~1~
雲と霞に満ちて明りがどこから照っているかも分からない気の中を、鶺鴒のつがいが飛び交った。尾を盛んに上下させ、雲の中をもがくように飛ぶ。そして突然雲の切れ間が現れ、そこから強い光が差している。二羽の鶺鴒はただ導かれるようにその切れ間へ飛び込んだ。見ると、泥か固まったばかりの様な島に、天高く太い柱と立派な屋敷が建っている。そして柱の前で、褐色のヒトつがいが立ち尽くしていた。凛々しそうな男!柔和そうな女!しかし顔には不安が入り混じっている。鶺鴒のつがいは島に降り立ち、そして柱やヒトの間を飛び交った。尾を盛んに上下させ……。
「……見ろ、何かが来た」
「まあ!」
「美しいなあ」
「ええ、美しい、本当に……二、匹? 私達に似てる」
「……」
男も女も鶺鴒の尾の上下に見惚れ、そして何かを悟った。この鳥の仲睦まじき事!そして、互いの体で一番違いが目立つ股間に互いの目が行く。
「伊邪那美、我々は似ているが、ここが違ってるね……」
「私のここは足りてないが、伊邪那岐、あなたのは足り過ぎてる様子」
伊邪那岐が伊邪那美のホトに手を当て、湿りを確かめてから手を引くと、糸がずっと引いた。
「嗚呼……」
「私のホコで、あなたのホトを塞いでみようか」
「ええ、きっと面白いことになるね」
二人は鶺鴒に続いて柱を周り始めた。顔を赤らめホトから滝の様に液を流す伊邪那美は左へ回り、股間のホコがいきり立ち天を向いてもう一つの柱にすらなっている伊邪那岐は右へ回った。ふと伊邪那岐が周りの海を見ると、潮が辺に当たり白く高くうねり上がっている。そうしていると、二人は再びめぐり逢った。伊邪那美が先に口を開いた。
「あなにやし……えをとこを!」
伊邪那岐も続けて返す。
「あなにやし、えをとめを!」
そうして、二人は四つに組み合い、柱の周りに転がるように倒れて、伊邪那美が伊邪那岐の上に圧し掛かった。
「私が上ぇ!」
伊邪那美の笑顔に押され、伊邪那岐も笑ってそれを受け入れた。勃起したホコに、上からホトが被せられていく。
「今は何もないこの海原にも、国が、国が出来ていくの! 」
「おお! 」
二人の激しく肉打ち合う音の中で、しかし鶺鴒のつがいはけたたましく鳴きながら柱の周囲を依然旋回し続ける。さらに上下へ揺れながらしきりに羽をばたつかせているのに、伊邪那岐と伊邪那美は注意を払うこともなかった。伊邪那岐が伊邪那美の胸を揉みしだきながら、腰を突き上げた。
「ああっ、あ」
「はああ、どうだね! 命を感じるかね!」
「か、感じる……!」
にわかに雲が激しく立ち込めてきたが、二人の交わりが止むことはなかった。
「な、なんだか天気があ」
「良いじゃないかそんなことはーッ」
そして、いよいよ伊邪那岐の股間は高ぶり、射精に向かった、
「お、お、いくぞ、伊邪那美ーッ」
「ハアアーッ」
伊邪那岐が射精をすると、互いに奇声をあげながら頭をあげた。途端に、伊邪那美の腹が光り輝き、膨らみ始めた。伊邪那岐が笑いながらホコを引き抜きしばらく眺め、伊邪那美も腹の違和感を次第に強めながら微笑み返す。しかし、いく時かして伊邪那美の股から出てきたのは、何に似ても似つかぬ何かだった。伊邪那美は悲鳴を上げ、伊邪那岐は頭を抱えた後、止まっていた鶺鴒を訳も分からず殺した。
「……穢れだ! 」
~2~
高天原の景色は美しかった。深い藍色の海原と鮮やかな桃色の空を眺めながら、透き通るような肌の機織り娘は、しかし美しさのためでなく悲しみのために溜息をついた。アマテラスが動かす太陽は遠くに沈み、色彩は最後の輝きを見せる。しかし機織り娘の溜息は尽きるところがなく、顔を項垂れて終いにはただじっとしているだけになった。項垂れ眼下の先には浜辺があり、その入り江の深いところに、褐色の男が入った檻が見えた。しかしそれが視界の隅に入ると機織り娘は途端に目を背けて、泣きださんばかりだった。あの男は、前の秋の時に帆掛け舟に寄り掛かって気絶したまま流れ着いた者であった。その時、後ろから声がした。
「アメヤノキヌヒメ様、キヌヒメ様、日没ですよ、お戻りください! 」
しわがれているが図太い声、御付の老婆だ。しかしキヌヒメは声に振り返らず、ただ夕日を眺めている。色鮮やかな、美しい景色も、今日は残酷に見える。残酷な光景の中で、あの檻は刻一刻と波に襲われ、夜中の満潮に沈むのを待たされている。
「アレを見られているのですか、アレはお忘れなさいと言ったはずですよ」
「婆やには私の気持ちなんか分からない」
「人は皆、確かに見慣れぬものに心惹かれますよ、しかしそれはほんに一時の気の迷いです、婆だからこそ分かります」
老婆はなだめすかすような声をしながら鈍足に近づいてくるが、キヌヒメは依然振り返らなかった。まさにあの男はキヌヒメと心を通い合わせることがあった。言葉は満足に伝わらないとしても、いや伝わらないからこそ、辺りの男には見られない快活さや顔の成り立ちに惹かれたのだ。しかしそれは、慣習には当然そぐわないことだった。
「機織りも満足にされていないなどと、アマテラス様がお知りになったら」
「もう薄々知っているでしょう」
「アマテラス様はことに今年の人身御供が順調にいかなかったことで御心身に負担が」
「その負担とは何でしょうね、誰の何のための不安か悲しみなんでしょうね」
「キヌヒメ、言葉が過ぎますよ! 」
キヌヒメは口をつぐんだが、それでも老婆に振り返らず、今度はしっかりと檻の方を見た。褐色の男は案外静かに、冷たいであろう波に足を浸しながら立ちすくんでいる。あの男がこのようなことになったのは何より、これと同じ状況で夜通しの人身御供にされていた童子を、事情も一切関係なしに助け出して予定を乱したからであった。あの男にとっては、人身御供という行事そのものの理解がなかった。多くの者は怒り狂ったが、キヌヒメはただ思考にヒビが入るばかりだった。
「どうして、誰かが死ななきゃいけないのかしらね、婆やは知ってる?」
「遠い昔からの御決りで、かつて伊邪那美伊邪那岐様天地御降誕の折に荒ぶっていた海を鎮めるため態々御子お一人を犠牲に差し出したのが」
「でも、あの男が子供を助けてからも波は静かだし嵐も起きず」
「さあ姫様、日も暮れた、帰りますよ! 」
「婆や!」
話は打ち切られ、案外力強い老婆に強引に手を引かれキヌヒメは引きずられていった。途中、下りの坂道で遠くを眺めると、葛城のアマテラスの屋敷が見えた。仮に不意にそういう場所に行き当たったとしてもアマテラスの屋敷を上から眺めるのは不敬だと言われてきたが、心離れていたキヌヒメはトットッとうつ向きがちな老婆の足をたどりながらもただ茫然と屋敷の中心を眺めた。良く見えないが、いくつもの垣根と柵の内の屋敷から、光が照っている。
「ああ、有難いことじゃアマテラス様弥栄、天地万物照らされ」
「……」
祝詞を唱える老婆の背を冷ややかに見つめながらも、キヌヒメはどんどん戻っていくほかなかった。
~3~
以前アマテラスから貰った鏡を眺め、キヌヒメは自分の顔を移しながら、ふと鏡を伏せた。
「見慣れないものに心惹かれるのも一時の迷い、だというなら……」
柵に囲まれた機織り小屋から見える満天の星空の元で、キヌヒメは一番輝く星を見つめる。舟に乗ってやってきたあの異邦の男は、当然星のことを知っていたようだった。
「私たちの知っている世界など、この空の粒に比べて悉く狭いでしょうに」
その時、柵の先で咳払いする声が聞こえ、キヌヒメは驚き口をつぐんだ。控え目がちな足音が迫り、柵を叩いた。
「姉様、居られるでしょう」
「サヤ? ああお入り」
自らに次ぐ機織り娘のサヤが入ってきた。
「姉様、あの男のことをお忘れにならないの」
「誰から聞いた」
「勘」
キヌヒメは呆気にとられながら、黙り込んでそのまま鏡に覆いをするそぶりを見せる。
「ああ、その鏡、アマテラス様は素晴らしいものを下さりましたね」
「……」
「本当の姿を映される神具」
「本当の姿なんて何なんでしょうね」
「姉様」
サヤは困った顔を見せるが、キヌヒメの言葉は止まらなくなった。立っているサヤに、寝台に腰掛けるようにすすめながら、キヌヒメは言葉をつづけた。
「サヤ、貴方を信頼して言うが、確かに私はあの男が好き」
「……ええ」
「あの男について周りがいうことは、性根の悪さでも行いの悪さでもなく、ただ穢れとか生まれとかそんなことばかり」
「……」
「それなら私たちはどこから来たのでしょうね、私たちの本当の清さとか美しさってなんでしょうね」
「姉様、お静かに……」
サヤは話を遮り、視線は覆われた鏡に向けながら、大芭蕉の葉の包みを裾から取り出した。
「檻の鍵です、舟もあります」
「えっ」
「私は姉様の生き様に惹かれてこうして見習っていますが、しきたりすら振り切らんとする姉様の姿にただ心乱れるばかりで」
「サヤ、一体……」
キヌヒメはただただサヤがどうしてここまでするのか、何を思っているのかも心に浮かばなかった。
「姉様のため一心です」
サヤはここまで自分を思ってくれているが、キヌヒメからサヤへの感情は自分の見習いとささやかな友人関係という思いしかなかった。キヌヒメは足元を見て目をつむり思案に暮れた。生まれてこの方、親は早くに無くし、家系ゆえに機織り一筋、そのためにこの世の諸事を司るカミに近付きはしたが、他の多くの者が年頃の為に楽しむ様々なことからは遠ざけられていた。そこへ現れたのがあの男……。世間のしきたりから外れている故に、彼だけがキヌヒメに何等心遮るものなく笑みを浮かべることができたのだ。
「私はこの生き方しか知らない……」
「姉様、時間は僅かです」
「もし離れれば、当然もう世間からは……いや、世間なんて、ここだけでは……でも、これからの生き方……」
「何をぶつぶつ言っているのです、姉様、北の島でも南の地にでもに逃れれば良いのです」
キヌヒメは生まれてから今までのことを多く思い起し、立ち上がった。
「行く」
振り出した腕を、サヤは急に掴んだ。
「姉様、形見を、どうかその鏡を私の思い出にさせてください」
「……」
キヌヒメは今一度、覆いを外して鏡を眺めた。かがり火の明かりに、透き通るような美しい顔が映り込む。そしてキヌヒメは決意したように顔を固め、刺繍の入った覆いごと鏡をサヤにくれてやった。
「後はこのサヤに何もかもお任せください……」
~4~
漆黒の闇の中で、湿った砂を踏みしめる音が響き渡る。一層の小舟を波際に押しながらキヌヒメが歩んでいた。人身御供が果される直前の禁忌で辺りに人がいない中を、キヌヒメは次第に近付いて見える檻に心乱されながらも進んでいく。すでに檻の中ほど、恐らく男の胸のあたりまで潮は満ちている。満潮になれば檻は完全に浸かり、男は命を捧げだされる。
「……ワカヒコを助けた時も、あの人はここを歩いたんだろうな」
舟を掴みながら、キヌヒメは静かに檻に近付いて行った。闇の中、鉄格子の間に、瞳の光だけが輝いていた。男の肌は褐色で闇夜では良く見えない。互いの声が渡り合う距離になったときも、男は声を発さず、キヌヒメが先に呼び掛けた。かつてそっと教えてもらった、男の名前を。
「ジャヤインドラ」
「……貴方ハ、ここに来るベキでなかっタ」
「今、助けるから」
「私を助けテどうナル、二人死ぬダケだ、私は元々ここでもどこデモ生きられないヒトだ」
「インドラ、静かに」
水中の鍵を開け、戸は重く開いた。キヌヒメは心の中でサヤに感謝しつつ、久しぶりにジャヤインドラの腕を触った。冷たい。
「やっとまた一緒に」
「アア……」
しかしジャヤインドラは安堵の声を漏らしたかと思うと、悲しそうな顔をした。
「舟が」
「えっ」
気付くと、舟は水浸しになっていた。底に穴が開いていたのだ。そして、浜辺の奥にかがり火が続々と現れ始めた。
「誰ぞ、造反しおったぞ!」
「追え、追え、二度も神は待たれんぞ!」
神達の図太い声に、かがり火に照らされた海人たちの銛が光る。続々と舟が漕ぎだされ、そしてその先頭にいたのは、サヤとオモイカネであった。
「嗚呼、嗚呼! 謀られた……」
渡された舟はもう動かず、檻からようやく出たジャヤインドラとキヌヒメはただ海へ泳ぎだすほかなかった。しかし、ジャヤインドラは動かない。
「キヌヒメ、言ったダロウ……私は……いや、もう良い、私だけが残る、お前は逃げロ」
「何を言う! 貴方を助けるためだけに、その情だけでここに来たんです! 」
その間にも、罵りの声が次第に近付いてくる。いつの間にか前に出てきたタヂカラオが海面に棒を突っ込み高波を引き起こしながら罵った。
「嗚呼、キヌヒメめ、お前アマテラス様に認められた機織り娘の身でありながらえびす奴の女に成り下がって神を怒らせるか! 」
後から、オモイカネの冷徹な声も響く。
「しきたりを、ならわしを、守れぬ者、それも後から破るもの、二度も破るものに、生きる場所などありません」
そしてサヤがオモイカネの肩を撫でながら後に加える。
「おお姉様、いやキヌヒメ、貴方は機織り娘に相応しくないからこうしてそれなりの道に導きましたわ、二人で死ねて、報謝あそばせ」
弓の音、ついで海面に矢が落ちる音も響き始めた。ジャヤインドラは小舟の端を持ち上げると、一旦は一度に水が抜け、そこへキヌヒメを強引に押し乗せた。
「さあ、行け、イケ……」
「インドラ! 」
インドラは後から小舟を押し出し、少しでもキヌヒメを追手から遠ざけようとするが、上手く叶わない。しかしその時、追手の中のある一艘で騒ぎが起きた。でっぷり太ったウケモチが何者かに舳先から突き落とされたのだ。そこには、先にジャヤインドラに救い出され、都合の悪さゆえに遠ざけられていた孤児のワカヒコがいた。
「うわっ、ゲエエエ、うぼえっ、おえっ」
ウケモチは急のことで海面で慌てて大量の吐瀉物をまき散らし、その惨汚さに驚いた他の舟は列を乱した。そこをワカヒコはただ櫂を素早く動かし、後からのタヂカラオの波も利用して何より早くジャヤインドラとキヌヒメの舟に繋げた。
「姉ちゃん、兄ちゃん、乗って! 」
ジャヤインドラもキヌヒメも、ワカヒコの舟に乗り込み、そのまま江の外へ出ようとした。
「嗚呼、何という……」
「兄ちゃん、俺、怖かったんだ、あの夜、凄い怖かったんだ、でも皆のために死ななきゃと思ってた、でも、でも」
「オオ、何もイウな、死ななくて良い、誰モ誰かのために……」
しかしその時、タカミムスビの放った矢が、ワカヒコの喉を射貫いた。
「あ……」
「ワ、ワカヒコッ!」
"日本古事真記"へのコメント 0件