私は図書館が好きだ。入手困難な絶版になった本、特に文芸評論がたくさんあるし、無料で合法的に読めて著者に対し優越感を得られるからだ。
家から一番近い図書館に行くと、石原慎太郎全集の『石原慎太郎の文学』(文藝春秋、全十巻、二〇〇七年)はいつも誰も借りていないのに、山崎ナオコーラの『人のセックスを笑うな』(河出書房新社、文庫版、二〇〇六年十月)はいつもレンタル中だ。石原慎太郎の人気のなさにため息をつきつつ、『人のセックスを笑うな』なんていう恥ずかしいタイトルの本をよく借りられたなと思う。家から一番近い図書館には司書が三人いるが、全員女性だ。だから、みんなこの本を借りたくなるのだろうか。
かくいう私も、この原稿を書くにあたり、『人のセックスを笑うな』を改めて読む必要が生じたので、家から一番近い図書館でこの本を著者には申し訳ないと思いつつも予約し、順番待ちをし、女性の司書のところに取りに行った。ダブルの背徳感がたまらなかった。
『人のセックスを笑うな』は速い小説だ。ほとんど情景描写をせずに進んでいく。純文学の新人賞である文藝賞を獲得後、芥川賞候補にもなった意欲作だ。
あらすじとしては、美術の専門学校に通う十九歳の主人公(一人称でオレ)が、その専門学校の先生である三十九歳のユリと、ふしだらなセックスをする話だ。ユリには旦那がいるので不倫ということになる。あらすじ自体はどこにでもある禁断の恋の物語だが、この小説には、別のところに新しさがある。
まずは、『人のセックスを笑うな』の冒頭(九頁)を引用する。
ぶらぶらと垂らした足が下から見えるほど低い空を、小鳥の群れが飛んだ。生暖かいものが、宙に浮かぶことが不思議だった。
薄青い空の中、黒い模様になって鳥たちは飛ぶ。途中くるりと旋回して、またオレの立っているバス停目指し、ぎりぎりまで降りてくる。
この冒頭部分に関しては、有名書評家である大森望がラジオ「文学賞メッタ斬り」内で意味不明だと言っていた。確かに、足の下に空が存在するなんてこと、ありえない。
この論の著者である工藤はじめなりに、この部分を考察する。精読すると衝撃の事実に気付く。四文目で主人公は立っているはずなのに、一文目では足をぶらぶら垂らしているらしい。立ったまま足をぶらぶらさせるなんてことはできるはずがない。これはどういうことなのか。
逆立ちをしているのかとも考えたが、股関節が骨折していない限り、そんな状況にはならないはずで、逆立ちではなさそうだ。
この冒頭は矛盾しているのか。いや、センスの塊であるナオコーラに限ってそんなミスをするはずがない。何か意味があるはずだ。
それとも単なる描写不足なのか、二文目ではバス停のベンチに座っているけど、四文目までの間にベンチから立ったのか。でもそうだとすると、立ったことを書かないのは明らかな瑕疵だと思われる。しかし、この冒頭部分に関し、文藝賞の選考委員も芥川賞の選考委員も誰も描写不足だとは言っていない。少なくともそうは感じていないのだ。きっと選考委員たちは無意識のうちに何かの解決法を頭の中で作っているのだ。
ここでキーワードとして引用部分の「また」というフレーズがある。「またオレの立っているバス停」とあるのだから、ずっと立っていたという気もしてくる。でも「また」の辞書的な意味は「再び」であり、「再びオレが立っている」というのはおかしく、「再びバス停」というふうに、副詞の「また」は「バス停」にかかることになる。つまり、「また」が存在したとしても、ずっと立っていたとは限らないということになる。
これらを総合した工藤はじめの考察を発表する。一文目、主人公は高層ビルの屋上に座り、足をぶらぶらさせているのだ。だから、空が下に見える。そこに小鳥たちが飛んでくる。その後主人公は小鳥たちが飛んでいった先のバス停に瞬間移動し、空気椅子の体勢で筋力トレーニングをした。そして小鳥たちが通り過ぎた後、主人公は立ち上がり、小鳥たちが旋回して戻ってきたのだ。
この小説のあらすじからは誰も想像できないだろうが、『人のセックスを笑うな』はファンタジーなのだ。主人公には瞬間移動ができる特殊能力がある。それを平凡な日常の文体と内容の中に隠し、わかる人にだけわかる状態を目指す匠の技が眠っている。しかもその匠の技には理論的ではなく直感的に文章としての正統性が伝わるということも含有しており、文藝賞の選考委員たちはそれを感じ取り日本語として正しい文章だと思って受賞させてしまった。
実際にこの論の著者である工藤はじめもこの冒頭部分を最初に読んだとき、足の下に空が見えるって素敵だな、こういう描写新しいなと思い、好印象だったし、矛盾しているとは思わなかった。私もナオコーラのファンタジー世界を直感的に感じ取っていたのだ。
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