雨中梨花

大猫

小説

7,581文字

中国の琵琶にまつわる物語です。日本の楽琵琶とはかなり違って演奏の主役を務める楽器です。その昔、ペルシャあたりから伝わって中国経由で日本に至ったようです。ウード、リュート、ギターにも連なるこの華やかな楽器はいろいろな物語を見て来たように思います。日本の琵琶について「夜半の一弦」(https://hametuha.com/novel/28064/)という短編も書いていますのでよければご覧ください。

 浙江省せっこうしょうの古都・蘇州は地上の天堂と呼ばれた。太湖をはじめとする江南の無数の湖と長江をつなぐ大運河の上に成った都市で、水青く緑は鮮やか、豊かな土地は農産物が豊富で、養蚕業の発展とともに絹織物が名産となって商業も大いに栄えていた。市内には小運河が網の目のように巡らされ、人々は道を歩く代りに小舟で行き来した。また学問や芸術の街としても有名だった。

 

 その蘇州に徐という旧家があった。代々官僚や学者を出した名門であったが、ここ数代の間は当主が早死するという不幸が続き、先代もまた若くして死んだ。その時、息子の徐天銘じょてんめいはまだ幼少であった。

未亡人の王氏は落ちぶれた家を抱えて息子の養育に苦心をしたが、幸いにも天銘は神童の誉れ高く、幼いうちに四書五経、注釈・五十七万字をすべて諳んじ、論文を書かせれば韻律整った見事な文章を作った。王氏は手元不如意にも関わらず、優秀な家庭教師がいると聞けば高額の報酬で招くなどして、家運のすべてをこの一人息子に賭けた。天銘もまた母の苦労を知って、一日も早く立身すべく勉学に励んだ。そのかいあって、十五歳の時、科挙の予備試験である童子試に省の首席で合格して、科挙受験資格を持つ「生員せいいん」(別称は「秀才」)という身分となった。

 

「一族からお役人様が一人出れば、犬まで天に昇る」と言われた時代のこと、天銘が生員となったと知るや、今まで徐家の苦境を見て見ぬふりをしていた親類縁者が続々とお祝いに駆けつけた。頼みもしないのに家庭教師を連れて来る者から、親類を名乗って勝手に住みつく者までいた。

 裕福でもない徐家は、たちまちやりくりに困難をきたし始めた。それでも王氏は二年間なんとか辛抱すればよいと腹をくくった。天銘が見事、二年後の本試験(郷試、会試)に合格しさえすれば、蘇州中の有力者が金銀を持って集まって来るだろう。

 

 そんなある夜、天銘は家の広間に呼ばれた。珍しいことに今夜は勉強しなくてもよいから、宴に出席するようにとのこと。聞けば、蘇州知府(知事)の韓大人が有名な神童を見にやって来るのだという。韓大人は中央官界でも大物である。天銘は湯浴みして衣冠を整え、母と共に出迎えた。

 韓大人は威風堂々たる風采の持ち主で、立派なアゴ髭を蓄え、言葉づかいにも動作にも悠々とした風格があって、辺りの空気まで違って見えた。若い天銘は胸が疼く思いだった。韓大人も天銘を気に入ったと見えて、

「うん、見るからに才気縦横に走るが如しだ。まさに百年に一度の神童だな。ご母堂、掌中の珠とはこのことですな」

などと御満悦の様子だった。

「さ来年の郷試もきっと首席になられるだろう。お励みなされよ」

 母親の王未亡人も天銘も感激で返す言葉も詰まりがちであった。

 ふだんつましい徐家とはいえ、韓大人を迎えたこの時ばかりは豪勢なごちそうが次々と供され、居候や家庭教師の面々も勢揃いして飲めや歌えの大盛会となった。少年の天銘も今夜は酒を許されて少々酔った。けれども子供と笑われたくなかったので無理をして居住まいを正して座っていた。笑い声だの、詩句を吟唱する詠声だの、口角泡を飛ばす議論だので、耳がおかしくなりそうな騒ぎだった。

 

 その時、広間の入り口を覆っていた赤い幔幕が急に左右にパッと開いた。何事かとそちらを注目した人々の一瞬の沈黙の隙を衝いたように、琵琶を掻き鳴らす音色が華やかに響き渡り、開かれた幔幕の下へ薄紅色の衣裳をまとった少女がすらりと現われた。背後にそれぞれ水色、黄色、緑色の衣裳の三人の少女を従えていて、皆、琵琶を抱えている。合奏をしながら舞うように優雅な足取りで、ゆっくりと前に進んできた。宴席を彩る芸妓たちが呼ばれたらしい。芸妓たちの美しさと琵琶の合奏の見事さに、人々は酒食も忘れて見入った。

 天銘の目はすぐさま薄紅色の衣裳の乙女に釘付けになった。ほっそりした肢体に愛らしい小さな顔、その上、琵琶の技量がずば抜けていた。事実、しばらくすると他の者たちは弾くのをやめて、かしずくようにひざまずき、乙女が一人独奏を始めた。

 琵琶の曲には文・武の二種類ある。叙情性と音色美を重視した文曲に、技巧を駆使した華やかな武曲。薄紅色の衣裳の少女が弾いている曲は、速い和音を連続的に鳴らしながら、絃をつま弾いて旋律を浮かび上がらせるという、非常に高度な技巧を要するものでありながら、ため息が出るような情感を伴っていた。いつまでも続く細かい雨のような和音に優しく印象的な旋律。

 聞いてすぐ、天銘は妙な感覚に襲われた。この曲を聞いたことがある。しかも何度も。そう……これは『雨中梨花』という曲だ。

 するとこの少女は……梨児リーアルだ。

 徐家の召使いで、毎日のように顔を合わせている梨児ではないか。

        

 宴が引けた後、天銘は大人たちに見つからぬよう用心しながら、屋敷の北側にある梨児の部屋の窓を叩いた。何か言いつけがあるのかと、梨児はすぐに出てきた。そして、「少爺シャオイエ(若旦那さま)」と言ってお辞儀をした。

「なんで天哥(天兄さま)って呼ばないんだ?」

 天銘のなじる口調に梨児は困った顔を上げた。月灯りの下の小さな白い顔はいつもの見慣れた梨児だ。さっきまで金銀の簪に飾られていた髪は普段通りの三編みに戻っているし、服も使い古しの上着と色褪せた裙子だ。けれども天銘は梨児を美しいと思った。召使いのなりをしているけれども、梨児の本当の姿を天銘はもう知っている。

「梨児、母上なのかい? お前に芸妓と一緒に宴会に出ろと言ったのは」

 梨児はこっくりとうなずいた。

「ここんとこ十何日間は、料理も掃除もしなくていいから琵琶の練習をしなさいって。大切なお客様だから、喜んでいただけるように特に趣向を凝らすようにって。あたしはもともと琵琶弾きだし、こんなことでもないと、太太タイタイ(奥様)や少爺(若旦那さま)にご恩返しができないし……」

「天哥って呼べよ! なんだよ、急に!」

「秀才様になったんだもの。やっぱり少爺じゃない」

 天銘はいつもの梨児の軽口を無視した。言いたいことを一刻も早く言ってしまいたかった。心のうちに秘めておくなどできそうもなかったのだ。

「梨児、今日のお前は素敵だった、最高に綺麗だった……何と言えばいいのかわからないけれど……」

 日頃、刻苦精励して身につけているはずの、数十万数百万の典雅な詩句修辞が、こういう時には一つも出てこないことに天銘は苛立った。梨児はそれを上目遣いに見て、ぷっと吹き出した。

「天哥! 自分の家の召使いがちょっと化粧しただけでフラフラしてるようじゃ先が思いやられるわ。天子様の宮殿に上ったらきっと卒倒するわよ。国中の美人が集まっているんでしょう?」

 笑われて恥かしくなった天銘は横を向いた。笑った梨児のお下げ髪がはらりと前に落ちた。

「お部屋でお勉強ばかりしているからいけないのよ。たまには遊びに行けばいいじゃない。湖で舟遊びをしたり、遊郭なんかにも行ってみたら」

「遊郭なんて……悪い病気が移る」

「そう。でも、あたしも遊郭から来たのよ」

「ごめん」

 梨児は天銘が八、九歳の時に徐家へやって来た。天銘の父が遊郭で弾詞(弾語り)芸人の老人から同じ年ごろの女の子を買い受けて来たのである。利発で可愛らしく、その上小さいのに琵琶の名手であったので、内の用向きに使うついでに、演奏を聞いて楽しもうと思ったのだった。

 その後、天銘の父が死に暮らし向きが悪くなり、大勢いた召使いにはほとんど暇を出した。梨児だけが他に行くところがなかった。元の芸人の老爺は親類ではなく、人買いに遊郭へ売り飛ばされてから世話になっていただけだと言う。それ以前の記憶は梨児にはない。

 遊郭には死んでも戻りたくない。何でもしますからどうぞ置いてください、と梨児は泣いて頼んだ。王未亡人もそれをいとおしんで、召使いと言うよりは娘のように思って可愛がり、天銘のことも兄と呼ばせた。

 天銘自身、梨児は一緒に育った妹だと思っていた。昨日までは。

 

 天銘は思い切って梨児の小さな手をそっと取った。琵琶弾きは演奏するために爪を伸ばすものだが、家事労働をしている梨児の爪は短く、指先はガサガサに荒れている。

 勉強以外は何もしたことのない十五歳の天銘には、こういう時どうするべきなのか全くわからない。ただ、少女の荒れた両手を痛いほど握り締めながら必死で言うしかできなかった。

「梨児! 決めた。僕はお前を妻にする」

「だから、天哥ってば」

 梨児はまた笑い出して、両手を振りほどいた。

「少し頭を冷やしたらどう? こんなんじゃ道も歩けやしないわよ。蘇州は美女の産地なのに」

「きっと梨児が蘇州で一番きれいだと思う」

「あたしは蘇州の生まれじゃないの。北方で生まれたらしいけど、全然覚えてないし。さっき宴会で弾いた曲、『雨中梨花』はあたしの生まれ故郷の曲なんですって。長い雨の中でも散らずに咲く梨の花を表現しているの。一番得意な曲だから偉い方の前でもなんとかご披露できたの」

 そして梨児は急に真面目な顔になった。  

「天哥……あたしは奴隷なのよ」

 

 十日ほどして、梨児の姿が見えないことに気づいた天銘は、母親に問いただした。そして、母親が梨児をあの韓大人に譲り渡していたことを知った。

 悶絶せんばかりに怒り狂った息子に、王未亡人は泣いてこう言った。

「みんなお前のためなのです……お前は知らないだろうが、童試に及第してからは、急に物入りが増えて、かといって、お前の将来のことを考えたら、お付き合いはひとつもおろそかにできないし、家はもう火の車で、明日からどうやって食べてゆこうと思っていたところを、韓大人に救っていただいたのです。太湖にある養蚕場や畑を、受験費用にとそっくり譲って下さったのです。ここから入るお金でお前は食べているのですよ。ここまで言えばおわかりだろう? 韓大人のご恩にお報いするのに梨児一人で済むのなら、それに越したことはないでしょう。あの子も喜んで行ってくれたのだから……」

 それを聞くと天銘は崩れ落ちた。

 

 翌々年、科挙の本試験の第一関門である郷試に天銘は及第できなかった。

 立ち直ったように見えても、やはり梨児を奪われた打撃は大きかったのだろうと、慌てた王未亡人は、韓大人に懇願して梨児を返してもらおうと思ったのだが、あいにく韓大人とその一家は昨年、蘇州知府を解かれて、はるか四川の土地へ栄転になってしまった。梨児の消息は聞かないが、多分、一緒に行ったのであろう。

 その三年後、今度こそはと気を取り直して、万全の体勢で郷試に挑んだのだが、またしても不合格であった。

 落胆のあまり運河に身を投げて死のうと思ったが、まだ二十歳の天銘は諦めきれなかった。周囲にもまだまだ先は長いと励まされ、結婚でもして落ち着いた環境で勉強したらと勧められた。それを容れて蘇州の名家の娘を妻に迎えた。母の王氏の親類の娘で王月嬌おうげつきょうと言う。気立てが良く控え目でどこか梨児に似たところがあり天銘も気に入った。そうして再び三年後の試験に向けて勉強を再開した。

 

 しかし次の郷試にも天銘は落ちた。家の梁に縄をかけて首を括ろうとしていたところへ、妻の月嬌が飛んできて泣いて止めた。

「試験なら次もあります。やめて!」

「もう何度受けても無駄だよ、放せ」

「病でもないのに若く死んで、御先祖様に顔向けができるのですか?」

「顔向けできるものか。だからこうして、布で顔を隠してるんじゃないか」

「あなたが死んだらお母様はどうなるの? 家のお墓参りは誰が行くの? 私はどうしたらいいの?」

「お前には悪いと思っている。去り状を書くからどこへなりと嫁ぎ直してくれ」

「再婚しろって言うの? バカを言わないで。嫁いだからにはここが私の家です。あなたとお母様が私の家族です。それに、それに」

 月嬌は薄緑の裙子を履いたお腹を指さした。

「ここに跡継ぎが育っているのに、あなたはこの子を父のない子にするつもり?」

 さすがの天銘も子供が生まれると聞いて発奮し、もう一度努力すると誓った。

 

 男の子が生まれて元気に育って行くのを目を細めて眺めつつ、天銘は今までにない身心の充実を覚えていた。頭脳は冴えわたっており、論文は書けば書くほど次々に新しい着想が生まれていた。そのころ蘇州の文壇にも出入りし、発表する詩文は常に高い評価を受けた。

今度は必ず合格できると自信を持って臨もうとした次の郷試の直前、母親の王氏が急死した。三年の服喪に入らなければならず受験を断念せざるを得なくなった。

 服喪期間中も怠りなく受験準備を続けたはずだったのに、今度は月嬌の両親が次々に亡くなって屋敷や財産の整理に追われることになった。何やかやと心落ち着く暇がなく結局その年も不合格だった。

神童の誉れ高かった徐天銘も、このごろではすっかり忘れ去られてしまっていた。妻の実家だけは何くれと援助してくれていたのに、両親が亡くなって徐家に再び困窮が訪れた。梨児と引き換えにもらった畑や養蚕場を生きるために手放した。

 いよいよ食うに困った頃、太原たいげんで通判(副知事)をしている友人から、書院(私設学校)の教師をしないかとの話を持ち掛けられ、家族を養うために承知した。そして生まれて初めて長江を渡り、淮河を越え、黄河までも越えて、山西は太原にたどり着いて教師生活をはじめた。

気候も食生活も言葉まで違う太原の生活は、天銘一家を限りなく消耗させた。それでも天銘は教師の職務の合間を縫って受験勉強をし、三年に一度の科挙を受けた。月嬌もまた愚痴も言わずに天銘を支え続けた。しかし温暖な蘇州に育った月嬌は、苛烈な山西の気候にいつまでも慣れることができなかった。腰を痛め腕を痛め首を痛めそのうちに肺を患った。徐々に身体中を病に蝕まれ、ある年の冬に力尽きるようにして死んだ。結局、一度もいい思いをさせてやれなかったと棺の蓋を閉めながら天銘は唇を噛みしめた。

 一粒種の息子はどんなに勧めても学問の道に進もうとしなかった。窮乏生活に嫌気が差して、心ひそかに父の天銘を恨んでいたらしい。母の月嬌が死ぬと都へ上ると言い残して家を出て行った。

 一人きりになった天銘は、それでも執念で試験を受け続けた。そして一度も合格できなかった。

 

 五十を前にした頃、天銘は憑き物が落ちたようにすべてを諦めた。万一、この先合格できたとしても、官界で立身する前に寿命が尽きるだろう。第一、立身して何になる? 妻は死に息子は出て行き徐家の祖廟を祭る者さえいなくなった。人生のほとんどを受験勉強に費やした。家族を犠牲にし祖先の名を辱めて、残ったものは役に立たない知識以外何もなかった。

 太原郊外の寂しい墓地の片隅で、天銘は膝をつき頭を地面に擦りつけて亡き月嬌に詫びた。

「一人にして済まない。私は江南に帰る。なんとか工面してお前の棺も蘇州に戻してやるから」

蘇州へ帰った天銘だったが土地一つ持っているわけでもなく、金があるわけでもない。そこで昔のつてをたどって、蘇州のさる名門の家に家庭教師として住み込むことにした。

 その家の息子はまだ十代で、郭磊かくれいという名だった。なかなか才能があると思われたので、童試を受けさせてみたらすんなり及第した。そこで自分の三十数年間の知識、経義、論策、詩賦のすべてを数年の時間をかけて郭磊に叩き込んだ。郭磊も期待に答えて、師匠が十数回受けても合格できなかった郷試に一度で通り、さらに数年後、首都で行われた会試にも合格して「進士」と呼ばれるようになり、高級官僚の仲間入りを果たした。

            

 半月が空に高く懸かり、どこかの寺の鐘の音が遠くに響く。虎丘の斜塔が山の端に透けて見え、夜はいよいよ更けていった。

 蘇州には無数にある湖の一つに何艘もの御座船が浮かんでいる。どの舟も燈篭が明明と灯っており、舳先に座って詩を吟ずる人々や、船室内で盃を重ね合う人々、なまめかしい嬌声を上げる妓女たち、湖面一杯にそれらの賑やかな声が広がっている。見事進士に及第して意気揚々と凱旋した郭磊の祝賀会を、舟を出して水上で開いたのである。

 天銘は舟に乗らず、岸辺のあずまやで数人の人々と酒を酌み交わしていた。若き進士の師匠である天銘にも、尊敬の眼差しが注がれている。次はぜひうちの息子にと、ひっきりなしに人々がやって来るが、正直言って少々うっとおしい。来るのも速いが去るのも速い。風に吹き流される湖の波のような世間を、少年の日からいやというほど見た。

 天銘は小用に立つふりをして岸辺をぶらついてみた。湖からの涼風が酒の入った頬に心地よい。湖面に行き交う舟の灯りに、船頭どもの長い棹が緩慢にほの浮かぶ。それをぼんやり眺めながら、天銘は思わずひとりごちた。

「これが命運というものか、いや、天命というべきであろう……」

 自分と郭磊との間にはどう考えても決定的な差などない。今だって郭磊の書く文章に未熟さを感じることさえある。けれども自分は三十年落第し続け、郭磊は進士になった。所詮、天意に沿わぬ努力は報われぬものなのか。

 愛弟子の成功は無論、嬉しい。しかし、どこか寂寞とした空しさを拭い切れない。天銘には官界を志してからこれまでの三十数年間が一夜の夢であったように思われた。夢を見ている間に何かが体から抜けてしまったような気がしていた。年を取ったからだろう、などと考えた。

 

 目の前を行く舟から静かな管絃の音が聞こえてきた。妓女の一人が弾いているのだろう。琵琶だ。懐かしい音色だ。うちふるえる細かい和音に、しっとり鮮やかな旋律が浮かび上がる。

 この曲を聞いたことがある。ずっと昔に。

 『雨中梨花』……この曲は……

 

梨児リーアル!」

 その名を呼んだ時、体中の血が逆流するのを覚えた。けれども舟はそのまま通り過ぎて行った。天銘は人を呼んで小舟を用意させ、琵琶の音が聞こえる舟を追った。見る間にその舟は、沖合いの数艘の中に入り交じって見分けがつかなくなってしまった。

 構わずに小舟を近づけて懸命に耳を澄ませると、琵琶はまだかすかに聞こえてくる。音の聞こえる方へと小舟を向けさせると、今度は別の方向から聞こえてきた。湖面を吹く風のいたずらで、音色の行方がどんどん変わっていった。天銘は音を追って右に左にと頭を巡らせた。あちこちの舟の灯火が黒い水面に反射して目が眩みそうになる。

 琵琶の音色はいよいよ冴えわたる。まとわりつく酔声や棹の水音を振り払い、月まで高々と昇りそうなほどだった。

 

「梨児! 梨児! 梨児!」

 天銘は声を嗄らさんばかりに叫び続けた。舟遊びの人々は何事かと一斉にこちらへ顔を向けた。

「梨児!」

 琵琶の音が止んだ。

 天銘の目の前に一艘の舟が進んできた。ごく近くまで来ると、舟室の簾がそっと掲げられ、そこから老いた妓女が顔を出した。髪を高々と結い、薄紅色の衣装にほっそりした体を包んでいた。ひときわ明るい燈篭に照らし出された小さな白い顔には涙がいっぱい流れていた。雨に打たれる白い梨の花のように。

 

                

 

2019年2月9日公開

© 2019 大猫

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