ロシアのロマノフ王朝を退けたロシア革命の余波は、日本にも大きく影響しました。昭和の初期には恐慌、失業増加の不穏な世相の中に共産国家を理想郷として夢を追った若者の中には、本来ならば共産主義に対抗して天皇家を守るべき華族の子弟も多く含まれていました。
政府は1922年に秘密結党された日本共産党を、ロシア共産党のコミンテルンから革命指令を受けた政府転覆機関とみなしました。23年以降は一斉摘発を繰り返して危険思想が蔓延することを力づくで抑えつけました。
33年の全国検挙では治安維持法違反容疑では約15,000人が検挙され、起訴は約1,300人となりました。小林多喜二もその年の犠牲者です。
その際に検挙された中の15人は華族の子弟でした。松平定信の末裔である定光、元外務卿を務めた副島種臣の孫の種義、明治天皇の侍従長を祖父に持つ山口定男などの中に女性も1人検挙されました。岩倉具視
靖子は流血侵略に傾いている当時の日本国家を嫌い、ある意味で正義感に燃えるうちに海外の自由主義思想に影響を受けて、「ついにはマルクス主義に行き着いた」というのです。
「明治維新は多くの青年たちが死を賭して維新革命に参加した。共産革命は全く違うが、同じ道程を経て青年がそのための運動に参加するのは当然」と靖子は言い放ちました。
赤化華族事件の被疑者15人は検挙後に、靖子を除いてほかの14人が短期間で改悛したが、靖子だけは思いが固く8ヶ月の留置から保釈されて間もなくの33年12月21日、自分の思想によって岩倉家の家族として地位が危うくなることを恐れて自ら剃刀で頚動脈を切って自殺してしまうのです。
絶版となった「20世紀 大日本帝国」(読売新聞20世紀取材班編 中公文庫)を参照しています。
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