学級山羊。

巣居けけ

小説

2,966文字

田中山羊は巨大企業の取締役社長秘書らしい擦れた声で答えながら佐藤山羊の机に近づいた。

田中山羊は「精液の香りが自宅まで届いているんだよぉ!」という生徒会の新しい謳い文句を聞きながら早足で教室へと入った。遅刻をしたわけではなかったが、いつもよりは遅い時間の登校だった。

烏賊の眼球と腐った海苔を混ぜたような香りが漂う白色の教室の中は、西に付いた窓からの光で輝いていた。天井の蛍光灯は一本もついていないらしく、目に優しい弱弱しい光が差し込んでいた。

十分な広さがある室内はクラスメイトでごった返していた。何十人という同世代の男女がすし詰め状態で、それぞれ友達と会話をしたり、読書をしたり、架空の国の空港のホームページを作っていたり、寝足りない気持ちを清算したりと、自由に過ごしていた。

田中山羊はゆったりとした歩みで自分の席に向かった。途中、ブリッジに挑戦しているでぶの山田山羊と目が合った。
「なあ、マスクをする珈琲飲みのお前なら、珈琲を飲んだ後にマスクをして、息を吐くと自分の口臭が辛くて辛くてしょうがないって、気づくだろ?」

尻もちをついているような恰好でこちらを見つめる山田山羊はそれからにんまりと笑みを浮かべたが、無視をして進んだ。
「よう。最近よく会うな」

席についてすぐ、前の席の佐藤山羊がこちらを向いて話しかけてきた。
「そりゃ同じクラスですからね」
「ふふっ。今日の星座占い、一位だったろ?」

佐藤山羊は右手をピストルの形にしてこちらを指してきた。
「いや五位でしたけど……」
「……てことはさそり座か」
「しまった個人情報がっ!」
「ふふん。おれの勝ちだな……」

佐藤山羊は満足したらしく、それから前を向いて机の引き出しから一冊の本を取り出した。
「なに読んでるんです?」
「んん? 気になるのかい?」
「はいぃ……」田中山羊は巨大企業の取締役社長秘書らしい擦れた声で答えながら佐藤山羊の机に近づいた。佐藤山羊は手に持った本を広げた。田中山羊はその中身をじっと上から眺めた。「ええと……。『新しい空港社会のホームページ作成一刀』ですって?」
「ああ。やはりこの時代、次を担うのはホームページと、空を飛ぶことができる鉄の塊だとおれは思うんだよ……」

佐藤山羊は舐めるような口調で虚空を見つめながら説いていた。しかし田中山羊には空港の価値もホームページの価値もわからなかった。代わりには田中山羊は、この世の最先端を行き我々を引っ張ってくれるのは巣居文学だと本気で思っていた。しかし今そのことを口にすれば自身の信仰に酔っている佐藤山羊の機嫌を損ね、関係は悪化、以降前の席から流れてくるプリントなどが円滑に運ばれてこないと読んだ田中山羊は黙っておくことにした。

田中山羊はすっかり乾いた椅子を引き、着席した。
「ところでお前、昨日の宿題はどうした?」
「それは企業秘密ということで……」
「田中クン! 隣のクラスの子が呼んでる!」

それは鈴木山羊の声だった。雌個体の彼女は田中山羊のもとまで駆け足で来ると、唾混じりの甲高い声でもう一度、「田中クン! 隣のクラスの子が呼んでる!」と叫び、今度はすぐ近くの山田山羊の大きく出た腹を踏ん付けて去って行った。
「ちょっと行ってくるわ」
「お気負付けてー」

佐藤山羊はいかにも女中らしい声色で田中山羊の背中を押した。

 

「で、用事とは何事かね?」

田中山羊はいかにも軍事関係者らしい口調で、廊下のさ中で対面している中村山羊の顔色をうかがった。彼の顔は笑みが浮かんでいたが、その目には鋭い刃物のような光があった。その眼光を察知した田中山羊は胸中で(これはただ事ではないな……)と忍びの如く警戒心を高めて臨んだ。
「まあそう焦るな。お前の悪いトコだぞ?」
「なんですか? あなたは私の母親ですか?」
「なっ――」

すると中村山羊の顔色が一気に青ざめた。瞳からも今までの鋭い光は消え、怯えるような弱弱しい光があった。
「ん? どうしました?」
「なぜわかった……」
「はい?」

田中山羊は後ずさる中村山羊にいかにも銀行員らしい口調で迫った。中村山羊はゆっくりと後退し、すぐにその両肩は廊下の冷たい壁に触れた。
「どうしました? 顔色がすぐれないようですが……」
「なぜわかったのかと聞いているんだ!」

中村山羊は陸軍大将らしい口ぶりで唾の玉を飛ばしながら叫んだ。
「な、なぜわかったと言われましてもね……。わたくしにはどういうことなのか、わからないのですが……」
「そりゃあそうだろうな……。お前には苦労させたさ……。すまなかった」

中村山羊は一歩踏み出すと、田中山羊の右肩に左手を乗せ、擦るように何度も撫でた。しかし田中山羊はその動作が不気味に思え、すぐに振り落としてしまった。
「おっと、反抗期かな」
「どういうことだ?」

田中山羊は中村山羊をぎゅっと睨み、彼が委縮していくのを確かめてから教室の方を振り向いた。
「もう、行くのか?」
「ああ……」田中山羊は首だけを回して中村山羊を視た。「風がおれを呼んでる……」
「気のせいだと思いますけどね」

中村山羊は眉毛をへの字に曲げながら和菓子店受付らしい口調で否定した。

 

山田山羊の腹がへこんでいた。それは月にあるクレーターのような様相で、ぽっかりと半円型のくぼみが、腹のど真ん中に出来ていた。
「誰にやられた……?」

田中山羊はいかにもガンマンらしい口ぶりで山田山羊に寄り添った。田中山羊が登校してから一度もブリッジ挑戦を再開していないため、山田山羊はずっと仰向けの状態だった。
「野田だ……」
「野田山羊ぃ!」

田中山羊は一心不乱に叫んだ。すると教室の全ての山羊がこちらを見てから微笑した。田中山羊は悔しかった。同級生が圧倒的な力で蹂躙されてしまった事実がどうしようもなく苦しかった。田中山羊は山田山羊をこんな目に遭わせた野田山羊に復讐をしたいと心の底から思った。そして田中山羊は立ち上がった。身体には怒気がみなぎっていた。それは熱気であり、熱湯であった。
「野田山羊ぃ!」

田中山羊はもう一度叫んだ。今度は誰もこちらを見てこなかった。
「なんだ、田中」

それは教室の前方から届いた声だった。田中山羊は次々と自分の席に戻って行く山羊たちの合間から教室の前を見た。そこには担任の教師である野田山羊が教壇に両手をついて立っていた。
「おい、もう授業を始めるぞ。お前もさっさと席につけ」
「だ、だめです先生! おれはこいつの仇を討たなくちゃいけないっ!」
「食事会……」山田山羊の呻き声が響いた。
「アダ? なにを言っているのかわからんが、とにかく座れ。おい山田もだ。そんなところで寝転んでないで、さっさと座れ」
「イノセンス……」山田山羊の呻き声が響いた。
「うるさい! あんたは自分のしたことがわからんのかっ!」田中山羊は陸軍中尉らしい口調で叫んだ。唾の玉が飛び散り、近くの江田山羊の右肩に付着した。
「なんだと?」

野田山羊が首を傾げながら訊ねた。
「ぶんな、ぐるぞ?」
「……なんだ? ブンナ……?」
「ほんとに、ぐるぞ? なあ、ぐるぞ?」田中山羊は山田山羊から離れ、立ち上がり、野田山羊に迫った。ずいずいと教室の中を一直線に進み、ついに野田山羊の胸倉を掴んだ。「精一杯の力でぐるぞ?」
「どういうことだ?」
「アンタ……。覚悟しておけよ、木曜日までには」田中山羊は後方の山田山羊と同時に野田山羊を指さした。
「三日後か」
「一部始終……」山田山羊の呻き声が教室に響いた。

2022年12月29日公開

© 2022 巣居けけ

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