ここにいるよ(9)

ここにいるよ(第9話)

高橋文樹

小説

10,441文字

ミユキとの将来が確固たるものになっていくにつれ、Mへの執着を断ち切ろうとする「私」。過去の清算を行うべく、植物人間となった元親友の元へ向かった「私」が意図せずして取ってしまった行動とは。

『命がけの飛躍』――そんな言葉があったはずだ。どんな文脈で使われていたのかは忘れた。たぶん、哲学的な文章でよくお目にかかったと思う。

とにかく、避妊しなかったことはミユキにとって「命がけの飛躍」だったらしい。よくある搦め手のような気もするが、もう結婚に関する具体的な話も出ていたし、お互いの親に会う日程も漠然と決めてあった。あれよあれよという間に、そうなっていた。

「たぶん、家庭を持てば違うんじゃん。何かしなくちゃって気になるって」

ある時、ミユキがそんなことを言った。私は曖昧に同調した。すると、彼女は物足りないのか、強い口調で付け足した。

「それに、私、もうそんなに小さな存在じゃないもん」

私は彼女を励ました。自分を卑下していると思ったからだ。しかし、今になって思えば、そこには「この私にとって」という意味が隠されていたのだろう。その誤解には、やはりMと元史の幻影があった。まだ「地に足がついて」いなかったのだ。一刻も早く、ミユキの決意に報いる準備をしなくてはならなかった。

とはいえ、それはまだ難しい仕事だった。捜索の手を伸ばしても、それがすぐに途絶し、また新たな道を模索しなくてはならない。私は行動に疲れていた。そこで見出した解決策は、またしても奇妙な形を取った。

たっぷりと与えられた時間を使い、Mの死を繰り返し想像すること。Mは美しいまま、手の届かない存在になる――それがもっとも望ましい現実だったから。

自殺や、他殺、事故死――様々な方法でMを殺した。そこに感じる悲しみや切なさを比べ、どれがもっとも適当かを慎重に吟味した。それははじめ、退屈で空疎な作業だったけれども、しだいに色付き始め、実際の記憶と区別がつかないほど、唯一の、これ以外にないというものになっていった。

Mは留学先のカナダで氷河を見に行った際、足を滑らせ、クレバスに転落する。氷河はゆっくりと動き、一年後に同じ場所へと戻ってくる。クレバスの底には、生きていた頃と変わらない姿のMが眠っている。肌を差すような冷たい空気から隔絶された氷の中で、穏やかに目を閉じ、微笑みにも似た表情を湛えながら。

毎年決まった季節にMと会うためにカナダへ行く自分を想像し、悦に入った。独創ではなく、中学生の時に読んだ英語教材から借用したアイデアだったけれど、既に用意された物語の器を利用した空想は、ずっと鮮やかに私の胸を広がった。

氷漬けのMは、クリスチャンにとっての磔のキリスト像のように、私の内なるシンボルとなった。折に触れてその像を描き、胸の奥に生まれる暖かい塊を慈しむ。それはあくまで生産的な精神の営みのはずだったけれど、やがては、奇妙な転換を生んだ――植物人間も案外綺麗かもしれない、と。

ミユキが私の実家を訪れることになっていた日の三日前には、再び、得体の知れない行動力が芽生えていた。優先順位が入れ替わったのだ。私は元史のいる病院へと向かうことにした。もう悲壮な決意はかけらもなく、無慈悲な楽観論だけを胸にして。

病院の受付で元史の病室を尋ねた。アルバイトらしい受付の青年は、面会の刻限を告げると、はきはきとエレベーターを指示した。四階へ上がり、リノリュームが所々剥げた廊下を歩くと、ドアを開け放した病室があった。元史のいるはずの狭い病室には、ぎっしりと人が詰まっていて、すでに臨終の様相だった。

私は雷に打たれたように立ち尽くした。私は死神なのだ! 五年間も植物状態のまま生きつづけたのに、私が来たときに限って死んでしまうなんて!

私は人々を押し分け、ベッドに駆け寄った。しかし、そこにいたのは元史ではなかった。老人で、しかも生きていた。私はその老人の家族らしい人たちの視線を全身に受けながら、病室の外に出た。ドアの右脇には元史の名が書いてあったが、左脇には別の名が書いてあった。病室の中の人々は、まだ私のことを眺めていた。特に、子供の視線は熱心だった。

「Kさんでしょ?」

背後からの呼びかけに私は救われたように振り向いた。初老の男が、今活けてきたばかりらしい花瓶を持っていて、そこには限りなく白に近いコスモスが三本だけ差してあった。私は簡単に自己紹介した。

「知ってますよ。一緒にキャンプをしたじゃないですか。あの真魚さんも一緒に、うちのキャンピングカーで」

その記憶もなかった。私は生涯で一度しかキャンプをしたことがなく、そのときはまだ小学生で、しかも雨が降ったせいで、夜中に近くのホテルに移ったのだ。

私は「ああ、そうですね」と適当に合わせた。そして、促されるまま、病室へ入った。

六畳ほどの個室で、中は色々な機械で一杯になっている。その中の一つが、脈白らしきものをモニタリングしていて、規則的に音を立てる。ベッドの脇は、人が一人やっと通れるぐらいの隙間しかない。嫌な匂いが鼻につく。刺すような薬品の匂いの中に、腐臭が混じっている。

中央にあるベッドに、枯れ木のように細くなった人間――いや、枯れ木そのものが寝ていた。それはMの偶像とは程遠く、私を苛立たせた。

「わざわざありがとう。こいつ、こんなんで挨拶もできませんが、まあ、座って下さいよ」

差し出されたパイプ椅子に腰を下ろした。座ると一層窮屈で、元史の父の顔がすぐ側にあった。それで不快を感じたということもない。中年の男が発する古びた寝具のような匂いには、懐かしさを覚えた。私の父も、そのような匂いを発していたような気がする。ただ、間近で父の匂いを嗅ぐような機会がその頃にはなくなっていたので、子供の頃に抱いたはずの慕わしさにまでは立ち返らなかった。

知らず知らず、昔の元史へと精神的ににじり寄っていく。しかし、息子の役割への接近は、元史の父が突然語り出したせいで、断ち切られた。

「こいつはね、こんなんでも、生きているらしいんですよ。何も考えちゃいない。直る見込みもないでしょうな。いっそ死んじまった方が幸せだなんて、思いますよ。残酷だけどね。でもね、生きてるんです」

馴れた台詞を思わせる口調で言い終えると、しばらくの時間を置いて、「生きてるんです」と繰り返した。その顔には、疲れが刻んだ深い皺が何本も走っていた。髪はほとんど真っ白で、目は精彩を欠いている。まるで老人のようだった。

それでも、彼は自分を鼓舞し続けた。これまでの経緯を私に向かって詳細に語り、いかにその道のりが困難だったかを印象付けた。自らの苦闘に凱歌を上げる様は、勇壮と言うより、悲壮ですらあった。絶望という結末に向かって何度も立ち上がる、真の意味での絶望。彼に残されたのは、認識における勝利だけだった。

やがて、彼は自らの覇気にあてられたようにして、涙を零した。それは次第に強くなり、ほとんど嗚咽になっていた。憐れみを堪えかねた私が彼の肩に手を置いたものの、彼はそれを振り払うように立ち上がり、病室を出て行った。

2015年8月1日公開

作品集『ここにいるよ』第9話 (全26話)

ここにいるよ

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© 2015 高橋文樹

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