さくらの日

薄暮教室(第17話)

篠乃崎碧海

小説

2,454文字

ただ春を待つことが、こんなにも残酷であろうとは。
薄暮教室:短編

 縁側の向こう、朧に見える山はまだ春には遠く、寒そうな景色を晒している。残雪は随分と減り、日に日に土の茶色が面積を増やしているが、まだ春の色は見えてこない。

「随分と遠いな。家の裏手とか庭の片隅とか、いつでも目に入るところを選ぶかと思った」

「それでもいいんですけれどね」

 先生は感情を閉じ込めるように目を伏せて、それから少し笑った。

「でも、それでは想いが強くなりすぎてしまうでしょう」

「想い?」

「遠目から見たら、どれだかわからないくらいの方がいい。……その方が特別な想いを抱くことなく、さっぱりと眺めていられるから」

 そうは思いませんか? 先生は少し掠れた声で問うた。

「最初は、すぐそばに寄り添っていなければならない。小さくて弱くて、強い風に吹き倒されないように、激しい雨に流されてしまわないように、いつでも守ってあげないといけない。

でもいつか、そう、ふと目を向けたときにはいつの間にか、ひとりで立つようになるんです。そのときがきたら、遠くから見てああ、あの中のどれかなんだと思うくらいがきっと、ちょうどいい」

「先生。……それは、子どもたちのことを言っているのかい」

「その質問は、意地悪だと思いますよ」

 でも、きっとそういうことなのでしょう。先生はぽつりと呟いた。

「たまにでいい……そう、例えばその花が毎年咲く頃にだけ思い出してもらえれば、それで十分だと思うんです」

「いつでもそばにいなくても?」

「ええ。その心が少しだけ陰ったときに、ほんのわずかの揺らぐ光になれたら、それでいい」

 どこまでも飛び立てなくとも、手の届く範囲の大切なものを愛おしめばいい。いつかそれが、遠くに旅立つかもしれないのだから。先生はそういう人だった。

「よし、じゃあ先生の言う通り、あの山に植えるとするよ。やっぱり……桜かな」

「藤倉さんが好きな花なら、なんでも」

 好きな花なんて、ここに来るまでは考えたこともなかった。先生に出会ってから、目に映る景色の深さが増した。

 もらったものは沢山あるのに、まだひとつも返せていない。まだひとつも、きちんと言葉にできていない。伝えたいことはあとからあとから生まれてくるのに、ひとつとして形にできていない。

 時間が足りない。性急には伝えたくない。これからもひとつひとつ、積み重ねたり様子を窺ったり吐き出したり抱え込んだりを繰り返しながら歩んでいきたい。それなのに。

「なあ。春になったらさ」

「はい」

「春になったら、一緒に植えにいこう」

 先生はしばらくじっとこちらを見つめたあと、何も言わずふっと目を閉じた。

 

2023年9月6日公開

作品集『薄暮教室』最終話 (全17話)

© 2023 篠乃崎碧海

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

この作者の人気作

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


2.0 (1件の評価)

破滅チャートとは

"さくらの日"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る