夜半の一絃(よわのいちげん)

大猫

小説

1,886文字

「エッチ」よりも「情事」が似合う物語を書きたい。短いので読んでみてください。新月の京の町。情事は闇の深いうちに。男のため息は聞かれぬように。女の涙は見せぬように。時代は平安末期から鎌倉初期を想定していますが、特にこだわりはありません。

白綾の小袖を互いかたみに取り替え、そっと素肌に羽織り、一つ褥の上で寄り添って眠る。

幾度めの夜か。我が皮膚は相手の肌着の感触をすんなり受け入れるようになっている。激しい官能の名残は寝息と共に、綾の心地よさの中にふわりと沈んでゆく。

東山の麓のこの家は小さくて、そよ風が吹いても屋根が鳴りそうなほど古い。けれども今夜は物音一つしない。鴨川の流れさえも聞こえてこない。

 

男は眠りから醒めていた。そしてそのまま眼を開けていた。あまりの静けさが男を不安にした。新月の夜はいつまでも続く漆黒の闇である。傍らで眠る女の体温がなければ、我が身までが闇の中に凝固してしまいそうに思える。

女も眼を覚ましたらしい。ほんのわずか、それとわからぬくらいかすかに身じろぎをした。眠っていても男の気配に気を張っている。いつこの逢瀬が最後になるかもしれないことをよく知っている。

 

闇の中で眼を開けたまま、二人ともしばらくの間無言で横になっていたが、やがて男が呟くともなく言った。
「いま、何どき頃であろうか」

その意味するところを女はすぐに覚った。男は夜明け前に去る。みそかごとは、闇が深みにあるほんのひと時に封じ込めておかねばならぬ。

女はゆっくりと体を起こした。昨夜、乱れたまま束ねずにおいた髪が、寝ている男の頬を掠めて滑った。鼻先にほのかに香りが立つ。自分が愛用している梅花香が、女が身につけている単衣の裾から薫ったのだ。

女の方は黒方をたきしめている。共寝した翌朝は移り香がいつまでも残る。起きて向かい合っているとそれほど感じないのに、肌を合わせると急に濃く匂う。

 

女は枕元に放り出してあった琵琶を取って立て膝で座った。それから手を伸ばして床を手探りした。撥が見つからないのであろう。指先に黄楊の撥の先が当たった。女は撥を拾い上げると、無造作に琵琶の一の絃を弾いた。

撥にはじかれて琵琶が鳴った。音は闇の大気を小さく破って、虚空の彼方へ飛び、残響があたりの空気に溶けた。女はそれを小首を傾げて聞いていた。

やがて言った。
「まだ夜明けには間があるようでございます」

男は寝床から言った。
「ではもう一度寝よう」

 

夜の深さを琵琶は知っているのです。

暁には暁の、夜更けには夜更けの響きがあり、春には春の音色が、冬には冬の音が鳴ります。一度として同じ音を出しません、と女は言った。

 

また沈黙が戻ってきた。けれどもさっきまでとは気配が違っていた。闇が張りつめてしっとり膨らんでいる。女のか細い息が耳元に寄せては引いて行く。

男は女を引き寄せ、かき抱いた。身の丈よりも長い髪が腕に絡みつく。嵩の多い髪だ。かき分けてもかき分けても手が女の体にたどりつかない。面倒になって髪を体の下に敷いたまま、単衣の襟をはだけると、黒方の甘い匂いが生暖かくたちのぼった。

 

「女の髪で撚った綱は象をも繋ぐとか」

耳に口を付けて囁くと、男の唇は首筋を這い胸元へ滑った。右腕で女の身体を抱き、左腕に髪を巻き付ける。

「この髪はどれほどの象を繋いだのだろう」

小さな乳首を舌で転がしながら囁きかける。女の返事はない。唇だけがひどい、と声にならぬ呟きを洩らすが、そのまま短い悲鳴に変わる。女が伏せようとするのを許さず、体を起こさせて我が膝へ座らせると、素肌の上を冷たい黒髪が滑り落ちて行く。

 

種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅

女の腕に抱かれながら「観音経」を口の内で呟く。

去年は地震なゐ、今年は長雨に洪水。疫病が流行り出している。それに合戦。

修羅畜生ばかりが跋扈する末法の世。人の命など夜露が朝に零れるごときもの。

南無観世音菩薩、我を咎め給うな。

一時、女の腕に憩うこと、咎め給うな。

 

精魂尽き果てて伏していた女が気が付いた時、すでに夜は明けていた。闇の中で器用に装束を付け、扇、懐紙の類もすべて忘れず持ち帰った男の後姿を恨みがましく瞼に思い描く。たった一つの名残の小袖を被りなおしてまた横になると、打ち捨ててあった琵琶の転手に指先が触れた。そのまま手を四本の絃に滑らせてポツ、ポツと爪弾いてみる。

 

「羨ましやわが心、夜昼君を離れぬ」

女はかすかな声で吟じた。

街はようやく人々が起き出して来た気配。男の文が来るのは早くても夕方。数日後になることも珍しくない。次の逢瀬はなおのことわからぬ。仮の枕は夢路に消えて、独り寝の袂を濡らす夜がまたやって来る。

女は心まかせに琵琶を弾く。

2018年6月2日公開

© 2018 大猫

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