重いドアを押し開ける。店員はこちらの姿を認めるなり、どうぞ、と手振りだけで奥へと促した。いつも座る席も何を注文するかも知っているから、会話は発生しない。
窓際の奥から二番目の席に腰を下ろす。入り口近くには向かい合って座れる席もいくつかあるが、ほとんど全ての席が店の奥側を向くように設計されていた。
教会のように整然と並べられた席の先には、祭壇めいた古いレコードの山が築かれている。時代も国も来歴も様々ある音楽の要塞は、店のオーナーでさえもその全てを把握できてはいないだろう。
そして店の最奥には、この店で最も時を重ねた存在である巨大なスピーカーが聳え立っていた。この店に住まう神がおわす場所、というわけだった。
この店では客同士が会話を交わすことが禁止されている。だからほとんどの席が一人用で、客はコーヒーや紅茶を飲みつつ、スピーカーから広がるクラシック音楽との会話を楽しむ。あるいは自分自身と対話をするのだった。
入店時に流れていた曲がちょうど終わり、さらさらとしたノイズがこぼれる。店員がコーヒーを運んできて、音もなくテーブルに置いた。
店員は曲の合間にしか動かない。客もそれをわかっているから、トラブルになっているのを見かけたことはなかった。さすがに数時間かかるような曲はタイミングを見て給仕をしてくれるが、最初に注文したコーヒーが三十分後に出てくる程度なら珍しくもない。
ノイズが途切れる。ゆったりと流れてきたのはシェーンベルクの浄夜だった。これが始まる前に入店できてよかったと思う。タイトルも知らない音楽が意識の表面を滑り落ちていくだけの時間を過ごすのも悪くはないが、どうせなら好きなものの方がいい。
すぐ後ろの席に人が座る気配がした。相変わらずタイミングの悪い奴だなと思う。
かさりと音がして、カーテンを引いたままの窓辺に四つ折りのメモが現れた。
“この曲はあと何分あるんだ”
二十分、と走り書きしたメモを後ろの席へと返す。直後あからさまな溜息が聞こえて、思わず小さく笑ってしまった。明石はクラシックは聴かない。
三年前、明石が七澤組にスパイとして潜り込むことになったのを契機に、会話ができないこの店のシステムを逆手にとって、こうしてメモでやりとりする「定例報告」を始めた。明石が持ち込むのは主に七澤組の内部事情と、それを伝えられた神津組の反応についてで、こちらは明石が動きやすくなりそうな情報をいくつか見繕って渡す。メモは内容を把握したらすぐ灰皿で燃やすのが決まりだった。
互いに会っているところを見られるのは困るし、内容を聞かれるのも尚更困る。かといって定期的な繋がりを持てないのは、いざというときにすぐ対応できないからこれも困る。それでこのやり方を選んだわけだが、明石が七澤組の深部に食い込んでからは頻度も減った。組織の都合でこの街以外へもあちこち出向いているようで、そもそも連絡のつかないことの方が多い。明石ばかりが悪いわけではなく、数カ月から半年おきに連絡ひとつせず事務所を転々とさせている自分も大概だった。
“しばらく会えなくなる。その前に伝えるべきことだけ簡潔に”
簡潔にと言いつつも、メモの裏側にまで書き込まれた箇条書きの内容に、明石の生真面目な性格が滲んでいた。こういうところを買われて信用されているのだろうなと思う。
昨日の電話での妙な気配を思う。どこか彼らしくない、無理に明るく振る舞うような態度。昼間から泥酔するほど飲むのもらしくなかった。
本当は何か別の用があってこうして呼び出したのではないのか。昼間から酒の力を借りなければ電話もできないような何かがあったのではないのか。
何度かやりとりをしたところで、ようやく明石のところにも注文した飲み物がきた。返事がぱったりとこなくなったので、しばらく待ってやることにする。
“この世で一番長い曲ってなんだ?”
しばらくして回ってきたメモにはこんなことが書かれていた。
少し悩んでからこう返した。
“小杉武久『革命のための音楽』 演奏時間は五年”
いつか聴いてみる、と戻ってきたメモを見て、聴けるものなら聴いてみろよと思う。いわくつきのこの曲には、譜面に「演奏者自身の片目をえぐり出し、五年後にもう片方も同じようにしろ」という指示だけが書かれている。それで演奏時間は五年というわけだが、これまでに成し遂げた演奏者はいないとされているのだった。
以前に一度だけ、エリック・サティのヴェクサシオンを開店から閉店まで(しかも酔狂なことにその日は閉店時間を数時間延ばしてまで)延々とかけ続けた日があったが、そのときはどうしていたのだったか。日も暮れる頃には、客も店員もすっかりノイローゼ気味になっていたことだけを覚えている。
その後もしばらくやりとりは続いた。
明石のメモの終わりには、いつも下手くそなサインのようなものが書いてある。前にこれはなんだと訊いたら、ジェームズ・ボンドのサインの真似だと自信満々に言っていた。スパイがそう易々とサインを書くわけないだろと一蹴してやったらひどく落ち込んでいた。が、いまだに懲りていないらしい。
“俺、最近やっとお前の信念みたいなものがわかってきたかもしれない。どうしても追い求めたいものがあるってことの意味が”
明石はどんな顔をしてこれを書いたのだろう。こんなことは昨日の電話で言ってもよかっただろうに、どうして今このやり方を選んだのだろう。
どう返したものかと思案するうちに、二枚目が回ってきた。
“お前は正しくないかもしれないが間違ってもいない”
そうだった。どうでもいいことはペラペラと際限なく喋るくせに、真面目にものを言おうとするとこいつは途端に口下手になるのだった。口で伝えるより、じっくり文章にする方が冷静になれるといつか言っていた。瞬間の言葉で人を動かす方が楽な自分とは正反対だ。
返事に迷ううちに席を立つ気配があった。もう会話は終わりだと思われたのかもしれない。
明石はいつも後からきて、先に帰る。これも決めたルールのうちのひとつだった。席ひとつ挟んで時間を共有していても、最後まで肉声を聞くこともなければ、姿を見ることもない。
ドアの開く音が微かに聞こえて、明石が完全に去ったことを知る。店内にはヴァイオリンがメインの、聞き覚えのないクラシック音楽が響き続けていた。
最後のメモがまだ手元に残っていた。いつもの通り燃やそうとマッチに手を伸ばしたが、少し考えてやめた。これくらいなら物的証拠にはならないし、下手なサインが全て燃えてなくなるのはつまらない。
曲の終わりを待って席を立った。入り口に向かう道すがら、明石の座っていた席を見る。そこには底にレモンが沈んだカップと、燃え尽きた紙片の燻る灰皿だけが残されていた。
――明石との全ての連絡手段を絶たれたと気づいたのは、それから一週間後のことだった。
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