暗い壁に、輝く金色の魚が泳いでいた。
世界の雑音はフロアーにしんしんと沈殿して、無音無重力の真空の壁を、金色の魚はゆうらりゆうらりと泳いでいた。
あれは居心地の良いジャズバーだった。低音のボーカル、控えめなピアノ伴奏、酔客のざわめき、ぶつかりあうグラス、それらはいつも遠くに沈んで聞こえていて、頭の中に次々と浮かぶ有象無象の邪魔をしない。間接照明は暗めで手元のグラスさえはっきりとは見えない。壁際に据え付けられた水槽だけが青白くライトアップされて、そこを、魚は泳いでいた。透き通った背びれをひらめかせ、金色の鱗を輝かせて。
平たい体と大きな尾びれは、太古からの遺伝子を少しも変えることなく今に受け継いできたことを物語っている。その昔、熱帯の川底に潜んでいた頃もこのように泳いだのだろう。サンゴ礁に飾られた南洋の海でエメラルドの波を掻き分けた頃も、このように泳いだのだろう。百万年前と少しも変わらず、急がず騒がず魚は泳ぐ。
かなり大きい水槽だったけれど、それでも一泳ぎすれば端から端に着いてしまえる程度のものだった。金色の魚は水槽の端にたどり着くと、スルリと尾びれを返して優雅に旋回した。そして反対側の端を目指す。そうやって魚は水槽内を8の字型に泳いでいた。エアーポンプから吐き出される微細な気泡が、そこここで金色の体にまとわりつき何列もの銀の光の帯となって、水面へ昇っては消えた。
魚の尾びれ近くに白いものが見えた。はじめは別の小さなひれかと思ったほど、それは透き通って白く、水流にひらひらと繊細にたなびいていた。
よく見ると、鱗のあるべき場所に鱗がなく、白い脂肪が露出していた。脂肪の向こうに薄紅色の肉も透けて見えていた。金の鱗がそこだけ剥がれていたのだった。そして、糸状に細かく裂けた白い脂肪分に、極小のビーズ玉のように気泡が鈴なりにまとわりついていた。
鱗が剥がれているのは魚の体の右側だけで、左側はなんともなかった。不思議に思ってずっと眺めていると、8の字の書き出し、魚が水槽の端まで来て左に旋回する時に、尾ひれを決まって水槽の壁に擦っていたのだった。8の字の下側、反対側の端で右に回る時はどこにも擦らずに上手に旋回するのに、左回りの時は必ず水槽に体を擦っていた。毎秒、毎分、毎時間、毎日……倦まずたゆまず泳ぎ続け、鱗が磨耗して剥がれ落ちてしまったのだろう。
体を擦らない右回りの方には、ヒーターやらろ過装置やらの、障害物が置いてあるから、魚は用心をして距離を置くのだろう。それならば、左回りの方にも障害物を置いてやればいい。そう思って、店のマスターに話をしてみた。
「ダメなんです。やってみたんですよ。ヒーターを逆側に置いてみたんだけど、やっぱりこいつは体を擦るんです。いろんなことをしてみたけど知らん顔です。左右に物を置いたら水槽が狭くなるから、結局元に戻しましたよ。値段は恐ろしく高いヤツなんですけど、所詮、魚ですもの。脳みそより尾びれが大きい連中ですもの。擦ると決めたらどうでも擦るんでしょう」
鱗が落ちて肉が露出しても、魚は体を水槽の壁に擦って旋回する。断固として擦り続ける。鱗が一枚、一枚と剥がれ落ち、やがて白い脂身だけになった魚の姿を想像する。無数の気泡がまとわりついて肉の中まで沁みこんで行く。それでも魚はくるりと優雅に旋回する。慌てず騒がず魚は泳ぎ続ける。剥がれ落ちた金色の鱗を輝かせて。
*
あなたとは言葉が通じない。と気づいた時に、あなたの前から消えるべきでした。なのに、浅ましくも未練に引きずられて、どうしてもあなたから離れられない。
あなたには罪がない。あなたはいつでも天然自然のあなたのまま。私と逢っている時間も、仕事をしている時間も、家で家族と過ごす時間も、あなたにとっては全部が淡々と流れてゆくいつもの時間。そしてあなたは、私が訳も分からず苛立ったり、涙ぐんだりしているのを、不思議そうに澄んだ目で見つめます。そんなに急がなくていい、いつだって会える、忘れたりしないよ、大丈夫、大丈夫、焦らないで。
あなたはまるで大きな湖のよう。息せき切って流れ落ちて来た急流は、泰然と静謐な水面に溶け込むにも溶け込めず、ぶつかるにもぶつかる先もなく、ただ狼狽してゆらゆら漂うだけ。
あなたに逢えるほんの短いひとときを、気が遠くなる日常の繰り返しに耐えながら、ずっとずっと待って、待って、待って……ようやく訪れたそのひとときは、何よりも幸せな時間のはずなのに、決まって我からぶちこわしにしてしまいます。そうして大切なものが指の隙間からさらさら零れ落ちて行くのを、泣きながら眺めているのです。
体の方がよほど素直です。快楽にきちんと反応してひとつもムダがありません。あなたと体が繋がる、今、この時間。体はすべてを受け入れます。
それなのに私の心は、あなたの過去の時間のすべてに嫉妬し、あなたの未来永劫が私のものにならないことを嘆き悲しもうとするのです。何を望んでいるわけでもないはずなのに、何をしてほしいわけでもないはずなのに。
ああ、そうです。底の抜けた瓶には、いくら水を注いだって決して一杯にはならない……。
*
初夏の午後、街を一人で歩いた。
賑やかだった街角には今や人っ子一人見あたらず、信号機だけがむなしく明滅を繰り返していた。川べりの風が柳の枝を揺らし、髪を束ねた首元をヒヤリと冷やして吹き去っていった。不意に寒気がして、背筋からゾクゾク震えた。
交差点の舗装道路は干からびたように白く、繁った街路樹の葉擦れが耳障りに聞こえてくる。道路の向こうに高層ビル群の巨大な影が見えて、夕暮れの気配が背後に迫っている。
急がなくては。今すぐに訪ねてゆくべき場所がある。
誰もいない街をさんざん歩き回って、ようやく目的のマンションを見つけた。きっとここに違いない。何号棟の何階の何号室まで分かっている。そこへ行けばすべて解決する。きっと何もかもが良くなる。
それなのに階段を上がり始めた途端に分からなくなる。階数は壁に、部屋の号数はドアに、はっきりと書いてあるのに、見覚えのない記号のように少しも分からない。探しても、探しても、行くべき部屋が見つからない。仕方なく端から端まで部屋の号数を見て歩く。ここの階になければ上の階。上の階で見つからなければ下の階。同じ建物を上がったり下がったり、ぐるぐると歩き回り走り回って、気がついたらまた同じところに戻ってきていた。
背中に冷や汗が滲む。動悸が早くなり手足が冷たくなる。口は渇いてろれつが回らなくなる。目がかすんでよく見えなくなる。
日はだんだんと暮れてゆき、あたりが薄暗くなる。なんとしても夜になる前に探し当てなければならないのに、それなのにどうしても見つからない。焦りで頭が焦げそうになる。
やみくもに駆け出して、手当たり次第にドアノブに手をかける。でもドアは固く施錠されていて決して開くことはない。ガチャガチャ音を立ててドアノブを回す。インターホンを何度も鳴らしてみる、ドアを拳でドンドン叩いてみる。もちろん何の返事もない。ドアの向こうには確かに誰かいるのに、すべて聞こえているはずなのに、息を押し殺して私が去るのを待っている。遠くで焚いた線香みたいに、ドアの隙間からわずかな気配が漏れ出てくる。
急ぐな。騒ぐな。ここから出ていけ……。
泣き叫ぶ声さえ出なくて、ヒステリックにドタドタ足音を立てて走り出す。息が詰まるように苦しくて溺れそうになりながら、ようやく見つかったドアに手を掛けたら、やっと開いた。でもドアの向こうは別の廊下に続いていた。走っても、走っても廊下は終わらない。目の前が真っ暗になってその場にへたり込む。波が沖に引いてゆくように脳から意識が消えてゆく。真空になる。
どのくらい経ったのか、ざわざわざわざわと感覚が戻ってくる。
何を探していたのか分からなくなっている。暗い廊下に一人でしゃがみこんでいる訳を忘れてしまっている。麻痺した頭の中で、何度も何度も同じ言葉が繰り返される。
探さなくちゃ。どうしても探さなくちゃ。
でも何を?
*
目覚めてからもしばらくは、ぐしゃぐしゃの焦燥に捉われたまま呆然としている。額に冷たい汗が流れて、徐々に目に映るものを知覚する。そうして寝ている部屋にいることをようやっと思い出す。全身汗みずくで、胸はいつまでも動悸を打っている。胃の辺りが鈍く痛み、手足が突っ張ってかすかに痙攣している。
動悸を鎮めながら、仰向けのまま暗い天井を見ていると、何かが動いている。
古代の魚が金色の鱗を輝かせて……。
Fujiki 投稿者 | 2020-05-21 23:15
バーの水槽を泳ぐ熱帯魚の執拗な描写と、相手の男の家庭に乗り込む場面を夢想する愛人(と推測した)が一切の説明を省いて並置される。痛覚がないとされる魚と同様、女も気づかないうちに情念で身も心もボロボロになっていたといったところだろうか、などと想像力をかき立てられる。アロワナは淡水魚なので「サンゴ礁に飾られた南洋の海でエメラルドの波を掻き分けた」りするかなと思ったが、これは太古の別種の魚の話ということだろうか?
退会したユーザー ゲスト | 2020-05-22 19:49
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諏訪靖彦 投稿者 | 2020-05-23 16:22
不倫をしている主人公の心情を水槽の中をぐるぐる回る黄金色の魚と対比させ、その表現方法は本当に見事で、高い文章力と相まって、心の中に固着していた滓のようなものが浮上してくるような感覚を覚えました。勝手な解釈ですが、主人公は自殺を試みたのかしら。
T.K 投稿者 | 2020-05-23 16:37
僕は、魚が水槽の壁に体を擦ることで鱗を失っていく様子を見た男性が、自身との関係の中で相手の女性が擦り減っていってしまったことに無意識に気がつく物語なのかなと考えました。まさに「鮮やかな悪夢みたいな物語」で、面白かったです。
春風亭どれみ 投稿者 | 2020-05-23 19:55
ヒステリックに人間の主人公と優雅に泳ぐ魚の対比、本当に対比なのかどうかはあくまで人間視点のバイアスではありますが。いちいち考えることが野暮に思えるほど、煙にまかれた感じがします。その煙が紫煙というべきか、途方もなく幻想的で素敵です。
井上陽水サンに『We are 魚』という彼の楽曲の中でも屈指の幻想感あふれる曲があるのですが、人間は水中を漂う魚に「何も考えていない」と言いながらも、悟りをひらいた仏様のような徳を感じてしまうものなのかもしれませんね。
退会したユーザー ゲスト | 2020-05-23 23:41
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斧田小夜 投稿者 | 2020-05-24 00:12
最初の魚のイメージがその後の段落にもずっと続いていてだんだん息苦しくなってきました
松下能太郎 投稿者 | 2020-05-24 03:42
金色の魚の存在を「私」の輝かしい少女時代というふうに受け取りました。満たされないで焦燥しきっている今の自分を見下ろすように泳いでいるそれを見て、自分はいったい何をしているのだろうと絶望感を抱いているように感じました。
古戯都十全 投稿者 | 2020-05-24 22:44
三つのパートに共通するのは何かを求めて行う繰り返しの動作でしょうか。求めるものが得られず、あるいはわからずに焦燥を感じる人間に対して、金色の魚が慌てず騒がず泳ぎ続ける姿が印象的です。繰り返し求めるという行為自体が不要不急だとも思わされます。
一希 零 投稿者 | 2020-05-25 12:23
幻想的なイメージがスライドのように移り変わり、それらがある点で重なり、また離れてゆくような感触の物語でした。構成自体が、身体を擦り付け、離れ、ゆらゆら泳ぐ魚と同様のスタイルになっていると感じました。美しい幻想性と暗い水中の息苦しさが表れた素晴らしい文章だと思いました。
Juan.B 編集者 | 2020-05-25 14:27
とても敵わない、新しい不要不急だった。まして魚にとって世界はどうでも良いことだろう。焦燥は確かに悪夢の大事な要素で、恐ろしくよく書けていると思った。