qナ気がすル

春風亭どれみ

小説

36,268文字

小説にも供養が必要だと思うので、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。元々、縦書き想定で書かれたので仕方なく用いた全角のアラビア数字や等式のちぐはぐさがちょっと愛おしく思えたので、そのままにしました。書いた3月末から、世界は野球のペナントレースの動向のように目まぐるしく変貌し、あわあわな気分です。あえて、てにをは以外は手を加えず。後、鴎さん。今日も、今日こそ、この1点を、つかみ取ってください。fightin’

 

ℚ=1/6

 

研究室は徹底して清潔であった。

自然光にLED灯。光と調和し、招き入れるラボラトリーをコンセプトに造られたこの白亜の小世界に視覚的な意味での暗部というものは存在しなかった。汚れや塵芥はすぐにその姿を晒され、白衣に身を包んだ研究者たちによって取り除かれる。それだけにとどまらず、この明るくも堅く閉ざされた密室は、ウルパフィルタという優秀な清浄機が、虫一匹はおろか、〇・一マイクロメートルほどの細菌の侵入すらも許さぬよう昼夜を問わず監視の網目を光らせている。清潔は空気の中にまで及んでいるのだ。

「実際、喉から手が出るほど羨ましい環境さ。医療出身の僕から言わせてもね、たいした無菌室だよ、ここは」

凹レンズの曇りをマイクロファイバーで念入りに拭き続けながら、Q教授が素っ気なく呟いた。彼の不愛想な言動は、何も彼生来のものではない。前任の医局内で彼の評判を聞いたならば、「温柔敦厚」、「八方美人」、そのような四字熟語が返ってくる程度には、本来の彼は穏和を絵に描いたような性格の持ち主である。つまるところ、彼を蝕んでいるのは、心身にわたる過労だ。

もう数か月に亘って、彼は愛する家族のもとに帰れずにいる。いくら使命感のある仕事なのだと己を奮い立たせても、宿直室の硬いベッドで横たわるうちにおのずから、筋原線維とともに言動にも凝りが目立つようになった次第といったわけである。

「Q教授、一〇八番、経過もとても安定しています。こいつはとても頑丈ですよ。この様子ならば、型の違う血液を流しても、数字は基準値に収まり続けるでしょう」

このグローバルの時代、匿名性を担保する為に僅か二十六の文字にありとあらゆる機密を背負わせるのも些か酷な話だ。特にXの不憫さといったらない。なるべく多種多様な文字が平等に、ランダムに、その責務を担うべきである。ひとまず、我々も慣れ親しんでいる漢字、その中でも偏や旁のないシンプルな文字がいいだろう。そのように述べた壮年のことを丁主管研究員と呼ぶとしよう。

その丁主管研究員の報告を耳にするや否や、蒼白だったQ教授の頬ときたら、みるみるうちに、それはそれは血色のよいピンクの色に変わっていった。

「ああ、そうかそうか。iPS細胞の時から牛血清アルブミンをたらふく喰っていたあの食いしん坊がか!」

初孫が鉄棒で逆上がりに成功したかのような声色で、室内をそわそわうろうろ、Q教授の挙動は落ち着きのない様になっていく。

「教授、あんまり吃驚しすぎると、最初にこいつのお世話になるのが、教授ご自身になってしまいますよ」

不織布マスク越しのБ研究員にも微笑みが零れんばかりであるのがありありと見て取れる。研究室は依然、徹底して清潔を保っていたが、その白い緊張はミルク色にでも塗り替わるように、安堵の前に弛緩していくのを、免疫抑制剤を調整し、血漿分離器に気を配りながらも横目で眺めていた一番新米のق研究員は、

 

(小さな研究室内でついに大きなタームを迎えつつあるこの挑戦が、結果として、神への挑発行為に該当してしまうのではないであろうか……)

 

そのような懸念からか、悦びよりもむしろ愁いに似た情緒が身体中に満ちていくのを感じていた。微かにق研究員の指先は震えていた。どうすることもできずに彼女はじっとそれを眺めているだけであった。

 

ℚ=2/6

 

新しい生命が芽生えようとしている。少なくとも、ق研究員はそんな気がしていた。

そして、ふうと息を吐いてから、彼女の心のうちある理性が、浮かんだ「そんな気」に添削を施し、「新しい生命」を「限りなく生命に近い新しきもの」という記述に書き換えた。しかし、その「限りになく生命に近い新しきもの」とやらを今まさに生み出さんとしている者たちの中に、そもそもそれが生命なのか否か、漸近線はどこまで近づいているのかをはっきりと答えられる者は誰もいなかった。

ロット番号一〇八。今後、生まれ来るものとなりうる存在にとってのイヴ。尤も、研究所の者たちはそれをプロトタイプと呼ぶ代物。

一〇八番は自己で細胞の修復を行う。新陳代謝は老いたQ教授のそれよりもよほど活発だ。まめな丁主管研究員の記すラボノートには、その様子、過程がイヤというほど克明に書かれている。そして何よりも、一〇八番には生命の鼓動がある。脈を打っている。それどころか、一〇八番の姿かたちはまるで成人女性の平均的な心臓を光造形方式の立体プリンタでそのまま三次元印刷にかけたような形状をしている。

つまるところ、一〇八番は人、ホモ・サピエンスの心臓そのものなのだ。勿論、神話の龍や半獣の神が見張る秤、はたまた漫画のデビルハンターよろしく何処の誰かの心臓を奪い去って、この研究室まで持ち出してきたわけではない。一〇八番はついこの間まで、まだどの色にも染まっていない無垢な胚細胞でしかなかった。それが瞬く間に心筋細胞に分化して、やがて、二対の心房と心室を作り出し、勤勉に収縮と弛緩を繰り返し、ナイロン製のカテーテルへ血液を模した液体を送る仕事を一丁前に行うまでになった。そして、研究所内を興奮で満たした一〇八番のその働きは、より若いロット番号を持つ同じような出で立ちをした肉塊たちでは、完全に成しえなかった大任でもあった。

「ロット番号一〇八番は、完全なるイン・ヴィトロで生まれた正真正銘の心臓である」

あらゆる試験を耐え抜いて尚、運動をやめない一〇八番の献身ぶりに感銘を受けた丁主管研究員は興奮のあまり、スカラリーな世界ではおおよそ許されない物語じみた一文を自身のラボノートの欄外に書き記した。調子のよいБ研究員がその大きなゲンコツのような顔には似つかわしくない「♡」の記号を語尾に書き加える。9や0というようなアラビア数字とともに、あらゆるスクリプトを股にかけて、老若男女、老いた者が堂々と使うには少々気恥ずかしいかもしれないが、氾濫を通り越して、空気のように当たり前の存在となったその記号は、今まさに血湧き躍る肉となっている一〇八番をデフォルメし、灰汁を抜いて、平素で親しみやすいものに描きあげた代物だ。なんと完成されたピクトグラムであろうか。たわやかなカーブを用いてそのあたたかさのイメージはそのままに、剥き出しの生命が決して避けられないグロテスクな側面を巧妙に昇華させているとは思わないだろうか。

「まだ歓喜に浸るのは早計でしょう。一〇八番が真の心臓として、我々が認め、世に送り出すには、まだ多くの試験を課して、そして、それを一〇八番にパスしてもらわなければなりません。トランプじゃあるまいし、♡なんて……ちょっと軽率です」

ق研究員は紫外線にかけられたペンを取り、描かれた♡の中心に鎖の襷をかけさせた。

「しかし、僕らの仕事の最終目標は、その一〇八番を、それこそメールの文末に気軽に使われる♡のマークのように、ごくありふれて、身近なものにすることだよ、違うかい」

この研究室を管理し、ひいては組織としての研究所の領袖たるQ教授は、末端の研究員の些細な苛立ちの芽を見逃しはしなかった。昨今の彼にしばしば見受けられた粗雑は一定の成果によってすっかり滅せられたようだった。

完全生体由来の人工心臓の開発と実用化。研究所が課せられた使命を一言で述べるならば、そう説明するのが、市井にも最もよく馴染むであろう。研究所のプロジェクトは、再生医療を専門領域とするQ教授を現場責任者とし、そのもとには、学術界、産業界の垣根を超えて、多くのフェローが集まった。その中で論文に名が記されるのはコアメンバーの十二人。そして、申し訳程度でなく、論文内で複数回、その名が挙がる人物となると、とりわけ、Q教授の目の届く距離で手足となって動く、丁主管研究員、Б研究員、そして、コアメンバーの中では、最も若輩者のق研究員であろう。

人体の逃れられない酸化の呪縛、神の悪戯と呼ぶにはあまりにも理不尽で不公平な五臓六腑のロトみくじ、時間という概念に縛られ無力に漂い続ける人の魂。医学は常に頑として立ちふさがり続ける劫火の前に、どんなにひたむきで懸命でも、その行為はバケツ一杯の水を浴びせるようなものに過ぎず、その成果に医療界はずっと唇を噛み続けてきた。

無能だと罵倒される時は勿論のこと、感謝され、感動を巻き起こす物語となったとしても、その思いは常に付きまとう。机上におどる文の間ではすぐそこまで来ているはずの寿命革命が現実世界に立ち上がる為には、酸化した心臓をまるで古くなった眼鏡を買い替えるかのように、手軽に取り換える技術がどうしても必要であった。

既に医療目的で使用されているポリウレタンでできた人工心臓は確かに精巧であったが、それを担うにはあまりに心許なかったし、あらゆる意味でコストがかかった。そのような背景もあり、iPS細胞理論を応用した人工心臓には大きな期待がかかっていた。

多国籍な企業や団体から円、ドル、元、ユーロ、ポンド、フラン、ウォン、バーツとあらゆる紙幣がデジタルな数字の形をとって、研究所に融資されていることが何よりもの証拠であった。

「諸君の研究は我々にとっても夢そのものであります。世界に先んじて、この技術が実現すれば、我々は国際情勢でも極めて強力なイニシアチブをとることができるでしょう」

先日、身の丈にあわない借り物の防護服に身を包んだz副総理が研究所に表敬訪問をした際、慇懃な文句を嵩に懸った声色に乗せるどこの世界のCEOにもよく見られるスピーチを、念を押すかのようにしきりに、何度も、繰り返しいたことからみても、この研究は既に国家的なプロジェクトに化けてしまったことは明白であった。贈賄すれすれの危ない橋を渡ってまで、多額の出資を行っているz総理にとって、このプロジェクトは肝いりであるようだった。彼の澱んだ目の据わり具合から見ても、腹の中に表には出せない不純なガスが溜まっているのは見え見えであった。青二才のق研究員だけでなく、政争に疎い学術馬鹿とも揶揄される研究員たちの全員にとっても、その腹の中を研究し、解明することは、無理難題に近かった。

「イニシアチブというのは、それほどに大事なモノなのでしょうか」

「まあ、僕らにはよくわからない世界ではあるが、お金は必要だ。どんな主義主張を重ねたところで逃れられない。世事に疎い僕でも、それは身に染みるほどに痛感しているからね。人生経験としてね、肝心だよ」

院生に毛が生えた末端のフェロー研究員のぼやきまがいの質問に対して、小学生に説くかのごとく、Q教授が諭している姿を視線から外し、ق研究員は、分厚い窓ガラスに漉され、射し込む陽の光の方へと、導かれるように足を運んだ。いつまでも丸裸だと思い込んでいた庭の木々は、いつの間にかおしろいでおめかししたみたいに、白を覚え、紅をさしていた。

「梅の花だ。もう春が息吹いているのだね。ずっと研究に没頭していたからかな、心にゆとりが無くなってそんなことまで眼中に入らなくなっていた」

白衣の丁主管研究員がコーヒーカップを片手に近づき、「一杯どうだい」と、ق研究員にブルーマウンテンを差し出し、湯気越しに微笑んだ。

「ありがとうございます。山育ちの私からすると、春先に咲く花自体がなんだかせっかちな気もしますが、いいものですね」

ビーカーやフラスコに囲まれ、遺伝子のアルファベットやコンピュータの数字と格闘する日々の中で、丁主管研究員は自身のセロトニンの欠乏を、より強いカフェインの作用で紛らわすようになり、彼の淹れるコーヒーにおけるミルクやガムシロップのあんばいは次第に限りなく0に近いものとなっていた。煎った豆の匂いがق研究員の鼻腔をくすぐり、咥内を苦味が、まるで鞭を打った馬のように駆け巡った。時折、彼女自身を襲う名状しがたい気分が香味の刺激を前にみるみる立ち消えていくのを感じて、思わずため息が零れた。

「君の故郷は、サウンド・オブ・ミュージックみたいな世界だものなあ。季節の感覚からして、僕とは違うだろうね」

丁主管研究員は、多くを語ることはなく、ق研究員と同じ方を向きながら、コーヒーを啜り続けた。野に咲く花は、初夏の便りだ。草原を駆け回りながら育ったق研究員は、「そういえば、これまでまともに観賞目的で植樹された花を見てきたことはなかったかもしれない」と、梅の花びらを嘴でつつく小鳥に目をやりながら、ふと思った。

「窓越しに外を眺めるのもいいけれども、せっかくだから、たまには街に出て、黄昏時までぶらぶら散歩でもしてみたらどうだい。どうせ今日はそろそろ研究もしまいだよ、副総理が来るみたいだからね。もうすぐ研究所のロータリーには国産の高級リムジンが到着する頃さ。本当は家に帰りたいQ教授も歓待されて、料亭かそれともフレンチか……まあ、満漢全席のはしご酒だろうね。お気の毒に今宵は、液晶画面に転写されたゲノムのかわりに見慣れない言葉が並ぶメニューとにらめっこだろう」

しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いた丁主管研究員は、コーヒーだけでなく、有益な情報までもを無償で、うら若き研究者に与えてくれた。白衣を畳みながら、ق研究員はその提案に首肯した。

「そうそう、君にはサウンド・オブ・ミュージックの比喩が通じてよかった。この前ね、Q教授に同じことを言っても、教授、あの映画のことを知らなくてね、変な空気になってしまったから」

丁主管研究員は、去り際にそう告げて、まだ多少残っているという雑務を片付けに白亜の密室の方へまた戻っていった。

 

ℚ=3/6

 

ق研究員たちが勤める研究室の所在地は、¥市という新興の学園都市の西外れにある。行政からは、新興の学園都市と位置付けられているが、街自体の歴史は非常に古く、ニュータウンの開発計画区域を少し外れると、景勝地化されていない史跡や二十世紀の匂いを残したままの市場などが歯の抜けた櫛のように点在している。

研究室から、距離にして二キロメートルほどしか離れていないこれらの町並みをق研究員は上京して、未だかつて訪ねたことがなかった。日々の生活は有名企業のテナントが立ち並ぶ¥市のセンター街で全てが事足りる上に、誰もが認める田舎から、この街に越してきた彼女にとって、鄙びた旧街道沿いの町並みはわざわざ赴く必要性も特には感じない場所でもあった。おまけにここ最近は、日毎夜毎の研究三昧。丁主管研究員に散歩を勧められでもしなければ、訪れる機会もなかったはずの旧住民の集う市場をق研究員はゆらゆらと彷徨っていた。ヤッチャヤッチャと飛び交う威勢の良い豆腐屋の呼び込みは一聴では怒号と区別がつかず、四つ辻で危うくق研究員とぶつかりそうになった袖も襟首もしらっちゃけたタンクトップの痩せた子供たちは、彼女の長い濡れ羽色の髪を一瞥するなり、一輪車の古タイヤを木の枝で転がしながら路地を走り去ってしまった。

市場は薄紫の貧しさを纏っていた。

ひたすらに手つかずの田舎で育ったق研究員のウェリントンの眼鏡越しの瞳には、行き交う市場の人々がまるで多足亜門の生き物であるかのごとく、その手足ばかりが際立って映った。所狭しと建ち並ぶ屋台の粘っこい喧騒が、まじまじと人の顔色を眺めるような行為など拒んでいる風に、ق研究員には思えたからなのかもしれない。

雲吞の入った拉麺でも食べようか、何かもちもちとした物が食べたい。上京してから、すっかり嚙む力が衰えてきているのを、研究所の先輩たちからは「まだ早いよ」などと、一笑に付されそうではあるけれども、確かにق研究員は感じていた。

そうは思えども、この辺りはまったくの不案内であることを思い出す。異邦人の為の観光マップなどという代物はどの天幕の下にも立てかけてありそうもなく、行商に毛が生えたような屋台の店々は煙のようにウェブの網目からもすり抜けて、液晶ガラスの地図は、今見ている景色のことをあたかも夢幻であるかのように結論付けた検索の結果を表示するばかりであった。

 

(見せかけの事実だけを書き並べたウェブブラウザからも取りこぼされるこの界隈の人々には、私たちの研究はどのように映るのだろう)

 

花壇一つない路地をあてもなく曲がり続けながらも、そのような思いがق研究員の脳裏から離れようとせず、しがみ付き続けていた。自分自身以外、眼鏡をつけている人すら見かけない研究都市から歩いて三十分ほどの別世界。もう間もなく、一〇八番の子々孫々たちが、眼鏡の流通宜しく巷間に流布し始める。しかし、眼鏡をまた新しく購入するかのごとく、気軽に人工心臓を手に入れる者たちが住む巷間とは、この別世界のことを指さない。それは、黄昏に染まるビル群の中にある。

今朝に昇ったばかりの旭が、蜃気楼の彼方に揺らめきながら沈んでいく間に、カシオペヤが飽きもせず、三日月が肥えたり痩せたりするのを見守っている間に、人の臓器は気付かぬうちに取返しもつかないほどに錆びていき、いつの世も人々は、その間に過ぎて行った時を悔い、その度に、時を計り、解き明かすことに尋常でない情熱を捧げてきた。

しかし、幾つかの夜を数えた先に、世界の中で、ほんのひと握りの心臓が、しがらみから解き放たれる。周りよりもゆっくりと日が満ちるのを、チャットの文末に「♡」でも、付け加えながら、見届けるようになる。ق研究員は、そう何かに囁かれている気がした。

それでも、心臓が気兼ねなく取り換えられるようになる未来は、人類にとって喜ばしい一歩であることに違いなかった。研究者としての矜持から、彼女はそう言い切れる自信は持っていた。

 

(けれども、こうして滔々と流れる血潮に耳を傾けることも少なくなるかもしれない)

 

だが同時に、日々の業務で酷使された首筋に手を当てると、そのような念が心に浮かんでくるのも、認めざるを得なかった。歴史の潮流に棹さすことへの逡巡が、彼女にそう思わせるのだろうか。

ق研究員は尚の事、一刻も早く、お腹の中に美味しいものを入れて、満腹の至福で心の隙間を埋めたくなった。

そう感じた矢先に、何か甘い香りが突如、彼女の鼻孔をくすぐった。その香りを外の空気づてでなく、己の口づてで、つまりはフレーバーとして味わいたいと思わせる、ق研究員の下肢と食指を働かせる為には十分すぎる動機となる魅惑的な強い香りは、曲がり角の向う側から漂ってくるようであった。

少女に返ったかのような軽やかな足取りで横丁を抜けたق研究員の瞳に飛び込んだ物体は、彼女のほのかな予感を大きく裏切るゴアに塗れた肉塊だった。

臓器の培養と開発を生業としている彼女の屠られた存在に対する精神的な耐性は、市井に暮らす同世代の一般女性と比べて遥かに強いものであったが、蜜を期待して、飛び込んだ先に出くわした吊るされた躯の列には、さしもの彼女も面食らって仰け反ってしまった。

「ン、アンタ、匂いに釣られてここに来たンだろ。若そうな声をしている娘はだいたいそうだ」

大きなSの字を描くフックに干された肉塊たちの陰から、骨と皮にキメの粗い皮膚を被せただけのような老婆が顔を出した。おそらく肉屋の女主人なのだろうが、表情に商人らしい愛想は備わっているようには見えず、些かぶっきらぼうな物言いで、おまけに右手には肉を叩くときにでも使うのだろうか、金槌を引っ提げていたので、もはやその姿は、ちょっとしたホラーであった。老婆に驚いたق研究員は、「キャ」と小さく黄色い悲鳴をあげてしまった。

干し肉は、近づきすぎるとほどほどに甘ったるい匂いを纏い、値札を付けられ、食品然として並べられてはいたものの、骨の端からは体液が滴り、肉の筋はまだ血色のよいピンクの色をしていた。

「これは、何のお肉なのでしょうか」

ق研究員はおずおずと尋ねると、老婆は、「ン、豚だヨ、背骨に沿って引っぺがした肉でサ。ロースと言えば、ン、分かるだろ」と、言葉の合間に苦しそうな息継ぎを入れながら、答えた。

「……豚」

ق研究員は老婆の言葉を聞いてから無意識のうちに、口を両の手で覆っていることに気付いた。

その無意識下での仕草は、合理性に欠いており、全く無意味な行動であったが、旧皮質の上意下達な命令と比べ、彼女の理性は人生経験や読書体験による真善美に基づいた合議制であるが故、咄嗟の反応においてはいつもぼんやりしている。スタートダッシュに出遅れた理性が、このような場合にせいぜい出来ることといったら、彼女の頬を紅潮させて、間投詞のような平謝りの言葉を編み出すくらいである。

「豚で驚いチャ、川ン向うの、隣町の菜市場ァ、いけネェヨ。豚肉は豚肉の木に生るモンじゃネェンダ」

老婆は机上に据えられた生肉を金槌で叩きつつ、痰でも吐くかの勢いで言葉を吐き捨てた。

そして、少しばかりの沈黙の後に「ンマァ、豚肉の木が生えてきても、アタシァ、目ェ、盲いているから、驚きも出来ないガネ」と、呟いた。

幾度も打ち据えられ、筋が断裂しきった肉は生きていた頃の形をすっかり失い、生まれついての精肉ですとばかりにやわらかい面立ちでق研究員を見上げていた。

「ン、娘さん、気にするこたァネェ。こンの、透き通った水みてェな暗闇とはもう、アタシァ、長ェ付き合いダ。お陰サンで、亭主が牛蒡みてェになっておっ死んだのも、ン、見ずに済んだカンナ」

老婆は目の前の人間の容貌こそは捉えられないが、返事に窮する者の気配を察することには、商人らしく長けているようだった。

口ごもるق研究員の口元を盲いた目でジッと見つめ、そう告げると、皺だらけの顔を更にもみくちゃにしながら、突然、破顔一笑した。盲目の老婆はその後も、ق研究員の化粧っ気のなさを嗅ぎ取っては、「アンタ、薬科の学生サンかなんかだろ」と、当たらずとも遠からずの推測を披露するなど、化粧っ気の無さとともに商機も嗅ぎ取ったのであろうか、打って変わって、朗らかに唾を飛ばし始めた。

「勉強で悩んでいるンか知らネェけど、ン、娘さん、気ィ晴らしたくて、こういうのを探していたンだろ」

老婆は突然、尻を向けてごそごそと何かを漁り始めた。ようやく干し肉のカーテンの裏から出てきたと思った時には、両手いっぱいに月餅のようなお茶請け菓子を抱えこんでいた。

「小腹空いてないかェ」

盲目の老婆は、ちょっとだけ声色を変えて、ق研究員に囁きかけた。菓子からはむんむんと馥郁とした香りが暴力的に立ち込めていた。芳醇な香りを放つ干し肉の群れはこの焼き菓子から匂いがうつったもののようであった。

「コイツァ、こさえたばかりだカンネ。ン、えれェにおったンだろ、娘さん」

よく見ると、老婆の手はやけどしたかのように真っ赤になっていた。半透明なビニールに雑に包装された焼き菓子には、値札とビニールを留めるテープを兼ねた大きなシールが貼られており、そこには菓子の低廉な値段の数字と「金q餅」という商品名が歪な字で記されていた。

「オネエチャン、その文字は俺が代わりに書いたンだヨ。婆さん、字が書けないからナ」

色褪せたカーキの詰襟に身を包んだ壮年が通りの向う側から声を張り上げ、叫んだ。手には白菜を持っている。おそらく八百屋の店主なのだろう。

「若い子どころか、最近は、マダム層もまともにこんな肉を買おうとしないからナ。このままだと婆さん自身が干し肉になっちまうってことで、作ってみることにした訳サ。餅なら婆さん作れるだろうって」

金Q餅と呼ばれる焼き菓子ならば、ق研究員は、湾岸の新都心で開かれたシンポジウムに参加した帰りに、繁華街をぶらついて、そこで食べた記憶があった。

餡子とそぼろをつきたてのお餅に包み、さらに胡麻を塗したサクサクの生地でガワを覆った餅菓子で、とろけるような粒あんの砂糖の甘さと、そぼろ煮のしょっぱさが不思議とマッチし、お茶請け菓子として、上京してからプーアル茶を良く愛飲するようになったق研究員の覚えも芳しい都会の新食感スイーツで、地図上でも表記が朧な路上市場にはうまく溶け込んでいるとは、到底言えず、老婆の掌の金Q餅はとろけるような甘い匂いとともに、奇妙な雰囲気を醸し出していた。

老婆が手にしている焼き菓子の表面には胡麻は塗されてはいなかったが、それは予算の都合でカットされたのかもしれない。

「胡麻がないってンだろ。本家本元のこたァ知らネェけンど、うちのには隠し味があるカンナ。騙されたと思って、買ってケェ」

そう言うなり老婆は、ق研究員の掌に押し付けるかのように、五つ、六つ……おまけだと称して九つほどの金Q餅を瞬く間に売り捌いた。

「まあ、ホントに騙されたみたいな顔しているけど、食べてやってよ。味は保証するからサ。けど、婆さん、商魂逞しいだろう。最初のぶっきらぼう……まあ普段、ぶっきらぼうなのは事実だけどヨ、さっと切り替えた時の婆さんの商売モードに押されて、つい買っちゃう訳」

向かいの八百屋がニタニタと笑いながら言う通り、ق研究員は殆ど無抵抗のうちに、婆さん特製の金Q餅を買わされてしまっていた。

厚かましい婆さんは、「なァ紙袋、アンだろ」と、呶鳴りながら、向かいの八百屋に紙袋の分配を催促していた。均一な値段で大きさは不均等な金Q餅のうち一番小ぶりなものを、ق研究員は鼻の前に持っていき、立ち籠める餡子のにおいをひと嗅ぎしてから、ヒョイと口の中に放り込んだ。

そぼろはおそらく紹興酒と濃い口の醤油で味付けされているらしく、咥内は食前の想像とはまた一風異なるフレーバーを醸し出していた。豚の血と潰れたリンパ節でべっとりした長机の隅に、亀甲に萬の字をあしらったキャップを被ったボトルが転がっていたので、予想したそぼろ煮のレシピはおそらく間違ってはいないであろうという自信が彼女にはあった。肉に絡みつく小豆の薄皮、咀嚼する度にキュッキュと音を立てる弾性のある塊は餅のそれとは違う。

「これ、タピオカですか」

ق研究員がそう尋ねた頃には、老婆はもう次の仕事の方に心が傾いていたようで、鉄道鶴嘴を片手に彼女に目もくれず、首肯だけでその問いに応じた。鶴嘴の先端の延長線上には中臀筋の頑強な繊維が立ちはだかっていた。

「婆さん、現金でしょう。まあ、勘弁してやってヨ。あれで、久しぶりに若い娘さんと長く会話できたから、ご機嫌なンだ」

かわりにق研究員は、向かいの八百屋に甲斐甲斐しい息子のような細やかさで、お見送りの応対をされた。八百屋はق研究員の雑談に交じった他愛ない質問に、実につぶさに答えてくれた。餅の中にそぼろ煮の他にタピオカを入れてみることを提案したり、包装シールの上に、何とも言えない味のある形のちぐはぐな「金q餅」の三文字を揮毫したりした人物が彼であることも、その他愛ない会話の中で判明した。

「本当に不思議とクセになって、美味しいです。文字もユニークで……ですが、qの字が小文字なのは、何か特別な意味でもあるのですか」

去り際に、はたと思ったق研究員がおまけの質問をすると、八百屋ははにかんで頬を掻いた。

「……ああ、まあ、あれだナ。謙遜だヨ。それと、qの字は9にも似ているだろ。並べてみたのサ。餅の値段は9を使って、ワンコインでささやかな釣銭が来るようにしてあるからネ」

八百屋の言葉は若い娘に文字の瑕疵を指摘され、咄嗟に口を衝いて出たでまかせなのか、本当に新商品の開発中に老婆と額を合わせてでもして、練り出した渾身の広告戦略なのかは、ق研究員には推し量ることはできなかったが、「金q餅」がハナから「もう一声」で決まったかのような半端に刻まれた価格設定がなされている理由をはしなくも、知ることができた。むしろ、ق研究員はそちらの疑問の方に合点がいったことの方が収穫に思えた。

そして、市場を抜け、折り目正しく綺麗に整頓された街並みに戻っても、八百屋が最後に放った「ワンコイン」という彼女の周辺ではとんと聞かなくなった二十世紀の残り香のような言葉が、残り香のようにいつまでも彼女の♡の中を漂い続けていた。小脇に抱えた紙袋の中でひしめき合っていた「金q餅」の生き残りはいつの間にか片手で数えきれるほどになっていた。未練がましく奥歯に挟まって、咥内から離れようとしない主張の激しいタピオカであったが、キャッシュレス決済端末など永遠に導入しそうもない路上市場の肉屋の隠しメニューのそのまた隠し味である限り、どんなにユニークな食感を呈しても、それは謙遜的であることと殆ど同様であった。

突然、淡雪のような花びらがはらはらと餅をまさぐる彼女の手の甲に舞い降りた。ふと見上げると、咲き乱れる梅の花がそよぐ東風に身を任せて研究所の庭園一帯に白を振りまいていた。やわらかなLED灯の光が春霞に隠れゆく三日月のかわりに小ぶりな梅の木をいいあんばいに照らしていた。

「眼鏡に花びらが付いているよ。しかし、この花の暗香を前にして、お餅の餡子とは幾分勿体無い気もするけど、ノスタルジーを肴に花を浮かべたお酒で一杯……を楽しむにはまだ君は若すぎるものね。よく食べ、よく学ぶ。そのような若者を見届ける方がこの梅も嬉しいだろう」

「丁主管、いらっしゃったのですか」

いつの間にか隣で微笑んでいた丁主管研究員の姿を見て、ق研究員は眼鏡を外し、口に付いた餡子を拭いながら、顔を赤らめた。

丁主管研究員は、Q教授がつい今しがた、リムジンに出迎えられて、宴席に向かったことを彼女に伝えた。それは予定を大幅に遅れてのことであったが、何でも折衝に難航し、z副総理のスケジュールが押してしまった為のことらしい。

「Q教授も口惜しがっていたよ。このままお流れになるかと思っていたみたいだからね」

丁主管研究員は、梅の花吹雪越しに、車のいないロータリーを顎に手をやりつつ眺めていた。

「一に研究、二に家族。三四が無くて、五に組織みたいな人ですからね」

「政治のことなど、本当は九にも十にも出ては来ないだろう。教授の耳に入ったら、一と二はホモトープで結んでほしいと訂正を要求するだろうがね」

気が付くともう、残る「金q餅」は僅か一つとなっていた。

眼前に広がる景色は、息を吞むほど美しい。恩返しがてらに、この景色をバックに「金q餅」を写した画像をウェブの海にボトルシップのように流して、ささやかながら、プロモーションのお手伝いでもしてみようかしらという思いが、一瞬、ق研究員の心をよぎったが、彼女はカロリーを気に掛ける娘のふりをして、その最後の一個を丁主管研究員に愛想よく渡してしまった。

新しい通信システムは既にシンプルなテキストだけでなく、大容量の画像や動画、音声をファイルに閉じ込めて、万人が気軽にウェブ上に流すことを可能にしており、その現状には決して満足せず、進歩したテクノロジーは、やがては味や香りのデジタル化にも成功し、それをもウェブに記憶させ、網羅させていくようになるであろう。

分野は違えども、研究者の端くれであるق研究員はそう信じてはいるが、同時に何かがぼんやりしたものが乗り遅れて、うっかり取り残されるに違いないとも、彼女は、明確な根拠はないながらも感じていた。

それは首筋に手を当てた時に沸き起こった感情とホモトープで結ぶことのできるような感情であった。そう思うと、彼女の無邪気なプロモーション欲は途端に色褪せてしまったのだ。

「丁主管、人工心臓についてなのですが、血液型の問題はクリアしつつありますが、もっとレシピエントとして想定される人々の遺伝的多様性に対応しうるかどうか、実験を進める必要があると思います」

「なんだい、急に真面目だね。けれども、確かに一理ある。生まれた場所や、皮膚や、目の色で性能差が生じてしまう品であるならば、私たちが心血を注いでいるものは永遠に普遍的なものにはなれない。それこそ、君が今、かけ直したもののようには」

そう言うと、丁主管研究員は細い目を精一杯見開いてから、ふふっと笑った。

ق研究員は、「真面目な話をしているのですよ」と、やんわりと彼を咎めたが、丁主管研究員は変わらない微笑を湛えて、続けて己が見解を説き始めた。

「真面目に取り組まなければならない仕事であるからこそ、ユーモアを忘れてはいけないと私は思うのさ。それに、私たちの仕事はこれからが大変だ。人工心臓はもう小説や論文の上でのみ脈打つ存在ではなくなった。私たちが開発したのだからね。研究室のカーテンの外に出た人工心臓はこれからあらゆる審判を受けることになるだろう。その過程で生みの親である私たちにきっと沢山、辛い気持ちを抱くことになる。リラックス効果を齎すユーモアは、立派な薬だよ」

胃袋の中に「金q餅」がすっかり消えてなくなると、餅の強い香りに気圧されていた梅の暗香がほのかにق研究員の鼻孔を擽り出したことに気が付いた。

暗闇の中で、科学の結晶によって、幻想的に照らされる梅の花。その姿を前にして、ق研究員は溜め息をつくしかなかった。そして、彼女はもう一個だけ余分に、「金q餅」を買うべきであったという、小さな後悔を噛み締めることにしたのであった。

 

ℚ=4/6

 

「改めて、このような席を設けていただいたこと、感謝の念に堪えません。……して、この料理はいったい何を使った料理でしょうか。何分、恥ずかしいことに、研究分野以外の見識にはとんと疎いものでして」

ق研究員と丁主管研究員が梅に魅入られている頃、酒を酌まれ続けたQ教授は、すっかり正体を失っていた。先ほどから、中華料理にとってのメニューに当たる菜譜は、彼の卓の前でずっと福の字と同じように逆さまのままである。

「いえいえ、こちらこそ、失敬。約束の時間に遅れるなど、大人としてあるまじき行為でした。しかし何分、毒がキチンと回るまで確認しないと気が済まないのは、私の悪い性質でして。……うん、これは鰡の臍ですな。顎の尖った若い連中の間では、何やら噛めばキュッキュと音の鳴るような軟弱な食べ物が流行っているでしょう。我々は、その間にこれに舌鼓を打つことにしようではありませんか」

z副総理は、鰡の臍がクルトンのように塗されたスープをぐいと一飲みしてぷうと息を漏らした。

鰡の臍は人間の出臍とは勿論、異なる器官であり、「幽門」と呼ばれる鰡の喉元にある泥と栄養となる有機物を選別する消化器官の一部のことを指す。胸筋とともに重力に従順になり、すっかり痩け落ちたQ教授の歯茎にはなかなか酷な歯応えも有している。ヘベレケになりながら、鰡の臍の砂肝のような噛み応えに教授が四苦八苦している間にも、z副総理は決して乱れることなく、恰幅の良い腹を撫でながら、相手にアルコールの毒が回ってゆく姿を、目を細めて経過観察していた。

もしも、政界の酒豪番付があるならば、太字で書かれることは間違いないとの呼び声も高いz副総理にかかれば、Q教授をすっかり骨抜きにさせる名の知れた清酒でさえも水のようなものであるらしかった。z副総理の身体にドーパミンを行き届かせる為には、まず彼の堅牢な猜疑心を解きほぐさなければならず、酒はその観点から見るに、「顔じゃない」と言わざるを得なかった。z副総理は心地よい酔いを求める為に、アルコールに、イニシアチブの力添えを欲するようになっていた。イニシアチブは、公私ともにわたって、彼の口癖でもあった。

「しかし、鰡の臍とは。高級な料理は時として、何故その食材を用いたのであろうと、理解に苦しむメニューがありますね。先ほどのフカヒレは大変、美味でございましたが……」

「おや、新奇性に富んだ研究に定評がある教授らしからぬ、発言ではないですか。私に言わせてみたら、その意見は、空腹にあまり苛まれた経験のない精神労働者の至極、偏った見解に思えます。食への貪欲は、飢えた経験を持つものが、生きる為に備えた一種の免疫であると私は勝手ながら、感じております。豊かな食文化は、漏れなく、私どもにあるその部分を擽る術を持っているのです。我々はもっと豊かになっても良いし、むしろ、ならなければいけない。そう言った意味では、先ほどは軟弱であると揶揄してしまいましたが、若者たちの間で流行っているという新食感のお茶請け菓子なども、そう捨てたものではないのかもしれませんね」

ディベートにおいて、Q教授は、本職のz副総理に敵うべくもなく、「流石の見識です。大変、勉強になりました」とへらへらと笑いながら、平身低頭する他なかった。その振る舞いは、慇懃な謙遜などといったものとは関係なく、Q教授の心の奥底に巣食うもっと純粋な劣等感からくるものであった。彼は、歳のそう変わらないz副総理と自分自身を見比べ、おそらく二人の年輪の厚みの違いからくるものに対して、気後れしまう気持ちを誤魔化せずにいたのだ。z副総理の広大な胸郭は、自身が水田を耕す農夫の子であることを実に明瞭に体現していた。

物心ついた時からずっと本と研究の虫であり続け、書斎と研究所に独りでに蟄居し続けた者より、鍬で掌に肉刺を作り、額に汗をしながら、同朋の苦しみに耳を傾け、農村の青年組織から政治の世界を駆けあがっていった者の方が得てして、ずっと社会の覚えが良い。Q教授は、それが決して己の偏見などではなく、自らを阿Qか何かに投影させて生きる者の多い社会の中では、とても普遍的な通念であることを確信していた。

それどころか、自分自身のような存在が排斥されず、辛うじて、世間を知らぬまま研究人生を続けて来られたのは、己の再生医療という研究分野がたまたま目に見えて、飢えた社会の中でも有用性を認められた形而下学であった為であり、言ってしまえば、運良く冷遇を免れたに過ぎない。

z副総理が「イニシアチブ」に魅入られて生きてきたように、Q教授は、永らく「役に立つ」という言葉に囚われて生きてきた。所帯を持ち、白頭姿で初孫を抱っこするようになってもなお、Q教授は実社会に後ろめたさを抱いているだけでなく、人文科学の学問にも負い目を感じていた。

 

(僕は蝙蝠のようなものだ……)

 

それは、この宴席が政治的な接待とは無縁の、気の置けない仲間や信頼する部下たちとの間で開かれる私的な席であったならば、それが酣になる頃に、彼の口から直接、零れたはずの胸三寸であった。

アルコールで正体を失っているだけでなく、彼元来の引け目のようなものが、嗅覚をも鈍らせているのであろう。

Q教授は、目の前にいる一見では人当たりの良い政治家の背から滲み出て、蠢くものに全く勘付くことが出来ずにいたし、それどころか、政界に身を投じてから肇国ならぬ、言わば肇党の精神に忠実に則って仕事を熟してきたz副総理に、理想的な大人の像を、呆れるほど無邪気に重ねるまでしてしまうのも、仕方のないことであった。

「いえいえ教授、こちらこそなかなか興味深い話題の種を提供していただき、感謝致します。言葉が澎湃として溢れ出る喜びは、これから来るメインディッシュを頬張る喜びに、勝るとも劣らないやもしれません。そうしているうちに、ほら。ぐつぐつと煮込まれた血のにおいが漂ってきたではありませんか」

冗談のように縦に長い帽子を被ったコック長が、懇切丁寧な主菜の説明に取り掛かる。二人の前にコトリと置かれた皿に乗るのは、五香粉を徹底的にきかせた豚のハツの姿煮であると、コック長は伝えた。ハツとは英語のハーツが訛ったものではり、すなわち♡のことである。

「ものの見事に、そのままですなあ。しかし、何かの縁でしょうか、まさに専門分野が来たではありませんか。これはひとつその道の権威に、ご教授をお願いしたく存じますな」

z副総理は、教授に気を利かせたつもりでいるのか、幾分、乱雑に話題を変え、豚の心臓と教授をチラチラと見比べては、空々しい微笑を覗かせる。

Q教授は、基礎教養科目を聴講しに来た他学部の大学生に対してするような口調で、豚の心臓を専門用語で嘗め回した。彼は箸の先をポインター代わりにして、心臓に走る青筋を指し、淀みなく喋り慣れた言葉を並べてみせると、その箸先を今度は少し立てて、そこから、豚の心臓を一気に破ってみせた。料理と化した心臓には下処理が為されていたようで、教授たちは血を浴びることはなく、かわりにじっくりと煮込まれた心臓は、ジューシーな内臓肉の旨味成分が存分に溶け込んだ薫り高いガスを二人に浴びせた。

卓の向う側に坐するz副総理の生唾を飲む音を耳に入れながら、Q教授は杯を傾け、白酒を喉に流した。

「これが心臓の冠状動脈です。ここは大動脈に繋がる血管な訳ですから、心臓の機能の観点から考えても、生命にとって最も重要な血管の一つと言えるでしょう。副総理も耳にしたことがあると思われます心臓のバイパス手術というものはですね……まず、この冠状動脈が加齢や不摂生などにより硬くなると、つまりは柔軟性を失ってしまうのですから、内径が窄まるように小さくなってしまう、そのような病気が我々には起こる可能性があります。世に言う狭心症ですね。また、悪玉コレステロールが増えすぎたりなどすると、血管内で脂肪の塊が出来て、血管を塞ぐ、心筋梗塞。これ等の病気などでこの血管に大渋滞が起きてしまった場合は非常にまずい。そこで、渋滞を解消するためにここに直接、管を通して、大動脈まで一気に繋げてしまおうではないかと。そのような試みなのです」

「なるほど、非常に分かりやすくてありがたい。私もかつて、そのバイパスという言葉は耳に胼胝が出来るほど、聞かされていた過去がありましてね。そうですな、教授が病める人々にバイパスを渡してあげていたであろう時期とちょうど同じ頃でしょう。私もかつては建設行政に携わっていたことがありましね。その頃は、ずっと農のことばかりを考えていた青年が、やってみろとばかりに全く不案内の責務をいきなり任されたのですから、その頃は寝食を忘れて必死でした。この国には我が故郷に輪をかけて貧しい地方が沢山あることに気づかされましてね。そこに住む人々に飯をたらふく食わせてやるには、農作物だけではない、道もいるのだと。あの頃はそうして、文字通りあちらこちらに之繞を渡しながら、行脚していたようなものでした……しかし、せっかくのご馳走ですから、話を振った私の全責任ではありますが、コレステロールなどといった耳に痛い言葉はシャットダウンして、旨さを味わうことに集中すると致しますか」

z副総理はぷっと呼気を漏らすと、微笑を目に見えた哄笑に転じさせた。生命体として、彼ほどのエネルギーを持ち合わせてはいないQ教授はそれにつられて、力なく愛想笑いをするしかなかった。Q教授にとって、これほど覚悟なく、しかも、多分のアルコールを口に含ませながら、心臓を切り開くような事態は未だかつてないことであった。そして、その行為はあまりに呆気なく為された。教授は豚の心臓を箸で弄り、大動脈弁に当たる部位を取り出し、しげしげとそれを見つめた。彼が豚の大動脈弁を目にした記憶は遡れる限り、今回と、以前に一度だけ存在した。Q教授の初孫の齢とちょうど同じくらいの、心臓に重い病を抱えた少女の手術の執刀医を任された時だった。

豚の大動脈弁は人工弁の置換手術において、機械弁を入れることでのデメリットが多いクランケに使用される生体弁となることも、時として存在するのだ。その時は、剥き出しで鼓動する小さな心臓の鼓動に圧倒され、目の乾きが止まらなくて仕方なかった。彼女の心臓を修復する際に、豚の臓器が移植されることへの心理的な抵抗感や回復後、その子が一身に受けることになる社会のまなざしから彼女を護る為の配慮を考えるまでの余裕を心に設ける力量が、当時のQ執刀医にはまだ足りていなかった。手術は何とか無事に成功の形で終えることが出来たが、その後の彼女の人生をQ教授が逐一フォローできるはずもなく、せいぜい年に一度、便りが届く程度のやりとりにとどまっている。彼女は数十年間、途切れることもなく感謝の言葉を綴ってくれてはいるのだが—―。

 

(確か彼女は、丁君の奥さんと同い年くらいのはず。あのオペを僕が担当した頃の世相は、プライバシーなどという概念が飛行機に乗ってやってくる随分前のことで……やはり、人工心臓計画を成就させることは我々の使命だな)

 

無心で口に放り込んだ大動脈弁は、まるで味わってもらう為に存在しているかの如く、美味かった。冗談のような長い帽子を被ったコック長が豚の心臓を調理し、ハツの姿煮に変身させた。それだけのことであったはずなのに、Q教授は箸を持つ手の震えが止まらなかった。ハツがとめどなく滴らせる肉汁は彼の舌に沁み、そして、丹念に熟成された老酒と良く合った。

「美味い。これはとても美味いですよ」

Q教授は、しみじみと、尚且つ感嘆符をも並べて、z副総理の舌の確かさと、料理の背後にあるコック長の修行に賛辞を呈した。

「ここは政界の兄貴分でもあった〻さんから、紹介してもらったお店でしてね。私にとって、魑魅魍魎の跋扈するこの世界の日常の中で肝胆相照らすことのできる数少ない先輩でもあり、同志でもあった人でしてね。嫌疑をかけられ失脚してしまい、今はもう、ご本人は海外でのんびり隠退なさっていて、阿字を唱える生活を送っているそうですが……つまるところ、閥の中で脈々と、それこそDNAのように受け継がれている店なのです」

z副総理は豚のハツ煮をすっかり平らげ、爪楊枝の先をちびちびと舐めながら、独り言ちてから、「そうです、DNAと言えば、例の人工心臓。その方面での心配はないのですか」と、質問の主題を付け加えたような形で、教授に尋ねた。

「その件に関しては、心配は要りません。臨床研究で採取されたサンプルはあくまでもサンプルにありませんので、いくらゲノム配列を解析しても、誰かの臓器のクローンとは看做されませんし、勿論、誰かとそっくりのクローン人間の姿を描くことも出来ません。遺伝子に使われる塩基は三〇億対に及び、その順列の組み合わせの総数はまさに星の数ほど存在することになりますので、この人工心臓がマスプロダクションの体制で製造されるようになっても、その瞬間に生きている誰かの遺伝子と偶然、完全に一致してしまうことも殆どゼロに近いと考えてもよいでしょう。ですので、人のゲノム配列を持ち合わせる人工心臓ではありますが、それはあくまでも人の未来をより豊かにする道具に過ぎません」

Q教授は、意識して平易な言葉遣いを用いながら、z副総理の抱く不安のケアに努めた。

「それを聞いて安心しました。我々世代は、教授のように、科学に明るい一部の方を除いて、何を推し量るのもアナログな視点しか持てない時代の人間ですので、デジタルな印象のある遺伝子の話になると、途端に暗闇に閉じ込められた気持ちに似た一抹の不安が浮かび上がってしまうものでしてね。その不安は行政を担う者にはなかなか重い。法にも関係してくる問題ですから。しかし、三〇億もの、その、塩基というものがあって、一糸乱れることなく、目的に向かって邁進してくれるというのは、今のご時世、こう言ってしまうと傲慢不遜であると、目くじらを立てられてしまうかもしれませんが、人体に対してタクトを揮うことは、社会に対してタクトを揮うよりも、シンプルなようで少しばかりですが、羨ましく思えてしまいます。私が生まれ育った時代は酷く殺伐とした時代でした。生きる為、たった一杯の拉麺にありつく為に、骨に土色の皮を被せただけのような人の身体を何度も跨いで、そうやって、暮らしてきました。ですから、公に身を捧げたいと決めたら、すべてのゴールはたった一つ、それにつながる道だけを考えれば、良かったのです。腹が膨れまで食べられるようになる為に学問を身につけ、腹が膨れないからという理由で、娯楽に目を呉れることすらままなりませんでした。けれども、今は違う。率直に言えば、私はこの変化に戸惑っているのです」

z副総理は、議会で演説でもしているかのような長々とした文句を、先ほどまでの磊落とした面持ちとは打って変わって、奇妙なまでに静かに、一節ずつ己の心に問いかけ、確かめるかのような調子で酒を啜っては、漏らし始めた。

「z副総理が抱えているものとは、比ぶべくもないほど、ちっぽけなものでしょうが、私とて、そうした困惑に出くわすこともないこともないですよ。インフォームドコンセントだと声高に叫ばれても、そもそも、まず私の人生自体でインフォームドコンセントが為されたことなど一度たりとてないので、私にはそれが分からないのだと、恥ずかしながら、吐露したくなったりもします。幸いなことに、部下は皆、信頼のおける者たちばかりですが、それでも色々なギャップには、私もいつも戸惑っております。若いと言っても、もう不惑も近い齢ではあるのですが、Бという研究員の、若さによる向こう見ずな精力には常日頃、手を焼かされていますし、もっと若盛りなقという子は、若いのに、苦労の多い出自であった為でしょうか、いつも些か深く考えがちで、そこまで哲学的に悩まなくてもと心配になることもあります。半面、一番年少者である彼女のその気質に助けられることもあるのですが……」

人前で部下への惚気の披瀝することに照れがあるのか、Q教授は姿煮を箸で細かくちぎったものを一切れ口にする度、運動後にコップの水の飲み干すかのような勢いで、度の強い酒をぐいと呑み、酷い呂律で早口にまくし立てては、ニヤニヤ笑い、そして、うんうんと唸った。

「それは、尚更、羨ましい。私の世界で、若い者は常に長老の寝首を掻こうと、私どもの一挙手一投足に目を光らせているものですから、本当に油断なりませんので。しかし、私の心の隙間に忍び寄っているものはもっと異質なものなのです。それはですね、例えば、一人っ子の若い世代の連中たちと討論したり、国際的なフォーラムの舞台で異質な服を身につけた者たちと対峙したりした時に、ふと囁いてくる亡霊なのです。生まれ来る前であった者たちよ、隣の空模様から顔を背けた者たちよ、貴方たちが信条とするその価値観で、あの時にいったい、何を私たちにしてくれたのであろうかと」

z副総理は、お道化て、Q教授を驚かせたり、揶揄おうとしたり、そういった雰囲気の一切ない、極めて淡々とした口調で、亡霊という、非科学的な存在を、医学者の前ではっきりと口にした。

「……それは、飢えて亡くなった者たちの亡霊なのでしょうか」

その問いを、Q教授は、医学者という立場を一旦抜いて、酒を酌み交わした同窓生と相対するような面持ちで深堀し、更に質問を重ねるようにして、z副総理に尋ねた。

「いいえ、飢えて亡くなるような人に限って、丁寧で嫉みのない人たちばかりでした。囁いているのは、むしろ、生き霊。おそらく、私の心に未だ宿り続ける少年時代の残留思念なのでしょう。今の人たちの訴えていることも一理ある。そう理解は出来るのですが、腑に落ちない。私にとりついた亡霊がそのことに、納得までさせてはくれないのです」

z副総理は目を瞑りながら首を振って、穏やかに答えた。

「精神医療に関しては門外漢ですので、教授という下駄を履いていない、素人の裸足のつまらない居酒屋放談と捉えて頂きたく思うのですが、強いストレスを前に脳も傷つくそうです。傷の修復能力にも勿論、個人差もありますし、歳を食えば、自然と傷の治りも遅くなるでしょう。そうなると、我々のような世代は、多く苦労を重ねてきたので、きっとハートも傷だらけなのです。年齢とともに反比例していく修復能力に加えて、クワームという名の係数qの値も酷いものと来たら、グラフの曲線はきっと目も当てられないものになっているに違いありません。コンピュータの世界でも、年季が入り、見識を深めるほどにキャッシュというものが溜まっていきます。我々世代の者に付き纏う少年期の亡霊は、歳を重ねたことで起こる宿命なのでしょう。私などには副総理のような大鵬の志を推し量る器もないので、無責任な言葉しか並べられませんが、そう後顧を憂うばかりでいることもないのでは。副総理には、今、実業界でも聡明なプランナーとの呼び声も高いご子息がいらっしゃるではないですか。この人工心臓の計画もご子息の力添えなくしては、いつまでも現実性を帯びることはなかったでしょう。つい先日もアウトレット品を譲ってほしい旨のメールを頂戴したばかりでしてね。プレゼンテーションの場に必要なのでしょう。いやはや、彼のような若きエリートの立案能力というものは、政策の場にも大きく活かされていくのではないかと、僭越ながら、私は思うのですが」

あまり饒舌に言葉を並べ過ぎると、自身の言葉の一部若しくはその全部が、白々しいおべっかで塗り固められているとz副総理に訝られてしまう懸念が浮かびながらも、Q教授は、淀みなく浮かび上がる文句を押しとどめることが出来なかった。

彼は人間関係の気遣いこそ、意識できるものの、政治的駆け引きに適した人間かとまで言われてしまうと、それは違った。彼には政治的駆け引きという適性はまるで備わっていなかったし、彼自身もそのことを自負していた。それだけに彼は、政治的駆け引きという適性を用いて、見取り図の枠外に存在する環境因子を見極め、具体的な数字の修正を熟慮断行出来る者への敬意というものに、人一倍厚かった。Q教授の熱意に、z副総理は、一瞬、気圧された素振りを見せたが、五香のスパイスで汚れた口角をナプキンで拭うと、「あれには過ぎた誉め言葉で、恐縮です」と、教授に恭しく頭を下げた。

「うちの愚息は確かに、親の贔屓目を抜きにしても、才気があるとは認めます。しかし、それ以上にあれは屈折してしまった。思うに彼の世代は、私たちのような、末は博士か大臣か、大同社会を無邪気に信じ、人一倍学び、立身出世し、最も燦然と輝くポラリスとして、その社会を指揮する資格を勝ち得ることの為にひたすら邁進し続けてきた親の教えと、空を跨いだ学び舎で見知った多国籍の同窓や、まるで未来の側からはるばる我々の世界に訪ねてきたかのような新しい価値観を有した若い世代が口にするアドバイスボイスとの間で板挟みになり、哲学的な問いから完全に逃避してしまった。逃げた先の娯楽でさえも、息子の扱いは、古い戦争映画と新しいアニメーションとの大きな波浪の狭間で、翻弄され、漂流する小舟のようです。せめて幼少期に詩的なものに触れさせる期間を与えてあげるべきでした。あの子を産んだ後、妻は産後の肥立ちが悪い状態が数年ほど続きましてね。以前より如何ばかりか、窮状を脱したといっても、教授はご存じでおられると思うのですが、我々にとってまだまだ、栄養は欠乏しているものでした。こっそり会議を抜けて、当時国内に流通し始めたパイナップルをこっそり掻き集めて、妻に与えることが、家族に出来るやっとのことでした。とても息子の素養まで考えるには至らなかったのです」

そう言葉を零すと、z副総理は急須の蓋をずらす合図で、給仕に初めてお酒でなく、お茶のおかわりの要求をした。

「その思い出のパイナップルを用いたデザートが来るそうです」

「それは楽しみですねえ。パインも昔は大変高級で貴重なものでしたね。若い世代にはもっとありがたみを持って食べてほしいものです」

卓を人差し指と中指の先っぽでトントンと叩きながら、コック長にデザートの催促をするz副総理を尻目に、Q教授は思案顔で俯いて、心に浮かんでは凝固する前に霧散していく感情の一つ一つに気を取られ始めていた。

 

(偉い詩人はまだ見ぬパイナップルを目にし、口にしたら、その生じた感情にどのような言葉を纏わせて、詩を詠み、琴を奏でたであろうか。……それどころか、僕は考えたこともなかった。ずっと没頭していた人工心臓。あれが詩歌の世界に触れた時、どのような語彙を並べられ、例えられるのかを)

 

腹の目盛りは疾うに八分目を超していた。デザートだけは別腹。何処の誰が言い出した言葉かは知らないが、壮年のすっかり凋んだ胃袋に、パイナップルの入る余地があるかどうかという問題が、まずは架空の詩腸よりも喫緊ではないかと、卓の上にバケツプリンのような杏仁豆腐がゴトリと置かれると、Q教授は考え直すのであった。

 

ℚ=5/6

 

人工心臓が世間の耳目を集めるようになった瞬間というものは、丁主管研究員が一抹ほどの気懸かりを抱いていたことを除いて、白亜のアイボリー・タワーの住人が思うどの予想よりも、遥かに早くやってきた。Q教授が長引く宿酔と胃もたれによって、二週目の青い月曜日を迎えようとしていた、寒の戻った春の午後のことであった。

それは、テック・カルチャー・メディアを標榜し、主にウェブサーバ上で活動の場を広げつつあるΩ通信社というベンチャーの通信社が、贅肉が付いて迅速果断なフットワークがかなわなくなったテレビ局や、人脈がかえってしがらみとなり、身動きの取れなくなった新聞社を出し抜いて、単独スクープを嗅ぎつけ、書き上がった記事を即座に、電子の海へと放ったことによって起こった。

ニュース記事は、招待制で催されたz副総理の息子がCEOを務める上場企業のプライベートショーの体験レポートという体裁をとっており、ヘルス・テック・カンパニーの看板を掲げているz副総理の息子の会社に、そういった類のメディア企業の記者が現れることは至って自然でもあった。

データドリブンに基づいて生成された抗体医薬品や生活習慣病の廉価な試験キットなどの商品が一頻り紹介された後に、今回のショーの目玉として、研究所の人工心臓はベールを剝がされた。記事によると、会場を包んだ期待通りのどよめきを確認すると、z副総理の息子は頬を綻ばせ、人工心臓が再生医療にとどまらず、新薬の臨床試験などあらゆる面において、革命的なブレイクスルーを齎すことを声高に宣言し、約束したそうだ。

書かれている記事の内容がその文面だけで完結していたのならば、何ら問題はなかった。問題となったのは、ニュースとともに掲載された写真の方であった。

「会場の興奮は、z氏の衝撃的なパフォーマンスの瞬間、ピークに達した」

キャプションにはそのような文句が書かれた解像度の極めて高い写真は、テーブルナイフとフォークを人工心臓に突き刺したz副総理の息子が、犬歯を覗かせながら、大口を開けている瞬間を鮮明に捉えていた。

露悪的な振る舞いを好むテック業界ムラの慣わしと、父親譲りの食への貪欲が無意識のうちに結びついたのであろうか。無反省を色濃く映す彼の軽薄の目つきには、ق研究員もソーシャルメディアに躍った洪水のような匿名のコメント群とおおむね同様の感想を抱いた。

彼女のうちの善も美も彼の行動をよしとせず、その行動に「生理的な嫌悪感」を抱くことを許可し、真はただ態度を保留せざるを得なかった。彼女のうちの真は、その冷凍の処置を施され会場まで運ばれた時点で、その心臓は牛血清アルブミンを垂らしても、反応一つ示すことのない死物、有機体とはもはや呼べない有機物の塊と化していたであろうことを認めこそしたが、それが彼女の善と美が抱いたネガティブな印象を覆す為には、何の材料にもなり得ないことも同時に判断した。

研究所と人工心臓に対する世界の第一印象は、考え得る限りの中で最悪のものとなってしまった。とりわけ、戦火や災禍の記憶を持つ者の間で、見世物のように晒された贓物の姿とそこに集まる好奇の視線は、おどろおどろしく映った。本邦の当局は、極めて強力なコネクションを有する同朋が「人喰い」として誹謗中傷の的になってしまっている現状に懸念を示さないわけがなく、これから、事態の火消しに躍起になることは、火を見るよりも明らかであった。

ウイルス一つの侵入すら拒み続けるほどに潔癖であったはずの研究室も、もはやユトリロの絵画さながらの白き沈黙を貫くわけにもいかなくなっていた。当番制で担務を回していた研究の決められたリズムも、押しかけて来る記者への対応等によって、崩されることを余儀なくされていた。

「あれは確かにホモ・サピエンスの心臓です。しかし、過去に人の所有物であったことのない心臓なのです。倫理的な視点から物を言うなれば、それは猿肉と人肉ほど違う。あなたがたが今、行おうとしていることは、残念ながら、センチメンタルな美学を乱暴に振りかざすことで、未来に永らえて繁栄するはずのたくさんの命を奪い去るような愚行と言わざるを得ません」

この日も、二重扉の向うから、殆ど怒号にも似た釈明が研究室まで響き渡り、駒込ピペットを片手に、シャーレの上のグルタミン製剤を移し替える作業をしていたق研究員は、いつしか自身の鼓膜の心配をするようになっていた。

「いいのですか、丁主管が応対にあたらなくて。あれでは、研究員が逆上したなどと、面白おかしく書き立てられてしまうのでは」

「彼がこのままでは埒が明かないと立ち上がったのだから、仕方ないさ。教授は件のことで相当参っているみたいだし、何しろ、z副総理と会食をした当事者だから、×だ。その上、私のようなのらりくらり応対では、延焼は避けられても、事態の好転は見込めませんと、Б君が息巻くのだから。しかし、副総理のような政治手法はトコトン内弁慶で、睨みで抑制できないベクトルの厄介とはてんで相性が悪いようだ」

丁主管研究員は、液晶に映し出されるアルファベットの行列とにらめっこをしたまま、彼女の憂慮に答えを返した。

彼が言うように、z副総理のお得意の「毒を回す」作戦は、Ω通信社には全くの不発に終わったようだった。ヒト・モノ・カネの、法人の三大栄養素をあまり必要としない、まるで四肢の先っぽに心臓を分散させた異形の怪物のような存在に、彼は今まで対峙してきた経験がなかったのだから、それは当然の帰結であるのだろう。そう丁主管研究員は容易に頷けたので、z副総理のしくじりには、然した驚きも抱かなかった。性善説を信用せず、ずっと上意下達で生きてきた者ならば、尚の事、心理戦において、分が悪かった。専横のない組織はこの世には存在せず、あったとしても、それは傘連判状のように主席の存在をカモフラージュさせるが為の見せかけの手品にしか過ぎない。そう信じ切っているz副総理は、集積回路の存在を知らぬまま、将棋なり、チェスなりを指す機械と対峙する探偵のように無謀なハンディキャップを負っていた。

しかし、ق研究員の抱く名状しがたい懸念は、そういった詰将棋のような政治的な駆け引きとはあまり無縁の、至極、些細な部分に宿っていた。

大概のことにおいて、ق研究員は先輩研究員であり、職場の同僚でもあるБ研究員のことを信頼していたが、それはプロジェクトの中で同じ釜の飯を食べながら、それを築いたからであって、レトリックや社交辞令を好まず、愚直なまでに率直な正義感を貫く彼が、信頼関係のないジャーナリストと討論しているとなると、はっきり言ってしまうと、彼女はとても心配なのであった。彼のディスカッションは常にノーガードであるがゆえに、言葉のお尻が常に剥き出しの丸裸であるという致命的な弱点を有していた。

 

(猿の肉……か)

 

その時、ق研究員は、フックに吊るされた剥き出しの豚の心臓を見た時とはまた違う類の忌避が自身の神経を伝った気がした。彼女の倫理的な視点には、その猿の肉の比喩がどうしても、引っ掛かって仕方がなかったのだ。心に囁くようにしてでしか問いかけることのできない神様は、お空のお天道さまやお月さまは、何を思うのであろうか。そう考えて、心を落ち着かせるしかなかった。

生態学の持つ視野で物を言わせれば、猿の肉と人の肉の差など、殆ど微差に過ぎないはずである。Б研究員の言い分を聞いた時、当のお月さまは酷い猿芝居を見た時のように嘲笑するのであろうか—―。

それ以前に問題なのは、彼の目の前の記者が何を思うかである。

「ちょっと私、応接室の方に行っても良いでしょうか。このままですと、どうしても研究に身が入らなくて。お茶を出しに来ましたなり、理由はどうとでも後付けできますし」

保護用のゴーグルを取り外して、ق研究員は、丁主管研究員のもとに歩み寄り、伝えた。

「構わなくもないのだけれども、このご時世に若年の研究員である君がお茶汲みに現れたというのは、少しまずいかもしれないなあ。先方、そういう問題にはうるさそうだよ」

今度は、液晶の画面から視線を外して、丁主管研究員は溜め息交じりに彼女に告げた。

「本来であれば、誰もが平等に行って然るべき行為なら、私が行って咎められるというのも、おかしな話ではないですか。況や、今の私は進んでそれをしたいと思っている人間なのですから……それに私はこの前、丁主管にコーヒーを淹れて頂いたので、順番で言えば、お茶汲みの仕事は私の番でもあります」

ق研究員は、にこりと笑いながらも、持論を譲ることはしなかった。一点に注がれた彼女の視線にたじろぐしかなかった丁主管研究員から、「お返しなら、僕自身にしてほしかったけれどもね」と、苦笑を交えながらのGOサインがついには零れ落ちた。

案の定とでも言うべきか、ق研究員が琥珀色の漣を二客のコーヒーカップのうちに立たせながら、器用に応接室にお邪魔した頃には、「猿の肉」などという不用意な比喩を安易に用いたБ研究員の受けるインタビューは、詰問という表現がしっくりくるほど、厳しい状況に陥っていた。彼は、ヴィーガンを標榜する襟足を短く刈り込んだق研究員と齢もそう変わらなさそうな若い記者に、「バイオテクノロジーに携わる者に生命倫理が欠乏していることは、現代社会の忌々しき問題である」という旨の飛び火を起こした二次クレームを一身に浴びせられていた。

ソファの下座に浅く腰掛けるБ研究員の背中は鯱張り、いつもより一回り小さく見えた。コンシェルジュのような御もてなしの心配りとは、てんで無縁に生きてきた彼は、応接室のテレビをそのままつけっぱなしにしたままであり、テレビのスピーカーから流れる意図して表層的なアナロジーを用いた古いプロパガンダ映画のBGMが、その場の様子をより一層、戯画化することに一役買ってしまっているのは、ق研究員には、何とも皮肉に思えた。

その為か、一対一の対談の構図を崩したق研究員の闖入に対する二人の反応は、実に対照的であった。Б研究員は、気心の知れたق研究員の登場は助け舟であるとばかりに、目じりに皺を寄せて、喜びの感情を露にした。

「ちょうど喉が渇いたなと思った時に、これは嬉しいな。それにさ、せっかくだから、ق研究員もこの議論に参加してくれないか。ここに来たということは、さっきまでしていた仕事に目処が付いたってことだろう。俺は恥ずかしながら、研究者にしては感情が先走ってしまう性質だ。冷静で科学的な見地が必要なんだ。だって、おかしいじゃあないか。今は、遺伝子工学や人工心臓の有効利用について、話すべき場のはずなのに、胚盤胞補完法という単語一つ上がってきやしないし、それどころか、論文からのクォーテーションが全く無いなんて、この世界では非常識極まりと思わないかい」

Б研究員は、ランナーの給水のようにぐびりとコーヒーを一気に飲み干すなり、忙しい身振り手振りを交えて、ق研究員に訴えかけ、揚々とした面持ちで、彼女に協力の要請をした。

一方で、@記者は、ق研究員が入ってくるなり、警戒と不信感に軽蔑を一滴垂らしたような表情を浮かべた。少なくとも、齢の近い人間が現れたことを歓迎し、親しみを抱いているようなそぶりは微塵も感じられなかった。険しい彼女のまなざしから目を反らし、カップとソーサーの方に視線を落とすと、琥珀に映った碧い瞳が心許なく揺らぎ続けていた。

怯んではいけないとばかりに、「コーヒーは如何ですか」と、@記者に声をかけると、彼女の口が開く前に、「あなた、何か眉を顰めていらっしゃいますがね、普段、こんなことは滅多にないことなので、俺も驚いているんですよ。いつも相場はあなたがよく取材に当たっていたおじさんが進んで行うことなのでね」と、Б研究員から、あまり嬉しくない助太刀をもらい、ق研究員は、ただ頬を掻きながら、苦笑するしかなかった。

「いえ、そのようなことは別に……ただ、その存在を受け入れるのが、私たち市井の人間である以上、議論は普遍的な言葉で為されないといけないとは、思っています。専門家の専門知識による加勢でなく、また一つ別のパーソナリティの見解。そういう形のものであれば、歓迎しない理由は、私にはありません」

@記者は、カップの口辺を唇に運び、一口だけコーヒーに口をつけて、呟いた。

「……それは、消費者の傲慢ではありませんかね。値段が高い。クオリティが低い。そのような理由で市場から選ばれなくなることがあるのは、まあ、生産者の端くれとして、ある種の覚悟もしてはいますし、当然、こちらは努力していかなくてはいけない。ただそれと、大衆の忌避感情で、存在自体が、法の根拠もなく、キャンセルされることを受け入れられるかというのは、別の話ですよ。あなたたちは滑稽で取返しのつかないことをしている。やはり、俺はそうとしか思えない。中欧を自動車で旅する時に、真っ当な人権感覚の持ち主が全員、高速道路を回避しますか、しないでしょう」

ق研究員という味方を手に入れたБ研究員は、先ほどまでの萎縮が嘘のように、彼女が発言するや否や、刃向かいがちな口調で、言葉を挟んだ。

@記者はすかさず、「それこそ生産者の不遜です。公の共有物となっても、永遠に生みの親は大きな顔を出来ると思っているからこその発言です。著作権でさえもいずれは失効するというのに……」と、反論を繰り出そうとするも、それすらもБ研究員は遮って、膝を叩きながら、持論をまくし立て続けた。

「だいたいネェ、だいたいですよ。あなた方のような、いわゆる目覚めた市民さんたちは、まるでハートの女王だ。カードゲームの大抵の役で♡のQが、♤のKやAに敵わないからといって、卓ごとひっくり返して、ルールの改正を要求するような、そんな横暴さがある。センチメンタルな感情に権力を託したがっているようにさえ思えて来るほどです。妥当性を盾に、相手に思想の服従か社会的な死を迫る、己の辞書に妥協の文字の無い危険な原理主義者だ。我々、学問の世界の人間の方が、よほど公平でオープンですよ。例えば、俺とق研究員は年齢も性別も門地も何ら共通点がないが、領域横断的に新しい生命科学を築き上げようとしている同志だ。それだけの理由で、俺たちは職場を共にしているんです」

ずっと彼の中で、引っ掛かり続けて、もどかしかったのかもしれなかった思いを惜しみなく述べ終えると、Б研究員は、無言のまま微かに首肯し、同意でも求めているかのように、ق研究員に目くばせをした。

研究に身を捧げる者として、彼の言葉にはおおむね同意していたق研究員であったが、同時に、彼の勇ましく明朗で、切れ味の良い刀を勢い任せに振り下ろすかのような言動自体に、自分自身のセンチメンタルな感情が巻き添えで掠り傷を負ったかのような感触を覚えていた。胸の奥にチクリと殆ど痒みのような痛みを覚えるのだ。

それは、精神が不可逆的な障害を負わない為には必要な情動であり、大抵、Б研究員が、事象でなく観念に意見する時に見られる。おそらく、一人称と二人称に対し、モーションの大きい彼のダイナミックな言葉のかまいたちに原因があり、そこに、ق研究員に対する悪意というものは一切ないのだという再認識までの一連の流れは、その小さな傷に対する絆創膏となった。

特にБ研究員は、丁主管研究員のように、綵の窓と外の淡い景色の調和に思いを馳せながら、遠回しに家族や友人を気に掛けるなどと言ったもののあはれを解さないし、意に介すことを善としない類の人間である。

そういった性格の持ち主は、この世界では珍しい存在ではないし、その性格がアカデミズムにおいて、往々にしてメリットとなり得ることは、ق研究員も当然理解しているつもりであった。

しかし、アカデミズムから距離を置いて、しかも、フラジャイルな感情をギュッと胸に抱えている人間に対して、その弱さは迷惑だと断ずる言動は、別種の残酷であり、ラディカルさをも孕んでいるのではないだろうか。慣れと理解によって、免疫が出来ると、今度は、アレルギー反応のような過剰な懸念がق研究員の脳裡に焼き付いて離れなくなった。

「……そう言えば、なのですけれども、今、検証している一般的に市販されるグルタミンペプチドの投与によって起こるヒトiPS細胞の反応についてなのですが、製薬企業各社のデータサンプルの在り処が見つからなくて」

時折、映像系の情報通信メディアでz副総理の秘書が世間に向けて、見せびらかすかのように行う耳打ちの仕草を、無意識下で幾らか模倣しながら、ق研究員はБ研究員に対して、口早に囁いた。

「なんだなんだ。それが本当のトコロ、なんだろう。すみませんね、研究のことで、今度は私の方がちょっとこの場を中座しなくてはいけなくなりました。パーソナリティの見解と言うならば、彼女であっても、あなたは取材相手として、問題ないでしょうし、何より齢が近い分、話もし易いでしょう。あ、この発言にこれといった他意はありませんよ。深読みされて、記事にされては困りますからね」

「かしこまりました。それと、私たちの仕事は決して揚げ足取りではございませんので、まあ、その点はご心配なく。ただ、その前に社の方に一度、草稿の方を入れたいのですが、そちらの中庭の方を少しばかり、お借りして宜しいでしょうか。社是という父権的なものではないのですが、うちには哲学として、Q・Q。クワイト・クイックリーというものが、ありまして。……そうそう、コーヒー、御馳走さまでした。とても、美味しかったです」

ほどほどのコーヒーのお礼を添えながら、@記者は、侃々諤々な先ほどまでの姿勢と、打って変わった腰の低い断りを、二人に入れ、頷きを確認すると、スマートフォンを片手に、応接室の席を立った。

「俺に言わせれば、Q・Q・Q。クイット・クワイト・クイックリーしてほしいものだけどね」

Б研究員がほくそ笑みながら、ぼそりと呟いた。

テレビのリモコンを探しているようで、呟きは随分落ち着きのない挙動を携えながらのものであった。

「もう、そんな風に口を滑らせるから、すぐ相手と口論になってしまうのですよ」

ق研究員が呆れ半分に愚痴を零す間も、なんだか気もそぞろなБ研究員は、テレビに映る竹の弓のように節々の骨張った姿かたちで、残忍な敵兵を演ずる俳優を、頬杖をつきながら、ぼんやりと眺めていた。

「これでも、まあ、反省はしているんだけどなあ。……関係ない話だけど、この役者、知っているかい」

「詳しくは知りませんが、古い俳優さんですよね。世間では、昔の映画で仇役ばかり演じているイメージがあると、それこそ、ここに来てから知ったはずです。ここでの、世間話を通じて」

「凄い田舎から来たんだものなあ。共通の話題がまるで無くて、困ったのを思い出すよ」

Б研究員は苦笑すると、コーヒーカップ片手に、おもむろに水場に向かった。蛇口を捻って、コーヒーカップを軽く濯ぐと、それを乱雑に水切りラックに転がして、テレビの電源を切った。

「俺も、人のことは言えないくらいの田舎の出でサ。この人、俺と故郷が一緒なんだよ。血も涙もない役ばかりやって、事務所に剃刀が入った手紙が届くくらいに一般には嫌われ者であったらしいのだけれど、俺の故郷では、おらが村のスターなんだよ。しかし、この映画も、歴史を感じるあざといくらいの勧善懲悪のストーリーだよな。まあ、未来からしてみれば、今もステレオタイプな歴史に過ぎないのかもな。この仕事をしていれば、図太い俺でも、まざまざと思い知らされるよ」

彼のぼやきは、ق研究員に対してのものでなく、明らかに独り言ちたものであった。言葉は、意匠としての天井扇だけが回り続ける虚空に間もなく消えていった。

「それと、ありがとう。さっきの、嘘ではないのだろうけれども、まったくの口実なんだろう。正直、助かった。ジェネレーションギャップというほど、俺も老けてはいないはずなんだがなあ。性分が早くも時流と合わなくなってきたのかなって、最近、思うよ。奴さん、そろそろ待ちくたびれているかもな。早く行ってやりなよ。俺は食べられることを免れた心臓たちに豊富すぎるグルタミンを餌付けしにいくとするからサ」

Б研究員は、ものぐさに振り向きもせずに、部屋を去り行くق研究員に手を振った。

「……けど、グルタミンで、ふと、過ったんだよ。iPS細胞でなくて、NMDA受容体であったら、どうだったのだろう。今、俺たちがしていることが、寿命革命の為の研究ならば、いつかはそれも避けては通れないだろう。幾ら、身体が若々しくても、脳みそが錆び付いていたら、元も子もない。あれが人工心臓でなく、人工脳であったら、俺は、今しがた、あの記者に対してしたように、巷間の一般的な価値観に基づいた批判を一笑に付すことができていただろうかって」

Б研究員の猫背がそのような柄でもない弱音を零していたのを少しばかり、不思議に感じながら、ق研究員は応接室の扉をそっと閉じた。

 

ℚ=6/6

 

パタパタとق研究員が、@記者の待つ、研究所の中庭にある東屋の方へ駆け寄ると、@記者は白い絨毯の上で、手を翳しながら、霞でくすんだ空を見上げていた。慎ましく蕾を解いていた梅の木が蒼いプラムの実を結ぶが為にもう、花弁をぽろぽろと零しているのだ。ق研究員の瞳には、その景色が@記者の周りだけ、淡雪が下りている風に映って見えた。

「梅の花が散る頃になると、ふと陽気が春になっていることに毎年気付かされますね」

@記者の凍てついたような雰囲気は、その陽気とともに融解したのだろうか、その微笑みが醸す柔和さに、ق研究員は新鮮な感触を覚えた。

「直属の上長である丁もこの花が好きなようで、@さんが言うようなことをよく口にするのですが、私の故郷にはあまりこの花は咲き誇ってはいなかったので、開花する時も、散る時も、真新しい印象を感じさせてくれます。私が梅の木について知っていることといえば、この淡雪のような花の下で食べる、ここ、ご当地の、金q餅というスイーツは大変に美味であるということくらいです」

ق研究員は、そう口を滑らせるや否や、「何故、初対面の相手にこのような奇妙なことを言ってしまったのだろう」という羞恥心に全身を襲われ、頬がにわかに火照り出しているのを感じた。その様が池の水面にゆらゆら揺らめいていて、そのことが羞恥心を倍増させ、彼女をより一層、赤面させた。これでは、花より何とやら、色気より食い気のとんだ食いしん坊ではないかという自責は、彼女に何の言い訳の閃きも齎してはくれなかった。

「ふふ、面白いことを仰いますね。やはり、インタビュイーに鎧を解いてもらうには、空の下で行うのが一番なのかもしれません。得てして、職場という場所は、皆さん、武装してから向かう所のようですから。それに、そのようなことを聞いてしまったら、その金q餅とやらも、この東屋の椅子に腰かけながら、ゆっくり堪能してみたくなってきました」

「そう言ってくださると嬉しいです。旧市街地の鄙びた市場で売っている代物なのですが、餅とタピオカの二種の異なるもちもちとした食感はヤミツキになりますよ。……ただ、食材に豚の肉も使われているのですが、店主に頼めば、抜きにしたものをもしかしたら、作ってくれるかもしれません。もし、お時間が許されるならば、ひとっ走りして十数分ほどで買って来ることもできますよ。こう見えて、脚力にはそれなりに自信があるのです。昔はこれでも街のお転婆で通っていたので。十にも満たない本当に小さい頃の話ですけれども」

取り繕っても今更であると観念したق研究員は、大学の級友に対して抱くような心持ちで、彼女の言葉に応えた。それは、プロジェクトのメインメンバーの中では、紅一点である以上、あまり明るみには出ない、というよりも、彼女の理性に抑えることを要求され続けた、紛うことなき、ق研究員のれっきとした一面であった。

 

(そのお転婆な性分が、慣習と柵によって、抑圧され、鋳型に嵌められた生活を次第に強いられるようになるにつれて、私は故郷を捨て、自由になりたいと考えるようになった。本を開くと息づき、蠢く、数式とアルファベットは、旅立った私の道標となってくれた。けれども、その先のオアシスで、知らず知らずのうちに私は—―)

 

ぐるぐるとそのような感情が心の内を駆け巡り、すっかり俯いて思案顔になっていたق研究員を我に返らせたのは、@記者の意外な一言であった。

「そんな御足労を煩わせるつもりはございませんよ。むしろ、私もそのお店に伺ってみたいです。これでも、風景としてのレトロはわりと好きでして」

市場の光景が、彼女の掲げる矜持とは、価値観が何もかも異なる世界であることを知っているق研究員は、慌てて、補足の説明を施した。

「しかし、その金q餅の売っているお店なのですが、喫茶店でもお菓子屋さんでもないのです。精肉店でして。……それも、生々しさの残る肉をそのまま吊るし売りしているような」

ق研究員の口から発せられる「肉の吊るし売り」という単語を聞いた瞬間は、きっと目を見開いた@記者であったが、己を宥めるように、掌でゆっくり顎を撫でまわすと、ふうと溜め息をついて、「それでも、行ってみたいです。私はヴィーガンである以前に、一記者ですので」と、答えた。

そこまで言われてしまっては、それ以上、何も言えないと思ったق研究員は、「では」と一言だけ発して、彼女を絶えず紫煙の燻る露店市場へと案内する覚悟を決めたのだった。

しかし、問題は市場の中に入ってからのことであった。探せども、探せども、目の盲いた老婆の営む精肉店が二人の前に顔を覗かせる瞬間が一向に訪れない。単独の散策ならまだしも、お客様を伴ってのことであるにもかかわらずのこの体たらくであるが故に、当然、ツアーコンダクターであるق研究員は、焦りを隠せずには、いられなかった。

「すみません。……確か、この角の先であったはずなのですが」

まだ立ち入っていない路地を見つけては、今にも駆け出さんばかりのق研究員を制止するように、@記者は、「大丈夫ですよ。こうしている時間というのも、なかなか乙ではないですか」と、彼女にフォローの言葉を投げかけた。

「しかし、قさんの亜麻色の長い髪は、こうして遠巻きに見ると、まるでスカーフで頭を覆っている風に見えますね。一概に白衣を着る職業の人たちは、それこそ私みたいなベリーショートの髪型をしているイメージが強いのですが。その髪型は意識ないし、自然にチョイスしたものなのですか、それとも、漠然と、または明確に存在する白紙委任状によってフォースドされたもの……どちらであると、お考えですか」

@記者の、そのあまりにも率直が過ぎる投げかけに、ق研究員は驚きを隠さずにはいられなかった。上京以来、ق研究員は未だかつて他者から、この街ではアナーキー味の溢れる自身の髪型について、何かを問われた経験がなかった為である。Q教授や丁主管研究員のようなソフィスティケートされた感覚の持ち主は勿論のこと、Б研究員のようにズケズケした物言いする者や、下町気質の八百屋に至るまでが同様であり、無邪気で残酷な市場の子供でさえも、彼女の髪に一瞥をくれる程度に留まっていたので、彼女のように思索的な人物から、そのような言葉が飛んできたことは、意外であること以外の何物でもなかった。もしかしたら、その露悪的な踏み込んだ一歩こそ、記者を記者たらしめるスキルであるのかもしれないという思いがق研究員の胸中を過った。

「ええまあ、自分でチョイスした物ですよ。日々、新しい領域を研究していると、不思議とコンサバティブ……私の故郷ではのことです……そのようなものを欲している私自身にふと気が付いてから、この髪型に戻しました。おかしな話なのですよ、故郷にいる時は、こんな髪は早くバッサリと切ってしまいたいと思っていたのに」

@記者の率直さにはどういう訳か嫌な印象は抱かなかったق研究員は、明け透けに胸の内を語った。その言葉の中には、嘘は混じってはいなかったが、語ることを躊躇い言葉から抹消した部分は存在した。

 

(最近は、あくまでも家の中だけですけれども、巻いているのです、スカーフそのものを。そして、公の場でそれを着用したい欲求も、私の中から芽生え、今も確かに宿っています)

 

それが、一度は彼女の口から出かかりながらも、彼女の前頭葉によって棄却された言葉であった。それは同時に、もしも神様のアカウントに通ずるウェブツールがあるならば、今彼女が最も尋ねてみたいクエスチョンでもあり、そこまでの怒涛の質量を持つ言葉を先ほど知り合ったばかりの人間にぶつけてしまうのは、デリカシーに欠けた行為である。彼女はそう考えた為にその文句を靄の中に葬った。

代わりにق研究員は、@記者と同じように、一つ不躾に踏み入った質問を彼女に投げかけた。

「私たちは将来的に今、手掛けている人工心臓を眼鏡のようなごくごくありふれて、市井にあまねく物にしたいと考えていますが、その低廉化を成功させるには、より進んだ技術と投資が必要になりますので、暫くの間は、一部の者しか手が届かない高級品となることが考えられます。その過程で、徐々に人工心臓がプライスダウンしていき、@さんのお財布事情から見てもGOのサインが出せるほどの代物になった時、貴方自身や、親しい誰かの為のプレゼントとして、それを@さんは購入する勇気はありますか」

@記者は、その質問を受け、「なかなか意地悪な質問ですね」と、苦笑すると、目を瞑って、暫く、んーと唸ってから、自信なげに呟いた。

「……買うでしょう。特に親しい誰かが心臓に重い疾患を抱えてしまったならば。そして、私は誰かから……ひょっとした相当数の人間から、様々な角度で批判を受けるかもしれません。けれども、それは人が人である限りの宿命で、誰もそれからは逃れられないことであると、思っています。当然、マス・メディアも聖域にはあらず、むしろ、最もその最前線にいなければならない存在です。過去と未来は不可逆であり、明日は必ずささやかな別天地であることは小さな子供でさえ、察していることです。そして、その矛盾を抱えながら、私たちは今、猜疑に心を占められて、批判され、反省することに耐えられず、その道理すら曲げようとする為政者を厳しく追及する職務を全うしているのです。歪んだ愛を建前に、国家に、強制的に人々を従属させようとする為政者は売国奴と近縁の存在ですからね。ですので、قさんと同じように、私はこの仕事に誇りを持っています。この答えで、どうでしょうか」

ق研究員は、返答する彼女を食い入るように見つめて、彼女が全てを言い切って、お互いに目が合うと、急に箸が転がってもおかしいお年頃のようにふふっと吹き出して笑いあった。

「ちょっと話を逸らしましたよね」

「そちらはまだ、何かを隠していたようですが……」

「お互いに政治家ですね」

「ええ、まったく」

ق研究員はその瞬間、心につっかえていた様々な意匠やコードが唐突に咀嚼され、金q餅のような甘辛い風味だけを残して、昇華され、霧散していった感覚に襲われた。あらゆる?は述べられていくうちに分解され、形を失った気がした。

すうっと胸の内がすいたق研究員が、「今ならば、迷いなく、人工心臓の開発に没頭できるであろう」そう考えた矢先に、デジャブのような着信音が鄙びた市場に鳴り響いた。最近は、スマートフォンの寡占化が進んでいるので、ق研究員も、@記者も、それから丁主管研究員までが、同じ着信音をポケットから鳴らす。

「すみません、失礼」

ق研究員は、@記者に断りを入れて、電話に出た。今日日、相手の時間を束縛する電話はスマートフォンの機能の中で最も忌避される。それは一定の年齢を超えたコミュニティーを除いて、世間の共通認識となりつつあったが、それでもなお、鳴らされる電話の案件は、緊急性の高いものか、発信元がお年を召された存在であるか、それか、その両方を孕んだ案件か、である。電話の主は、Q教授であった。

Q教授は、すっかりパニックに陥っていたようであった。第一声からして、「大変だ。今すぐ帰ってきてくれないかい」である。

「どうされたのですか、今は先方と旧市街地の市場にいるのですが……」

彼の狼狽に気圧されながら、ق研究員はおずおずと尋ねた。

「Б君がいないんだ! 丁君も探しているが見つからない。電話にも出ない。それだけなら、彼だっていい大人なのだから、それほど心配しないけれども、鍵もないんだ。レントゲン室と、銀色の試薬庫のやつだよ……!」

すいたはずの胸に一なすり程の懸念が忍び寄った、懸念は一瞬のうちに気持ちの中に溶け、みるみるうちに充満していく。

ق研究員は、ほんの一刹那前の自分自身が、遥か遠くの記憶であるような気がした。どうにも、イヤな感じがしてならなかった。

「今、そちらに向かいます」

そう言って、電話を切ると、スマートフォンの液晶画面にニュースの通知が入った。そこには、「速報 z副総理、辞意の表明」という十二文字の短文だけが記されていた。

2021年10月14日公開

© 2021 春風亭どれみ

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