くみ取りに来た男

春風亭どれみ

小説

17,865文字

81%。
令和日本における下水の普及率だそうな。多いとみるか少ないとみるかはさておき、バキュームカーというものはめっきり見なくなって久しい人も多いのではなかろうか。しかし、先の震災時や大賀屋外イベントや建設現場の仮設プレハブなどでの活躍を見るに、彼らもまたいわゆるエッセンシャルワーカーであるのは間違いないだろう。

1

 

「……あの、脚立を貸していただけないでしょうか」

 

春の昼下がりであるというのに、空は淡いどどめ色に染まり、槍のように降り注ぐ雨が情け容赦なく、駐車場に停まる数少ない車たちのボンネットを打ち据えていた。

パートタイマーの井上弓子がサービスカウンターで欠伸をしても、それを見咎める客や社員などはいない。彼は、そのような閑散とした店内に忽然と現れた。

弓子がそのぬぼっとした体躯の男を目にした際、彼女は時折、バックヤードに現れては、従業員たちを翻弄するだけ翻弄して雲隠れする、図体が馬鹿みたいに大きい目ヤニだらけの濡れ鼠の存在が脳裏に過った。

幼少期、寝ている間に、溝鼠に首筋を噛みつかれた経験を持つ弓子は、世間一般の女児にとっては目がないはずの、兎や文鳥、モルモットのような小動物の類が一切苦手になっていたので、その元凶である鼠となったら、世界中に夢と感動を与え、その対価に小国の国家予算ほどを毎年稼ぎだすドル箱キャラクターである電気を操る彼や、湾の一角に築かれた夢の国の領主であるあの存在に対してでさえも、幼い彼女は眉を顰めた。特急さざなみに乗車すれば、両者どちらも、他の同年代の子たちよりも、比較的容易に会える環境に暮らしてきたというのにもかかわらず—―。

それほどの機会の損失を与えた忌まわしきドブ鼠のイメージを脳裏に過らせるほどの人物。彼女にしてみれば、男の名状しがたい不快感を説明するのには、それだけで充分であった。

 

(あれが人間に化けて出てきたのではなかろうか)

 

男は濡れ鼠に形容されるに値するほどには、ずぶ濡れであった。

店内にポツリポツリと落ちる滴は、彼が辿ってきた経路を示す道標となっており、弓子が咄嗟に台布巾を手渡した今も、男の羽織る透明のレインコートの袖から、裾から、薄く茶褐色に色付いた露がとめどなく滴り落ちていた。弓子は、この男は些か、レインコートの性能を信用しすぎているのではないだろうかと思った。

 

「すみません。入る前にだいぶ雨粒、落としたつもりだったんですが」

「いいえ、大丈夫ですよ。けれども、どうして、こちらまで」

 

弓子は凡庸な接客業従事者に押し並べて見受けられる口角の角度を意識しすぎるあまり、大頬骨筋をただ徒に緊縮させた、あの強張った笑顔を浮かべながら、彼の謝意をあしらい、重ねて尋ねた。実を言えば、弓子に限らずこのディスカウントストアに勤務する従業員なら、彼のことをよくよく見れば、大まかな素性くらいは分かり得た。

少なくとも、彼は闖入者でも不審者でもない。掻い摘んで言うならば、彼は本来、店内にまではあまり出入りしない出入り業者である。

レインコートから透けるカーキの作業着の胸元に刺繍された「(有)日の出衛生」の名が示す通り、彼はこの敷地内に滞る屎尿を収集し、然るべき処理施設まで運搬することを請け負っている、首から入館証もキチンとぶら下げたれっきとした業者さんである。

平成の代のうちに、経営統合を繰り返した本社の新体制から見捨てられ、閉店を余儀なくされたとある国道沿いの家電量販店を居抜いてオープンした弓子の職場は、石綿がところどころ粉を吹く古い物件で、特に資材館と呼ばれる別館の老朽化は見過ごせないレベルにまで到達しており、吝嗇な本社も、「これではさすがに」と、堅い財布の紐を解き、全面的な改修工事が進められることとなり、資材館は緑十字のマークと黄地に黒の縞模様をしたバリケードに覆われ、衆目からは隔離されるようになった。

そして、大掛かりな工事を行う相当数の現場の人びとが、皆、来客用のトイレに詰めかけるわけにもいかず、彼らの為の仮設トイレも関係者用の駐車場の端っこに設置されることとなった。

玉掛けの資格を持つ者ならばポータブルである仮設トイレには、上下水道を引くことが出来ない為、工事が撤収するまでは、建設業者に加えて、汲み取り業者にもお世話になる次第となった。いつぞやの朝礼で渡された業者の一覧を記したペーパーにも「(有)日の出衛生」の名前は載っているので、彼を不審者扱いする従業員は極めて不勉強と言えるのである。

 

「あの、サービスカウンターに行けって、誰に言われたのですか」

「脚立の件を伝えたら、守衛さんには、自分には判断できないからと、二階の本部に案内されて。ただそこでペイズリー柄のネクタイをした法被の人に、サービスカウンターに行ってと……」

「随分とたらい回しにされてしまったのですね、申し訳ございません」

 

バックヤードを、目を凝らして見渡せば、至る所に彼が付けて回った水滴や長靴の跡が未だ乾くことなく残されているのが分かった。

シルバー人材センターから派遣されてきた守衛さんの方は仕方ないにしても、本社のエリア統括組織から出向いて来た「バンバンペイズリー」こと、山賀統括本部長の事なかれ主義はこんな些細なところにまで及ぶのかと、弓子はウンザリした。

この店舗の中で、ペイズリー柄のネクタイを付けている人間など山賀一人しかいないので、汲み取りに来た男を無碍に扱った犯人を捜すのには、監視カメラを覗く必要すらなかった。

恥知らずなこの小太りの男は、本社から下ろされてきた「チャレンジ週間」なる販売のノルマをせっせせっせと店舗に持ち込み、その当人と来たら、ワイシャツの上に、悪趣味な法被を羽織って、調子の良い音頭をとり、店長を含む、店舗従業員の尻を叩くばかりで何の対策も施さない為に、パートタイマーのおばちゃんたちの覚えが非常に悪く、陰では、「バンバンペイズリー」などという小馬鹿にしたようなニュアンスを含むあだ名で呼ばれることが常だった。

 

「このようなご時世です。私どもといたしても、街の皆々様と、痛みを共に分かち合えなければ、そう感じているのであります。ですので、なんと、バンバン、大・大・出血大サービス価格。この一週間は私ども、覚悟の一週間でございます。まず、自転車コーナーにおきましては、お母さんたちの強い味方、電動アシスト付き自転車がなんと……」

 

弓子がそう思っているうちにも、朗らかにアレンジされた『ヘルプ!』のBGMを遮って、唾液まじりのだみ声をした山賀の案内放送が、店舗中に響き渡った。弓子がそのさもしさに辟易して、溜め息を漏らすと、男は少し背中を丸め、「困」の文字のような顔をしながら、彼女のことを覗き込んだ。

 

「……あの、ご無理なようでしたら」

 

その幽霊のようなくぐもった声色にぎょっとしつつも、弓子は右手を軽く横に振り、彼の懸念を和らげることに努めるようにして答えた。

 

「いいえ、全く別のことですから、脚立は……ハイ、問題ないですよ。変な用途に使わなければ、ええ」

 

半ば失礼な返答であるとは、弓子自身も感じていたが、屎尿の汲み取りという仕事に、全くの無知ではないものの、具に業務内容を把握しているかと言えば、そうではなかったので、貸し出す予定の脚立が一体どのように使われるのか、それが心配ではないといえば、嘘になるので仕方がないことであった。

バキュームカーのタンクの上に乗っかる脱臭器に引っ掛かった異物を取り除きたいとか、仮設トイレの中にスマートフォンを落としてしまったので、脚立でほじくり出したいとか、脚立が糞尿で汚されるような、そんな使い方はしてほしくない。

真っ当な人間なら、そう考えるのは正常ではないだろうか。弓子は先方への無礼な感情を自身で解釈し、そして、納得させた。

 

「あ、あの、ちゃんと拭いて返しますから。……雑巾も、こちらで買って、それで、えっと、使います」

図星を突かれたとばかりに、男の挙動が途端にしどろもどろになり出すのを見て、弓子は、自身の中の訝しさから来る苛立ちがふつふつと煮立ってくるのを感じ、つい、嵩に懸かった態度で彼に突っかかってしまった。

「あまり不衛生な使い方をされるようでしたら、こちらも備品をお貸しするわけにはいかないのですが」

 

男は餌を横取りされたアザラシのように、肩との境界線の曖昧な自身の首を振っては、「あの、違うんです……」と、力無く呟き、それから、もったりとした胸筋の動きで、搬入口の重い扉を開いた。

店の外は相変わらず酷い土砂降りであった。むしろ雨脚は弓子が出勤した時よりも増しているとさえ感じた。

 

2

 

運河と化した片側二車線の国道をトラックが曳き波を立てつつ、渡って行き、二人の若いセーラー服の学生が、軽金属の摩擦音のような笑い声を上げながら、側溝に嵌った自転車を引っ張り上げているのが見えた。それらのちょっとした非日常の生活音は、間を置かずに、煎った豆を太鼓に投げつけるかのような雨音にかき消されていった。

男の停めた、タンクにでかでかと「(有)日の出衛生」の名が記されたバキュームカーは、搬入口の駐車場の中でも、一際端っこの方で、所在なさそうに佇んでいて、弓子は「車も持ち主に似る者なのだろうか」などと感じた。

隣で突っ立っていた男は、「凄い雨ですね」と、一言呟くと、弓子の視線を誘導するように、ゆっくりと腰を屈ませながら、屋外に出た。そのまま、二、三歩ほど蹲踞の姿勢を保ちつつ歩いて、駐車場の隅っこに転がっていた毛玉のようなものの前で、雨に打たれたまましゃがみこんだ。弓子の目には、それが全く不可解な行動に映った。

絶えず舞い続ける水飛沫のせいで景色は、白っぽく濁り、ただでさえ、軽い老眼が始まり出している弓子の視界は、一層不良なものとなっていたので、毛玉がいったい何であるかも分からず、彼女はそれに気にさえ留めてもいなかった。脳内で無意識のうちに、誰かの落とした手袋か風で飛ばされた靴下あたりに変換させていたのかもしれない。

 

しかし、巨人の大きな手に抱かれ、胸元に寄せられ、丁重に雨の当たらない搬入口まで持ち運ばれた毛玉の正体は小さな生命であった。

男の頑強な首とは対をなしたような、華奢な首筋からそのまま延長線のように伸びた細い嘴をぱっかり開けて、小さな音を奏でる小鳥の雛の全身は、羽毛という言葉の響きではイメージ出来ないほどに、降りしきる雨のせいで毛が固められ、鳥というよりも針鼠のような動物に近い印象を弓子に抱かせた。その姿を見るなり、彼女は、咄嗟に右足を半歩後ろに引いていた。

「人間が、特に俺みたいなのの手が触れたら、菌とかそういうので、この雛が弱っちゃうかなと思ったのですが、やっぱりこのままにしていたら……あの、どっちみち、お店のお仕事が増えてしまうと思ったので、清掃とかも、その、亡くなった小鳥の雛を処理するとなると負担ですし、何より、夢見も悪いのではないかと……ええ、ハイ」

男は情けないほどに不安げな表情を隠そうともせず、搬入口の庇屋根の下に拵えられた鳥の巣を仰ぎ見たり、弓子を凝視したり、忙しく首を上げ下げしながら、答えた。弓子も、彼が露悪的に振舞おうとしているわけでも、冷血な性格をしているわけでもないことは、すぐに分かった。

彼は彼なりに考えを巡らせて、店舗の備品である脚立を、たとえ倫理的、道徳的なものであっても、結局は私的な感情由来で使おうとしていることへの、ビジネスの観点から見た場合での正当性というものを説こうとしているのだろう。

ただ彼の言語野が、浮かび上がった理屈をちぐはぐにしか紡げない為に、このような稚拙な物言いになっているのにすぎない。弓子はそう感じたのであった。

 

「脚立と……タオルも要りますよね」

「脚立、重いですよね。場所を言っていただければ、俺が持って来ます。この子の方を見てあげてくれませんか」

「平気です。気にしないでください。その雛を見ていてあげてください」

 

男の言葉を遮るように、弓子はバックヤードの脚立の立てかけてある方へ、駆けていった。その途中で、キッチンペーパーの梱包された段ボールに躓きそうになり、ちょうど舌打ちを鳴らしているところを、パートタイマー仲間の西島さんに目撃されてしまい、彼女はひどく恥ずかしい気持ちになった。

 

「どうしたの、井上さん。トイレにしては長くないかしらって、言われていたわよ。サービスカウンター、研修中の子が包装でヘマやっちゃって、人手欲しいのよ。お客は全然いないのに、慌ただしいなんてイヤになっちゃう」

 

弓子はぺらぺら喋り始めそうな西島さんに、「すぐ戻るんだけど」と、前置きしたうえで、男や巣から転落した鳥の雛のこと、そして、脚立とタオルが必要なことを端的に話した。

 

「ええもう、ヤダァ」

事の始終を耳にした西島さんは、そう零した。

「脚立、井上さん一人じゃ持っていくの、大変よねぇ。でも……ねぇ、可哀想ではあるけれど、その人に脚立貸すのもちょっとねぇ、だし。それに、脚立は貸してもその人のこと何も手伝わない方がいいわよ。うっかり怪我して、私たちパートに労災を使うってなったら、バンバンペイズリーもお冠よ。井上さんには、サービスカウンターに戻らないといけないって大義名分もあるんだし、その人に後は任せて、脚立の後処理は守衛さんに任せたらいいじゃない。あの人たちも、それくらいの仕事はしてもらわないと」

 

休憩時間も弁士のように延々と喋り続け、口から先に生まれたと揶揄されることもしばしばな西島さんの怒涛の、立て板に水をマシンガンよろしく注ぎ込み続けるトークに気圧されて、弓子は、「……そうね」と相槌を打つしかなかった。

左の皿に乗る良心の呵責と、右の皿の上で胡坐を掻く生理的な忌避感との間で、揺れ動く秤に、労働災害保険という重く冷たい分銅が右の方へと加勢をしたら、導き出される答えには、もう異論の余地を挟めるスペースは存在し得なかった。

やむなく弓子は、脚立を搬入口まで運ぶことだけは西島さんに手伝ってもらって、かくかくしかじかと、持ち場に戻らねばならない理由を、雛を未だ大事そうに抱え続ける男に熱弁した。

男は、「勿論です。ご迷惑をおかけしました」と雛を抱えたまま平謝りを続けるので、弓子の方もしつこいほどにお辞儀をしながら、男の視界から自身が消えるまで、後退った。

そして、カーキ色の大男が視界から消えるや否や、弓子は、バックヤードのスイング扉を西部劇のガンマンよろしく勢い任せにこじ開けて、サービスカウンターの方まで、早歩きで、周囲に緊急を装いつつ駆けつけるのであった。

研修生の犯したミスはマニュアルを読めば、自身で解決できるほどに些細なことであった。安堵したパートタイマーたちの間に談笑の輪が、波紋のように広がり、そして再び閑散とした店舗は、退廃的な平和の色に染まった。

休憩の頃合いを見て、弓子が再び搬入口の方に向かうと、外の雨は霰に化け、一層攻撃的にアスファルトに襲い掛かっていた。

見渡せども、駐車場にもうバキュームカーの姿は無く、先ほどまで雨に濡れた毛玉でしかなかった雛は、巣の上で鳥のシルエットを取り戻し、身体を震わせながら、ピィピィと鳴いていた。

弓子は守衛室に立ち寄って、出入者の管理名簿を開き、最下段に記載された「(有)日の出衛生」の字を指でなぞった。男の書いたと思われる字は癖の強さが甚だしく、総ての文字がイタリックよりも右に傾いており、その文字群は、弓子の頭に、いつか見た、海外のスーパースターが歌い踊るライブ映像の光景を思い出させた。

衛生の「生」の字の横に記された二文字は、常識的に考えれば、その男の苗字に他ならないはずだったが、ただでさえ字面の癖がある上に、彼の名は弓子の知らない漢字が使われているらしく、解読に難儀した。

「……津。田んぼの田にえっと、旁がぐしゃぐしゃしすぎていて、これだと流石に分からないなあ」

しかし、そのことが、一生掘り返されることはないだろうと誰もが、無論、弓子自身も思うような、とても他愛ない記憶を再び、呼び起こすこととなった。

(以前に私、あの人に一度、会ったことがある)

 

3

 

弓子が寝泊まりしに帰ってくる実家の自室は、おおよそ四半世紀は時の流れから取り残されている。

かつて彼女が愛してやまなかったアイドルグループのポスターは、色褪せながらも、当時の瑞々しい片えくぼを変わらずに振りまいており、進学の為に上京する際、新生活のお供にと、御眼鏡に適ったはずの文庫本やインテリア雑貨たちは、いつしか彼女のもとを通り過ぎて行ったが、皮肉とも言うべきか、選ばれなかった古い少女漫画やくたびれたぬいぐるみ、箪笥に寄りかかって背伸びしたままの『アヴェ・マリア』の8センチCDは、うっすらと頬にほうれい線が浮かび上がった弓子の傍らに寄り添っている。

彼女はこれといった志があったわけではないが、急峻な地形の狭間を縫うようにして、ぽつりぽつりと住家が疎らに点在している故郷の小さな集落を出て、都会で生活したいという漠然とした願望を幼い時分から持っていた。

同級生はおろか、学び舎を共にした生徒というもっと大きな括りでさえ、両手の指で数えられるほどしかいないような、戦後直後に築かれてから一度も、校舎が建て直されたことがないという歴史だけを持つ分校に、若いエネルギーの受け皿になれるほどの耐性は、もはや無く、藪に蹂躙されきった嗄れた山間の隘路は、多感な彼女に年相応にませたファンシーグッズをお小遣いでこっそり買いに出かけることを、意地悪く阻んだ。

極めつけは、弓子と同世代の人間にとっては通常ならば、文献の中でしかその存在を知らない汲み取り式の便所。いずれも、弓子が執拗に上京を夢見るには十分すぎる理由となっていた。

 

(けれども、都会は特段の志も持たない余所者を、諸手を挙げて歓迎するほど、寛大でもなかったわけだ)

 

就職戦線から零れ落ちて、派遣の業務を転々とし、ついには生活に限界を感じ、弓子はおめおめと実家に戻って来るに至った。

都市の片隅で背中を丸めて過ごしていた頃はずっとペーパードライバーで通してきた彼女は初め、老いた父や母の代わりに車を走らせて、麓の街まで日用品の買い出しに出向くことなど到底できないと感じていた。

幼い頃、父の軽トラックの助手席で見た山間隘路の夜道は夢に出て来るほどには薄気味悪かった。ヘッドライトが照らし出すのは、山吹色の警戒標識ばかりで、描かれているのは狸のシルエットだったり、不穏な曲がり方をした矢印だったり。しかも、どれもこれもが一様に腰が曲がっていて面には涙が伝ったような跡を残していた。

菱形のキャンバスの中には人の影だけがなく、執拗なまで欄外に注記され続けている「巾員狭し」の文言の意味を理解できない幼い弓子にとって、それは見慣れぬ世界のおぞましい呪文に思えた。

そのような道路環境を、片側三車線、四車線の世界に慣れ切ったペーパードライバーが攻略できるとは思えず、帰ってきた当初、彼女は暫し、「私には無理だよ、うっかり崖の下がオチだって。お父さんが代わりに運転してよ」と、両親にごねていたが、竹馬に乗るように一度慣れてしまえば、造作もないもので、彼女も今では、「巾員狭し」の標識に、「言われなくても、分かっているっての」と、毒づくほどである。

幼い頃、両親をはじめ、集落の大人たちが「街に出る」と称していた国道の通る麓の市街地は、大規模な市町村の合併を経て、現在は集落と行政区画を同じくする新しい市の中心地となっており、そこのとあるディスカウントストアに、弓子は年がら年中、行き来しているのだから、分からないものだと、彼女は畳の上にゴロリと寝そべり、天井からぶら下がる電気の紐を見つめながら、微かな自嘲を含んだ笑みを浮かべた。

しかし、弓子が実家に戻る際、親戚から譲り受けたようなトコトコ走るという形容がしっくりくる軽のミニバンならまだしも、赤錆の腐食を厚塗りのブルーカラーで誤魔化した鉄製のタンクに目一杯の糞尿を三キロリットルまで詰め込んだバキュームカーでの道のりであると考えるとどうであろうか。

軽バンの車幅でも時折、板金塗装の整備工場に傷の修理をお願いしなければならないほど、深々とした藪とごっちゃりとしたくぬぎの木々で狭窄した山間隘路を往来するストレス。

そのような心理ストレスなど、些細に感じられるであろう、業務に必ずと言ってよいほど付き纏う粘膜を直に刺してくるような悪臭。または腐臭。あらゆる類の屍の塊を、消化、未消化、ちゃんぽんにしたまま、脈打つように流れる汚物の波。

そういったものどもで満ちた環境が、常に彼を取り巻いているに違いなく、無意識のうちに呼吸を止めて彼を見送ったはずのあの日も、例外ではなかったはずであった。

 

「……えっと、八〇リットルまで、いってないですね。基本手数料と併せて一、三二〇円になります」

「あ、ちょっとだけ待っていてください、ちょうど用意できるはずなので。お母さん、百円玉、そっちに後一枚、あったりしないかなあ」

 

くろずんだ爪先でカーボンの伝票をビリリと破きながら告げる彼の言葉を遮るように、その時の弓子は母に、大声で催促の声をあげていた。

ホースの先から滴をしどけなく垂らしたまま、弓子に尻を向けるバキュームカーのタンクには、真ん中に一本、ガラスの目盛りが通っていて、細いガラスの管越しに透ける濁った液体の嵩は、八〇のラインを少しばかり超過しているように見えた。

屎尿汲み取り料金の体系に疎い彼女でも、汲み取りに来たこの男が、値を少しまけてくれていることくらいは見当がついたが、それ以上に彼女の脳内を渦巻いているのは、弓子の肉眼でも捉えられる液体の色が意味するものごとへの、強い拒否反応であった。

中腰のまま、玄関の敷居を跨いで、顔を半分だけ引き戸から覗かせた母の絹恵から、百円を受け取ると、弓子はリレーするように、すぐさま、その百円玉を彼に手渡した。

 

「いつも、ありがとうね」

 

絹恵が、彼に向かって、ペコリと頭を下げるのにつられて、弓子の頭も咄嗟に低くなる。

車の窓から男が顔を出し、帽子の鍔を軽く抓むと、三つの菱のエンブレムをあしらった古めかしいディーゼル車は、歪みがかかった鈍い唸り声を上げ、白い煙をともに井上家のもとを走り去っていった。

雨風や夏の暑さにその身を晒され続けてすっかり色褪せた青の車体の中で、8の数字を付けた虹色のナンバープレートだけが真新しすぎるのか、姿の見えなくなる最後まで蛍光板のようにきらきら煌めいていた。

 

「急に弓子がそそのかすから、慌ててお母さん、財布にとっておいた百円玉、渡しちゃったじゃない。平成二十九年のピカピカなヤツだったから、とっておいたのに」

「百円玉は所詮、百円玉でしょう。それよりさ、私もうちに帰ることにしたから、家の一員として、言わせてもらうけど、いい加減、うちも水洗にしようよ。この辺りでも、もうやっている所はやっているみたいだし。絶対、数年単位で考えたら、下水を繋いで、水洗にする方が得だから。だいたい、今日日、ウォシュレットも付いてないトイレの方が、珍しいって」

 

失った新品の硬貨へのエレジーも未だ尽きない絹恵は、箱型のブリキ缶の中に伝票をしまっている間も不平が止まらなかったが、昔から、絹恵のつまらない小物への奇妙な執着心と、そのくせ、過去に対して、あっけらかんとしている性格を、弓子はうんざりするほどに知っていたので、その文句には殆ど耳も貸さず、躊躇いなく持論を展開した。

 

「けど、ああいう汲み取り屋さんって、出来高とかだったりするんじゃないのかい。こんなド田舎まで、大変な思いをして来ているだろうに、悪いよ。この何とか津さんって、人に」

「そんな名前も知らない人だったら、気にすることもないでしょう。長年の付き合いがある人だったら、気後れしちゃうのも、分からないでもないけれど」

 

それもそうかと考え直して、弓子の父である敏之にも、同じように説得したのかまでは定かではないが、弓子が引っ越しのトラックを従え、再び帰って来た時には、見慣れた実家で、見慣れない最新鋭のトイレが、便座を温めながら、彼女のことを待っていた。

あの時、弓子が受け取った伝票には確かに、担当の名前が記されていたはずで、その名前こそ、出入者管理名簿の書かれたものと同一のものであるに違いない。弓子は確信した。

 

「お母さん、レシートとかいつも入れているあの箱、どこにあるの」

階段を降り、居間に向かって、声を上げると、絹恵の代わりに敏之が不思議そうな声色で返事をした。

「どうした弓子。母さんなら今、昼にあった嵐で心配になったのか、ビニールハウスの方へ行っちゃったよ。別に気になったなら、明日の朝にでも見に行けば、いいのになあ。伝票とかをいつも入れている箱なら、これだけど、なんだ、確定申告の手伝いでもしてくれるンか」

「……それはまあ、さすがに手伝いますけど、今はちょっと違うことを調べたくって。お父さん、ちょっといい」

 

貰ったブリキ箱の蓋を放り捨て、弓子が畳の上に伝票の群れを広げると、敏之は「ちゃんと片付けてくれよ」と、一言だけ告げるなり、テレビの前にゴロリと寝そべって、大相撲のダイジェストを見る為の体勢を整えていた。

弓子と違って几帳面な絹恵は、伝票類を月ごとの束にしていたので、「H30・1」という付箋の貼られた束の輪ゴムだけを解けば、良かった。

 

「あ、有限会社日の出衛生し尿作業実施票……ビンゴじゃない、これ。収集料金ってところに書かれた値段も一緒だし。担当は……津瑛斗。ねえ、お父さん、この漢字何て読むか分かったりしない」

 

弓子はテレビがCMを映し出すタイミングを見計らって、敏之に声をかけた。敏之は気怠そうに、「父さんに漢字のことを聞くなよ。弓子の名前も、俺みたいなのでも覚えられるようにって、付けたくらいなのに」と、ぼやいていたが、その記された字面に心当たりがあるのか、急に白内障を患った瞳を輝かせて、スマートフォンの液晶画面の上で、乾燥しきった指を頻りにタップさせ始めた。

 

「田んぼの田に……これは寿の古い字体じゃないか。お相撲さんにな、その字を四股名に使う人がいて、手形に書かれたサインとちょっと似ている気がする。田んぼの田に寿。これじゃないか。疇。辞書のアプリを見たら、これで畑のうねのことだとさ。範疇の疇。意外と使う字なんじゃないかなあ」

 

敏之が得意げに見せる液晶の画面に映し出された文字は、確かに彼の記した字に限りなく符合するものに思えた。

その疇の次に津の字を続けて綴り、検索サイトにかけてみると、関連ワードに「疇津 読み方」という項目が浮かび上がったので、それに従うと、検索サイトは一瞬のうちに、約六四、九〇〇〇件のホームページを「さて、どうですか」とでも言うかのように、弓子に検索結果を提示してみせたが、彼女には冒頭に書かれたひらがな三文字が分かれば、それで事足りた。

 

(これで、あぜつ。あの人、あぜつさんなんだ。だから何だって、話だけど)

 

まったりした日常を題材にするアニメ作品ならば、「また一つ、弓子は賢くなったのであった」などというナレーションでも入りそうな瞬間を、弓子は特に噛み締めるわけでもなく、漫然とやり過ごそうとしたが、時間差の嵐は突然に、井上家の中で吹き荒れた。

 

「夜遅くに、こんなに散らかして、何しているの。もういい齢なのに、こんなことで怒られるなんて恥ずかしくないのかい。明日も仕事、朝番で早いんでしょう。お父さんも、台所の鼠捕りシート、捨てておいてねって言ったのに、それもやらないで、ずっとテレビばっかり……」

 

夜遅くまで、齷齪と一人で動き回っていることに、屋内で寛ぐ二人を見るなり、苛立ちを覚えたのか、絹恵は、目くじらを立てながら、くどくどと愚痴り出した。

敏之は、「あともうちょっと、横綱の一番を見てから」と、すぐには動きそうもないので、弓子は咄嗟に屍骸の重さでずっしりとしたシートを抓んで、少し離れたところにあるごみ袋の中に葬り去った。小動物を見るのも苦手な弓子の突然の挙動に敏之と絹恵は目を丸くして、その一連の動作をただ見ていたが、一番、驚いたのは、弓子自身であった。

本当に無意識のうちに、身体が動いた。

そんな己の指先は今までと変わらず、エンガチョなものに思えたので、弓子はおもむろに洗面所の方へ足を運んだ。

社販でほんの少しだけ安価で購入した詰め替え用の薬用石鹸を、過剰なまでに掌の上に泡立てたまま、暫く間、弓子はぼうっと立ち尽くし、特に嬉しさもない一日を振り返り続けた。

 

4

 

母親に年甲斐もなく叱られた件など、弓子もすっかり忘れた、今度はまだ春にしては、茹だるほどに暑いある日のパートの休憩中のこと、搬入口の隅で再び、毛玉の塊が横たわっているのを、彼女は目にし、戸惑いを隠せずにいた。

その顔の見えない生命は、神か、あるいは親のDNAから、そそっかしく注意力の散漫な性格を与えられたのか、それとも、自然淘汰の本能に従順な兄弟たちのターゲットにされてしまった弱き魂なのか、烈風の吠え狂ったあの日のデジャヴのように、残酷の前に力なく打ちひしがれていた。

弓子は一体になってフック掛けできるミニサイズの箒と塵取りを手に取って、幽かな生命のもとへ駆け寄った。そして、菜箸で豆腐を掬うよりも数段柔い手の運びで、毛玉を少しずつ塵取りの方へと動かした。

前に目にした時より、少しばかり成長したとは言え、まるまる太ったドブ鼠などよりも、まだ一回りほど小さいはずの雛は、塵取りを持つ弓子の利き腕でない左手に、想定外な重量感を負わせた。それは実に生温かい重みであった。

彼女は一度に事を始終まで済ませるのを諦め、せめてとばかりに布切れを敷いた上に雛を乗せた塵取りを、屋内の涼しい風が吹き、守衛室からも目が届く、外と内の境目の辺りまで運んだ。それこそが、エントロピーという呪術によって、生命が素粒子の姿に還ってしまうのに少しでも抗う為の、応急的な処置であると、彼女なりに考えてのことであった。

弓子は、ディスカウントストアから支給されたユニフォーム代わりのエプロンのポケットから、四つ折りにした従業員のシフト表を取り出し、選手名鑑のように羅列された名前の中から、少しでも物わかりが良さそうで、なるべく上背のある社員を探そうとしたが、これといった該当者を見つけることは出来ず、あえなくシフト表は、再びポケットの中へと、引っ込んでいった。

 

次に彼女は、守衛室に赴き、管理名簿のページをはらはらと前後に捲っては、そこに書かれた雑な字の群れをしげしげと眺めた。

そこには、生半可な社員よりもよほど、店舗に勤める人びとの間に流れるものの相関に熟知したメーカー出向の業者さんの名前なども記されてはいたが、人生の中で一度も、組体操などしたことすらなさそうな蒼白い彼の横顔を思い出すなり、弓子は頭の中で彼の名前に二重線を引いた。

短い期間内でのことではあるが、ディスカウントストアには一つ、小規模な変化が起こっていた。

資材館の改修工事が無事に終了した為、工事の期間中、ずっとバックヤードで所狭しとばかりに雑魚寝をしていた工具や養生用品の類を、店舗は再び商品として売り出せるようになったのだ。山賀統括本部長などは、フロアの拡張など全くなされていないただの改修を「リニューアル」と銘打ち、チラシの発注・手配を部下に命じては、鼻息を荒くさせる始末である。

駐車場からバリケードが撤去された日付のページを境に、管理名簿からも工事関係者の名前は消えていった。現場の人びとを始めとする施工管理業者とその協力会社の関係者、一時的に雇った警備員、ビルメン、そして、屎尿の収集運搬業者――。

 

(0から仮囲いを組み立て、細い鉄骨の上を仕事場にし、日常を送る鳶の人ならば、脚立をよじ登って、庇屋根の巣まで雛を運ぶことなど、朝飯前だったろうに……)

 

今更、そのようなことを思っても、無意味なので、弓子は仕方なく、守衛室で呑気にお茶を啜る老人に声をかけた。

「あの、ちょっと手伝ってほしいことがあるんですけど」

「ん、んん……」

 

老人はあからさまなまでに、面倒臭そうな顔をして振り返った。

萎れた草花のように痩せた耳朶以外に顔に付いたもの全部が、重力に参ったをして、落ち窪み、垂れ下がっており、顔面の筋肉などは、まるで溶けたバターになってしまったかのような、あまりにも生気の見受けられない姿をしていた。

煙ほどの気配しか持てないこの老人に、僅かにながらも確実に重さを宿す生命の魂を受け止めきれるのか、弓子は甚だ不安に思った。

 

(これならまだ、メーカーの長岡さんに頼んだ方がマシだったろうか)

 

弓子は、彼に声をかけたことに、後悔を覚え、一度は名前に二重線を引いて却下した丸眼鏡の青年の顔を思い浮かべるなり、小さく溜息をついた。

 

「あの、搬入口にある巣から、鳥の雛がですね、落っこちちゃったみたいなんですよ。可哀想だから、元の場所に戻してあげたいんですけれど、手伝ってはいただけないですかね」

弓子の言葉を聞くと、老人は眉を寄せて、言葉にならない不平をぶつぶつ呟いた。

「脚立を抑えてくれるだけで、いいので」

埒が明かないと、彼女の心が要請したのか、うっかり吐いてしまった言葉に、弓子は後から、「しまった」と思った。

「……ええ」

 

まだ不平は零しながらも、老人は湯呑を台に置いて、重い腰を上げた。

これ以上、対応を渋ると、癇癪でも起こされ、かえって面倒になるとでも、思われてしまったのだろうか。そう考えると、それはそれで、何だか弓子はモヤモヤする気持ちになった。

バックヤードの壁に立てかけられた脚立のゴム足は、拭き切れていない泥が付着したままで、それが波の模様となっていた。自発的には、腕一本すら、上げようとしない守衛の老人は、脚立を抑えること以外、本当に何も協力する気がないようであった。

弓子は仕方がないので、踏み桟を肩に乗せ、視界の外で脚立が蛍光灯を割ってしまわぬよう、蟹の歩きで慎重に搬入口の扉まで向かった。老人は無言で扉を開けた。彼はそれくらいのエネルギーの消費くらいであれば、さすがに惜しまないようであった。

アルミの塊である脚立を傾けて、扉の外まで潜らせるのは、慢性的に運動不足に陥っている弓子の身体には、なかなか骨の折れる作業で、燦燦と降り注ぐ日差しの下で、彼女はまず雛の容態を気にする前に、唸り声をあげながら、腰を反らせた。

 

(でも、脚立が重かった分、腕が麻痺して、雛の繊細な重みを過剰に感知しないで済むかも……)

 

腰を反らせたままの体勢で、弓子は塵取りの上の毛の塊を一瞥した。

塵取りに敷いた布切れのぬくもりに包まれ、少しばかりは容態を回復させたのか、塊は紐を引っ張るとぶるぶると振動する玩具のように、小刻みに震えていた。それは少なくとも、まだ雛が呼吸をしている証拠であった。

開いた脚立の二本の支柱にストッパーをかけると、脚立はアスファルトに大きな「A」の字を書いた。弓子は、左の腕で身体に寄せるようにして、塵取りを水平に保ったまま抱き、踏み桟に一歩一歩、手をかけながら、よじ登った。

脚立を登頂しきっても、まだ巣は、弓子の視線の水平線上にはなく、彼女が腕を精一杯伸ばして、やっと手が届く、それほどの距離であると感じた。

伸ばした腕の先の塵取りが巣へと滑り降りるスロープとなるように、弓子は脚立に跨ったまま、走高跳のフォスベリー・フロップに踏み込む時に似た姿勢を取った。

外は無風のはずなのに、脚立の上は、身体がひどく煽られているような感じがした。ふらふらと無理な体勢のまま、懸命に腕を伸ばすと前鋸筋が悲鳴をあげ、彼女は二日後の筋肉痛を覚悟するとともに、自身の生命が、雛よりも剥き出しに晒されている感覚に襲われた。

 

「ああ、危ねぇよ。あ、もっと、右だよ」

責めるように、安全圏から指図する老人に、苛立ちを覚えながら、手首を返すと、塵取りを握った左手から重みが離れ、籠となった巣から軋んだ音がした。

 

(やった、か)

 

念の為、そろそろと塵取りを目線の高さまで下ろしていくと、そこに先ほどまで存在していた生命の姿は、敷いていた布切れもろとも無くなっていた。安堵した弓子は、その瞬間、塵取りを投げ捨てて、両手でひっしと脚立の支柱を掴んだ。

一歩ずつ踏み桟を降り、地上の気配が感じられるようになると、弓子は途端に左手のむず痒さが気になった。労働環境下で起こる転落災害には、そうした気の緩みから発生するものも少なくない。

そぞろなまま最後の一段に足をかけようとした弓子は、不意に足を踏み外し、脚立にいなされた形になった彼女は、そのまま「A」の字が傾く駐車場の上にもんどり打って転がった。

幸い頭を車止めブロックに打ち付けたりするような大事には至らなかったが、肘をつきつつ、起き上がる際に、足首に電撃にも似た痛みが走ると、彼女の頭には南無三の三文字が過った。

 

(しまった……労災だ)

 

何も守れない守衛は、片足を引き摺りながら、起き上がる弓子を見て、おろおろと狼狽するだけであった。

 

5

 

「けど、その雛は何回も巣から落ちちゃうような子なんでしょう。何というか、弓子もたいがい馬鹿真面目だよ」

「それ、パート仲間の西島さんにも言われた」

「でも、動物ギライの弓子がねえ……。年を取ると、感性も変わるっていうけれど」

 

弓子は、軽バンの助手席で自嘲気味に笑い、それに呼応するかのように、絹恵は薄い笑みを浮かべた。

街道沿いの整形外科クリニックで診断してもらった結果、左足首の痛みの原因は、一週間もあれば完治する軽い捻挫であることが分かった。

 

「スポーツや日常生活の中でもよくある、ジャンプ等の着地で捻った際に一時的に靱帯が伸びてしまう、アレですよ。普通の接客業の仕事をする分には、まあ問題ないでしょう。それに左足首なら、運転にも影響が薄いですし。一応、湿布を出しておきますね」

 

拍子抜けしてしまうような診断結果であっても、会社の健保組合の保険証を使い、おまけにレントゲンまで撮ってもらった以上、労災に認定されることは免れられないなと、弓子は観念した。

きっと次に弓子が出勤する頃には、ヒステリックに怒り狂った山賀統括本部長が店長あたりに対策を命じて、「労働災害発生アラート・会社備品を使用する際には上長に必ず報告を!」などと、書かれたポスターが、当てつけのようにバックヤード中に貼られていることであろう。

従業員たちのヘルプには、事なかれ主義を貫き、繰り言を捏ね繰り回して、深入りを回避しようとするのに、起きてしまったミスに対しては、「バンバン」糾弾し、見せしめを行って、締まった職場を演出して、ポイントを稼ぐのが、彼のいつもの使い古された手であった。おまけにあの雛だって金輪際、墜落せずに済み、羽ばたける未来を無事迎えられる保証もないのだ。

この先、自身に待ち受ける小さな受難を想像して、弓子は頬杖と溜め息をついた。

 

「コンビニで何か買っていかないかい」

 

娘の溜め息を隣で聞いた絹恵は、気でも回してやろうとでも思ったのか、数百メートル先の青い看板を目視で確認するなり、絹恵はウィンカーを左に出し、田舎のコンビニエンスストアに特有のバドミントンくらいなら遊べそうなほどにはだだっ広い駐車場に、車を停めた。

「長距離トラックの人とか、こういう所でご飯を食べているんだね、大変だ。肉まんとかでいいでしょう、おでんみたいなのは汁が零れたら面倒だから。車、乗っていておくれ、この辺みたいな片田舎はそんなに物騒じゃないと思うけど、この前、テレビで車上荒らしの特集をやっていたのを見てから、お母さん、街に出るとそれが怖くって」

「それって、乗っている私の方が怖いでしょ。あ、後、肉まんでいいよ。でも、お母さんとニコイチでいいんじゃない。二人とももうそんなに食べられないでしょう」

 

いつまでも親という生き物は子どものことを育ち盛りの若者であると錯覚し続けるものなのであろうか。

弓子は苦笑しながら、ぼんやり左を眺めると、なるほど隣にいるのは、随分と圧と主張の強い大型のトラックであった。

そして、その車両はトラックの中でも、特殊なものを運搬する為に特別な仕様をしていた。それは、俗にバキュームカーと呼ばれる形状であった。

 

(運命めいた偶然っていうのもあるものだなあ。それにしてはあまりにもしみったれているけれど……)

 

弓子たちの暮らす自治体で屎尿の運搬を行う有限会社日の出衛生が、いったい何人の従業員を有しているかなど、知る由もなかったが、何故か弓子は、バキュームカーの運転手が疇津瑛斗であると、確信していた。

弓子の部屋の畳の上で、カバーを剥ぎ取られたまま積み置かれている少女漫画の類ならば、それは話の始まりになり得るが、三十路もとうに過ぎ、そもそものところ、彼にラブコメよろしくの類の感情を寄せるはずもない弓子自身には、その偶然は全く無駄な偶然であった。

 

(だいたいの話、少女漫画の中であるならば、彼が登場すべき瞬間なのは、今のようなとりとめのない瞬間などではなく、私が脚立から足を踏み外した、その瞬間で然るべきではないだろうか)

 

憂鬱の原因を再び思い出すなり、弓子はもの言いたげな目で隣のバキュームカーを睨んだ。

それは年甲斐もない八つ当たりじみた恨みであることは当然、弓子自身も自覚していたが、相手方が弓子の感情に気付きもしない以上、いちいち自分自身を律する必要もあるまい。このような適度な開き直りがこの世知辛い世の中で、ストレスに押しつぶされない為の彼女なりの処世術でもあった。

しかし、隣の車の男の容姿を認識するなり、弓子は慌ててバキュームカーから、一旦、視線を外した。

バキュームカーの運転席で口をあんぐりと開けながら、ホットスナックのから揚げをぽいぽい放り込む男は、案の定とでも言うべきか、疇津瑛斗、その人であった。

 

(ビンゴだったか……。ということは、あんなに業者さんに悪い悪いって言っていても、お母さんはうちに来る屎尿業者も担当者も街で見かけたくらいじゃ、気が付かないってことだ。やっぱり、水洗にするべきだな、こりゃ)

 

彼は唐辛子をふんだんに塗された鶏の肉を、くろずんだ指先で鷲掴みにしては、それをそのまま口に入れ、頬張り続けていた。折り紙で出来た容器の縁に爪楊枝が備え付けられていることを知らないのだろうか。

そう思っていると、今度は空っぽになったコップからおもむろに爪楊枝を抜き取り、バックミラーに目を凝らしながら、歯間を爪楊枝でせせり出しては、食べかすをコップの中に吐いていた。

つまり、疇津瑛斗は手掴みで物を貪ることに何ら抵抗がないようだった。職業病で糞味噌の識別に対して、鈍感になってしまったのだろうか。眉を寄せながら弓子は、彼の姿を観察し続けた。

すると、少しまじまじと眺めすぎてしまったのであろうか、今まで弓子の側を振り返るそぶりすらなかった疇津瑛斗とふとした瞬間に、視線がぶつかってしまった。

弓子は遠慮がちに会釈をした。

市内の屎尿を汲み取って回るその男は、弓子の顔に面識を得られないのか、怪訝な顔をしながら頭を下げていた。

弓子は何だか自分だけが独り相撲をしているような気がして、ひどく気恥ずかしい気持ちになった。店の方に目をやると、母の絹恵は肉まんだと明言して車を出たにもかかわらず、悠長にショーケースの中のホットスナックたちに目移りしているようであった。

2024年3月4日公開

© 2024 春風亭どれみ

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