手もしなかった、私はこのとき終わったと感じた、私のこの会社における生はいま終わったのだ、私はいますぐにでも、作家としてデビューしなければならない! しかし、いざやめてニートになるのは覚悟がいるものだった、覚悟はあるのか? 覚悟はあるのか? 私は内なる研修講師に問い詰められながら、はいとはいえない状態だった、つらい日々が続いた、腕相撲大会から約半年のあいだ、みんなに無視されながらもひそかに仕事の勉強を続け、そのうちに誰もが驚くような変化を遂げてみせよう、そんな気持ちを完全になくしてはいなかった、そんな折キクチが倒れ、精神を病んで会社を休みはじめた、私がキクチにラインを送るとすぐに電話が返ってきた、キクチは職場にまったく適応できず、電話とパソコンを取り上げられ、席に八時間座り無視と罵倒を繰り返される日々が続いたのだといった、「電話取り上げられるなんてええやん」と私はいった、「こっちは電話どけてくれへんから、お前出ろ的な空気になるしな」「それで出てるん?」「や、出てへんけど」私たちは窓際トークを何時間でも続けることができた、キクチは結局三か月休職し、次の職がみつからないまま退職した、同期たちがお別れ会を企画しようとしたが、キクチが断って流れた、私は個人的にお別れをしようと思っていた、年に二回は五連休を取らなければならないという特別連休制度を利用し、私は仙台旅行を敢行した、仙台駅で迎えてくれたキクチはとてもいい顔をしていた、すべてが吹っ切れた人間の顔だった、私たちは会社への文句をとめどなくいい合いながら、松島で牡蠣を食べ、青葉城で記念写真をとり、秋保温泉で疲れを癒し、分厚い牛たんに舌鼓を打った、そしてキクチがやられた仙台支社にも訪れた、「みてるだけで腹立ってきますわ」とキクチがいったので、私は「石ぐらい投げてもばれへんのちゃう?」といった、大きめの石でも落ちていないか探したが、綺麗に舗装されたアスファルトの伸びる道路の周辺には小石すら見つからなかった、まるでだめになった社員に武器を与えないよう、都市そのものが協力しているかのようだった、「いやいや、フジノさんほんまに何か投げそうですやん」キクチはそういって私を制し車に乗るよう促した、キクチはローンで車を買っていたのだった、「無職なってしもてローンどうすんの? 車買うん早すぎやねんて」私がそういうと、仙台支社の先輩に頼まれて買わざるをえなかったのだとキクチはいった、確かにこの業界では付き合いのあるディーラーから車を買うように強い圧力がかかる、それは私にもあった、しかし私はいくらいわれても車を買おうとは思わなかった、車を買わないことは私が干され続けた要因のひとつではあったかもしれないが、やはりひとつにすぎない、車を買ったぐらいで私の低評価は覆らない、そういう絶対の自信があったので、逆に車を買わずに済んだのだ、キクチはバカげたことに、トヨタアルファードを新車で買っていた、会社のみんなと仲良くなったらキャンプなんかに出かけるかもしれないと思って買ったのだという、私はそれで、キクチがはじめから会社にコミットしなかったわけではないと知った、キクチはいつも会社をバカにしたスタンスを取っていたので、ほとんどキクチの方から会社を捨てたような印象さえ持っていた、しかしそうではなかった、キクチは会社になじもうとしていたのだ、私なんかよりずっと……仙台旅行のあと、私が持ち帰った土産には誰も手をつけなかった、やがて私は会社でめまいを起こして倒れ、産業医との面談の末あえなく大学病院の精神科送りとなった、抑うつ状態といわれ一か月の診断書と薬をもらい、課長と話し合って休んだ、私は一か月のあいだ廃人同然に過ごした、何もやる気がしなかった、薬も飲まなかった、薬でいま精神状態がよくなったって、会社に行けば全部終わりだとわかっていた、会社が借り上げている社宅の部屋はすぐゴミだらけになった、ヒゲも剃らなかった、風呂も三日に一度ぐらいで、頭はアブラくさかった、社宅は月に八万円はするような物件だが、会社の補助によって支払いは一万五千円で済んでいた、余ったお金は使いみちがなかった、キャバクラにでも行ってみようかと思う夜もあったが、キャバクラで女の子に気をつかって話すじぶんを想像すると萎えてしまった、金を払っているのだからとやたら強気に出るやつもいるが、私にはそれができないのだった、次の転職先を探しながらまた小説を書きはじめてもみたが、てんでかたちにならなかった、小説に集中しようとすると、こんなものでいまの窮状を脱することができるのか? 将来につながるのか? と自問がはじまり手が止まるのだった、休職を延長したころに一度母から電話があったが、会社を休んでいることはいわなかった、母は身体に気をつけろとか、たまには帰ってこいとかいうありきたりなことを話したあと、なぜか私が小さかったころの話をはじめた、私が「ひらけ!ポンキッキ」の「はたらくくるま」という歌を聴きながらしか眠らなかったこと、黄色いタクシーのミニカーが風呂の排水溝に落ちて半狂乱になり近所のひとに通報されたこと、ウルトラマンのソフトビニール製の人形を枕の周りに並べてひとつでも倒れたら泣いていたこと、アンパンマンをみていてもばいきんまんの応援しかしなかったこと、そんな誰にでもよくあるような話だった、私は「そんなん覚えてへんわ」というばかりだった、母はひとしきり話してしまうと、「ほなな、元気そうでよかったわ」といって電話を切った、なぜかはわからなかったが、これらの母の言葉は私に強い励ましを与えた、私は立て直しのために朝起きる時間を決めた、するとそれだけで生活は嘘のように規則正しくなった、朝食に六枚切りの食パンを一枚食べ、安い粉末のインスタントコーヒーに牛乳を足して飲み、昼には米を炊いて簡単なおかずを作り、余った米をタッパーに詰めて冷凍し、夜には本をみながら色んな料理に挑戦するようになった、生活以外の時間はほとんど執筆にあてた、時折マッサージクッションで腰を癒しながら、なんとか小説をひとつ仕上げて文学賞に応募した、半年後にはそれが一次選考すら通っていなかったことがわかったが、そのころの私はとっくに仕事をやめていた、そして驚くべきことに、人事担当だったヤスダはトヨタに転職していた、社会ではみんな演技をしているのだ、あの入社式のドンチャン騒ぎだって、みんなの演技で成り立っていたのかもしれない、そこから下りるのなら、それは強さによって下りるべきだった、弱さによって下りるのではいけなかった、私がこうなることは初日にわかっていたのだ、やがて私は再就職に向けて動き出した、正直なところ、一度は大企業に入ったのだし学歴もあるのだから、と少しなめた気持ちがあった、しかし現実はあまくなかった、就職を手伝ってくれるエージェントもつけたが、嫌な予感のするところばかり紹介された、ほとんど親族で構成されている小規模な会社や、つねに休みが不定期な会社、そして給料はどこも元いたところの半分にも満たないのだった、「もう少しありませんか、ほかに」しかしエージェントは似たような会社しか持ってこなかった、私は一応いくつかエントリーシートを出してみた、するとすべての会社から即オーケーが出て、ぜひ面接に、ぜひ面接に、というのだった、試しにひとつ小さな保険代理店を受けてみると、面接といいながら会場は焼肉屋だった、最寄り駅に着くと、ランサーエボリューションⅨをブンボボいわせて社長とその息子が迎えにきた、「うちは堅苦しい面接なんかせえへんのや、酒飲みながらやるんや」焼肉店で私はかなり歓迎された、「きみ、京大生がうちに来るなんて、そんなこといままでなかったわ、なあ、ヤスヒロ?」するとヤスヒロは、「ほんまよ、あんたほんまに京大生なん?」といった、ヤスヒロは金髪だった、耳のみならず鼻ピアスもつけていたし、なんならへそピアスをしていてもおかしくなかった、目にはブルーのカラーコンタクトを入れていた、顔は結構かっこよくて、ガクトを十四、五発殴ったような感じだった、しかしほんとうにこれで保険の営業をしているのか? 私は試しに車両保険の話を持ちかけ「カバトタラコイ」といってみた、ヤスヒロは「は?」といっていた、「いや、車両保険の限定条件でありますよね、火災、爆発、盗難、台風……」といったところで、ヤスヒロはもう一度、そして先ほどよりも強めに「は?」といった、ヤスヒロは不機嫌だった、「なんなんお前、ケンカ売ってんの? 人間知らんこともあるやん、お前も知らんことあるやろ? なんや腹立つわお前、殺すか?」ヤスヒロは立ち上がった、すると社長は「ヤスヒロ!」と一喝した、「やめとかんかい!」すると、ヤスヒロはなんと、ひどく縮み上がっておとなしく座ったのである、私はこの狂犬を怯えさせる社長が恐くなった、社長は五十代前半くらいで黒髪短髪、みた目はいかついがふつうの社会人の範疇だった、しかしいまの一喝は、元ヤクザといわれれば信じてしまう、そういう迫力だった、私はこの会社には入らないと決めた、この焼肉だけ乗り切って断ろう、社長は「すんませんな」といった、「うちのヤスヒロは昔からこうで、不器用ちゅうかなんちゅうか、ひとから誤解されやすいんですわ、根はいいやつですよってに、よろしゅう頼んますわ」私は「はあ」といった、もう私はこの会社に内定したようだった、やばいと思った、私は「まだ入るかどうか決めたわけではありません」といった、ヤスヒロが立ち上がろうとしたが社長が手で制した、「なんでですやろ」と社長がいった、「なんか気になることでもありますやろか?」いや、気になることしかないのだが、とにかく、ここではたらくことはできない、はたらいてはいけない、私はそういう感じを強くもった、「あの、他にも考えているところがありますし、もう少し色々と見させていただきたいと思ってますので……」そういうと社長は、「やっぱり、京大生はちがいますなあ!」といった、ヤスヒロも「やるやん」といっていた、社長は続けていった、「それは大事なことですわな、一生を賭ける仕事を選ぶんやさかい、色々みるのはほんまに大事なこと、その大事なことができんと、目先のアレに飛びつく人間ばっかりですわ、私ら仕事柄いろんな人間に会いますけど、ほんまに誰も彼も目先のアレばっかりでね、フジノさんみたいに物事の本質をじっくり見極めるいうことができん、そうしようともせんのですわ、そこがフジノさんの偉いとこや、正直、この場でフジノさんがよろこんで入社しますなんていうたら、私は落としたろうと思てたんです、そしたらフジノさんはそこを乗り越えてきた、これは本物やと私は思うた、後はフジノさんの判断ですわ、うちはフジノさんの席ならよろこんで用意させていただきます、なあ、ヤスヒロ?」ヤスヒロは「まあええんちゃう」といった、私はどうしてさっき「よろこんで入社します」といわなかったのかと後悔した、とりあえずは私の回答待ちという形で焼肉面接は終わり、社長は駐車場のランサーエボリューションⅨの方へ向かった、「いやいや、待ってください」と私はいった、「社長相当飲んでましたよ、タクシー呼びましょう、私が呼びますよ」といった、社長もヤスヒロも大笑いだった、「フジノさん、何をしょうもないこというてまんのや、わしらみたいなもんは、酒飲んでちょうど頭がまっすぐなるんですわ、飲まんと運転するほうが危のうてかなわん、酒飲んでやっと頭がまっすぐなる人種もいてるいうことですわ!」私はやばいと思い、かなり強く社長の腕を引っ張ったが、剛腕で簡単にふりほどかれた、社長は運転席に乗り込んでエンジンをかけた、ヤスヒロは助手席に乗って煙草を吸いながら窓を開け「乗れや」といった、「ゴチャゴチャいうとらんと!」私はほんとうにやばいと思い、「私の姉は飲酒運転の車に轢かれました!」と叫んだ、「姉はそれでエステティシャンになる夢を絶たれました、私は飲酒運転の車を許すことができません、社長が飲酒運転をするというのなら、私はここで辞退させていただきます!」私に姉はいなかったがそういうと、社長はエンジンを止めて出てきた、そして神妙な顔つきで「えろうすんませんでした!」といった、「フジノさんにそんなつらい過去があったとも知らんと、えろうすんません、わしらも調子乗ってました、わしらの時代はみんなふつうに酒飲んで車乗っとったんですわ、職場で煙草も吸い放題、洗いもんは女にさせる、そういう時代でした、わしはいまの時代にようついていかん、頭ではわかってても身体がついていかん、そういうアホなんですわ、でもいまので目が覚めましたわ、もう飲酒運転はやめや、二度とせん、ヤスヒロ、お前もや!」するとヤスヒロは、煙草の煙をゆっくり吐き出して「おん」といった、私たちはタクシーで帰った、ふたりは私を駅まで送ってくれた、「あとはフジノさんの判断いうことで、一か月以内には決めてください、こっちにも段取りがありますさかいに」私はこのふたりに慣れているじぶんに気付いたが、絶対一緒に仕事はしないぞ、といいきかせた、あんなところに入ってはおしまいだ! それから私は転職エージェントにさよならを告げ、公務員試験の勉強をはじめた、予備校には入らず、予備校のテキストだけを買って勉強の日々を過ごした、勉強の日々は悪くなかった、私はひとと接するのに疲れていた、社長から一日三、四十件の着信が入っていることもあったがすべて無視した、心苦しさもあったが、私はあの保険代理店でははたらけない、では、公務員としてならはたらけるのか? 私は勉強の甲斐あってK市に合格し市職員となった、配属されたのは福祉関係の課だったが、そこは私の想像していた公務員の世界ではなかった、市民からとびかう怒号、先輩や上司のパワハラ、精神を病んで休んでいる職員もすでにふたりいた、税金泥棒と罵倒されない日はなく、窓口では頭に血がのぼった市民に殴られそうになることもあった、事実、市民の家を訪問した同僚がひとり刺されて重傷を負った、残業代は夜十時を超えてからしかつかなかったし、仕事で二度同じ事を聞くと怒鳴り声とともに机を蹴られ、間違えて三度聞こうものなら床に身体を押しつけられ殴られた、ある日などは労働組合に直訴するためにわざと上司を怒らせて録音したが、それも見透かされてボイスレコーダーを破壊された、それでも私は仕事をやめられなかった、次に食えるだけの仕事にありつけるかどうかわからなかったからだ、そうしてはたらきながら小説を書き、できたものから順にところかまわず送っていると、五年ぐらい経ったある日一本の電話がかかってきた、私はそのとき、ツタヤで借りたパチンコ番組のDVDを消化していた、「超絶パチバトル女流編」という、微妙に売れていないB級グラビアアイドルたちがパチンコの出玉数をトーナメント方式で争う企画のDVDだった、私は全八巻を一気に借りていた、土曜日だった、私はそれをBGMのように流しながらマンガを読んでいた、一体何を読んでいたのか? スラムダンクでなかったことは確かだ、私はスラムダンクを読めと恐らく百回以上いわれてきたが、まだ一ページも読んでいない、手に取ろうとしたこともない、私はスポーツが壊滅的にできなかったので、スポーツを通じた友情や成長というものにほとんどアレルギーがあった、ならば何を読んでいたのだろう、まったく思い出せない、スラムダンクでなかったということ以外は……超絶パチバトル女流編はBGMのつもりだったが、読んだマンガが何なのかすら思い出せないということは、それはたんなるBGMの域を超えていたのだろう、その証拠に、私は超絶パチバトル女流編のトーナメントに参加した十六名をすべて覚えているし、特にクソワロリーヌ吉川の試合はよく記憶している、クソワロリーヌ吉川は三十三歳で、グラビアアイドルとしては顔は平均以下、おまけに奥歯が二本ガタガタになっていた、しかしパチンコにかける思いだけはズバ抜けていた、クソワロリーヌ吉川は三百六十五日、海物語というパチンコ台を打ち続けたことがあるという、私にしてみれば、台がなんであれ三百六十五日パチンコに通い続けるということが驚異なのだった、クソワロリーヌ吉川はその一年間、夢のなかにも海物語が出てきて、起きてすぐに海物語を打ちに行かなければ手が震えるようになっていたらしい、超絶パチバトル女流編の賞金は百万円、クソワロリーヌ吉川はそれで奥歯を治したいといっていた、「いやー、地べたを這ってでも私は奥歯を手に入れますよ、インプラントですよ!」クソワロリーヌ吉川は決勝で吠えていた、決勝の相手は不思議ちゃんで売り出している池園メッテルニヒだった、池園メッテルニヒは超絶パチバトル女流編に出ているグラビアアイドルのなかでは一番売れていた、顔も正統派の美しさだった、ボディは引き締まっており胸はFカップ、腰から尻にかけての曲線もじつになまめかしかった、だが池園メッテルニヒを応援する気にはなれなかった、池園メッテルニヒはじぶんがかわいいことを知っている、知り尽くしている、そのうえで不思議ちゃんキャラを演じているのだ、そのにじみ出る周到さが気に入らなかった、私は断然クソワロリーヌ吉川派だった、クソワロリーヌ吉川は長身で脚はすらりと長いのだが、腕や腹回りがぷにぷにしていて、胸はBカップだった、クソワロリーヌ吉川ははじめからクソワロリーヌ吉川だったのではない、吉川玲奈としてそのキャリアをスタートさせた、吉川玲奈は当初グラビアアイドルの王道を歩もうとしていた、青年誌の企画で準ミスに輝いたこともある、しかし売れなかった、どんどんかわいくて若いグラビアアイドルが出てきて、吉川玲奈は時代を築くことなく、数少ないファンになんとか支えられて、イメージDVDや写真集を出して食いつないでいた、そんな折、吉川玲奈はパチスロ雑誌のライターの仕事をもらい、はじめてパチンコを打ったのだ、そのとき打ったのが海物語である、千円で大当たりを引き確変に次ぐ確変、最終的には十一万円を稼ぎ出した、そのとき吉川玲奈はいった、「え、十一万!? クッソワロタ! え、え、十一万!? クソワロリーヌって感じなんですけど!」それ以来、吉川玲奈はクソワロリーヌ吉川として活動することになり、数々のパチンコ企画で名勝負を演じることになるのだった、超絶パチバトル女流編の準決勝では前半戦で当たりを引き、相手の十八歳グラビアアイドル堤杏奈が苦戦しているとみるや否や台を離れ、逃げ切り狙いの作戦に出た、司会の男は「いやいや、正々堂々最後まで勝負しろよ!」といったが、クソワロリーヌ吉川は首を縦に振らなかった、「いや、私ほんとに百万円欲しいんです、人生かけてるんで!」私はクソワロリーヌ吉川は間違っていないと思った、負けたが正々堂々やった、それで拍手はもらえるかもしれない、しかし百万円はパアなのだ、私はした当人もすぐに忘れてしまうような一時の拍手よりも百万円をとるべきだと考える、私はこれでクソワロリーヌ吉川を百パーセント信頼した、堤杏奈は当たりを引くことができずそのまま敗北した、クソワロリーヌ吉川は飛び上がってよろこんだ、「オルァーッ! どんなもんじゃーい!」「いやいや、よっさん最後座ってただけじゃん!」堤杏奈は怒っていたが、クソワロリーヌ吉川はルールのなかで戦ったのだ、それが非難されるというのでは、ルールの意味がないではないか? いよいよ決勝がはじまる、クソワロリーヌ吉川と池園メッテルニヒがにらみあう、クソワロリーヌ吉川は、「なんかこうやってても池っちってかわいいよね、私奥歯より先に顔直そうかな?」といった、まさにそのとき電話がかかってきたのだ、「はい」と私はいった、すると相手は「芥生あざみ書房のアイザワです」といった、「じつはですね、フジノさんの作品が新人賞の最終候補に残りまして、それでご連絡させていただいたのですが、いま少しだけお時間よろしいでしょうか?」一瞬何のことだかわからなかった、私はマンガを手にしながら、これからクソワロリーヌ吉川の決勝戦を楽しむ態勢に入っていた、つまり幸福の絶頂にあった、このような興奮状態はふだんなかなか訪れない、オリンピックの金メダルのかかった試合や、プロ野球のペナントレースの優勝が決まる試合、そういうときに訪れる興奮と同じぐらいの興奮を味わっていた、いうまでもなく、それらの興奮の必要条件としてリアルタイムであることがあげられる、結果のわかった勝負を遅れてみたところでそこになまの興奮はない、そんなものは腐った、にせものの、ひどい臭いのする、興奮の死体だ! ならば、とひとは問うだろう、きみのその超絶パチバトル女流編の決勝戦とやらは、ほんものの興奮の要件を満たしていないのではないか? 超絶パチバトル女流編はすでにCSで放送された企画、優勝者の決まった企画なのだから、せいぜいきみの味わうのは、きみのいうところの興奮の死体にすぎないのではないか? 確かにそれは正しい指摘だ、私はそれを認める、だが、そのときの私にとって超絶パチバトル女流編は生放送だった、もちろん生放送でないことは理解していた、しかし、そのときの私にとって超絶パチバトル女流編は生放送だったのだ、しかも、そうであるにもかかわらず、私は超絶パチバトル女流編に集中しようとはしていなかった、あくまでも手元のマンガと並行させていた、いまとなっては何だったか思い出せないようなマンガを、少なくともスラムダンクではなかったという程度の記憶しか残っていないマンガをである、だが、そのときこのマンガと超絶パチバトル女流編の両輪はがっちりと噛み合い、私におそろしい幸福と興奮をもたらしていた、それは奇跡的と形容しても大げさではなかっただろう、出版社からの電話はそれに水を差すものだった、それで私はよろこびを感じるまでに少々の時間を要したのだ、「え、あ、はい」と私はいった、アイザワは「なんだか、冷静ですねえ」といった、「いや、あの、うれしいです、ありがとうございます」「それではですね、二、三確認したい点があるのですがよろしいでしょうか?」「え、はい」画面ではすでに決勝戦が始まっていた、早く停止せねば! 私はリモコンを探しながら、しかしこうも思っていた、これまで一度も停止なしで見守ってきたこのトーナメント戦を、最後の最後で停止してよいものか? 停止、つまり私が彼女らの時を止めることによって、私の重視する生性なませいが失われ、そして永遠に回復されないのではないか? 私はそれで本気でリモコンを探す気になれず、結局電話のあいだにリモコンは見つからなかった、そして長い、あまりにも長い電話が終わるころ、クソワロリーヌ吉川は敗北していた、大粒の涙を流して司会者に笑われていた、「いやいや、そんな泣くなよ!」「だって、だって、私、この企画に人生かけてたんで……ほんとに、これまでの人生で、こんなに悔しいことなかったんです、あんなに悔しいSTスルー、始めてだったんですよぉ!」私はそれを聞いて共に涙を流した、STスルーというのが何を指すのか、チャンスを逃したのだろうという大体の推測はできたが、私は最後まで意味を正確に理解しなかった、STが何の略かもわからなかった、赤保留だの金保留だの、プレイヤーたちが何やら騒いでいたわけも、大体の感じはつかめたがはっきりとはわからなかった、企画のなかでそれらの詳しい説明はなされなかった、そもそもこの企画自体、パチスロ好きがみることを想定して作られているのだ、いちいち初心者向けどころか、パチンコを打ちすらしない者向けの解説をしていたら、大多数の視聴者が離れていくだろう、私は全体を通してほとんど言葉の意味を把握しなかった、しかしそれでもクソワロリーヌ吉川に感情移入して泣くことができている、それはやはり彼女の放つニッチな、しかし異様な魅力のためだろう、アイザワと話しながらとったメモには最終選考会の日程が書かれてあり、それまでに簡単な直しを指示すると書かれてあった、私はその指示を受け、修正した原稿を提出した、最終選考会の日、友だちと結果を待つ「待ち会」のようなことをしてみたかったが、そもそもすでに友だちがいなかったので私はAVをみていた、七作目まで出ているシリーズのものを七作すべて借りた、それは「僕と不倫ドライブしませんか?」という作品で、冴えない太っちょのメガネが出会い系サイトで釣り上げた人妻とドライブし、道中で企画に参加した理由や普段の生活ぶりを聞き、一度パーキングエリアでソフトなカーセックス(挿入なし)を行い、たどり着いた旅館で欲望の限りを尽くし、最後にはその土地の美味しいものを食べながら感想を訊く、そして最初の待ち合わせ場所に場面が飛び、手を振る人妻に車のなかから手を振り返す、歩き去る人妻、フェードアウト、の流れを基本としており、撮影は太っちょメガネひとりによって行われている、私はかれの性技のみならず撮影技術にも舌を巻いたものである、このシリーズとの最初の出会いは数年前、ネットカフェの鍵付き個室においてであった、それは仕事が調子よく午前で終わったために午後から休みを取り、やることもないので出向いた繁華街で、学生たちが集団でキラキラと充実した時間を楽しんでいるのや、カップルが手をつなぎながら愛を育んでいるのをみるのに耐えかね、逃げるようにして駆け込んだネットカフェだった、私はたまたまみつけた「僕と不倫ドライブしませんか?vol.4」の素人熟女に魅せられた、彼女の名前はさつきといった、季節は夏だろう、緑のポロシャツを着たメガネの男がエルグランドを運転し、ノースリーブの水色ワンピースを着たさつきさんは、時折ハンカチで顔をあおぎながらその隣に座っていた、ふたりはおもむろにトークをはじめる、「今日、暑いですねー」「ほんと暑いですよねー」「天気すごい良いですよね」「ほんとですよね、まあ私晴れ女なんで」「あ、晴れ女なんですか?」「そう、大体晴れるの、私が遠くに出かける時は」「へえ、あ、でもなんかそんな感じします」「ほんとー? みた目だけでいってるでしょ」「え、まあそうですね、まだみた目しかわかんないんで」「なんかすっごい汗かいてきちゃった、暑くて」「ぼくもちょっと汗ばんできました、エアコン入れてるんですけどね」「うわ、がんばってきたのにメイク崩れちゃってる」「え、いやいや、すごい綺麗だったから、車からみたときびっくりしましたよ」「えー? そんなの誰にでもいってるんでしょー?」「いや、ほんとに、あのひとだったらいいなって思ってたひとがほんとにさつきさんだったんで、ちょっといま緊張してます」「またまたー、ほんとそんな嘘がさらっといえるようになったら、人間終わりだよ!」私は序盤の、たんなるドライブのシーンだけでほとんど射精していた、これは大変な作品だ、と感じていた、私は冴えない太っちょメガネに自己を投影し、さつきさんとドライブデートしていた、さつきさんの言葉は私に向けられた言葉だった、さつきさんの笑顔は私に向けられた笑顔だった、私はエルグランドを運転しながらいった、「あれ、雨降ってきましたね」「ほんとだ、雨降ってきたー、晴れ女のはずだったんだけどな」「ちょっと次のパーキング入って休みましょうか」「うん、疲れた?」「ちょっとだけ疲れましたね」私はパーキングエリアの端に車を停めた、「さつきさん、今日の下着の色は何ですか?」「え、白」「おお、白ですか」「なんかねー、開放的な気分になるんだよね、白って」「そうなんですか」「そうなの、白の下着つけてると気分がカラッとするんだよね、そのあいだは何やってもいいぞって感じがする」「不倫でも?」「そう、不倫でも」私はさつきさんにキスをする、さつきさんはそれに応じる、私は胸を優しくもみながら下にも手を這わせる……プルルップルルッ!「こちら次のご予約が入っておりますので退室のご準備をお願いします」「わかりました」私はこれを中途半端にみても仕方がないと考えた、これは自宅でじっくりと鑑賞すべき芸術作品であると考えた、この太っちょメガネはただものではない、自らの存在を透明化するための術を、じぶんがあらゆる男性の投影対象となる術を確かに理解している、それで私は、絶対にいつかシリーズをすべてみるぞと誓ったのだ、しかしそれから私の誓いはだんだん風化していった、わざわざレンタルショップで十八禁ののれんをくぐる、ということが面倒だった、ダウンロードにもまだ抵抗があった、それからかなりの年月が流れ、アダルトサイトを巡回しているときに最新作のvol.7が出たことを知った、そういえばあれは素晴らしいシリーズだったな、そう思い返しながらvol.7の販売ページをみてみると、驚くべきことに、そのジャケットにはvol.4と同じ人妻、さつきさんが映っていたのである! 私は時が巻き戻ったのかと思った、おれは、おれは一体いま西暦何年を生きている? 私は混乱した、何かじぶんが遠い未来からやってきた、大きな使命を与えられながらも記憶を失ってしまったタイムトラベラーなのではないか、とさえ思った、しかしvol.7の説明文を読むとそういうわけではなさそうだった、《あの日のことが忘れられなくて……》そう、vol.4の人妻はあの日太っちょメガネと過ごした時間が忘れられず、太っちょメガネの前にふたたび姿を現したのである! これには参ってしまった、あの素晴らしい人妻がもう一度登場する、これはもう、シリーズをすべて鑑賞せよという超越者からのお告げなのではないか? そうして私は七作すべてを借りたというわけだ、私の考えた視聴順はこうだ、「vol.1→2→3→5→6→4→7」私はやはりさつきさんを最後にとっておきたかった、さつきさんがトリを飾らなければ、私の不倫旅行は完全なものとはいえない、そう思ったのである、私はDVDをみはじめた、vol.1の人妻も、vol.2の人妻も素晴らしかった、しかしやはりさつきさんには及ばなかった、あの美熟女としての完全な輝きに太刀打ちできる者がそうそうみつかるはずもないのだ、そういうわけで私は自慰行為に至らぬままvol.6までたどりついた、vol.6の人妻めいちゃんはかなりいい線までいっていた、まだ二十代前半、顔は美人とまではいえないが愛嬌があり、話していて楽しいな、と私は思っていた、こんな子と付き合えたらきっと幸せだろう、でも、旦那がいるんだもんな……そうして旅館でのセックスの場面、バックでペニスを突き入れられたとき、めいちゃんは、「はっ!? はぅっ!?」とかわいらしい声をあげた、そのイントネーションには、え、嘘でしょ? なんでこんなに気持ちいいの? 私のカラダ、いったいどうしちゃったの!?みたいなニュアンスが含まれていて、正直勃起でしかなかった、硬く硬く勃起した私は強い痛みを感じた、あわてて突っ張っていたねずみ色のスウェットのズボンを下げ、トランクスを下ろした、私は三枚のティッシュを取り出しペニスにあてがった、これは、一度発射してみてもよいだろうか? いや、しかしそうするとさつきさんにたどり着いたときの快感に翳りが出るだろう、私はさつきさんのためにこのシリーズを借りたのだから、めいちゃんはまだ前菜にすぎない、ここで抜くべきではない! 私は耐え続けたが、めいちゃんはすごかった、バックでつかれ、声を出すのをしばらく我慢していたかと思うと、崩れ落ちるようにして狂いはじめた、「あ、あ、ああっ、あはっ!? やめっ、やめてっ、クッ、イクッ、あひぃぃぃーン!!」ビクンビクンと身体を震わせるめいちゃん、確実にこのチャプターがvol.6の白眉だった、いつもの私ならとっくに二発は発射している、しかしまだ抜くわけにはいかない、今日はさつきさんのための日なのだから……だが太っちょメガネはめいちゃんを容赦なくバックで突きまくる、めいちゃんはよがり狂って、濡れた尻が私の劣情を煽った、「くっ、い、いく、だめイッちゃう、イッちゃうッ!」男はしかし簡単にはイカせない、イキかけたところで動きを止め、タイミングをずらしてから再び鬼のピストンをはじめた、するとめいちゃんは「それ、ダメそれ、それイクゥーーーーーーッッ!」と嬌声を上げガクガクと崩れた、「ハァ、ハァ、今の、今のタイミングさいこぉ♡」だめだ、これは、これはもう抜くしかない! 私が理性のタガを外してペニスをこすりはじめたとき、なんと一本の電話が入った、誰だよ、こんな大事なときによ!「はあ、はあ……はい、フジノです」私がそういうと、電話口からは「おめでとうございます、フジノさんが受賞されました!」というアイザワの声がした、私はタイミングの悪さに辟易して「はあ」といった、「ほんと、フジノさんって冷静ですよねえ」アイザワは笑っていた、こうして私は新人賞を受賞し、作家を名乗る資格をえたのである、アイザワの話では、私はまず作品を激賞した選考委員との対談を行い、その二週間後に授賞式に出席せねばならないということだった、対談は東京の料亭で行われ、授賞式は東京のホテルで行われる、交通費は出版社持ちだが宿泊費は出ない、私の取ったメモにはおおむねそのようなことが書いてあった、私はもう想像しただけで胸がバクバクした、対談、そして授賞式――私はできるかぎりのパターンを考えてシミュレーションを行おうとした、そのために文芸誌のバックナンバーを集めて対談の内容をチェックした、対談はすべて盛り上がっているようにみえた、選考委員は受賞者に寄り添い、受賞者は選考委員に敬意をもって対していた、受賞者は数かずの質問に、ある程度の長さを保ちつつ、きっちりと説得力をもって、かつ次の対話へのとっかかりを残して答えていた、私にはそうみえた、すべての受賞者が偉大なる社会適合者であった、私には小説というのはろくなやつが書いていないという思い込みがあった、私のような輩が書いているのだから他のやつらも似たような欠陥もちばかりだろう、そんなふうに思っていた、しかし私のみるかぎり受賞者はちゃんとしていた、これは、ほんとうはうまくいかなかった対談を、後から修正&修正でちゃんとみせているだけなのでは? そうも思ったが、それはやはり根拠の薄い希望的観測にすぎない、結果的にちゃんとしてみえているのだから、そのタネとなる対談内容もそこまでだめではなかったのだろう、これはまずいことになった、私はちゃんとしていないのだから、ありのままの姿をさらして対談したら選考委員にぼこられてしまうぞ! 私は懸命に想定問答を作り、あらゆる質問に余裕をもって答えられるよう努力した、しかし質問は無限に湧いてくるのだった、仕事中にも脳内で質問を叩きつけられ続け、ついには精神的に参ってしまった、私はいてもたってもいられなくなりメンタルクリニックを受診した、大学生のときに少しばかり世話になったところだ、当時の私は童貞であることに端を発する慢性的な不安状態を改善するためにメンタルクリニックの門を叩いたのだ、大学に入った私はといえば、男子校の呪縛から解放されてというべきか、むしろその呪縛のためにというべきか、すれ違うほとんどすべての女の子に勃起していた、入学式で隣になった女の子はミズノさんといって、派手なメイクをしていたがかわいかった、とにかくかわいかった、それで私はミズノさんをチラチラみていた、チラチラみざるをえなかった、私は、ああ、チラチラみてしまっているな、と内省していたが、どうしてもやめられなかった、するとミズノさんは、「あんた、どこ出身?」と聞いてきたので「滋賀です」というと、「カッペやん、何かそんな感じするわ」といってきた、それが全然イヤミでなくむしろ愛情さえ感じるいい方だったので、私はとてもうれしくなって、「え、ミズノさんはどこなんですか?」と聞いた、すると「福井」といったので、「カッペじゃないですか!」と突っ込んだ、ミズノさんはゲラゲラ笑って、私もゲラゲラ笑った、私はミズノさんと連絡先を交換したかったがいい出せなかった、ミズノさんは私と同じ文学部だった、しかし残念ながらクラスが違った、私は二組で、ミズノさんは四組だった、四月のはじめに行われたクラスコンパで、私は二組の女の子たちと少し話しただけで顔じゅう真っ赤に染まり、その日はじめて飲んだ酒も相まってふらふらになった、するとヒロセさんという神奈川出身の女の子が私を介抱してくれた、「あんたさあ、飲んだことないんだったら、ちょっとセーブしようとか思わないの? バカじゃん?」なぜかミズノさんもヒロセさんも、私に対してはじめからタメ口なのだった、私たちのなかで二十歳を超えていたのは二浪のキシダだけだった、キシダは宇治の出身で茶道を習っていた、背が高く病的といえるほど痩せていて、妙な落ち着きもありどこか修行僧のようにみえた、ヒロセさんはキシダのことを気に入っていた、キシダに対しては「キシダさん、キシダさん」といって、敬語で話すのだったから、私はなんともいえない気持ちになったものだ、ヒロセさんは私のタイプだった、ふっくらとして肉感的で、肌は陶器のように美しく輝いていた、歯並びがとても綺麗で目がぱっちりと大きく、鼻は少し低かったが、それがむしろかわいさを際立たせていた、「ヒロセさんかわいいよな」という男は何人かいて、そのなかにはかなりのイケメンも含まれていたので、私の淡い恋心は育つ前に挫折していた、ヒロセさんが好きだなどと私ごときがいってみろ、笑い者になるだけだ……ヒロセさんはきっと周りにいいふらすだろう、「あいつに告られたんだけど、マジありえなくない?」「私、あいつにいけると思われたってことだよね? 超ショックなんだけど」しかし、ヒロセさんが気に入っているキシダは、私と比べてさほど優れているようにはみえなかった、むしろ勝てる要素のほうをたくさん見いだすことができた、私はヒロセさんでえっちな妄想を繰り返した、妄想に妄想を重ね、語学の授業でペアを組んだときには目も合わせられなかった、頭のなかをのぞかれはしまいかとありえない心配さえした、私の肉棒でイキ狂っているヒロセさんの姿が脳からはみ出しているような気がした、私は目を伏せたままヒロセさんと話した、ヒロセさんは「お前コミュ障かよ」といって笑った、「たぶん」と私はいった、「しょうみ女の人の目みれへんねん」するとヒロセさんは「じゃ、私で練習してみる?」といって私をみつめた、私はアダルトゲーム、いわゆるエロゲをプレイしたことがないが、これはエロゲなのではないかと疑った、私はエロゲの世界の住人なのでは? 以降、ヒロセさんとちょくちょくランチをともにするようになった、ヒロセさんは私のつたない話術のつたなさ自体を面白がってくれ、信じられないほどよく笑ってくれた、やがてふたりで飲みに行くようにもなった、ヒロセさんは酒が入るとさらによく笑った、回数を重ねるたびに私たちは互いをよく知り、距離もどんどん縮まっていった、いつしか私は夢をみていた、ヒロセさんに告白するぞ、私はヒロセさんの恋人になる、そう思っていた、思いつめていた、そしてヒロセさんをふつうのデートに誘おうとプランを練ったが、告白すると考えると緊張してしまってだめだった、結局私たちは居酒屋に行くばかりだった、ふつうのデートもなしに告白するわけにはいかないと思っていたが、だんだん気が焦ってきて、もう飲んでいるときにどさくさ紛れで告白してしまおうと考えた、酒の力も借りられるのだから、それでいいじゃないか? しかし私は告白することができなかった、ただただ楽しい時間を過ごし、最後には、告白にはまだ早い、また今度にしよう、とじぶんに言い訳するのだった、そういうことが何度か続き、冬に差しかかるころには、ヒロセさんはキシダと付き合っていた、私はヒロセさんと付き合うことができなかった、ほかの男ならいざ知らず、キシダだったらまだおれでも戦えるだろう、そう思ってチャンスをうかがったが、キシダはすさまじい勢いで垢抜けていき私の手の届かない存在となった、キシダはよくみればかっこよかった、顔は伊勢谷友介に似ていた、ふたりは仲良くジムに通っているらしかった、ヒロセさんはダイエット目的で、キシダは筋肉をつける目的だった、ヒョロヒョロだったキシダは少しずつがっちりしはじめ、ヒロセさんは反則的にかわいくなった、お似合いのカップルだった、気付いてみれば、私の周りの人間どもは次々とカップルになっているのだった、右にも左にも、前にも後ろにもカップルカップル、ほとんどカップルのバーゲンセールだった、じぶん以外の全員が幸せそうにみえてきて私は涙に暮れた、恋人たちは幸せそうだけどほんとうのところはわからないよ、みたいな浜崎あゆみの歌を聴いたりもしたが、あまり励ましにはならなかった、やはり私はまだヒロセさんが好きなのだった、キシダの野郎、二浪のぶんざいで……もちろん恋愛に現役も一浪も二浪も関係ないのだ、それでも「二浪のぶんざいで……」と思ってしまう、そこに私はじぶんという人間の小ささ、追いつめられた人間が理性も道徳もかなぐり捨てて相手の弱点を嗅ぎ出す心理の愚かさをみた、こうして私はキシダに敗北したが、ヒロセさんはそれまでと変わらず私に接し続けた、たぶん私が飲みに誘えばいつでもふつうに来てくれただろう、ヒロセさんはそういう人間なのだ、しかしキシダのねちっこい性技に唾液を垂らして乱れるヒロセさんの画を想像すると、私はつらくてつらくて沈みこんでしまうのだった、もうヒロセさんの顔を忘れてしまいたい、ヒロセさんの愛くるしい瞳を、屈託のない笑顔を、かわいらしいピンクのコートを、大人びたフェンディのマフラーを、ぜんぶ忘れてしまいたいのだった、私はモテたいと思った、ほんとうに強く思った、モテるための本を読み始めた、ファッション誌も買って猿真似をするようになった、茶髪にしてパーマを当てた、しかし鏡にうつるじぶんは情けない顔をしていた、服や髪型が変でないか気にしておどおどしていた、そのせいで服や髪型は事後的に変になっていた、私はモテ本のアドバイスにしたがってテニスサークルに入った、テニスサークルに入ればモテる、それは誰にでもあてはまるはずだった、だが私はテニスが壊滅的に下手くそでいじめられてしまった、全然サーブを入れられないので試合にならなかった、うまくなろうと思いオートテニスに人知れず通ったがだめだった、テニス教室のようなものに入るのは気が引けた、ひとに怒られてまでやりたくない、ひとりでやるだけやってうまくなろう、私はそう思っていた、だがこれは私の悪いくせだった、とにかく恥をかきたくない、ひとに聞けばすぐに解決するようなことでもうじうじ遠回りをしてしまう、そのくだらないプライドのせいで、私はヒロセさんに告白もできなかったのではないか? テニスは一向にうまくならなかった、私はサークルにほとんど行かなくなった、しかし部長が私を気に入って呼んでくれたので飲み会だけは参加した、メンバーにテニスが私ほどできない者はいなかったが、私と同じくらいモテない者は何人かいた、驚くべきことに部長もそのひとりだった、部長は私に同種の匂いを感じとったのだろう、法学部の部長と私と農学部のヤマジ、この三人は恋人のいない非モテ三銃士として周囲にも認識された、部長はモテたいと強く願っていて、三人で合コンに参加しようとよく誘ってくれた、私もじぶんの殻を破る意味で参加したかったが、ヤマジは「恋愛は人生の無駄」といってかたくなに参加を承諾しなかった、ヤマジはマリオカートが好きだった、マリオカートが異様に速かった、私はマリオカートでヤマジにただの一度も勝てなかった、「マリオカートこそ人生」とヤマジはいっていた、部長はバカにしたが、ヤマジは「恋愛にマリオカートを上回る要素はまったくない」とバッサリ切り捨て、そんなじぶんの思想に一点の疑いも持っていないのだった、私はヤマジに偉人の影をみていた、イチローの影を、羽生善治の影をみていた、ヤマジはもしかするととんでもないやつなのかもしれない、野球に打ち込む人間がいて、将棋に打ち込む人間がいる、そして、マリオカートに打ち込む人間もいるのだ……「ヤマジはほっといて、一緒に合コン行こうよ」と部長はよくいった、しかし、私は二つ返事でオーケーという気持ちにはなれなかった、私が合コンへ行くときには、隣にヤマジがいてほしかった、どうせ惨敗となる合コンのあとで、恋愛の無意味さを説くヤマジになぐさめられたい、という思いもあったし、何より、部長には負けるだろうがヤマジには勝てる、という私の醜い打算があった、結局私たちが三人で合コンに行くことはなかった、一回生も終わりを迎えようとしていたある夜、私は部屋でテレビをみていた、クイズ番組だった、東大卒と京大卒が戦っていて、私は一応京大卒を応援していたが、東大卒のほうが賢かったしかっこよかった、京大卒はかませ犬感が強く、変人キャラを演じているのがミエミエだったので、だんだん応援するのもバカらしくなった、私は応援をやめ、ただ頭のなかでクイズに答えはじめた、そのとき部長から電話がかかってきた、「なんや?」と私は無愛想にいったが、電話口からはなんと女の声がした、それはかわゆくかわゆい女の声なのだった、「あ、フジノくん? イエー、覚えてる?」後ろで部長の笑い声とテレビの音がした、ふたりは酔っているようだった、おそらく部長が女を部屋に連れこんだのだろう、信じたくはないがそう考えるしかなかった、女は「フジノくんまだ童貞らしいけどさ、私が相手したげようか? 三万でいいよ」といった、入学式以来だったが声ですぐにわかった、それは福井のミズノさんだった、部長は後ろで楽しげに笑い続けていた、「いやいや、三万ってそれ」というと、「なに、高いって?」と怒るふりをしてきた、私は「いや、ぜんぜん」といった、ミズノさんは「じゃ決まりやん、三万で童貞奪ったげるから楽しみにしてて♡」といった、そして「もうこんなとこでいいかな」と小さくつぶやいた、電話を切られそうな気配を感じたので、私は慌てて「いつ!」と大きな声で叫んだ、「は?」とミズノさんはいった、「いつ、やらせてくれるん?」重苦しい沈黙がほとばしった、それはもうほとばしるとしかいいようのない感じだった、「なんなんこいつ」とミズノさんがいった、「え、まじで本気でキモいんやけど」といった、部長は笑っていた、ミズノさんは「え、冗談通じひんひと?」といった、私は黙っていた、ミズノさんはそのまま電話を切ってしまった、テレビでは京大卒が東大卒に負けていた、それから部長はミズノさんと付き合いはじめ、私やヤマジと接することがなくなっていった、ミズノさんはすでに有名なヤリマンだったようで、部長は裏で笑い者にされていた、「あんなのと付き合って、みるめないわあ」といわれていた、「さすがにおれでもミズノはない」といわれていた、「てかおれミズノとやったけど、確かにセックスは良かったけど付き合うのはないわ」といわれていた、「僕もミズノさんとやったんですけど、セックスはすごかったんですけど付き合うのはないですね」といわれていた、私は勃起した、ミズノさんは一体どんなセックスをするのだろう、部長はそのセックスをもう何度も経験しているはずだ、私とさして差がなかったはずの部長にいまはもう手が届かない、そもそも差がなかったと考えているのは私だけだったのかもしれない、ヤマジは部長とミズノさんが付き合っている事実を知っても微動だにせず、ひたすらマリオカートをプレイしていた、「ヤマジ、悔しくないん?」と聞いたがまったくの愚問だった、ヤマジは「ぜんぜん」といってマリオカートをやっていた、おれはヤマジのようにはなれない、部長のようにもなれない、みるべきところのひとつもない、ごみのような人間だ! 私はキャンパスを歩く部長とミズノさんをみかけると大量の汗をかくようになった、キャンパスを歩くヒロセさんとキシダをみると意識が遠のくようになった、もともとじぶんに自信のあるタイプではなかったが、さらに自信がなくなってひとと話すことがつらくなった、授業でじぶんの発表があると、みんながバカにしているのではないかと気が気ではなくなった、昔から人前は苦手だったがそのときは重症だった、汗がしたたってレジュメをぬらし、声がひどく震えた、そんな繰り返しに耐えかねて私はメンタルクリニックを受診したのだ、医者はすぐに抗不安剤を出してくれた、それは私の症状を劇的に改善したが、やがて耐性がついたのか効きにくくなり、そのうちにたんなるお守りのようなものになった、私はすぐにもメンタルクリニックに通った過去を消し去った、そんな場所に行く人間は負け犬だと考えた、精神の不調で病院に通う人間への偏見はまだまだ根強い、そんなことにまったく縁のない人間として生きるか、精神の不調を逆にアイデンティティとして生きるか、私にはその二極ばかりがみえた、どちらかを選択するしかないように思えた、そして私は就活を終える頃にはっきりと前者を選んだ、おれはあんな負け犬の巣窟の世話にはならない、あんな場所には絶対行かないぞ、おれは就活に勝利してエリートの仲間入りを果たしたのだ、おれはこの国の上位に食い込んだ、タフな身体と精神をもつ真のエリートなのだ! それから就職して一年も待たずに精神科送りになるのだから、その決意の程度は知れていたわけだ、あの大学時代からはじつに十年の月日が流れていた、メンタルクリニックの最寄り駅は原型をとどめないほどに改装されていたが、道のりの景色はさほど変わっていなかった、途中にラーメン屋があり、ブックオフがあり、コープがあり、自動車販売店がある、私は地図をみずにクリニックにたどり着くことができた、過去の来訪では景色などに目もくれなかったはずなのだが、私は景色を記憶していた、こんなものよりもっと覚えておくべきことがあっただろうに、私の脳の一部にはクリニックまでの景色がどっしりと居座っていたということになる、それはこういうことではないか、お前はまたここを訪れることになる、この景色の記憶がふたたび役立つ日がやってくる、私のむなしい決意とは別のところで、そのように脳が判断を下していたということではないか? そして残念ながらそれは正しかったのだ、クリニックの待合にはとても正気とは思えない男がいて、ずっと口を開けて天井をみていた、かと思えば何かを歌いはじめた、低くて小さな声で歌うので、私はじっと耳を澄まさなければならなかった、遠くで老人が怒鳴っていた、予約票をとるための機械の長蛇の列に並んでいたが、すでに予約票は発券済なのらしかった、「こんだけ長いこと並ばされて無駄やったってことかいな、ふざけんのも大概にせえよ! ろくに案内もせんと機械ばっかりつこてラクして、お前らなめてんのやろ? お前ら責任取っていますぐここやめろ、機械だけ置いて何もやらへんのやったら全員やめてまえ!」かなり遠くからの声なのだが、すぐ隣の男の歌声よりもよほど大きかった、男の歌は何なのだろう、老人の声を意識的にシャットアウトしてそれに集中すると、男はどうやら「はたらくくるま」といっているのだった、「いろんなくるまが、あるんだなあ、いろんなおしごと、あるんだなあ、はしる、はしる、はたらくくるま」といっているのだった、私が小さなころみていた「ひらけ!ポンキッキ」のなかで流れていた歌、それなしには眠れなかった歌だ、私はこの歌がきっかけでミニカーの収集をはじめた、ぐずぐず泣いていても「はたらくくるま」を聴けばすぐに機嫌を直す、母のいったとおり、そういう時期が確かにあったのだ、この男はなぜそれを知っているのか? 知っているとしか思えない、そうでなければ、私にとって特別な歌がこんなところで聴かれるはずはない、いったいこの男は何者なのか? やがて男が呼ばれてなかに入っていき、遠くの老人の吠え声だけがこだまし続けた、老人は「院長を呼べ!」と繰り返していた、「院長に直接いうたる、人間は直接いわれなわからんのや、直接いわれなひびかへんのや!」歌っていた男はたった十分ほどで――といっても私にはひどく長く感じられたのだが――診察室から出てきた、男の顔をみて私は驚いた、顔つきがすっかり変わっていて、口もしっかり閉じていた、男はもはや「はたらくくるま」を口ずさんでいた男ではなかった、よくみればシャープな口元からは、お洒落な洋楽でも飛び出しそうでさえあったのだ、一体なかでどんな魔法が使われたのだろう? 男はどこかの都市銀行ではたらいていても不思議ではないぐらいに持ち直していた、もしかしたら銀行マンなのかもしれない、銀行ではうつになる人間が多いらしい、私は個別指導塾で四年間アルバイトをしていたが、そこで一緒にはたらいていたトツカという先輩は地方銀行に就職したあとも講師らと連絡を取り続け、あるときスーパーなんとか定期口座を作ってくれないかと持ちかけてきた、それは私だけでなくほとんど全員にである、トツカは面倒見がよく講師陣にも慕われていたし、教室長の覚えもよかった、間違いなくエース級の講師だった、私は学歴こそ高かったが、コミュニケーション能力の不足によりいまいち評価されなかった、いやまったく評価されなかった、いま思えばその時点で私は深く反省し自己改造に乗り出すべきだったのだ、「トツカ先輩のお願いなんやから、断るわけにはいかんやろ」そういってみんなはスーパーなんとか定期を開設した、「なあ、フジノも作るやろ?」「さあ、フジノくんもほら」「フジノさんも定期とか作っといたほうがいいっすよ」周りの人間はふだんは話しかけてもこないくせに、トツカの手となり足となり私を勧誘した、私は「それって年会費いるんやんな」といった、「それはいる」とみんながいった、「ほしたらええわ」と私はいった、「フジノ、お前!」同い年のマカベが叫んだ、「お前、トツカさんに色々教えてもらってたよな、缶コーヒーとかもおごってもらったことあったよな、あんだけ世話になってて、トツカさん困ってはんのに、お前それでも人間か?」私はトツカに世話になった記憶などなかった、確かに報告書の書き方は教えてもらったが、それは誰でも受ける最初の全体研修の一環としてだった、缶コーヒーのときはトツカ以外に三人の講師がいるという状況だった、私だけ外すわけにいかないから仕方なく、というおごりだった、私はおごってくれなどと一切頼んでいない、じっさいに一度断ったのだが「まあまあ、ええから」というわけだった、あんなもので恩を着せられ、スーパーなんとか定期を開設して毎年金を払わされる? ごめんこうむる! それで私はスーパーなんとか定期を開設しなかった、トツカにも「すみませんがやめておきます」と連絡した、トツカから返事はなかった、そして二か月後にトツカは銀行を辞めた、私が協力しなかったことが遠因だと怒る者もいて、以降塾では社員の教室長と副教室長をのぞいて誰とも話さなかった、私は特にマカベが嫌いだった、マカベはマイルドヤンキーというのか、とにかくひととの絆を大切にする人間味あふれるやつだった、誰もが絆を結びあう世界を理想としていたが、そこから外れた者のことは顧みなかった、強すぎる仲間意識が私のほかにも何人かの仲間外れを作った、塾はほとんどマカベ帝国となり、マカベは私たち異民族の悪口をいい続けた、一部の生徒とほとんどの講師がそれに同調して悪口をいった、私はもともと彼らと接していなかったので被害が少なかったが、はじめは仲良くしていたのに排除された者が何人か疲弊して塾を去っていった、何が絆だ、これがお前の考える絆なのか? 私はアメリカ研修旅行を思い出した、「またきっと集まろう、私たちはアメリカ仲間だ、これは永遠の絆だ!」私の歴史は絆からの脱落の歴史なのかもしれない、確かにはみ出し者にも何らかの欠陥はあるだろう、しかし外部への攻撃性をはらんだ絆は必ずみずからを滅ぼす、マカベ流のやり方に無惨につぶされた者たちがきっとマカベを刺すだろう、マカベはそうした想像力を欠いている、想像力の欠如によってマカベはいつか致命傷を負うだろう……「次の方どうぞ」診察室に入るとそこには恰幅のよい医者がいて、「今日はどうなさいましたか」といった、「ええと、私、小説を書いておりまして、それで賞をいただきまして」というと、医者は「おお、すごいじゃないですか」といった、後ろにいた看護師はマスクをしていてあまり表情がわからなかったが、目を大きく見開いてこちらをみていた、「いや、ありがとうございます、それで、今度授賞式があるんですけど、なんというか、挨拶をしなくちゃいけなくて、それがつらいんですね、昔から、みんなの前で発表するとか、そういうことが苦手で、学校でスピーチとかあると、前日ねむれないぐらいだったんで、あと、選考委員との対談とかもあって、そんなの、たぶん緊張して話にならないだろうなと思うので、なんというか、どうしようかと思ってきました」すると医者は、「それはきみはなんで苦手だと思うのかな? 何かきっかけがあったのかな、失敗して大恥をかいたとか、そういう経験があってそう思っているのかな?」といった、私は、こいつ弱みをみせたら急にタメ口になりやがった、と思った、私は弱みをみせると急にタメ口になるやつが嫌いだった、だから極力弱みをみせないように気をつけてきた、弱みを積極的にみせていくタイプのひともいるが、そしてそれゆえに愛されているひとも散見されるが、私は絶対にいやだった、「ええと、経験、というと、具体的にはあんまり……」といったところで、急に中学校のときの記憶がよみがえった、私は成績が良かったので大体学級委員をしていた、いまでは学級委員のようなものは死んでもやりたくないが、当時はなんとも思っていなかった、私は田舎の中学校で無敵の成績を誇っていて、先生もふくめ中学校の全員がじぶんよりバカだと思っていた、だから学級委員をやるのも当然だと思っていたし、いやでもなかったのだ、あるとき学級委員として合唱コンクールの曲紹介を任され、私は保護者をふくむ大観衆の前に立ち「カリブ夢の旅」という曲についての説明をした、その第一声は「みなさんは、カリブの海を知っていますか?」だった、これは私が考えた言葉だ、一応音楽の先生にも全文をみせてオーケーをもらった紹介文、その冒頭だった、私はステージの前に出て一礼し、「みなさんは、カリブの海を知っていますか?」と切り出した、少し芝居がかってしまったな、と思った、そのとき、保護者らしき人たちが少し笑った、それは嘲笑の感じだった、嘲笑は輝きをもって私を圧した、私は沈黙した、そして「カリブの海を知っていますか」というのは、どういうことなのだろうと考えた、カリブの海を知っているとはどういう状態を指すのだろう、カリブ海の存在を知っているだけでよいのだろうか、それがどのような特徴を持つ海かというところまで知っている必要があるだろうか、あるいは、実際にみたことがある、ということを指すだろうか、しかし、みたことがあるだけでよく知らない、という場合もあるではないか? 私は混乱していた、最悪の紹介文を書いたと思った、そしてこの最悪の紹介文をみて「ほーん、ええんちゃう」といった音楽の先生を憎悪した、貴様、仮にも教師であるならば、この紹介文の難点ぐらい指摘できただろう! 私はかなり長く沈黙を続けたように思う、そのあと、気付けば合唱がはじまっていた、結果は九クラス中八位で、女子のなかには泣いている子もいた、「一生懸命練習したのに!」「がんばったのに、ひどい!」私は、いくら練習しようが負けるときは負けると思っていたし、泣いている女子を積極的に励ます気にはなれなかった、そもそも「カリブ夢の旅」は私の中学校の合唱コンクールにおいてあまり良い順位をとったことがない曲だった、上位に入る可能性の高いのは、「あの素晴らしい愛をもう一度」「時の旅人」「Let’s search for Tomorrow」「翼をください」あたりで、「カリブ夢の旅」はいまだかつて三位以内に入ったことがない、これは楽曲の性質によるものなのか、教師陣の好みの偏りによるものなのかわからないが、とにかく私はこの結果を予期してはいた、だからこの順位にショックを受けるということもなかった、しかし、ひとりの女子が「フジノくんが曲紹介ミスったからや」といって私を責めはじめた、「フジノくんが紹介ミスったせいで、変な空気になったんやん!」私は、どのぐらい変な空気だったのか記憶がなかったが、ミスったのは間違いないだろうと思いあやまっておいた、ほかのクラスメイトの何人かは、「フジノもがんばってくれたやん、文句あるんやったらお前がやったらよかったやんけ、できひんくせに!」などと擁護してくれた、「それは、そうやけど……」というわけで大きな騒ぎにもならず場はおさまった、それは私にとってさほど苦い経験というわけでもないはずだった、現にいまのいままで忘れていた、しかしいま、失敗体験といわれて記憶をたどれば、まっさきに思い浮かぶのがこのエピソードだった、私はこれを話した、「まあ、大したことはないと思うんですが、そういうことがありました」というと、医者は「きみは大したことがないというけれども、失敗といわれてその記憶がスッと出てきたんだよね?」といった、お前タメ口やめろ、と私は思った、タメ口やめろ、といおうとも思った、しかしいえなかった、私は飲食店で箸を落としたときも、なかなかお箸くださいといえない人間なのだ、それがタメ口やめろだなんていえるはずもなかった、「まあ、そうですね、この話が出てきました」というと、医者は間髪入れず「その次は?」ときいてきた、「次、といわれましても」といって考えていると、その次は高校時代の英語のスピーチだった、オーラルコミュニケーションの授業で、英語で三分間のスピーチをやった、何を話したかは覚えていないが、スピーチ自体は丸暗記して行ったので問題なかったはずだ、だがウッドハムというイギリス出身の先生が、スピーチ終わりに一言何かいってきた、私はそれを聞き取れず、あいまいに笑っておいた、するとウッドハムは、「きみはなぜ笑っているの?」と英語で聞いてきた、私はそれは聞き取れた、私は追い込まれてかなりの汗をかいた、そして「あなたが面白いからだ」といおうとして、「ビコーズ・ユー・アー・ファニー」といった、するとウッドハムは顔をこわばらせて何も話さなくなった、私は失言をおかしたのだろうと思った、ファニー、という言葉がバカにしたように響いたのかもしれない、そもそもその前の言葉の内容がわかっていないのだから、素直にもう一度お願いしますといえばよかったのかもしれない、しかし全部あとの祭りだ! 私はそのまま礼をして席に戻った、私の次のキムラはボストンに長く住んでいたので、すごいレベルのスピーチを繰り出し、教室も盛り上がった、キムラは私をチラチラとみていた気がする、どうだ、これが英語というものだ、わかったか? そのあいだ、私はじっと恥辱に耐えていた、キムラの野郎、英語しかできないくせに……私はこの憎悪をしばらくのあいだ持ち続けた、キムラが一浪で京大に落ちて泣いていたとき、私はとてもうれしかった、この英語バカが、出直してこい! キムラは二百点満点のセンター国語でつねに百点を切っていたので、私たちのあいだでセンター国語の百点を「キムライン」と呼んでいた、「お前、国語何点やった?」「いや、ミスったけどキムラインは超えたわ」という風に使っていた、そういうときキムラは笑っていたが、いま思えばキムラもつらかっただろう、アメリカ暮らしが長かったことは間違いなく国語力に影響していた、きっとキムラもそれをわかって苦しんでいたはずだ、裏では国語を必死でやっていただろう、みんなはキムラに「英語ノー勉でいけるしずるいわ」といっていたが、その代償には目を向けなかった、私も向けなかった、この英語バカが、と思っていた、しかし、どうにもならない壁を前にしてキムラももがいていたに違いないのだ、キムラは同志社を出て、いまは大手企業で貿易の担当をしているらしい、同僚たちとの楽しそうな写真がよくSNSにアップされている、もう大学受験のことなんて忘れているだろうか、忘れていてほしい、あんなくだらない時代のことなんて……私はスピーチのところだけかいつまんで話した、「なるほど」と医者はいった、「そういう経験が潜在意識のなかにあってあなたの考え方の傾向を定めている、という可能性が高いんだよね、まあ薬を飲むというのもいいんだけど、僕はあんまりおすすめしない、根本的な解決にならないからね」「こういうのは慣れで治るんでしょうか」と私は聞いた、「場数を踏めば治るんでしょうか」「それが治らないんだよね」と医者はいった、「これは意識の方向付けの問題だからね、同じ意識のまま何度やっても大抵はその都度つらいというだけなんだよね、あなたはその場所から逃げ出したことはある? スピーチをやりたくなくて学校を休んだとか、発表とかプレゼンがいやで職場を休んだとか」「それはありません」と私はいった、それはほんとうになかった、だがそれは勇敢さとは逆の理由だ、逃げた先にもっと悪い未来がある、私はその未来から逃げているにすぎない、「もしあなたがよければ、ということなんだけど、認知行動療法というのがあってね、半年くらいかけて週一で通院してもらってじっくり治す、という方法があるんだけど、どうかな? 平日しかできないんだけど、私たちが聴衆として座っているなかで、フジノさんにお話をしてもらう、スピーチみたいなことをしてもらう、それを撮影したものを一緒にみながら、フジノさんの意識を少しずつ変えていく、そんな流れなんだけども、どうかな?」私はめんどくさくなっていた、もうええから薬くれ、と思った、こいつ、通院させて金づるにしようとしてるんちゃうか、と思った、大体平日に時間が取れるはずもない、毎週なんか通えるはずもない、私は「そうしたいのは山々なんですが、時間がなくて」といった、医者は「しかしねフジノさん、薬では解決にならないよ、今回だけなら薬で何とかなるかもしれない、でもね、そのままごまかしごまかしで行くのも私はつらいと思う、まだ若いし先も長いでしょう、あなたは今日ここに来た、ということはあなたは困ってるわけだ、とても困っているから来たわけでしょう、私はこれも縁だと思う、私に治せるものは治してあげたい、私と縁のあったみんなに楽しく人生を送ってほしいんだよ」医者は真剣な表情で語った、うーん、ちょっとやってみてもいいかな、と少し思ったが、やはり腰が引けた、平日に時間をとるのは難しいし、撮影した映像を一緒にみるのも恐怖だった、私は「それってじぶんでもある程度できることなんでしょうか、撮影して、じぶんでみて、というのは?」ときいた、すると医者は「ある程度はできます」といった、「スマホでもなんでもいいから撮って、話しているじぶんをみてみる、ということを繰り返す、それだけでも一定効果はありますよ、私は、フジノさんならじぶんでもちゃんとできると思う、ぜひやってみてください、まあ気負わずにゆっくりね」それで私は薬をもらわず、少し良い気分になって診察室を出た、私はこの担当医を信じようという気になっていた、じぶんでやってみよう、その認知行動療法というのをじぶんでやってみて、慣れてきたらあの担当医にもう一度頼んで、なんとか時間を作って、本格的な治療に取りかかってみてもいいかもしれない、あの担当医ならほんとうに患者のことを考えてくれるかもしれない、私は明るい気持ちで帰り道を歩いた、往路とはまるで違う道を歩いているようだった、自動車販売店の新車群もコープの人びとも、ブックオフの本たちもラーメン屋から立ち上りはじめた煙も、私に祝福の拍手を送りながらこういっていた、あなたは大丈夫だ、これからどんどんよくなっていく、あなたの人生はこれから上昇の一途ですよ! 私は上機嫌で駅につき、電車が来るまでのあいだ領収書を眺めた、診察と薬を合わせて4320円、安くはないがじゅうぶんにその価値はあった、そして明細書の診療内容に目をすべらせたとき、私は愕然とした、そこには「通院精神療法(30分以上)」とあった、その横に400点、と点数が書いてあった、1点は10円だから保険適用前ならあれが4000円なのだ、他に「認知機能検査心理/160点」などもあったが、「通院精神療法(30分以上)」が一番高い値段だった、なんやねん、それで三十分ダラダラしゃべっとっただけかい! 実際にはそうでなかったかもしれない、しかし私はその(30分以上)にショックを受けて何もかもやる気を失った、もうビデオなんてとらないぞ、おれはこのままいくのだ、貴様らの助けなど金輪際借りんぞ! しかしそうなってくると授賞式のスピーチが大変なのだった、私は一度友だちの披露宴でスピーチを頼まれたことがある、そのとき私は「もちろんやるよ、お前のためだからなあ!」などと調子のいいことをいって、それで文章も完璧に考えて百回以上練習した、じぶんの部屋でやるのはまずかった、なぜなら私の当時の隣人はかなり音にうるさい人間だとわかっていたからだ、そいつはたぶんギタリストだった、ギタリストは部屋でよくギターを弾いていた、うっとうしく感じられることもあったが、私は基本的に音楽を歓迎した、小学校の高学年ぐらいのころ、私は近所の子供の弾いているピアノの音を聴くのが好きだった、昼間からじぶんの部屋で時間を忘れてマンガを読んでいると、いつのまにか空がオレンジ色に染まっている、やがてピアノの練習曲が流れはじめる、そういう瞬間がたまらなく好きだった、だからギターもいやではなかったのだ、だがある日、私はギタリストが私とは逆の隣人にむけて怒鳴っているところをみた、ギタリストは長い金髪をなびかせ、拳でドアを叩きつけながらこういっているのだった、「テメェいい加減にしろ、うるせえんだよ、テレビのボリューム下げろ!」私はみないふりをして部屋に入った、私にはそのテレビのボリュームがいかほどだったのかはわからない、しかしあのギタリストの奏でる音だってかなりのボリュームなのだ、私は平気だが我慢できない人間のほうが多いだろうほどのボリューム、それを棚に上げて、よくもあれだけいえたものだ! 私は幻滅して、外の廊下に響き渡る怒号をしばらく聞いていた、ギタリストの声だけがして、反抗の声は聞こえなかった、ふと私は、もしかするとそのテレビマンは、ギタリストのたてる騒音への反抗としてテレビを武器としているのかもしれないと思った、私たち楽器を持たない者がギタリストに対抗する手段として、それは考えられないことではない、そうするとあれはテレビとギターによる戦いなのだ、ギタリストもまた、はじめからではないにしろ、ある時点からは隣人の爆音テレビへの攻撃手段としてギターを弾いていたのかもしれない、私はもしあのギタリストがそんなつまらない人間なのだとしたら、これまでに良い気分で聴いていたすべての曲がさかのぼって価値を失う、と感じた、そしてそのギターとともにあった私の時間もすべて墜落するのだ……その夜ギタリストが弾いたのはディープパープルのBURNだった、BURNだけを延々と弾き続けていた、ババラババーン、ババババーンバン、ババラババーン、ババラバーン、私はBURNにつつまれて眠った、不思議なことだが、アップテンポのBURNであっても繰り返されれば子守唄のように聴こえてくる、私はすぐ隣で起きている戦争に関係なく眠ったのだ、そういうわけで、その戦争から距離をとっておくためには、披露宴のスピーチをじぶんの部屋で、じっさいに出すはずの声のボリュームで練習するのはまずかった、それは三つ巴の泥沼戦争のきっかけに十分だろう、私が選んだのはカラオケルームだった、そのマンションから自転車で十五分ほどいったところにカラオケ店「アフリカ大陸」がある、アフリカ大陸で私は何度も何度もスピーチの練習を重ねた、しかしカラオケルームで歌わないというのもなんなので、喉を調子づける意味もこめて、最初に少しばかり歌うことが多かった、声の調子によって歌う歌は変えた、もっとも調子の良いときに歌うのはXJAPANである、特にXJAPANのラスティーネイルを歌う、ラスティーネイルを原曲キーで歌えたとき、私の喉は最高の状態にある、私がラスティーネイルを歌えるコンディションでいられる日はおそらく年に十日もないであろう、これははっきり覚えているのだが、スピーチの練習時にその十日のうちの一日がやってきた、私はそのとき観衆がいないことをどんなに悔やんだかしれない、このラスティーネイルを女の子が聴いていたら! 逆に調子が悪いときに私が歌うのはバンプオブチキンのアルエである、これはなにもどちらの曲が優れているとかいう話ではない、高い声が出るときと出ないときのちがい、というだけのことである、バンプオブチキンの声がXJAPANの声より低いことはなんの序列も意味しない、私は一度夏フェスでバンプオブチキンをみたことがあるが、彼らが演奏をはじめると場の空気が一気に変わった、まるで何かの宗教の集会のようだった、ミサじゃないですよね? ミサじゃないですよね? と聞いてまわりたいくらいだった、私はそれでバンプオブチキンはやばいと思った、それ以来、私は喉の調子が悪いときに歌う歌を福山雅治のハローからバンプオブチキンのアルエに変えたのだ、アルエ、これはつまりR・A、レイ・アヤナミ、すなわち新世紀エヴァンゲリオンの綾波レイを歌った歌なのだが、私は高校時代、友だちの家で模試の打ち上げとして開かれたエヴァンゲリオンの上映会に参加したことがある、それは日曜日だった、私たちは休憩をはさみながらではあるが、一日で一気にエヴァンゲリオンのアニメ二十六話分と旧劇場版の映画をみた、しかし正確には、私はそれをみたとはいえない、主催者のオギワラやアニメ好きの者らは熱い議論を戦わせていたが、私にはさっぱり理解できず、やがてエヴァンゲリオンを背に大富豪をするグループに入ったからである、私たちはエヴァンゲリオン組と大富豪組に二分され、ときおり受験の話で結びつく、という奇妙な場を形成した、私たち大富豪組にはひとり、異様に強いシバサキという男がいて、そいつがほとんどのゲームを勝った、私たちはゲーム開始時に大富豪が大貧民から二枚強いカードをもらい、富豪が貧民から一枚強いカードをもらう、という一般的なルールで戦っていたが、シバサキがあまりにも勝つのでヨシカワという男が怒った、シバサキが勝つから、というよりじぶんが大貧民続きで怒ったというほうが正しそうだった、そのうちにヨシカワが無口になってきたので、私たちは気をつかってヨシカワが勝てるようにしてやろうと暗黙の手加減を行った、それは巧みなアイコンタクトによってヨシカワ以外のみなに共有された、しかしシバサキはそのアイコンタクトに気付いていながら、そんな八百長には乗れない、とばかりに勝ち続けた、そこで私たちは、シバサキだけは大富豪や富豪になっても強いカードをもらえない、という新ルールを提案した、シバサキは快諾して大富豪としての特権をいさぎよく捨てた、しかし、その後十ゲームほどやってもシバサキは大富豪であり続けた、「シバサキ、強すぎるわ、おかしいわ!」私たちは音をあげた、そのころエヴァンゲリオンはすでに第拾六話に突入していた、主催者のオギワラは「ここや!」と叫んだ、「こっからが庵野秀明の真骨頂や、このあとエヴァはふつうのアニメじゃなくなる!」オギワラは熱く語り出していた、「庵野とガイナックスはエヴァで八十年代アニメを終わらせたんや、八十年代アニメの最良の要素をギチギチに詰めこんで、その完成形をキッチリ示したうえで、みずからを完全に破壊したんや!」私たちのほうでは、シバサキが大富豪であろうがなんであろうが、シバサキが強いカードを二枚、シバサキを除いてもっとも地位の高い人間――つまりそれは富豪か大富豪なのだが――に与えるというさらなる新ルールが追加された、シバサキはそれでも六連勝した、私たちは疲弊していた、このような化け物がいるのか、大富豪という多分に運のからむゲームで、手札の強さにかかわらず連戦連勝を続けるような人間が? 私はなにか神秘的なものにふれたような気分だった、私はあくまでもこのような運のからむゲームでは、心理戦の得手不得手はあろうが、確率的にある程度勝敗が分散すると考えていた、しかしそれはくつがえった、世界には勝者と敗者が必ず存在する、そしてそれは動かすことができない、生まれながらにして決着はついているのだ、そういう悲観的な考えが生まれた、だが七戦目にしてやっとシバサキが崩れ、ついに貧民となった、それはシバサキのはじめての貧民だった、そして二度と大富豪に返り咲くことがなかった、それからはなぜか負け続けていたヨシカワの時代だった、ほとんど口をきかなくなっていたヨシカワは、大富豪となるとともに息を吹き返した、もちろん、私たちがヨシカワを大富豪にするための流れをつくったおかげである、それは私たちの思いが結実したようなゲームだった、ただひとり流れに逆らっていた百戦錬磨のシバサキにも止められない、ヨシカワのためのゲームだった、それからヨシカワが三連続で大富豪になり、私たちは手加減をやめた、もういいだろう、ヨシカワも満足しただろう、しかし、今度は私たちがどれだけ本気を出しても、ヨシカワの牙城をまったく崩せないのだった、まるでオギワラの弁舌が熱を帯びてゆくのに比例するかのようにヨシカワは勢いづいていった、オギワラは二浪で京都府立医大に、ヨシカワは一浪で京大工学部に入った、私はヨシカワと大学でたまにランチをともにした、ヨシカワは私からみればかなり頭の切れる印象だったが、何か大事なところで足を踏み外す悪癖があった、三留した後にどこかの大学院へ進んだところまでは連絡がとれていたのだが、修士課程が終わるころ突如として音信不通になった、私は困りはてた、それはヨシカワとの関係を継続したかったからではない、そのとき金を三万円貸していたからである、私はヨシカワとそれほど仲がよかったわけではないが、三万円を貸す程度にはヨシカワのことを信頼していたということになる、「今月はアルバイトに入らずに勉強に集中したい」といったヨシカワを私は疑わなかった、三留したヨシカワには後がないのだろうと思った、私はすでに損害保険会社をやめて市役所に就職していたが、給料が良くなかったので三万円を出すのは一苦労だった、それでも出してやろうと思える程度にはヨシカワと親密だったわけである、しかし私は裏切られた、裏切られてはじめて、私はヨシカワを信頼していたのだと気がついた、私はじぶんの目が節穴だったのだと認めよう、あの大富豪の日、私は不機嫌なヨシカワから未来の危険を感じとるべきだったのだ……そうして私は百回以上にわたる特訓を終え、披露宴のスピーチ本番を迎えた、恐らくほうほうの体だったはずだが、細かな記憶はその後の大酒で飛んでしまった、したがってそれが成功体験なのか失敗体験なのかもわからない、つまりカラオケルームの特訓がどれだけ活きたのかもわからないのだ、いまやギタリストもテレビマンも去った、私は選考委員との対談対策を自室で行うことにした、失礼のないよう選考委員の作品はすべて読み、対談や批評についてもいくらか取り寄せて読んだ、選考委員の考えていることはそれでなんとなくつかめた、私はインターネットの海から拾い上げた選考委員の顔を拡大してカラー印刷し、大学時代に魔が差して買ってしまった、「ゼロの使い魔」というアニメに出てくる少女ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの抱き枕の顔に貼りつけ、それを相手どって対談のシミュレーションを繰り返した、少女の身体をもつ海千山千の選考委員に、私は幾度となく痛めつけられた、「ふん、あなたラカンも読まずによく恥ずかしげもなく生きていられるわね! 少なくとも三界ぐらいは理解してから来てくれない?」「つまり作家と読者は異化と自動化のシーソーの上で――ハァ? ロシア・フォルマリズムも知らないわけ? 理論を学ばない作家なんて虫ケラ以下だわ!」五十がらみの顔をもつ選考委員は少女の声と身体で私を思うさま罵倒してくる、そして私はうまく返せず対談をおじゃんにしてしまうのだった、それは何度やっても同じだった、だめだ、だめだ、私には対談を成立させるだけの能力がないのだ……結局一度も対談を完遂できないまま当日を迎えた、起きるとすでに午後一時だった、集合は六時、場所は家から四時間以上かかる東京の料亭である、カーテンを開けると外はひどい嵐だった、私は身だしなみもじゅうぶんに整えられず、濡れねずみのようになって料亭へ行くじぶんを想像するとすっかり参ってしまった、どうしてしっかり目覚ましをセットしなかったのだろう、どうして今日が晴れるなどと思い込んでいたのだろう、いつもなら放っておいても九時には目覚めているはずなのに、今日に限ってどういうわけなのだろう! 私は出鼻をくじかれ精神の平衡を失った、このまま行けば失敗は目にみえていた、私はそれで、会社員時代にもらって飲まなかった抗不安剤を飲むことに決めた、対談の一時間前に一錠、三十分前に一錠、そして五分前にも一錠追加でキメた、するとなんということだろう、選考委員と対峙しても何も恐くないではないか! 酒も入った私は鼻歌さえ歌いだしかねない気分であった、じっさいに歌ってもいたらしい、「おや、それはなんの歌だったかな」と選考委員がいったので、私はじぶんが鼻歌を歌っていることに気付いた、そしてさかのぼるようにじぶんの鼻歌を思い返して「TMNETWORKです」といった、「いや、それはわかるんだよ、TMNETWORKのなんだったかな、TMNETWORKは好きなんだが、君のその歌がなんだったのか思い出せなくてね、しかしきみのような若い人間がTMNETWORKを知っているとは驚きだよ、私たちの世代なら知らない人間はいないがね、ha、ha、ha!」私は少しムッとしていった、「私たちの世代でもTMNETWORKは大抵知っていますよ、ゲットワイルドがありますからね、ゲットワイルドを知らない人間はまずいませんよ、私たちの世代でもそれは常識です、シティハンター好きだって結構いますよ、大学に入ったときはじめにクラス名簿を作ったのですが、三十三人のうち二人が尊敬する人物を冴羽遼と書いていました、そのぐらいシティハンターは全時代的に支持されているんです、別に時代時代で流行ったものを、その時代人だけが享受できるというわけじゃないでしょう、ちゃんと後世まで残りみながアクセスできる、それが文化というものでしょう、私たちはゲットワイルドを知っていますよ!」選考委員は、ええー……という顔をしていた、なんなんこいつマジで……という顔をしていた、それぐらいは酔っていてもわかった、「いやしかしねきみ、ゲットワイルドが有名なのはわかるよ、でもきみが歌っていたのはゲットワイルドじゃなかったからね、それはなんという歌だったかなと思っただけでね」私は怒り心頭だった、私はまぎれもなくゲットワイルドを歌っていたからだ、「私が歌っていたのはゲットワイルドですよ、何をいってるんですか!」選考委員はあきらかにいらつきはじめた、「いいや、きみのはゲットワイルドじゃなかった、絶対にもっとマイナーな曲だった、きみこそ何をいっているんだ、少しおかしいのじゃないかきみは、なあ、さっきのはぜんぜんゲットワイルドじゃなかっただろう?」選考委員は私たちの受賞対談を録音している文芸誌の編集者に聞いた、「さっきのがゲットワイルドだといえるなら、世に存在するすべての歌がゲットワイルドだということになる!」編集者は滝のような汗をかいていた、そしてぷるぷる震えながら「すみません、歌を聞いていませんでした」といった、「しかし、ここに録音が」といいかけたところで、なんということだろう、選考委員がビール瓶を握りしめ、編集者をものすごい勢いで殴りつけた、ビール瓶はまるで飴でつくられた偽物のように割れ、編集者は頭からどくどくと血を流して倒れた、もうひとりいた編集者がすばやく救急車を呼んで血まみれの編集者を運びだしながら、選考委員に向けて「あなたは立派な作家です、しかし人間としては最低です」といった、彼女はメガネをかけ、長い黒髪をきれいにとかしていた、ツンと鼻がとがっていて、唇はひかえめでうすく、メガネの奥に鋭く光る瞳が美しかった、私は彼女をもっとみていたかったが、彼女は血だるまを引きずって退室した、部屋には私と選考委員だけが残された、私は選考委員のことを異常者であると認識していたが、酔いも手伝ってその場を逃げだしたいとは思わなかった、むしろ、この怪物を相手にとことんやってやるぞ、おれが歌っていたのはゲットワイルドなのだから、などと気炎をあげていた、選考委員はグラスに残っていたビールを少し飲んで「きみの小説では」と語りはじめた、「文学賞をとった青年を描く文学賞をとれない青年を描く文学賞をとれない青年が主人公となっているわけだが、この入れ子構造というのは少し古いよね、この構造はあまり気持ちのいいものではなかった、またか、という感じだった、きみはこの古さに自覚的だったのか、無自覚だったのか、そのあたりから聞きたいね」私はじつはそれを新しいと思って意気揚々とやったのだがなかば意地になって「もちろん自覚的でしたよ」といった、「もはやあらゆる構造はすでに存在しているのです、構造の古い新しいは問題ではない、構造の繰り返しそれ自体はなんでもない、むしろその問題意識こそが古い、といわねばなりません」私はでたらめをいった、そしてこうもいってやった、「あなたは私の小説をもっとも強く推してくれたと聞きました、難色をしめす選考委員に対しても、あなたが粘り強く説得してくれたと聞きました、それなのに急にこうして欠点を指摘されるというのは、私の印象が悪かったからですか、あなたはそれで小説の評価を変えてしまったのですか、ゲットワイルドぐらいのことで!」選考委員は「そうではない!」と叫んで、空っぽのグラスを私に向かって投げた、私は酔っているにしてはうまく避けた、グラスは私の後ろの壁に当たって割れずに転がった、「きみの歌ったのはゲットワイルドではない!」私は堂々めぐりに嫌気がさした、私は間違いなくゲットワイルドを歌っていたのだからそれでこの話は終わっている、しかしそういっても通じる状態ではなかった、選考委員は酔いのためか怒りのためか全身を真っ赤に燃え上がらせていた、店員はまだ誰も部屋にやってこない、私はこれ以上戦うことは無意味だと考え、さっと立ち上がって流れるように部屋を出た、それは酔拳をあやつるジャッキー・チェンのような動きだった、このときの動きこそが私の人生のなかのベストオブ動きだろう、「待て!」選考委員が叫ぶのが聞こえたが、それに続いてドタタ、とこける音がした、泥酔で足がもつれたのだろう、まったく、私のベストオブ動きに比べてお前はなんだ、てんで話にならんな! 私はひそかな優越感でみたされた、ひょひょいと店を出てから私は大学院生がやっている隠れ家的なバーに寄った、そのバーははじめてだったが、私はじつはそこへ歩いていくシミュレーションを何度も繰り返し行っていたので、ほぼ常連のようなたどりつき方をした、私はそれでほんとうに常連のような気分になった、なぜこのバーを訪れたか? それはツイッターにアップされていたオーナーの女性がかわいかったからである、オーナーは金髪のボブで、いつも子供っぽい無邪気な笑顔をみせていた、それでいて隠せないオトナの色気がムンムンなのだ、店がひまな時には動画でトークショーなどもしていて、私はそれを夢中になって聞いたものだ、そのなかで、オーナーはかつて大阪の飛田新地ではたらいていた、という情報が手に入った、私はその日から三日ほど下半身を制御することができなかった、オーナーで猿のようにしこった、もっと早く知っていれば飛田新地へひとっ飛びしていたというのに、オーナーはすでに引退していた、飛田で貯めたお金で店を始めたのだ、私は悔しくてならなかったが、絶対にオーナーに会うぞ、という思いを長く持ち続けた、それでバーまで迷わずに来られたのだ、しかしそのバーは築何年だかわからぬ古びた木造ビルの五階にあった、エレベーターはがたがたと不安をあおる音を立てた、もしいまエレベーターが落下したらどうなるだろう、私は死ぬに違いない、飛田あがりの色っぽい美女に虫のように吸い寄せられて死ぬ、これほどまでに情けない死があるだろうか? いやない、飛田あがりの色っぽい美女に虫のように吸い寄せられて死ぬ死よりもひどい死なんて! しかしエレベーターは落ちずに五階でチーンと鳴った、あの夢にまでみたバーが目の前にあったが、重厚な扉が私を拒絶しているように感じた、なかからは笑い声がとぎれとぎれに聞こえる、そこに女性のものも含まれている、これはオーナーの声だろうか? もしこの楽しそうな声がオーナーの声だったとしたら、見知らぬ私が入ることでいまできあがっている和やかな雰囲気が壊れてしまったとしたら! 私はツイッターをみた、オーナーはツイッターにバーの様子を載せることが多いのだ、しかし今日のツイッターは開店時間を知らせるつぶやきで止まっていた、そこから何度も何度もスワイプしたが、開店時間を知らせるつぶやきがつねに最新の座をしめた、私はスワイプした、スワイプして、スワイプした、そうして扉の前で十五分も立ち止まっていた、私はふと、帰ろ、と思った、もはやスワイプにいかなる可能性も感じなくなっていたし、なかから聞こえる楽しげな声がとぎれることもなかったからだ、もし強引に店に入ったとして、私の顔をみたオーナーの表情が一瞬でもくもるのをみてしまったら、私は生涯その顔を思い出して悶絶するだろう、残念なことだが私にこの扉を開ける資格はない、やつらには一分の隙もない、だが、やつらは楽しい時間に水を差さなかった私に最大級の謝意を示すべきなのじゃないか? そう思いながら、私はふたたびエレベーターに乗り込んだ、そして一階のボタンを押すと、エレベーターはがたがたと音を立てはじめた、しまった! 私はいまさっき死をさえ連想させたエレベーターの老朽化をすっかり忘れてしまっていたのである、私は帰りには階段を使うと決めていた、それなのにこの始末、きっと私は頭が悪いのだ……だが、このがたがたは一度目ほどの恐怖を呼び起こさなかった、人間は危険にさえ慣れてしまう、がたがたいうエレベーターのなかで、私は飛田あがりのオーナーの美しい裸体を想像した、あのきらびやかな笑い声がじぶんに向けられることを想像した、じぶんだけがあの声と天真爛漫な笑顔を独占し、やさしく手を握りあうことのできる王であることを想像した、私はじぶんが王でない現実をうまく受け止められなかった、なぜ私はオーナーのとなりにいないのだろう? なぜ私はオーナーと酒を酌み交わすことができなかったのだろう? なぜ私は飛田新地にいるオーナーとセックスすることができなかったのだろう? なぜ私はオーナーをツイッターでストーキングすることしかできないのだろう? やはりもう一度引き返すべきなのではないか、憧れの女性に会えるチャンスを逃す手はない、私が入ったことで空気が壊れたとしても知ったことか! 私はふたたびツイッターを開きオーナーをのぞきみた、オーナーは新たなツイートを投稿していた、そこにはオーナーとふたりの男が顔を寄せ合った写真付きで「3Pちう笑」私は思わずスマホをエレベーターの床に叩きつけるところだった、痛切な敗北感を抱えて私は街を歩きはじめた、「おにいさん、ガールズバーいかがですか? すぐそこでーす♪」ミニスカートをはいた扇情的な女子がふたりで私に声をかけてきた、いや、私にというのではない、その場にいた男の総体に声をかけていた、それは不思議な感じだった、ふたりは私ひとりに声をかけているようでいて、それがすべての男にとってそう思えるであろうような、一対一の状態を全員に同時に作り出す魔術的なちからを持っていた、ふたりはかなりかわいかった、中間管理職然とした五十代前半と思しき四人組は、ふたりをちらちらみながら、「タマランチ会長、タマランチ会長」としきりにつぶやいていた、私はそのふたりをオーナーと比べてみた、ふたりはオーナーよりもさらに若そうだった、髪は黒と茶で、黒は眼鏡をかけていて、茶はカラーコンタクトを入れていた、「このふたりを組み合わせることですべての男の好みを包括できます」私にはそうプレゼンするガールズバー経営者の姿が目に浮かぶようだった、「こうした逆タイプのペアを無数につくり、駅前でビラを配ります、できるだけ短いスカートが望ましいでしょう、いいですかみなさん、想像してみてください、仕事で傷ついた夜、家に帰っても子供にはソッポを向かれ、妻にはガミガミいわれるだけ、どこかに寄って帰りたい、そういった夜に彼女らが声をかけてきたとすればどうでしょう、断ることができますか? そう、そんなことは不可能です、もはや行為を選択する余地もない、男たちはまるでそうプログラムされたあわれなルンバのように彼女たちの後をついていく、そして酒を彼女らにおごり続け、みずからはしたたかに酔いつぶれる、延長につぐ延長、私たちには金が入る、それこそ莫大な金が入ります、しかし決して彼らをだましているのではありません、むしろ救済しているのだといえるでしょう、人を救ってお金をもらう、このWINWINのモデルこそ、私たち人類が理想とするビジネスモデルなのです」そして現れる出資者たち、出資者たちはきっとガールズバーに積極的に顔を出すだろう、「私は出資者なのだがね、きみはよくがんばっているようだね、私は出資者なのだが!」強制される同伴、店外デート、そしてラブホテル……これは事件だ、ほとんど強姦に近い、凶悪犯罪なのではないか? 私たちはそうした出資者どもをあぶりださなければならない、金で尊厳を根こそぎ奪ってゆく者どもを糾弾しなければならない! すると黒髪メガネの女が私をみつめながらビラを渡してきた、「お兄さんどうですか、私がお相手しまぁす♡」私はおどろいて目をそらした、その先には黒髪メガネの太ももがあった、白くてやわらかそうな黒髪メガネの太ももがあった、私はあわててもう一度視線を上げ、黒髪メガネの瞳に吸い寄せられないよう眉毛をみるようにした、これはコミュニケーションを取り扱った新書に書いてあった技だ、相手に飲み込まれないために目をみない、しかし相手には目をみているように思わせる、そのために眉毛をみるのだ、しかし私は眉毛をみているのがばれないかどうか、眉毛をみてくる変な人だと思われないかが気になって、つい普通に目をみてしまうのだった、私は酔いがすっかりさめているのを感じた、「お兄さん、どうですかー?」軽く首をかしげてくる黒髪メガネ、このままでは欺瞞にみちたWINWINモデルの餌食だぞ! 私は「あっ、あっ、すみません」といった、「あの、何分いくらですか?」私はなんと、すぐに冷たく断るのが気まずくてそう聞いてしまったのだった、「三十分三千円だよー」と黒髪メガネがいった、私は「あっ、あっ」といった、「三十分三千円かー」といった、「どうしようかな、いまお金ないんですよねー」といった、だが私はもうほとんど行く気になっていた、黒髪メガネはかなりかわいかった、そして何よりも他者に明るく開かれた話しやすさがあった、どこかのオタクサークルにでも入れば確実に姫となるだろう逸材、一発でサークルをクラッシュするだろう逸材である、私はいくらか金を払ってでも、この子と一時間なり一時間半なりを過ごすことはまさに救済であると感じていた、金というのはすばらしいものだ、金なしでは歯牙にもかけてもらえない人間が金によってはじめて存在となる、なんじ金によりみずからを存在たらしめよ、資本主義万歳! 私はそうしてガールズバーへ行くとすっかり決めた、しかし私が返答にもたついているあいだに、黒髪メガネは次なるターゲットへと声をかけていた、それはあきらかに私を捨てた、私以外のすべての男へのメッセージなのだった、私は早くも黒髪メガネの世界から排除されたのだ、クソ、なめやがって! 私は屈辱を噛みしめながら、駅に向かって足早に歩き出した、ガールズバー店員たちは調子のいい二人組の若者と笑いあっている、あの若者らはきっとガールズバーへ行くだろう、もうすでに酔っていて気が大きくなっているのだ、あの様子ではドリンクを際限なくねだられ、チューハイからウイスキーまで――それがじつは巧妙に作られたソフトドリンクだとも知らずに――がぶがぶ飲まれて、酔わない店員相手にキスをねだってははねつけられ、また酒を模したソフトドリンクをおごらされる、そしてきっと最後の請求書には……ああ、恐ろしくて考えたくもない! なんて馬鹿らしいのだろう、あんなものに金をつぎこむ人間の気が知れない、金があるから悪いのだ、金は本来平等であるべき人類に不当な格差を与える、私たちは金によって価値をはかられる、そういう砂漠のような時代にもうずっと生きているのだ、いまこそ革命のときだ、虐げられ見過ごされてきたプロレタリアートたちよ、団結せよ! 私はそう思いながら電車に乗った、電車は失意の私をゆりかごのようになぐさめてくれた、「ねえ、どうしたの、元気ないじゃない、何か嫌なことでもあったの?」「ああ、聞いてくれるかい、ほんとにひどい一日だった、こんなにひどい一日は生まれてはじめてだよ、まず選考委員の野郎さ、あいつ、おれが歌ったゲットワイルドをゲットワイルドじゃないっていったんだよ、おれはゲットワイルドを歌ったんだ、確かに歌った、それなのにあいつはちがうといった、TMNETWORKの別の曲だといい張った、大体そんなわけがないんだ、TMNETWORKを歌うといえばゲットワイルドじゃないか、ふつうはそうだろう? それなのに選考委員の野郎、おれの歌をゲットワイルドだと絶対に認めないんだ、ほんとうに偏屈な野郎だよ、物書きってのはこれだからだめだ、小説なんか書いてるやつはクズだ、選考委員なんて引き受けるやつはなかでも選りすぐりのゴミなんだ、そりゃおれが引き下がればよかったのかもしれない、そうですね、TMNETWORKの何かを歌いましたね、曲名は忘れちゃったな、確かにTMNETWORKだったのですが! とでもいえば、あの対談はさらりとまとまっただろうさ、しかしそこを譲ってしまえばおれはおれじゃいられなくなる、おれが歌ったゲットワイルドがゲットワイルドじゃないといってしまうこと、それはおれがおれじゃなくなることと同義なんだ」「へえ、あなたにとってそれはそんなに大きな問題だったのね、でも私にはくだらないことに思えるわ、小学生でもそんなバカな意地は張らないでしょうね、三葉虫でももう少し賢いかもしれない、あなたはまだあの頃から、難関大学合格がすべてだったあの頃から成長していないのじゃない?」「あの頃? いや、おれはあの頃とはちがう! おれはあの頃なんかより格段にパワーアップしているよ、さしずめスーパーフジノとでもいったところさ」授賞式当日、私はガチガチに震えていた、また余っている抗不安剤を飲んだが、緊張が上回って効きはいまいちだった、会場では歴代の文学賞受賞者や年輩の作家たちが気楽な格好で、すでに慣れた空間を優雅に楽しんでいた、選考委員たちはハイレベルな会話をかわしていた、そのなかにあの選考委員の姿はなかった、私はこの日のために怪しげなドイツの会社に発注して作った格安の名刺を交換したかったが、誰にも話しかけることができず、また誰も私に話しかけてこなかった、私はウェルカムなのに、むしろ誰かに話しかけてほしいのに……きっと私はひどい顔をしているのだろう、脂汗をタラタラ流して、おびえた目ををカッと見開いて来たるべき受賞スピーチに震えている、あいつやべーな、あのひとの邪魔をしない方がいいわ、ちょっと必死すぎんだろ、きっとそのように思われているのだろう、そんなありさまだったので、はじめに選考委員たちが私の作品について述べてくれた言葉をほとんど理解することができなかった、ときおり聴衆たちの笑い声がするのだけがわかった、選考委員たちが熟達した話術で会場を温めているのだ、しかしかれらが話しているのはほんとうに私の作品についてなのか?「かれの作品のすばらしいところは、私たちの慣れ親しんだ文法からすっかり解放されているというところにあります、私たちは知らず知らずのあいだに言葉をパターン化しています、こうくればこうくる、という予測を自動的に立てるようになっています、かれの作品はそれをことごとく裏切ってくれる、その心地よさは他の候補作にはないものでした」「そうですね、私としては、かれが小説の従来的な文法に無思慮に従属していない点もさることながら、言葉の一つ一つに、かれの生きてきた実感がのっているというところがよかったね、言葉に人生を乗せる、なんていうと古い人間だと笑われるかもしれない、人生が乗っているかどうかなんて言葉だけみてもわからないじゃないか、経験のないことだって、思ってもいないことだって好きに書けるのが小説だ、なんていわれることもあります、でもね、これは確実にあることなんです、言葉に人生が乗りドライブがかかる、ということはあきらかにある、私はかれの作品にそのドライブ感を読むことができました、もちろん瑕疵はないわけじゃないですよ、展開に少し無理があったり、劇的にすぎる場面もあります、しかし私は、そのドライブ感だけでも受賞の価値はあると思いました」私はそのような作品を書いた覚えはなかった、私は別にふつうの文法に抗ったわけでもなければ、言葉に人生を乗せて書いたわけでもなかった、かれらは一体なんの話をしているのだろう?「それでは受賞者挨拶にうつります、フジノ先生、よろしくお願いいたします」私は壇上に上がった、壇といっても二十センチ程度の低いところだった、スタンドマイクの前に立つと聴衆たちは一斉に私のほうをみた、ああ、みんな私のことをどう思っているだろう、かっこ悪いとか好みじゃないとか、暗そうとか頭悪そうとか、好き勝手に思っているのにちがいない……私は用意していたコメントをそのままいおうとした、しかし私は聴衆の圧力に喉を押しつぶされ、声を発することができなかった、なんてザマだ! こんな、挨拶もろくにできない受賞者が過去にひとりでもいただろうか、私はホテルに問いかけた、「ねえ、どうでした、過去の受賞者のひとって、うまいことスピーチしてました?」「ううん、だいたいは緊張しちゃって頭まっしろになるみたい、たまに慣れてる子もいるけどね、まああんたの挨拶なんて誰もまじめに聞いてないんだから、テキトーにしゃべればいいのよ、テキトーに」ホテルはそういうが、テキトーにしゃべる、ということの難しさを一体わかっているのだろうか? 私は意を決して話しはじめようとしたが、足がガクガクと震え、唇までも四方八方に震えはじめた、どうしたスーパーフジノ、もう話すべきことは決めてきたはずじゃないか、あとはそれを本のように朗読するだけじゃないか、さあ、いまこそこの緊張なる朋友と握手をかわし、話しはじめようではないか! 私が話すのは変わった話でもウケ狙いの話でもない、私はそういうことを目指していない、大勢の前で話す行為じたいに抵抗のある人間の目指すところは、まずこの授賞式の流れを止めないことにある、私が与えられた役割を平凡にでもこなし、授賞式を成り立たせるひとつの駒として、どのような思いでこの作品を書いたのか手短に述べ、簡単に感謝の意を示す、笑いを取るというのでも涙を誘うというのでもない、私がやるのはそれだけのことだ、小学生でもできることだ!「えー、今回、このような、大きな賞をいただきまして、まことに、みにあまる、光栄、とでもいいましょうか、まあ、あの、そんな感じで、とてもうれしく、この作品は、えー、ほんとに、もう、仕事やめたくて、書きました、仕事やめたい、以外のことは、あまり考えなかったと思います、これで作家になって、仕事やめたんぞ、私は、そういう気持ちが、この一作に、じぇつ、結実したのではないかという、そういう気持ちでおります、このたびは、まことにありがとうございました」用意していた内容は完全に飛んでしまったが、重圧に耐えながらしぼり出すようにしてそういうと、会場からは少し遅れて拍手が起きた、「ありがとうございました、それではしばしのあいだご歓談ください」私はふうと溜息をついて、汗をぬぐって席についた、これで今日の仕事は終わりだ、あとはゆっくりできるぞ……そう思ったのも束の間、目の前に私も愛読している有名な女性作家が座った、テレビやら写真やらで美人なのはわかっていたが、じっさいにみると想像をはるかに超えた殺人級の美しさで、私はまた緊張してきたのだった、クソ、この会場に安息の地はないのか? 私が目をスイスイ泳がせていると、どこからか「ねえ、あんたの挨拶、チョーいけてたよ、濡れちゃった」という声がした、声の方をみるとそこには美しすぎる女性作家の顔があった、私は目を疑った、美しすぎる女性作家は同じ賞を受賞した先輩で、背中の大きく開いた赤のドレスを着ていた、がんばれば尻までみえるのではないかというほどの開き具合だった、いくらなんでもこれはえっちすぎるのではないか? 男どもはみんな美しすぎる女性作家に会いに来ている、そんな雰囲気さえ感じられた、男どもは私のことなんてどうでもいいのだ、今日の主役は私ではない、美しすぎる女性作家は私の記憶が正しければ独身だった、そして私の記憶によれば、私もまた独身なのである、独身女性が独身男性に「濡れちゃった」という、それはもはやセックスではないか? 私は射精しそうになり、あわてて股間をおさえ、あの選考委員の顔を思い出した、あのビール瓶野郎のことを思い出した、私の見立てどおり、ビール瓶野郎の顔を思い浮かべるだけで性欲はおさまり、冷静さを取り戻すことができた、ビール瓶野郎はその点において無二のちからを発揮した、私は股間をやわらかくして、美しすぎる女性作家に余裕をもって話しかけた、「そういってもらえると、うれしいです、ぼくも、なんというか、勃起しました」すると、美しすぎる女性作家はものすごい顔で私をみた、その周辺の作家や編集者たちもすさまじい形相になった、なんだろう、おかしなことをいったかな? 私は景気づけにビールをあおった、「あれ、ぼく、何かおかしなこといいました?」すると、ひとりのギャルっぽい女がビールをぶっかけてきた、たぶん編集者だった、私は鼻にビールがはいってせきこんだ、スーツもビシャビシャになり、何しやがる! といおうと思ったが、すごい勢いで先手を取られた、「あんた最低だよ、いくらこんな賞とったって、最低の人間だよ! 人間と作品は関係ないっていうんだろ、わかってるよそんなことは、私はいま、人間に対して怒ってるんだよ!」私はビールを人にかける人間こそ最低だと思ったが、人間と作品は関係ないという点には同意だった、「ということは」と私はいった、「この受賞作については、評価してくださっているということでしょうか?」するとギャルっぽい編集者は頬を赤らめて「そうだよ、あんたの作品は最高だった、それは認めるよ……」といったので、私はほんとうに勃起して「ボッキッキー!」と叫んだ、なぜそんなことをいったのか、とにかく私はそのとき、おそろしいほどの解放感で空も飛びそうだったのを覚えている、そして間髪入れずにある記憶がフラッシュバックした、それは小学校三年生のとき、はじめて他者の承認を得たと感じた、自由帳に描いたマンガでクラスのみんなが笑ってくれた記憶だった、私が描いたのは、リットルくんとデシリットルくんという理科室のビーカーをもとにデザインされた師弟のキャラクターが、世界じゅうの格闘大会に参加して次々に強敵を倒していくというシンプルなマンガで、そこに社会正義はひとつもなかった、困っているひとを助けるという視点もなかった、私はとにかく面白ければよかった、面白ければひとを殺してもよかった、事実、リットルくんとデシリットルくんはミリリットルくんを殺してしまった、ミリリットルくんはとてもがんばりやさんで、デシリットルくんに弟子入りするのだが、厳しい修行のなかでデシリットルくんに殴られ続けて気絶する、デシリットルくんはその不甲斐なさに憤慨し、ミリリットルくんをある公園の守り神とされている大きなクスノキにしばりつけて放置する、そうして三日後に様子をみにいくとミリリットルくんは死んでいた、そしてリットルくんとデシリットルくんはいう、「おい、死んでへんか?」「死んでますね」「ま、ええか」「そうですね」これがミリリットルくんの最期なのだ、これはしかし現代社会への警鐘でもなんでもなく、私はたんなるギャグとして描いた、そしてクラスメイトたちもそのように受け止めて笑っていた、「ちょ、死んでるやん!」といってケタケタ笑った、私はいまそのシーンを笑うことができない、私はミリリットルくんのような捨て身の挑戦者ではない、挑戦のないところに死はない、このあいだ旬の人物を紹介するテレビ番組に有名旅館の若女将が出ていて、「ノープレー・ノーエラーですから」といっていた、「何もしなければ失敗もしませんよね、失敗したということは何かをやろうとしたということですから、そこはやはり、しっかりみてあげなければ……」すばらしい言葉だ、私はすぐこの有名旅館の予約をとろうと思った、このようなすばらしい若女将のいる旅館で美味しい料理と豊かな自然を堪能しゆっくりと二泊ほどする、それこそが人生の醍醐味というものだろう、そうして旅館のホームページを調べてみると、なんと一人一泊四万二千円からではないか! これではセレブ以外寄りつかないはずだ、私のような貧乏人はお断りということなのか? 私はむしゃくしゃして若女将をオカズに自慰行為に及んだ、若女将はヒイヒイいっていた、大旅館を切り盛りするやり手の若女将が恥じらいながら股を広げ、私の肉棒を求めて嬌声をあげた、私は金閣寺同様この有名旅館に火を放ち、炎のなかで快楽に溺れて死んでいくふたりを想像した、それで大興奮してすごい量の精液が出たのだった、私は旅館にじっさいに宿泊する以上の経験をした気になった、私と若女将はもう他人ではなく一心同体だった、私が殺してしまったミリリットルくんには心からこの言葉を捧げたい、「うん、ノープレー・ノーエラーだからね、あなたはプレーした、それだけでも上等だよ」このマンガのスマッシュヒットで私はスクールカーストの最底辺から下の上ぐらいまで浮上した、私は体育の授業のたびごとに目も当てられぬ失態を繰り返し、ひどいいじめの対象にされてもおかしくない状態にあったが、ドッジボールのうまいやつもエースストライカーも、みんなこぞって私のマンガで笑ってくれた、ある日、私は図工の時間に木材を削ってリットルくんの人形を一つ作ったのだが、いつのまにかなくなっていた、それは教室一のヤンキー・サコダが盗んでいたのだった、私はサコダの机からリットルくんがこぼれ落ちるのをみた、サコダはあわてて拾った、しかし私は返せとはいわなかった、むしろうれしかった、ヤンキーのサコダがリットルくんをそこまで気に入ってくれているということが……それで私は精神的にサコダの上に立つことができた、どれだけ粋がろうがお前はおれのリットルくんが好きなのだ、お前はおれのリットルくんの傘下にある、つまりおれの傘下にあるということだ! この誇りは私をかなりの程度はげました、私はいい気になって、寝る間も惜しんでマンガを描きはじめた、「リットルくんの冒険」、私はこれで天下をとるつもりだった、私の絵はかなり下手なのだが、小学生のときには気付かなかった、少年ジャンプを読んでいても気付けなかった、私はじぶんの絵がジャンプ紙面に掲載されても見劣りすることはないと思っていた、それはこのような絵なのだが……

2019年7月6日公開

作品集『受賞第一作』最終話 (全1話)

受賞第一作

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© 2019 佐川恭一

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