雪の降る夜の話

大猫

小説

5,715文字

大雪の降った夜に彼がアパートに泊まりに来た、それだけの話です。思うに女性のセックスは男性のそれより多重性多層性があって、若くても年老いてもそれは変わらない気がしています。これは何十年も前の学生の話ですが、今でも感覚が伝わると思います。

引越しして二日目に雪が降りました。

東京でこんな雪を見たのは初めてです。故郷を思い出す雪でした。

故郷の大きな家は暖かでしたが、こっちのボロアパートはとても寒くて、吐く息が白いのがよくわかります。なにしろ暖房器具はこたつしかありませんし、建付けの悪い窓からはすきま風がビュービュー吹き込んで来ます。

築50年は経っていそうな、木造モルタルアパートの二階の北東向きの部屋でした。二間あるのが気に入ったのですが、なんのことはない、もともと別々の世帯用だった四畳半と三畳の部屋を、仕切りの押し入れをぶち抜いて続きの間にしただけでした。ですから両方の部屋に出入り口があるのです。ドアではなく引き戸でそこからも冷たい空気が流れ込んで来ます。もちろん風呂などなく、トイレも共同です。四畳半の片隅に半間ほどの流しがついているのが唯一の設備らしきものと言えるでしょうか。

寒くてたまらないので、寝室に使うことにした三畳間へ布団を敷いて電気あんかを入れました。まだ引越しの荷物もほどいていないけれど、こう寒くては何もする気になれません。布団に入って早く寝よう、そう思いました。
すると電話が鳴りました。

彼です。これから来ると言います。こんな大雪の夜に。

引越しした場所がわからないから、駅まで迎えに来てくれと言うのです。最寄りは都電の駅でしたが、雪で止まっています。JRの駅まで行かなくてはなりません。こんな大雪の夜に。

もう夜の9時をまわっています。

とにかく先に銭湯へ行こう。

だって、私は引越しのどさくさと、急な寒波のせいで、数日間お風呂に入っていなかったのです。待ち合わせは一時間後。急げば間に合うでしょう。

その人とどこで知合ったのだったか、どんなきっかけでお付き合いを始めたのだったか、はっきりとは思い出せませんが、すでに社会人だったので学生だった私とは生活時間帯が違っており、会うのはいつも仕事が終った夜でした。そして、会えば必ずセックスをしていました。もしかしたら話をしていた時間よりも、セックスをしていた時間の方が長かったかもしれません。私は若くて悦びを知りはじめたばかりでしたし、彼は人一倍欲望の強い人でした。

人少なな銭湯で、私は自分の体がすでに反応を始めていることに気がつきました。普段は陥没して居所が知れない乳首が自分から飛び出ていました。下を洗う時に、そこがしっとりぬめっていることも。

 

大急ぎで銭湯を出て雪の中、駅まで駆けつけると、彼はすでに改札で待っていました。背の高い人でした。ロングコートも持っていないのでしょう。黒い皮のジャンパーがつんつるてんに見えました。

ろくに挨拶もしないでとにかく部屋へ行こうと、私は彼の先に立って歩き始めました。大雪で歩道は歩ける状態ではなく、車道の車の轍を縦に並んで歩くよりありません。時折、横なぐりに風が吹くので、傘をさすのもやめにしました。湯上がりの体に雪が降りかかるまま手をつないで、私が先に、彼が後に、ゆっくりと歩きました。

北国育ちの私はこれしきの雪では驚かないけれど、南国出身の彼は雪道を歩くのがつらそうでした。すべりそうになるたび、握った手にぎゅっと力がこもります。この寒いのにずいぶん熱い手をしています。

大雪の深夜の道には人っ子一人なく、いつもの町並みは雪にかき消されて、影も形もありません。視界には後から後から降ってくる雪だけ。

幼い頃は毎年、毎年、こんな雪を見ました。私の生まれた浜辺の村では、冬になると2メートルも雪が積もったものです。降り始めの雪を見るのが好きで、よく浜の近くまで行っては、どんよりした空から細かな雪が灰緑色の海に降り注ぐのをじっと眺めていました。海には雪が積もらないのかしら、などと考えながら。それに飽きると、首をめいっぱいに仰向けて空を見上げました。まだ遠い上空にある雪片の一つを見定めて、その落ちる方向を追って顔で受け止める、そんなひとり遊びをしました。雪片は大きければ大きいほどよくて、ある時は鼻で受けたり、唇に乗っけてみたり、ぺろっと出した舌で受け止めたり、高度な業になると、眼を半分閉じて睫毛で受けるというのもやりました。

海岸も道も畑もみるみるうちにみんな真っ白になりました。海だけは決して白くはならないけれど。

そうしてあまり雪がひどくならないうちに家へ帰りました。

街に降る雪はただただ迷惑なだけ。こんなに一生懸命に歩いているのに、全然前に進まない気がします。駅からアパートまでは、いつもなら十分ほどの道のりなのに、倍以上の時間がかかっています。歩いている足音さえ聞こえなくて、ただ後ろ手につないだ手から体温が伝わって来るだけです。

この手は誰の手なんだろう。

ふと、そんな考えが頭を掠めました。

いったい私の後ろに誰かいるのかしら。何も聞こえないし、何も見えない。雪の中を歩いているのは私一人ではないのかしら。

またよろけそうになったのか、つないだ手にぐっと力が入りました。

この手はもうすぐ私を冷たい畳の上に押し倒すだろう。この手はもうすぐ私の服を脱がせたり、下着を剥ぎ取ったり、胸を掴んだり、その他いろいろなことをしてくれるだろう。体はひとりでに快楽の記憶をたどります。呼び起こされた記憶は、そのままこれからすることへの予告波となって、下腹部へ向って流れて行きます。

でも、この人は誰なのかしら。

夜に降る雪は不思議です。暗い空から無数の白い雪片が、風に乗って横に縦に揺れながら、ゆっくりゆっくり降りてきます。あまり見つめると眼がくらみそうになります。

でも、私の後ろを歩いているのは誰なのだろう?

前に恋した人の名前を、なぜだかその時、思い出しました。

ジョージと呼んでいたその人は、十五も年が上の外国人でした。ボヘミアンよろしく世界中の国々を旅して回っているその人は、あの国の政情、この国の風俗、この思い出やあの冒険、土地で出会った友達や一夜の恋人、あれこれあれこれ、機関銃のように飛出して、無知で単純な田舎の女の子だった私の頭の中を塗り替えて行きました。私はその人に恋をし、その人の大きな毛深い体に恋をし、その人の中の懐疑することを知らぬ天然の楽天性に恋をしました。

私に初めて愛の秘密を教えてくれたその人は、しかし、私に恋をしていたわけではありませんでした。少なくとも私がその人に恋していたほどには。そして、私がのぼせ上がっているのを見て、ある夜、警告をしてくれました。知らぬ顔で体だけのつきあいを通すこともできたのに、わざわざ言ってくれたということは、良心的な人だったのでしょう。

君を傷つけたくないから言っておく。誤解しないでほしい。僕らは大人同士で楽しんでいるだけだ。深刻なことではない。少なくとも僕にはそのつもりはなかった。君の気持ちはわからないけれど。

私は泣きましたが、心のどこかでこのことを知っていたことも事実です。泣いて見せたのは、ただの再確認に過ぎませんでした。そして、その人の心が私のものでないことを悲しむよりも、その人が私に教えてくれたあのことを、これきり、してくれなくなったらどうしようと考えていました。

それでいい、と返事をしました。あなたが好きな時に去ってゆけばいい。でもそれまでは今までのように楽しんだっていいんじゃない? 私は構わない。

今、私の後ろを歩いているこの人は、ジョージより痩せていて背が高くて、体には毛が少なくて、そしてずっと若くて、とても強い。私の体に正直にむきだしの欲望を見せる。それでいい。私も彼がほしい。彼のなにかを知りたいとは思わない。彼に私を知ってほしいとも思わない。ただしたい、彼と。それだけ。

 

やっとのことでアパートに着いて、電気アンカの入った狭い布団に二人で潜り込みました。しばらくじっとしていると、氷水みたいになった手足がぽかぽかと溶けてゆくようでした。人心地がついた途端、餓えた野獣のような欲情が噴出して、とにかく満足が行くまで貪り合いました。それから手足を絡ませあったままじっとしていると、ほどなく彼の寝息が聞こえてきました。健やかなそのリズムを聞いていると、どんどん眠りの深みに引きずり込まれて行くのが分かります。

雪で外界の物音が遮断されたようです。寝息以外は何も聞こえてきません。

 

あの浜辺の村を出たのは、たしか5才くらいの時。それから母と二人でもう少し大きな町で暮らし始めました。やっぱり四畳半と三畳のアパートでした。

小学校へ入学したばかりの頃、母は私にこう尋ねました。お母さんが働くとしたら、昼間と夜とどっちがいい? 私は夜がいいと答えました。隣りの部屋のマサちゃんは、昼間、お母さんが働いていて、いつも学校から帰った後、何時間もひとりで留守番をしていました。夜のお仕事なら夕方までお母さんは家にいてくれる。お母さんがお仕事に行った後は、寝てしまえばいいから寂しくない。

夜のお留守番にすっかり慣れた小学校3年生の時、母は父と正式に離婚しました。私が会ったこともない父と。

お父さんはずっとお前を気にかけてくれていたんだけど仕方がないの。お父さんにはもう一つおうちがあって、そこにお前の弟たちがいて、そっちの面倒を見るのが大変で、お前はいい子だから、今までだって頑張って来れたんだから、お母さんもお友達もいるんだから、だから我慢できるわね。

もちろん我慢できました。私には父の記憶がありません。知らない人と同じです。知らない人とお母さんが離婚したって私には何の関係もなかったのです。

その町にも雪は降りました。空を見上げて、落ちてくる雪を顔で受け止める遊びは大きくなってもまだ好きでした。近くに海がなかったので、大きい公園に行って遊びました。

 

ジョージが日本を去った時は雪は降っていませんでした。だいたい東京にはそれほど雪が降りません。最後になった夜、ジョージは私の乳首を軽く噛みながら、何か喋っていました。また帰ってくるかもしれないとかなんとか。乳首に触れる舌先の感触が鋭すぎて、私はきちんと聞いていませんでした。ただ顎を上げて、目を閉じて声を出さないように唇を噛んでいました。

また、乳首に何かの感覚が走りました。

これはどうやら指だ。指が触っている。おかしい。口に含みながら指で触るなんてこともできるんだろうか。だいいち、ジョージはもういないはず。

そこで目を覚ますと、あたりは白い薄闇でした。

背中を向けて寝ていたはずの彼が片手を伸ばして私の胸に触っていたのでした。とても眠かったので無視をしましたが、彼は横向きに寝ていた私を仰向けに転がしてしまいました。腰のあたりに高ぶった男性を感じました。

またしたくなったの? 疲れないの? なんて好きな人なんだろう。後にして、眠いから。と言う間もなく、私の上に大きな男の体が乗っかって、すぐに下腹部に鈍い痛みを感じました。それでようやっと眼が覚めましたが、ちょっと腹が立って、上に乗っている男の顔をにらむように見上げました。するとちょうど彼も私を見下ろしていて、ごく至近距離で眼が合いました。

そういう時の男の人の顔をこれまでよく見たことがありませんでした。もっと欲望でギラギラしているかと思っていました。
とても不思議な表情でした。こんなに近くで眼が合っているのに、どこか遠くを見ているような、悲しそうな、疲れたような、わずかに焦点のずれた眼でした。

それから彼は私の首筋に顔を埋めてしまい、脇の下へ腕を差し込んで背中をぎゅっと抱きました。上体がぴったりくっついて身動きもできません。痛がっているのを知って、ごくゆっくり動かしています。寝ている間にヒゲが伸びて首に当たってちくちくします。

我ながら不思議なことに、しばらくするとじわじわと濡れてきて、痛みは薄らいでゆき、その代わりみたいに彼の動きがどんどん速くなって快楽の塊がまた下腹部に生まれて来ました。

 

向かいの部屋の引戸が開く音がします。植木屋をしているとかいう一人暮らしのおじさんです。廊下に出てきてトイレへ行くようです。薄っぺらな引戸一枚を隔てて、おじさんがすぐ枕元を歩いて行きます。声を出さないようにしないと。

彼は本気になりました。私を抱いている腕に力がこもっています。体の真ん中にすごい異物感があります。でももう痛くありません。痛くない。

トイレを流す音がして、おじさんが戻ってきました。そのまま部屋には戻らずドアに鍵をかけて出てゆくようです。鍵を鍵穴に差し込んで、右まわりに回して。鍵穴を壊すくらいに。

ごましお頭のおじさんは階段をギシギシきしませながら降りていく。仕事かしら。こんな雪の日に植木屋の仕事なんてあるのかしら。共同玄関に見知らぬ男靴があるのを見つけて、おじさん、舌打ちを鳴らすだろう。まったく、近頃の若い娘は。平気で男を部屋に連れ込んで。

連れ込まれた男は、娘の中で痙攣を始め、娘は男がうめくのを聞く。

雪が舞う。

そして、死ぬ。

死ぬ。もうほんとうに死んでしまう……

 

「仕事だから」

彼は私の頬に軽くキスをして布団を出ました。私は目も開けられず、暖房もない部屋で服を着ている彼の気配だけを感じていました。布団が広くなったので、思い切り手足を伸ばすと、気絶するみたいに意識がなくなってしまいました。

気がついたらもう部屋には誰もいなくて、あたりはすっかり明るくなっていました。日が差しています。お天気になったようです。よく積もったねとか、そこ滑りやすいから気をつけて、と言っているおばさんたちの声や、雪かきのスコップの音が外から聞こえて来ます。

布団を頭から被りなおして横向きに寝返りを打ったら、膣がスーッと温かくなって、さっき拭き取り切れなかった精液がたらたら流れ出て来ました。太腿を伝って、お尻の下に流れ落ちてゆくそれを拭う気力もなくて、ぼんやり薄目を開けていると、都電がチンチン鳴って、大通りを走って行くのが聞こえてきました。

あれに乗って行ったのかしら、と思ったら、急に涙が落ちて枕カバーに染み込んでゆきました。そしてそのまま、また眠ってしまいました。

2018年12月22日公開

© 2018 大猫

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