自己責任
地方国立大学、N大学の法学部の三原則は、「先輩の言うことを信じるな」「教師の言うことを信じるな」「大学生は自己責任」である。その三原則を、頬がこけていてペリカンみたいな顔の法学部長がマイクで叫んだ。それは、入学式の前のガイダンスでの出来事だった。新入生五百人が大教室に集まり、皆スーツ姿だった。大教室の椅子は、列ごとに段差が設けられていた。二十段くらいあった。まるで威厳のある劇場みたいだった。新入生たちは皆、固唾を飲んでいた。
高校までは先生が絶対的なものとして扱われ、そういう環境に育った新入生たちにとって、教師を絶対視しないこの原則は驚愕だった。先輩も絶対ではないということは、大学という場所に限らず年長者一般が絶対ではないことを示す。若い新入生たちは、自由だった。
法学部長は演説を続けた。
「我々は大学生を大人として扱う。仮に君らが講義をさぼって、アパートでぐーぐー寝てたとしても、大学では先生が起しにいくことはない。さぼっていても試験で点数をとれば単位はつけるし、真面目に講義に出席しても点数がとれなければ単位はつけない。これが自己責任だ」
法学部長の話術に騙されたところもあるが、新入生たちは自己責任がすばらしいもののように感じた。だって自己責任の世界にいれば、先生に従う必要もないし、先生をおだてる必要もないし、先生に気を遣う必要もない。何をやろうが自分の判断でできるし、何をやっても良い。自己責任に魅了されていった。僕は法学部長が演説で「自己責任」という言葉を発する度に感動で涙が出そうだった。そういう運命を負った自分たちはなんて勇敢なのだろう。自分たちは選ばれた特別な存在のような気がした。自分たちが地球の危機で戦うヒーローになった気がしていた。僕の体は震えていたし、周りの女子学生も男子学生も体を震わせていた。自分たちの運命が怖かった。でも感動も入り混じっていた。隣に座った男子学生たちは「心が打たれた」「今日から自己責任で生きていく」と三原則に肯定的なことを口々に言っていた。
カシスオレンジ
自己紹介が遅れたけれど、僕は石原慎太郎の小説が好きなこと以外は極めて平凡なN大学法学部の学生だ。石原慎太郎が好きなんて、恥ずかしくてとても皆には打ち明けられない。反倫理的な本ばかり出版しているからだ。
反倫理的な小説が好きな僕みたいな新入生も、倫理的な小説が好きな法学部の新入生も、専門書以外読書をしない大多数の法学部の新入生も、自己責任の理念に染まり、四年生に進級した。居酒屋で、皆カシスオレンジを飲んでいた。透き通った紫色と濃いオレンジ色が層になっていた。苦味の混じった酸っぱい味がした。皆それが大人の味だと感じていた。誰かが、失恋の話題を口にした。皆はその会話に積極的に入っていった。頼まれてもないのに、相談役になっているみたいな気になっていた。誰かが、法学部の同じ学年の仲間が死んだ話題を出した。
「馬術部の小屋の裏の雪が溶けたら、死体が出てきたんだって。それが○○だったんだよ。コンパの帰りに酔っ払って、雪に埋もれたって話だ」
皆その話題には興味がなかったので、次の話題に移った。今度は誰かが片思いをしている話題だ。それに皆は愛のキューピッドになったみたいに親切に相談に乗った。
僕は何だか、不思議な気分になった。法学部の同じ学年の仲間が死んだことに、誰も何のコメントもしないのが意外だった。皆、○○とは喋ったことはあるし、一緒に大学の演習でチームを組んで討論をしたり一緒にコンパに行ったりと交流はあったはずだ。友達とまではいかなくても、同じ法学部の仲間であったはずだ。もちろんそういう自分も何のコメントもしなかったのだが、だから僕の気持ちも皆と一緒だったんだ。つまんない話題するなよ。僕はそういう気持ちだった。別に○○が事故死したことがヤバイことだから、触れないようにしたわけではない。その会話が面白くなさそうで、それが皆の共通の興味の対象になっていないという理由だ。
僕はカシスオレンジを飲んだ。酸味があったので、すっきりと僕の胃の中に流れこんだ。○○が事故死したことも、カシスオレンジを飲むみたいに脳の中を流れていった。そして忘れていった。僕はカシスオレンジの生々しい橙色を見つめた。これが僕たちの生きている青春だと思った。もう二度と、○○の話題を出す法学部の学生はいなかった。永遠に彼は忘れ去られた。大学も○○が事故死したことは一切発表しなかったし、何の注意喚起もなかった。当然のことながら、警察もコンパの幹事の責任追及はしなかった。
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