ここにはだれもいない

猫が眠る

小説

2,563文字

木漏れ日の差す木々の間を、私は歩いていた。歩き出してから、すでに三時間が経とうとしている。

季節は秋に差し掛かるところで、葉は色づき始めたところ、細やかに表情は変化する。光は薄雲を潜り抜け、飛沫のように発散していた。

歩いていたのは、市街地から遠く離れた広大な敷地を持つ公園、公園と云うには、起伏の富む山のようだが──一日かけても全体を見るのは困難と思われたから、私は朝早くから散策し始めたのであった。目に映るものと云えば、木々、光のオレンジと影のブルー、それに加えて、所々に人工的に生えた花々──。ひとかげはない。特にあてもなく、木々が織りなす陰影、突風の様に光が差すと落葉が黄金に視線を盗まれながら、赤茶色の土の道。木陰から白茶の猫が、飛び出してきて、私に驚いて、短く叫ぶ、そのまま反対の木々に突っ込んで、嬌態。植えられていたカンナの花に、顔を寄せると、空が香った。

三時間。脚が疲れ始めたところで、公園に唯一ある店が見えた。喫茶店。と、同時に、その店の前に置かれた一人用の白い丸テーブルの脇に腰かけた奇異な人物を、私は見出した。

年齢、五十代。人種、ドイツ、か──高く大きな鉤鼻、ごつごつした顔立ち、翠玉の色の瞳、だが濁っている──服装は、黒のフロックコートに鳥打帽。彼の目線は、止まり木を探す小鳥のように定まらず、上の方を向き、空を泳いでいた。

私が茶屋に入るときにも、男はまるで注意を向けず、私は、彼を背中越しに見える窓際の席に陣取った。ウェイターに、麦酒をジョッキで、と言って、好事家めいた視線をドイツ人に運ぶ。ふやけた秋の空気と異国人と云う取り合わせは、なんとはなしに、幻想的──運ばれてきたジョッキを一口呷る──と、ドイツ人が、唐突に、視線を空の一点に焦点を絞った。すると、グリーンの短い反射光が私の目を刺し、待ち針が通った。

彼はおもむろに懐から煙草とマッチを取り出すと、一本つけた。ゆるやかに吸い込みながら、思案した──私はジョッキを傾けた──素振りを見せ──私は煙のゆくえを彼の肺から、宙へ、空へ、と丁寧に辿った。

「──」彼の唇が動いた。私はその動きを模倣し──「愁眠」。

 

男が立ち上がった。と、同時に、彼が花束を持っていることが知れた。花は橙に赤、白──。

私はあわただしく麦酒を飲み干すと、ウェイターに余分に金を渡し、男の後を追った。

あわただしく出てきた甲斐もなく、すぐと彼に追いついた。彼の歩みは鈍重で、無理くりに──そうでもしないと宙に浮いてしまうかのように──足の先の影を踏むのを確かめながら、地を踏む。私は、彼が木々の間の獣道を幾人かが夢の中でやっと踏み開いたような、雑な赤黒い土の道を歩いていくのに付いて行った。歩調を合わせ、二人分の身長を間隔に持った。

ドイツ人は花束を胸にいだいていた。腕は、その位置に定められ、数式で定義された図形の如く、動くことはなかった。道が横に折れるときも、彼は愛玩動物のからだの曲線を撫でるように滑らかに歩を進めた。

 

いくぶん歩いて、坂道、と運ぶ脚の柔らかな重力がそれを気づかせた。

坂は勾配を容赦なく高めていき、樹木も色を濃くし始めた。

葉が風に揺られ、音をたてる。男が歩いている、一歩、一歩、一歩、土を踏む──その音は無い──映像を私は頼りに、等しい間隔のまま、後ろを──共に歩いている。彼は、まるで、こちらに注意を払わずに、ただただ象の歩みを続けている。

頭上に、空の青が無くなった。男が陰を歩く、私も陰を行く。ドイツ人の動作は、或る数式を描いている──その数式は証明されていないが、彼が発見したそれは、とても画期的なもの──男は声を出さないが、数式が私に語りかけてくる。風が撫ぜる葉のかさつきが、語りを、羊皮紙に板書する。その羊皮紙が、木訥と私に提出される。切れることはないが、無限に在るものではなく、その都度見えなかったそれが現れてくる。男は証明されずとも、決してそれを訂正することはない。

 

男が歩いている。私は歩いている。

 

男が、ふいに立ち止まった。私も立ち止まった。視線をドイツ人から先に向けると、その奥に光が見えていた。後ろ姿しか、分からないが、男は、目を凝らして、目眩ませている──私はポケットから片頭痛の薬を取り出して、指先で端から唇を伝う様に転がし、中央の岬に当たったところで、口内に押し込んだ。糖衣錠のそれは、舌先でなぶると、彼は光の方へ歩き出した。歩みの重さは変わらないが、男の歩みは光の音と一体化しようと試みていた。やや、古典を重んじたのか、木々の口になっている光と接吻するドイツ人の歩調は、ネイピア数eの定義を描いていた。

(それだから、風の独語:lim[n→∞](1+1/n)^n)(わたしは糖衣錠を飲み下した)

光──くち──が大きくなってくると、ともに、眠気が手足の指から伝って、ぬらりと、しんぞうへ届きぽんぷが蠕動、意識をたもちつつ、歩調をあわせる、歩調、歩調、彼にほちょう、ホ調? そうか、ホ(e)調だ。(わたし)が伸びて彼のあとをついてくる。

彼はとうとう、まったき、光の中へ出た。そこは長く広いくさはらで、(わたし)が遠くの方に、女性と並んで寝転がっている。彼は胸にいだいた花束の茎の部分を、確かめるようになぞった。茎は女の骨だった。He misses her. (わたし)は、遠くから、彼を見つめた。くだらぬ骨だ、と口を衝いて出てくる。男はもう一度だけ骨をなぞると、まったきひかりの、くさはらに、花束を置いた。彼はしばらくそれを見つめた後、一歩後ずさりして、一寸目を瞑ったのち、踵を返して、二歩進んだ、と、また振り返り、(わたし)と隣人を眺めた。(わたし)は見つめた。ドイツ人は手を振っていたのだと思う。彫りの深い顔に明暗が、半分はかんじ、と笑い、暗部は悔しさと怒りのない交ぜになって──(わたし)はとなりにねている女性を揺さぶり起こそうとしたが、女性は起きない。眺めてみると、人形だった。仕方なしに、(わたし)はひとり、かれにてをふりかえした

彼は足早に去っていった。花束をのこして。それは忘れなかった。のこされた(わたし)は、わすれられ、きえていった、まったき、ひかりのなかへ。)(ここにはだれもいない──。

2023年4月27日公開

© 2023 猫が眠る

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