call

猫が眠る

エセー

3,577文字

最初はカフェイン剤だった。彼は何とかして自分を変えたいと願っていた。内気で独りぼっちの自分を。高校一年生だった。カフェインを一グラム飲み、酔った感覚に、ぼやけて歪む視界に、自分を変えた気になっていた。調子づいた彼は次の日の夜にカフェインを二・五グラムほど摂り、一晩中吐き続けた。明くる朝になっても吐き続けた。
彼はカフェイン剤の褐色を見るだけでも吐き気を催すようになった。
それから、彼は他に自分を変える薬はないものかと探し始めた。それはすぐに見つかった。彼はインターネットで「気分がよくなる薬」を調べた。エフェドリン(アッパー)とコデイン(ダウナー)の入った薬が見つかった。インターネットでは「十二錠で気持ちよくなれる」と書いてあった。
彼はその薬を常用し始めた。常用とは云え、その当時に使うのは一週間のうち休みの日のみであった。彼はそのとき気づかなかったが、学校での自分を変えたい目的で始めた薬が、いつの間にか成り代わって、快楽目的で使うようになっていたのだ。
彼は注意深かった。ドラッグストアを毎回変えていた。それに取り締まりも今日ほどは厳しくなかった。使用も十二錠から十六錠と云う取り決めを自分でしていたから、薬の減りが速くなかったのもある。
大学生になって彼には恋人ができた。会う場所はほとんど決まって、恋人が下宿している家か、その近辺であった。彼は恋人に自分の暗い面を見せたくなかったがために、会うときは毎回その薬を十六錠飲んでいた。
それは春の日だった。彼は恋人の住む下宿の近くの駅に降り立ち、空を見上げた。雲一つない全くの快晴だった。爽やかな春の風が吹いていた。
決まって三十分前にその駅を降りていた。薬の効き目を待つために。
彼はいつもと同じようにバッグからその薬の瓶を取り出すと、いつもは四錠ずつ飲むところを十六錠一気に口の中に放り込み、持っていた紅茶で嚥下しようとした。しかし錠剤の量が多すぎて彼はえずいてしまった。涙が溢れた。飲むために上向きになった瞳には太陽が眩しく滲んで映った。彼は薬をなんとか流し込んだ。耳の中のイヤホンからはカーペンターズのリーブ・イエスタデイ・ビハインドが流れていた。
彼はその時はまだ慎重だった。薬を飲む日は決まっていたし、量も十六錠を越えることはなかった。
そんな日々が大学四年生まで続いた。卒業間際、輸入禁止になる直前に彼はエチゾラム(デパス)を八万円分手に入れた。
彼は就職を期に上京した。近所のドラッグストアにはその薬は置いてなかったから、七日ごと(そう云う決まりがあった)にインターネットで購入するしかなかった。
彼の就職先は従業員が三十人ほどの小さな企業だったが、彼はここで選択を誤ったと言える、と云うのも彼の上司はパワハラ気質だったからだ。彼は毎日のようにパワハラを受け、抑うつ状態になり、近くの心療内科を受診した。
その病院のホームページには「完治率百%」とうたわれていた。
彼がその病院に行き驚いたことは、精神科医のいる部屋がとてつもなく散らかっていたことだった。様々な書類が机の上、だけでなく床にも散乱していた。その精神科医は彼がパワハラに悩まされていて抑うつ状態であると聞くと
「林檎の樹を描いてみて」と言って一枚の紙を彼に差し出した。
彼はごく普通に簡単に林檎の樹を描いて精神科医に渡した。精神科医はそれを一瞥すると、
「ADHDですね。薬を出しときますよ。ネット上ではコカインだとかいろいろ書かれていますけれど、心配ないですよ。安心して飲んでください。」
薬局で彼は薬を受け取った。それは、リタリンだった。しかも四錠。現在の法律では考えられないことだが(脳検査が必要になる)、確かにリタリン四錠だった。
彼は次の日からリタリンを朝と昼に分けて二錠ずつ飲むことにした。
朝は、気分が明るくなり、上司の罵詈雑言にも耐えられるようになった。
「僕はリタリンを飲んでいるからだいじょうぶだ」
彼は自分にそう言い聞かせた。
効果時間はそれほど長くなかったから、昼にモスバーガーで残りの二錠を飲んだ。
「僕はリタリンを飲んでいるからだいじょうぶだ」
彼は毎日の仕事をそれで乗り切っていた。
彼はその時、心療内科を掛け持ちすることを考えた。そうすればもっと薬が手に入ると考えたからだ。給料は悪くなかったから、無理なことではなかった。
彼はもう一つ近くにある心療内科を訪れた。その病院の医者は普通の心療内科でするように抗不安薬のアルプラゾラム(ソラナックス)を処方した。
次の日からリタリンとアルプラゾラムを一緒に飲んだ。アッパーとダウナーの組み合わせで、結局のところ高校生、大学生の時に飲んでいた、エフェドリンとコデインの組み合わせと変わらないのであった。パワハラもあったが、彼は全く成長していなかったのだ。
それらの病院に通い続けて約一年が過ぎたころ、彼の勤務地と上司が変わった。そこにはあの薬を売っているドラッグストアも、リタリンや安定剤を出してくれる医者もいなかった。普通の心療内科に通い、普通の抗うつ剤を飲んだ。彼は大学四年生の時に八万円出して買ったエチゾラムを齧り続けていたが、その耐性は付きやすく、ほとんど効かなくなっていた。
彼は次第に仕事を欠勤するようになった。起き上がれなかったのである。最初の内は変わった普通の上司に連絡を入れていたのだが、いつからかそれすらもできなくなってきて、無断欠勤するようになった。
その病状になってから一か月して勤務先でかかっていた医者にそのことを話した。医者は診断書を書き彼の上司にそれを渡すように言った。
彼は次に勤務できた日にそれを上司に渡した。一瞬見えたその用紙には「この者は違法に薬物を使用している」とあった。
確かにその時には処方箋なしにエチゾラムを手に入れることは違法だったが、手に入れたのは違法になる前であった。しかし、それを上司に説明する気もないほど彼はやつれていた。
「普通の」上司は彼に「明日から休職するように」と強く言い放った。
彼はそれからの一年間を同じように過ごした。毎日、同じように、毎日。
ずっと臥せっていた。腹がすくと歩いて一分のコンビニで弁当を買った。夏でも風呂に入らなかった、と云うより入れなかった。
一年経って、彼は会社を辞めた。
彼は隣の県に引っ越した。もちろん、ドラッグストアがたくさんある地域にした。そして薬を使いながら転職活動をし、ある会社に入社した。
彼は「毎日」ドラッグストアで、高校生、大学生の頃に使っていた薬を買うようになった。と云うのも、最初は十六錠だったのが、二十四錠になり、四十八錠になり、八十四錠(一瓶)になったからである。嚥下するのが苦手な彼にとって、一瓶は喉も胃も気持ちが悪かったが、その気持ち悪さも三十分でコデインの作用で消えることを経験上彼は学んでいた。
毎日、勤務先にあるドラッグストア、家の近くのドラッグストア、様々なドラッグストアを渡り歩いてはその薬を手に入れては、一瓶を飲み干していた。
もはやその薬がないと彼は普通の生活ができなくなっていた、と云うより、飲んでいても、離脱症状があり、薬が切れると無気力状態になったから、もはや薬があっても──なければ無論のこと──普通の生活は送れていなかった。
間の悪いことに、そのころからドラッグストアでの取り締まりが厳しくなり、その薬を買うには本人確認が必要になり、毎日のように彼がドラッグストアを訪れたためか、家周辺の三店のドラッグストアでは彼の名前と顔が覚えられ、一店を除いて、その薬が買えなくなっていた。
休みの日にはデキストロメトルファン(DXM)を市販薬でやった。その薬は取り締まりがされていなかったから。脳が溶ける感じがした。いつも会う友人には「お前なんかおかしいぞ」と指摘された。それでもやっていた。買えたから。そして何もかもから逃げたかったから。
それでも仕事は何とか行っていたが、耐性が付くのが早いエフェドリン(アッパー)の作用はとっくに消えていた。もうそのころにはコデイン(ダウナー)の作用に頼るしかなくなっていた。その作用も一瓶飲んでも効かなくなっていた。
ある仕事が休みの日に彼は遠征してドラッグストアを二店はしごすると、買ったその場で二瓶を一気に飲み干した。空の瓶をバッグの中に入れた。
次に起きたときには、彼は病棟にいた。体中にチューブがついていた。小さな部屋だった。小さな網入りガラス窓があった。薬が切れていた。彼は、右の握り拳の関節から血が溢れ出るほどに窓を殴りつけた。
「薬をくれ!」
誰も来ない。
「薬をくれないと死ぬぞ!」
誰も来ない。
「薬を!」
「出してください!」
誰も来ない。
「薬をください」
誰も来ない。
「薬をください、お願いします」
誰も来ない。
「少しでいいから、どうか」
誰も来ない。

2022年7月16日公開

© 2022 猫が眠る

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