その蛍光灯は私と宗一が入居したときからすでに消えかかっていた。スイッチを入れるとすぐに、ついたり消えかかったりという不規則な状態になる。引っ越しは夏休みの間の昼ひなか、窓から入る強い光を頼りに電気もつけずに行ったのでその時は気づかず、いざ住み始めるという段階で私はようやくそのことに気づいた。そして最初の晩、不規則な光のリズムを気にしつつ、どうしたものかと思い椅子に上って何となく蛍光灯を触ろうとしていたところへ宗一が帰ってきて、私が蛍光灯のことを口にする前に海外へ転勤となったことを告げたのだった。
部屋の中のテーブルや椅子、ベッドなどの家具類はおさまりよく配置されているように見える。そして、それらは置かれているその場所から少しでもずれていたら調和がとれていなかったのではないかとさえ思える。私と宗一はこれらの配置作業を別々に行ったが、それは互いの多忙さゆえであった。とくに事前に打ち合わせをしたり互いの要望を伝えあっていたわけではないが、共通で使うものは分担し、また自分が使うものもあわせてそれぞれ別の時間に持ち込み、思い思いに部屋の中を形作った。私が宗一の配置したベッドやテーブルなどの位置を動かすことはなく、また私が置いたものを私がいないときに宗一が動かした気配もなかった。それらはあるべきところにあり、適合しないものを探すことは難しかった。ただそれらを照らす蛍光灯を除いては。
宗一は引っ越してから二週間後に転勤先へ飛び去った。別れ際に彼は、入居する前から転勤のことはわかっていたがどう伝えたものかわからなかった、と詫びた。そして、あの部屋に住み続けるかどうかは君の自由にしてほしい、またどちらにしても自分は部屋代を払い続けるので決めたら連絡してほしい、ということを口にした。転勤自体は一年か長くて二年ということだったので、彼の意図としては自分が帰ってきてからもし私がよければその先のステップへ進みたいということだったのかもしれない。ただ、その時の彼の表情や言葉の調子からその意図を確実に示すものはなかったと私は感じている。
引っ越してから旅立つまでの二週間、宗一は気後れからか部屋で夕食をとることは少なかった。私も仕事で遅くなることがあったが、そんなときでも彼はまるで図ったようにさらに遅く帰ってきて不規則なリズムで光る蛍光灯の下で簡素な夕食をとった。そしてその間、私は蛍光灯を消すたびに、次にスイッチを入れたときつかないのではないかと不安になった。
その二週間、私が蛍光灯をつけ替えなかったのは、いまから思えば不可解ではあると思う。ついたり消えかかったりしている間、気にならなかったわけではなかった。その不規則なリズムになれたわけでもなかった。ただ、もとからそこにありながらも部屋に適合していないようなそれが、逆にその部屋のアクセントになっているように感じることが少しだけあったことは否定できない。
引っ越す前、私たちの肉体関係は主に宗一が以前住んでいたアパートでなされた。それはどちらかが一方的に相手を求めるようなものではなく、互いに求め合う関係ではあったが、宗一が自分の顧客を持つようになり、私が担任するクラスを受けもつようになってそれぞれ仕事で責任ある立場になると、一緒にいるときでも疲労を見せつけあうようになり、その関係は薄い靄に包まれたようになった。その空気を察知したのかある日、宗一は、俺がしたいと言ったときでも遠慮なく断ってほしい、忖度はいらない、ということを口にした。なにか世間を駆けめぐっている言説を聞きかじって不安になったのだろうかとそのときは思った。忖度といえば、彼とするために私が彼のアパートに通っていること自体がすでに忖度だと言えなくはないともそのとき思った。忖度などしているつもりはなかったが、いくつか気になることはあった。それはまだ二人の肉体関係が順調なときのことだった。普段とは異なり宗一が明かりをつけたまま始めたので私は気分が乗らずに消してほしいと思ったが、私の上に覆いかぶさる彼の顔を見て進言をあきらめた。その顔は笑っていた。笑みではない、笑いだった。また、彼は手っ取り早く性欲を満たしたいときには、自分の欲を私に伝染させようとするかのように私の首筋に顔を押しつけて舌を這わせてからすぐに挿入しようとした。首筋の怠慢と呼び得るその行為に対して私はとくに不満を漏らすことはなかった。だがそれらよりも何よりも、忖度なし、という言葉自体が忖度を誘発させるようにも思えた。
宗一が旅立ったあと、私はその部屋を離れて実家に戻った。それは一人になったからというわけではなかった。疲労の蓄積がだいぶ体を重くしていた。数日後、学校の廊下の蛍光灯が切れていることを生徒に指摘され、手が空いていた私は急いで交換しようとしたが、脚立に上った瞬間に足が硬直して動けなくなった。翌日から私は休職した。
私は、部屋は使い続ける、というメールを宗一に送った。休職したことの報告はしなかった。わかった、という簡素な返信に対して私はそれ以上何も送らなかった。部屋は子供のころから付き合いのあるいとこの桔梗に又貸しした。彼女は住み始めてすぐに友人とも恋人ともつかない人たちを連れ込んだので、部屋は賑やかになった。私は桔梗に部屋を貸すにあたり、長くて二年という期限以外は特に条件を付けず、自由にしていい、と言った。その部屋に対する執着のようなものはそのときなかったといっていいかもしれない。新しい住人たちは家具の配置を変えることはなかった。その代わりに彼女たちはソファベッドを一つ持ち込んだが、窓の前の広く空いたスペースに置いたので、それさえもそこに以前からあったかのようにおさまった。
休職中に私はたびたびその部屋へ遊びに行った。部屋へ入るたびに私はまず蛍光灯のスイッチに手を伸ばす。が、つけることを思いとどまる。遊びに行くときはいつも日中で部屋は明るかったので蛍光灯をつける必要はなかった。その光源である窓の下のソファベッドにはたいてい桔梗の友人らしき女性が上半身裸で寝ていた。他にも一人、二人いることもあり、彼女たちと話をしたり、転がっている雑誌を読んだりして無為に時間を浪費した。
夏も終わりのある夕暮、その部屋での内輪のパーティーに呼ばれたことがあった。パーティーということで少し着飾って行ったが、部屋にいる人たちはみなだらしない格好で拍子抜けした。しかしそれよりも驚いたのは、私がいつものように部屋に入ってすぐにスイッチに触れようとして天井を見上げたときだ。蛍光灯にリズムはなかった。ただ、ついていた。酔いが回った私はソファベッドに腰を落ち着けた。そこにはいつものように上半身裸の女性が、いつもとは違いあぐらをかいていた。引き締まった体のラインを強調するようにのっている乳房の上に私の視線は踊った。彼女は、これからどう? と言って履いている下着を脱ぎながらを私に迫ってきた。私はやんわりと断った。それは彼女が女性だからというわけではなかった。彼女が言葉と同時に私の首筋に顔を押しつけてきたので、その怠慢に耐えられなかっただけだ。
翌朝、目を覚ますとすぐに蛍光灯が消えていることに気づいた。窓から入ってくる朝の光の柔らかさが二日酔いの頭に、がんがん響く頭痛とわずかばかりの心地よさを併存させた。ソファベッドから体を起こすと、数人が床に雑魚寝している静けさの中で、ひたひたとその静寂に沿うような足音が聞こえてきた。その音源である部屋の奥には朝の光を受けて裸の女性が踊っていた。どう形容していいかわからないが、全身を頭頂部から足の爪先まで少しづつ溶かしていくような、そんな踊りだった。彼女が動くたびに床にうっすらと這っていた埃が舞い上がり、光りながらゆらゆらと時間をかけて落下した。彼女が腕を指先までぴんと伸ばすと、より高く舞ったそれらが彼女の指の節々に音もなく着地した。私は時間を忘れてその姿に見入った。蛍光灯は今このために消えていて、窓からの光はこのために差しているような気がした。踊る彼女の乳房が揺れるのを見て、私はそれを照らす光そのものが揺れているように感じた。
一年たって帰ってきた宗一との関係は何事もなく再開した。それは一年前とほとんど変わらない。この関係に対して、当たり障りのない言葉で飾ればよいのか、それとも名づけようのないこの感覚を弄べばよいのか? 宗一は私が休職していることを知って、辛かったら何でも言ってほしい、仕事も無理に続けることはない、と言った。私は、自分は辛いのだろうか、と疑問に思った。疲れてはいた。体も動かなくなった。だが辛いという感覚とは違う気がした。学校で脚立から人の手を借りて降りたとき、なにか自分が自分ではないような感覚があった。自分が消えていくような、そんな気がしていたかもしれない。
私たちは桔梗とその友人たちを追い出す形で再びこの部屋に住み始めた。ソファベッドをどうするか聞くと桔梗は、いらない、あそこに置くために買ったんだから、と言った。私は時々そこに横になって蛍光灯と見つめあってみることがある。それは以前のままでついたり消えかかったりしている。宗一はいまだに蛍光灯のことには触れない。もしかしたら彼は気づいていて、私が何か言うのを待っているのかもしれない。だがあの夜の蛍光灯の仕草、あれは何だったのかいまだに私の中に疑問がくすぶる。あのあと何度かこの部屋に来てスイッチを入れてみたが、不規則なリズムは変わらなかった。しかしそのおかげで私はスイッチの前でためらうことがなくなった。たとえスイッチを入れてつかなくても、それが原因で自分が消えていくようなことはないという気がした。この部屋に再び住み始めてから一か月後、私は教職に復帰した。
部屋を見渡せば家具類は、ソファベッドが増えただけで他は以前と変わらずあるべき場所に配置されている。ついたり消えかかったりする蛍光灯も以前は部屋に適合していないように感じられたが、その不規則なリズムにももう慣れた。この部屋に適合していないものを探すのは難しい。しかし今から思えば、最初の引っ越しのときに一つ一つ宗一と話し合ってから家具の配置をしていたら、その配置の仕上がりに満足を得られていたかどうかは疑わしい。
何かが消えそうな予兆は常にどこかにある。しかし、それに対して一つ確実に言えることがあるとすれば、まだそれが消えていないということだけだ。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2022-01-25 23:28
蛍光灯が最初から切れかかっていたというのが、部屋に越して来た時すでにこのカップルが上手く行ってない事を暗示しているのですね。強く彼の気持ちを疑うでもなく、決然と別れるでもなく、ただ不安なまま、改善されないまま、彼女の視点というよりは視野に限定されて最後まで進んで行くのが(変な言い方ですが)すごく良いなと思いました。つい書いてる側も面倒になってきてどうにかしたくなってしまいそうに思うのですが、どうにかしちゃうとつまらない作品になってしまうのでしょうね。粘り腰が肝心なのだと思いました。
曾根崎十三 投稿者 | 2022-01-27 11:02
蛍光灯のチカチカと人間関係や人間の危うさを上手くかけておられて、テーマとの絡め方が上手だなぁと感心しました。
桔梗のパリピ感で静かな文体のまま少し騒がしくなるのも、そしてまた彼氏が帰ってくるのも、飽きさせない構成でおもしろいなと感じました。
鈴木沢雉 投稿者 | 2022-01-27 11:42
蛍光灯の微妙なコンディションを私と宗一、桔梗たちとの人間関係の浮沈と絡めてメランコリックに綴った、今回の参加作の中でも一番テーマを真っ正面から扱った作品だと思います。
時系列が若干前後しているのでわかりにくかったのですが、私と宗一はもともと別々に住んでいて、この部屋に一緒に引っ越してきた、その後すぐに宗一が転勤になった、という経緯ですね。家賃は折半か全額宗一が払っているのか、賃貸契約はどちらの名義でしているのかは描写からはわかりませんでしたが、そのあたりがはっきりしていれば私と宗一の関係性がもっと明確になるような気がしました。
小林TKG 投稿者 | 2022-01-28 17:41
ソファベッドを置いていかれたために、そこに横になって蛍光灯を見つめる時間が出来て、で、それって大丈夫なのかなって思いました。大丈夫そうにはなってるら辺なんだけど、ただ、何だろう。不安感。不安感が。
でも、私は知り合いでもないし、それ止めた方がいいんじゃない?とも言えない。桔梗さんが追い出された時に処分してくれたらよかったのに。
大猫 投稿者 | 2022-01-29 15:42
「首筋の怠慢」なんて表現がとっても良いです。目くじら立てるほどじゃないけれど、許せないほどじゃないけれど自分の中で処理しきれない感情とか、微妙な違和感とか、すれ違いとか、距離感、親密感などなど、生きていると容赦なくさらされる人との関係の危うさが切れそうな蛍光灯に仮託しつつ、とても良く描かれていると思いました。淡々として論理的な語り口に情緒に流されない強さがありますね。良い作品でした。
Fujiki 投稿者 | 2022-01-30 10:48
彼氏には「部屋は使い続ける」と伝えてずっと家賃を払わせつつ、いとこに部屋を又貸ししてちゃっかり懐を温める主人公、狡猾さがにじみ出ている。彼女はそこはかとなく不満を抱えながらも、結婚や家庭といった制度にうまく便乗して保守的で安定した生活を送り続けるのだろう。「首筋の怠慢」とか何とか愚痴を言う資格はこいつにはない。最後の段落はちょっと説明的すぎるかなと思った。
松尾模糊 編集者 | 2022-01-30 23:30
桔梗とその取り巻きのヒッピー感が70年代っぽくて良いなと思います。全体的に丁寧な描き方で好感が持てます。藤城さんほどの怒りはないのですが、彼ピッピがこんなに都合よく彼女に資するのかという点は多少疑問を抱きました。暴力だったり、モラハラだったり、そうした不穏さが「首筋の怠慢」だけでなく、滲んでいるとより没入感があったのかなと個人的には思います。ただ、自分が歪んでるだけな気もします。
波野發作 投稿者 | 2022-01-31 00:56
離婚経験者としてはモロにぶっ刺さる内容でした。女性不信が再発しそうなので深く考えるのはやめておきますが、人類はもう滅べばいいと思います。作品は淡々と主人公の病んでいく様子が描かれていて、たいへん美しく感じました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2022-01-31 01:42
人類はもう滅べばいいというコメントの下で申し訳ありませんが、アパートの部屋に友達を連れてきて朝起きたら男も女も半裸女性で踊っていたり雑魚寝みたいな状況を楽しんでみたいなあ。もうこの歳では味わえないだろうなあ。
Juan.B 編集者 | 2022-01-31 20:58
じめじめと陰湿な描写が胸に来る。蛍光灯の切れかけの雰囲気って確かにこんな物かも知れないが…。