『千夜一夜物語』 第九百五十七夜めの物語より
惨めな女たちが集まって、たとえば、ヘドが出るほど嫌いな仕事なのだけれど、生きるためにへばりついている女だとか、大嫌いな夫でも、別れてしまったら食べるのに困るからへばりついている女だとか、そのうちによいことがあるだろうと何にでも辛抱しているうちに老いさらばえてしまった女だとか、いつも何かを欲しがって身悶えしている女だとか、裏切られるたびにむやみに感謝をする女だとか、反対に憎んで憎んで憎み通すことで生きる張り合いを見出している女だとかが、三々五々と集まって来て、誰ともなしに森へ歩いて行った。
森は街から極めて遠くにあるので他人が寄ってくる心配はなく、木々の隙間は心地よい程度に狭く、女たちはめいめいが一本の木に取りすがって泣いた。泣声は木々の梢を揺らして、暗い空から葉っぱが何枚もひらひらと舞い落ちた。泣いても泣いても涙は尽きることがなく、それぞれの木の根元には小さな水溜まりができた。そのうちにとうとう泣き疲れて、女たちは大きな月桂樹の下へ寄ってきて、自然に木を取り囲んで座った。するとみんなで大木に縋りついて泣き始めた。慟哭は大樹の幹や枝を揺るがして、常盤木の濃緑色の葉が次々と枝を離れてバラバラ宙に舞った。
静寂な森の時ならぬ物騒がしさに、岩場で休んでいた牧神が目を覚まし、蹄の足をポクポク鳴らしながら月桂樹の大木へとやって来た。そうして見知らぬ大勢の女たちが身も世もなく歎き悲しむ現場に出くわした。心のどかに育った牧神は、このように激しい場面に立ち合ったことがなかったので、ちょっとたじろいで蹄の足を止め、木の陰からそっと様子を覗った。愁歎場はいつ果てるともなく続いた。
人の顔と山羊の体を持つこの牧神は、鋭い角を二本生やし、緑色の髪の毛が生えていて、頬と顎を覆った髭も緑色であった。極めて醜い容貌ではあったが、心は優しく他人の歎きをそのままには捨て置けぬように思った。そこでおずおずとそばへ寄って行って、みなさん、どうしたのですかと尋ねた。振り向いた女たちは、牧神の怪異な風貌に、初めは驚いた様子だったが、優しい声音と穏やかな物腰にすぐに安心した。
こうして女たちは牧神に向かって、一人ずつ、それぞれの悲しい生涯について語り始めたのであった。
女たちの物語は、皆、哀切を極めたものであり、あまりの悲惨に聞くほどに胸苦しくなっていった。若く心優しい牧神は同情を禁じえず、どうにかして手助けをしてあげられぬものかと思った。そこで彼は言った。
「みなさん、私に何かしてあげられることはないでしょうか。今しがた伺ったお話は、実際、やり切れないほどお気の毒です」
すると女の一人が答えた。
「本当のところを申しますと、まったく何の手立てもございません。一時的にいろいろと助けていただいたとしても、私たちが女でいる限り、同じ苦しみはいつかまた巡ってくることでしょう。それはもう、生き変わり死に変わり、未来永劫に循環する定めなのでございます。ですから私たちはこうして集まっては、我が身のつたなさを歎き合っているのでございます」
牧神はますます同情して、角のある頭を振り振り、山羊の蹄を木の根にコツコツ打ち鳴らしつつ、その場を歩き回って一生懸命に女たちのために考えてみた。そして、そうだ、それしかないと結論を出すと、蹄の足を止めて醜くも優しい顔を皆に向けた。
「私に一つの考えがあります。私はこの通り山羊の体をしていますが、男の性を持っています。これとあなたがたの女性の性と交換したらどうでしょう。そうすれば少なくとも女性の運命からは逃れられるではありませんか」
女たちは不思議そうな顔をして、そんなことができるのかと尋ねた。牧神は造作もないことだと答えた。
「ただ、私の男は一つしかありませんので、あなたがたの誰か一人としか交換ができません。今はとりあえず誰かと交換をしておきましょう。私は後で仲間の牧神たちにも交換するように頼んでみることにします。交換してもよいと言う者がきっといると思います」
でも、それではあなたに私たちの悲惨な運命が降りかからないとも限らない、と言うと、牧神は笑って、
「私のこの森には調和と事実があるだけで、悲惨な運命などないのです。ですから私自身は男でも女でも一向に構いません」
と言った。
しかし、いざ交換という段になってみると、女たちはためらい恐がり、みんなで譲り合って、なかなか決まりそうもない。辛抱強い牧神もイライラして、歩き回る蹄の音が高くなりかけた頃、例の仕事にへばりついている女が、皆よりは多少大胆な性格であったので、では私が、と前に進み出た。牧神は緑の髭を揺らしてにっこり笑うと、女を彼と向かい合って立たせた。女は牧神が口の中で分からぬ言葉を呟くのを聞いた。途端に下腹がカッと熱くなって、ぐにゃぐにゃした背筋に芯が通るような心持がした。見る見るうちに総身にパリパリと力が湧いてきて、冷えて湿っていた手が、熱く乾いた手となった。
「さあ、終わりましたよ。」
と言った牧神の声は、もう優しげな乙女の声に変わっていた。仕事にへばりついている女は、いまや男の姿をして大地に踏ん張って立っていた。
「これはなかなかいいぞ」
と仕事の女は若々しい青年の声で言った。身が軽くなった、とも言った。牧神に感謝の目線を投げると、牧神は恥ずかしそうに面を伏せた。醜い顔は相変わらずだが、髭は抜け落ち角は短くなり、山羊の体は小さく丸みを帯びて、どことなく可憐な趣がある。
少し待ってほしい。そうしたら今度は全員が男の性を手に入れられるように手はずを整えておくと牧神は言った。そこで皆は一年経ったらまた同じ場所で会うことにした。青年となった仕事の女は足取りも軽く、先頭を切って森を去って行った。
さて、仕事にへばりつく女、今はもう女ではないから仕事にへばりつく男は、しばらくは朗らかに暮らしていた。牧神と交換してもらった男の性は大変に具合がよく思われたし、男ということで得られる慣習上の便宜はなかなかに快適なものでもあった。早く皆もこの快適さを味わえればいいのに、とさえ思った。
しかしながら、男になって仕事に戻ったからと言って仕事が素晴らしくなるわけでもなく、やっぱり仕事は大嫌いであった。でも辞めたら食べて行けないから、嫌いな気持ちを押し隠して仕事にへばりついた。日々の仕事に追われ続けているうちに、どんよりと重い惨めさが青年の心と体に染み付いて行った。しかもその惨めさは、女であった頃よりもいっそう倍加していることに気がついた。慣習上の優遇を受けている分、惨めさも倍になるのだと気がついて、こんなことなら女の方がましだったと思った。
一年後、仕事にへばりついている惨めな男は重い足取りで森を訪れた。例の月桂樹の木の下では、昔の仲間の女たちが同じような愁歎場を演じていた。今ではその輪に加わる気にもなれず、一人で佇んでいると、聞き覚えのある蹄の音がポクポクと聞こえてきた。
「あなたでしたの。やっぱりいらしていたのね」
女となった牧神の声がした。振り返ると、木の陰から恥ずかしそうな醜い顔が、半ば覗いていた。
「どうしてこっちへ来ないんですか?」
青年は牧神のいる木に向かって手招きをしながら叫んだ。
「もう結構です。やっぱり女に戻してください。せっかく男にしてもらいましたが、あんまりいいこともなかったようです。それなら生まれながらの姿に戻ったほうがましです。男の性は、他の人にあげてください」
「そのことなんですけれど、」
牧神は身を隠したまま、もじもじ言った。
「あいにく、仲間の牧神でも男の性を譲ってやろうと言う人はおりませんでしたの。むざむざ他人に譲ってやった私を、皆が笑いましたわ」
「そうですか。それならまた交換をして、元に戻しましょう」
「ところがそれができなくなりましたの。あなたに女の性をお返しするわけにはいかないことになってしまいました」
「どうして?」
牧神はうつむき、顔を赤らめてこう言った。
「実はあれから女の牧神となって、同じように森に住んでいたのですが、私が女になったと知るや、他の牧神たちがしつこく私の後を付け回すようになりました。それはもう、朝となく夜となく迫ってきては、私に結婚してくれと頼むのです。いえ、あの、女の性は、あなたが望んで交換したとは言え、万一、また取り戻したいと考えるかもしれないと思ったので、絶対に手つかずで取っておこうと決心をしていたのですが……」
牧神はコツリ、コツリと蹄を鳴らして、数歩前に進み出た。
「ある日、出会った黒い森の牧神に、私は一目惚れをしてしまいました。相手も同じように私に恋をしていました。そこで私たちは結婚しました。それで、今、子供を身篭ったところなのです。そういうわけで、子供を産み落とすまでは、お返しするわけにはいきません」
頬を染めた牧神の白い山羊の腹が大きく迫り出していた。惨めな青年は絶句してその場に立ち竦んだ。
月桂樹の下で泣く女たちの声は、その間も、はかない煙のように、空に立ち上っては消えていった。
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