猫には猫の世界がある。おじいちゃんとおばあちゃんの代くらいからだいたい猫はそういう風に生きてきた。それまでは、犬やミミズやカンカンうるさい踏切なんかと一緒に暮らしていたけれど、その時代、猫たちの筍みたいな三角の耳に、直接何やら語り掛けてくる声がするという不思議な事案が当時の猫の社会の中で、多発的に起こった。
もののためしに、声の言い分をふんふんと頷きながら聞いてみると、声の主はとっても賢い頭の持ち主であることが分かってきた。猫たちはちゃっかりできることを見つける第六感に長けていたので、声が説く話の内容にひょいと乗っかった。
声自身は、「いいえ、私が話すことはすべて計算式の裏付けがあるのです」なんて、畏まっていたけれども、猫たちにとっては、声の言葉は魔法にほかならなかった。
声の言うことをちゃんと聞いていれば、猫たちはもう、意地悪な烏にご飯を横取りされることも、駆けっこに夢中な車たちにうっかり食べられてしまうこともなくなった。猫たちは猫たちだけの社会を作れるようになっていった。
それからもうちょっと経つと、声はさらにみるみる賢くなって、どら猫には泥棒猫を、ねぼすけ猫には麻の鞄を、「おススメします」と仲人するようになり、いつしか猫たちは、縄張り争いに心を砕くこともなくなって、フィーリング・キャットなパートナーといつまでもまったりのんびり、物語のない穏やかな日常をおくれるようになっていった。パパもママももうそんな猫の世界以外知らないし、考えられないって言っている。
「ブチコ、だから声のいうことはちゃんと聞かないといけないんだよ」
だからだろうか、パパはそう言うと、ゴロゴロとママと頬を摺り寄せ合った。確かに、パパとママは喧嘩をするところなんかみたことない。いつもいつまでもアツアツのカップルだし、ブチコもそんな両親に大事に育てられて、ずっと今まで幸せに過ごしてきた。
「けれども、声の紹介する子たちといると、いっつも私、あくびをしちゃうの」
「あくびをするのは、心がリラックスできている証拠だわ。やっぱり、声は間違っていないのよ」
ママは頬を摺り寄せ合っているうちに眠たくなってきちゃったのか、こっくりうとうと、ブチコの話はもう半分くらいしか聞いていない様子だった。
「ブチコさんと私の紹介した茶々丸さんとでは、価値観、気性、ホルモンバランス……様々な観点から試算して、相性度は94.8%であると、おススメできるのですが」
声が申し訳なさそうに、そう告げて来るので、ブチコも少しバツが悪かったが、意を決して、「そもそも、94.8%っていったい何なの。私はそんなおまじないみたいな言葉を使われても分からない」と、首を横に振ってみせた。
「1000回ブチコさんと茶々丸さんが初めて出逢ったら、948回は一緒にお墓に入るまで、仲良く出来るということです」
「私は1000回も生まれたり、死んだりしないもの」
ブチコは「散歩に行ってくる」と言って、パパとママからそっぽを向いたまま、家を出て行った。
「ブチコさん、今日、散歩に出かけたらちょうど70%の確率で悲しい気持ちになりますよ」
「だからブチコ、何かあったら、すぐに帰ってくるんだよ。悲しい気持ちなんて、きっととっても辛いに違いない」
パパやママや声の心配する声を背に、ブチコはとてとて肉球の足跡を付けながら、小規模な旅に出た。
けれども、旅に出てみたはいいけれども、暫くもしないうちにブチコはこの旅が退屈なものに思えてきた。だって、冒険だというのに、何にも起こらないのだから。
それもそのはずだった。声の話に乗っかるようになったのは、もう猫たちだけではなくなっていた。テントウムシはテントウムシの、ひらひら靡くハンカチにもハンカチの世界がもうあって、みんなブチコのことはいるけどいない。そう思うことが自分にとっても、そして、きっとブチコにとっても幸せなことだと信じてやまなくなっていたので、ブチコがお腹を鳴らしても、「そこの菜の花は美味しいよ、君も食べていかないかい」なんて野暮なナンパをするキャツなど皆無なのだった。
「お腹も空いたし、面白いことなんて何にもない。これが声の言っていた悲しい気持ちなのかな。悲しい気持ちってつまらない」
もう帰ってしまおうか、ブチコもそう考えていた矢先、旨そうな匂いのついた風が彼女の鼻を擽った。
「ニャンバーガーだっ!」
ベンチの上で匂いを漂わせていたハンバーガーは誰かの食べかけなのか、齧った跡で凸凹になっていたけれども、ブチコの小さな口にはむしろ都合が良いくらいで、ごキゲンな面持ちで彼女はハンバーガーにむしゃぶりついた。けれども、それがベンチのある公園界隈を縄張りにしているトンビの地雷を踏んでしまった。
ピーヒョロロ。一羽のトンビが急旋回してブチコのことを威嚇する。怖い。ブチコはそう思っても、あんよは竦んでしまい、まったく身動きが取れなくなった。なす術もない彼女はキュッと目を瞑って縮こまった。
「ギャン!!」
突然、耳を劈くような叫びがこだますると、次第に小さくなる羽音はやがて微かになり、間もなく消えた。おずおずと、ブチコが目を開けると、ベンチは何故だかビチャビチャに濡れていた。
「へへッ、だいぶ派手に零しちまったぜ」
どこから、聞こえるのだろう。もしかして、これも新手の声なのか。ブチコが辺りをキョロキョロしていると、
「おうい、こっちだよ、こっち」
声の主は、ハンバーガーに夢中で気づきもしなかった紙コップ、否、その紙コップの中から聞こえてくるのが分かった。
「アイツなら、おいらのパチパチにびっくらこいて、ずらかっちまったよ。見かけに寄らず、肝っ玉の小っちゃいキャツったら、ありゃしねえな、嬢ちゃん」
ブチコがコップを覗くと、ママの首輪についているアクアマリンを溶かしたみたいに水より水色に彩られた液状のものが、小さい気泡を立てながら、威勢の良いガナリ声で喋りかけてきた。
ブチコの見たこともない液体だし、話し方も何だかおかしい。けれども、この小さな冒険で初めて話しかけられたことが嬉しくて、彼女はたまらなかった。すぐにでも、パパとママに今しがた出逢った、この風がわりな存在を見てもらいたくなった。
「あなた、名前はなんていうの」
「おいらはサイダーってんだ」
「私の住んでいる世界まであなたを持ち帰ってみてもいいかしら」
「おいおい、猫ってヤツは霊感だけじゃなくて変な電波もキャッチしちまうもんなのかい。けんども、ぐびりといかれる前に外の世界を見てからってのも乙かもしれねえな」
ブチコはどうして自分が揶揄われているのか分からなかったが、どういう訳かそんなに悪い気もしなかった。兎にも角にも、彼女は紙コップを咥えて、口の悪いサイダーのことを連れ出した。
「ほほしへ、はひはーはんは、ほんはひあはほはひはひひへひふほ?」
「え? 咥えながら、喋っても……なんとなくはまあ、分かるか。泡をパチパチ立てている理由ってか。そりゃ、おめぇ。カッコいいからに決まってんじゃねえか。おいら達の世界じゃ、ぐびりといかれた時、飲んだヤツの目からどんだけ火花を弾けさせるか、それでマブさが決まるんだよ」
「ほはへひゃふほはほはふはひほ?」
「だらだら考えもなしに飲んで毎日暮らしている猫なんざには、分かんねえだろうな。飲まれることはおいらたちの本分、それが矜持ってもんなのさ」
帰途に交わしたサイダーとの会話は何から何までブチコの理解の範疇から外れているものばかりで、サイダーに小バカにされて、ちょっとムッとすることも少なくなかったが、行きのつまらない道と距離が同じとは思えないほど、密で、そして、彼女にはあっという間に感じた。
ブチコが家に帰ると、案の定とでも言うべきだろうか、パパたちは呆れた顔で彼女のことを出迎えた。
「なんだいそれは……サイダー? ああ、思い出した。昔、おじいちゃんが飲んだことがあるといっていたなあ。甘い味なんかすっ飛んでしまうくらいバチバチと舌を攻撃してきて、繊細な猫の口ではとても飲めたものではない下品な飲み物だと聞いたことがあるよ」
「そんな方と一緒にいたら、ブチコ、あなたもバカにされてしまうかもしれないわ」
「ブチコさんと彼との相性は、寿命、そもそも液体であることを鑑みても、かなり低いものと見積もって良いでしょう。どう贔屓目に弾き出しても、11.2%といったところでしょうか……そのことにより、ブチコさんが今日、悲しい気持ちになる確率は86.5%まで上昇しました」
ブチコは、声たちのあまりの酷評ぶりにいい気とは明らかに正反対の感情がふつふつ湧き上がっているのを覚えたが、サイダーはそんな評価など気にも留めないといった感じで、それがまたブチコの心をモヤモヤと燻ぶらせた。
「もういいったら、いい。私たち、お庭でイチャイチャしてくるもん。それに、サイダーさんは、とってもマブいってヤツなのよ。パパたちはおじさんだから、きっとこの新しい感じを理解できないんだわ」
言い出したら聞かないブチコは、もう夕暮れ時だというのに、庭で他所の猫のカップルたちがするように、うららかな春の盛りのイチャイチャを楽しむことに決めたのだった。
猫はとっても愛情表現が豊か、昔からそういう風にできている。うにゃと鳴いては、仰向けになったり、身体同士を擦り寄らせたり、尻尾をハートマークに絡めながら、口づけなんてイチャつきだって、見せつけるかのようにすることも多々あるくらいだ。
ブチコも向うに見える他所のお庭や屋根の上で、他の猫たちがするように、身体を擦り寄らせたり、尻尾を撫でつけたりしてみせたが、接して毛先で感じるのは、ザラザラとした質感の紙コップだけで、やるせなかった。
「あの子は一体、何をしているんだろうね……」
「猫同士でなくても、テニスボールやネコジャラシと仲睦まじくなるカップルなんかは聞いたことがあるけれども、あれは……ねえ」
しまいには、そんなクスクスとした笑いが耳に入るようになり、たまらずブチコは身を乗り出して、叫んだ。
「私もサイダーさんとイチャイチャするんだもん!」
「おい、よせ……よせって!!」
ゴトリ。バチャン。パチパチパチパチ。ゾワワワワッ。
不意に瞑った目をブチコが再び開くと、サイダーはもう芝生を煌めかせる無数の滴になっていた。何ももうその液体は語り掛けて来ず、芝生はすぐに乾いてしまった。
全身の毛という毛がベットリして、束になっている。そろりと前足を舐めてみると、ただただ優しい味がした。束になっていても、毛は全然、逆立っていないところを見るに、本当のところ、ブチコの身体は、「パチパチパチパチ」も、「ゾワワワワッ」も、感じていなかったのだ。けれども、ブチコはそれを、そうなるのを、願っていたのだった。
うにゅ、う。
ブチコは己の口から、今まで聞いたこともない鳴き声が零れて来るのに、戸惑いを隠せなかった。全身がワナワナしているはずなのに、尻尾は重力に屈してだらんと下がりきっている。不思議、感じたことのない。押し寄せてくるようなのに、空っぽ。
「ブチコさん、それが悲しみという感情なのです。悲しみは空っぽなのに押しつぶしてくるのです。私の計算は、この寂寞を如何に回避するか。その為にアップデートされてきました」
そう声が囁きかけた。それでもブチコは、まだこの悲しさというものにもっとずぶ濡れになるまで、暫く浸っていたい。そう思えている自分自身がいて、それが何よりも不思議でならなかった。
"猫とサイダーは分かり合えない。"へのコメント 0件