陸に引き上げられた魚がビチビチ跳ねる様を見て「ダンスだ」と思った。これがダンスならドラムロールだってダンスだ。バチが面の上で跳ねている。あれもダンスだ。昨日姪っ子のダンスの発表会を見たせいだろうか。姪っ子のダンスは跳ねも跳びもしなかったが、くるくる回ったり腕や足をカクカクさせたりしていて、小学生とは思えないレベルだった。私の文章ではすごさが伝わらないのだが、まぁ、とにかくすごかったのである。ビシビシ動いていた。バシバシ動いていた。くねくね動いていた。ダンスというのは必ずしも跳ねたり跳んだりするものではない。魚が跳ねるのもドラムロールのバチも音楽を付けて動きを調整してMAD動画にすればダンスと認識されるだろう。なんならメダカが泳いでいる様だって音楽に合わせれば優雅なダンスに見えるだろう。それでは、ダンスには音楽が必要なのだろうか。そんなことはない。無音の中でダンサーが踊っていてもそれはダンスだ。踊るとは何か。
魚のせいで変な思考にハマりこんでしまった。目を覚ました時に流れていたYouTubeの動画が釣り動画だったので、そんなことを考えてしまったらしい。考えを振り払うように、ぐらりと顔をあげると吊革につかまるぎゅうぎゅう詰めの顔、顔、顔。最寄り駅が始発駅なので、満員電車でも毎日座れるのは良いことだった。毎日満員電車に乗らないといけないのは悪いことだった。タンタタン、タタン、タタタン、と電車がリズミカルに揺れる。それに合わせて死んだ顔の人たちも揺れる。こういうダンスあるよね。っていうか、これもダンスじゃん。
終点でドアがガッ、チャコンと開いて(電車のドアが開く時毎回タメがある。よく聞いてほしい)、穴の開いたビニールプールから吹き出る水みたいにピョーと人が流れ出る。私はなんだがそれがおもしろくて笑ってしまった。毎日見ていることなのに、おもしろく感じる。なんか皆ノッてるなと思った。電車から降りるだけなのにダンスになるなんて。リアルに箸がこけてもおかしいかもしれない。カランコロン。箸がこけるところを想像する。やっぱりそうだ。私は笑う。気付いてしまったからだ。真理に。そう、すべてはダンスだということに。
いや、しかし、ダンスっておかしいのか。「あれもこれもダンスだ!」と笑うのは愚かではないのか。姪っ子のダンスの発表会を見て私は笑っただろうか。笑わなかった。真剣に見た。感動すら覚えた。こうして思わず吹き出してしまうのはダンスを嗤っているからではないのか。ダンスはおかしくない。ダンサーに失礼だ。姪っ子を馬鹿にするつもりなのか。そんなつもりなど毛頭ない。大変申し訳ありません。以後、気を付けます。ダンスを笑うな。私は口をぎゅっと真一文字に結んだ。鞄を持ち直して電車からお漏らしされた乗客の中の一人になる。ぞろぞろと歩く。ぞろぞろ動く頭。改札から次々と出ていく人たち。たまにピンポーンとひっかかって流れを乱す人がいる。でも、そういうものだ。それも構成のうちだ。ダンスの。ずっと一定だなんてつまらないじゃないか。笑わないように頬の肉を噛んだ。口の中で血の味がにじんでくる。長いエスカレーターを誰もが早歩きで降りていく。繰り返される「エスカーレーターは立ち止まってご利用ください」のアナウンスに合わせてリズミカルに。私もこの流れの中にいる。集団ダンスの中の一部なのだ。せーのでフラッシュモブなんてしなくたって、もともと通勤ラッシュの駅は無意識にフラッシュモブをしている。街はパフォーマンスし続けている。なんならこの世界そのものがパフォーマンスかもしれない。地球も宇宙も。規模がデカい。ドデカスケールだ。
出社しても、タイムカードを切るのも、社訓の唱和も、怒る上司も、キーボードを打つ音も、昼にパンをかきこむように頬張るのも、コーヒーをこぼさないようにデスクにのせるのも、全て踊っていた。もともと踊っていたのにそれに気づかなかった。帰宅して、夕食の用意をする妊娠中の妻も、流れるテレビも、咀嚼も、風呂も、跳ね返る水の音も、打ち付けれる雨粒も、不意に吹く突風も、妻のヒステリーも、全てがダンスだった。踊りながら私は働いた。月曜から金曜まで。土曜の午前中に私は妻と産婦人科に行った。産婦人科のエコーで映った私たちの子供は既に踊っていた。ボコボコ動いている時に手を置かせてもらった時も、そういえば踊っていた。まだ見つけていないダンスもあるのだ、と私は驚いた。嬉しくなった。赤子、いやそれ未満の命が踊っている。私の子だからではない。こんなに誰もが踊るのだから、そもそも私たちは産まれる前から踊っていたのだ。そう思うと目頭が熱くなった。妻も私を見て涙ぐんでいるのを見て泣きそうになっている。きっと思っている理由ではないのだが、私はそれに乗っかって思う存分泣くことにした。すべてはダンスだったのだ。全部ダンスの一部なのだ。生命が発生したその瞬間から踊っている。そして死ぬまで踊り続ける。体が動かなくとも、踊っている。車椅子のレバーを握る腕も、寝たきり老人の呼吸する腹も、不意に動く指先も、その鼓動も、心電図も、ダンスである。私たちは誰にダンスを見せているのだろうか。みんな踊っているというのに。こんなに誰もが踊っているというのに。踊っている人がダンスを見られないわけではない。踊りながらもダンスを見ることはできるのだ。現に私がそうではないか。私たちはダンスを見せ合っているのだ。
受付を後にしても、私は人目も憚らずむせび泣いた。妻はちょっと白い目をしていた。でも私を見ていた。私はダンスだった。妻もダンスだった。待合に座る人々も、受付にいる人も、ダンスをし、ダンスを見ていた。ダンスをご覧ください。そう思った。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-12-22 11:56
陽水は自身の歌の中で、
「日毎夜毎、包み込まれて、ダンス、ダンス、ダンス、ダンスで揺れてる毎日」
と歌い上げましたが、あれから40年余りで世の中はよりダンスダンスの世界になってきましたなあとしみじみです。