隣にいる君を探して 第4話

隣にいる君を探して(第4話)

中野真

小説

2,930文字

記憶が保存できるとして、本当に覚えていたいものは何だろう。隣にいる君を探して第4話

 目を覚ますと隣にはいつも通りの愛しい寝顔があった。安堵感で思わず口元が緩む。僕は彼女とのこの日常を愛している。

それにしてもいつ帰ってきたのだろう。というか、僕は昨日いつ寝たっけ。

確かシャワーを浴びた後ダウンジャケットを着てタバコを吸いに外に出た。ミナが怒るから部屋の中ではタバコを吸えないのだ。

僕らの住むアパートの目の前には駅と併設したスーパーがあって、その入り口のところにはありがたいことに喫煙スペースがある。喫煙スペースと言ってもベンチと灰皿が外に放置されているだけだが。

寒空の下ずっと罪のない満月を睨みながら、冷たい手でさっさと一本吸い終わると階段を上って部屋に戻った。

僕らの部屋は四階で、そこまでまっすぐの階段は上から見下ろすと少し怖い。酔ってる時に足を滑らせたりしたら真っ逆さまだ。

一階には猫雑貨の店が入っていて、学校帰りに寄ると仲良しの店主がコーヒーを入れてくれたりする。昨日は寒いからポッカレモンをいれてくれた。

そんなことはどうだっていい、部屋に戻ってからいつ寝たっけ。ミナの帰りを待つはずだったのに。通り魔が出没している時に連絡もなしに帰ってこないなんて。

僕は怒っていたのだ。けれど、目の前の寝顔を見ていると、そんな怒りはどこかへ飛んでいってしまったようだ。たぶん僕が寝ているうちに彼女が風船にでもくくりつけてあの満月までこっそり運んでしまったのだろう

 なかなか起き出さないミナに変わって今日は僕が朝食を作った。といっても雰囲気で作ったフレンチトーストと冷蔵庫に眠っていたウィンナーを焼いただけだけど。

それから揺り起こすとミナは「あ、コータだあ」なんて寝ぼけた顔で笑った。僕はよくわからないけれど突然泣きそうになり、顔を隠すために彼女を強く抱きしめた。

いや、彼女に触れたかったのだ。その存在を、この幸福を確かめたかった。

「あらあら、朝から甘えんぼさんですか?」

「ばかミナ」

「どうしたの?」

「……なんでもない。だからもう少しだけこのまま」

「はあい」

 ミナに子供みたいに頭を撫でられながら僕は心が落ち着いていくまで彼女の温もりを全身で感じていた。それから「なんかいい匂い」と言うので朝ごはんを用意したことを思い出してパッと離れて笑った。

「朝ごはん、食べるでしょ?」

「うん、お腹すいた。今何時?」

「もう八時過ぎ」

「え!私今日一限から!じゃあ朝ごはんだ!」

 ミナは僕の作ったフレンチトーストの前できちんと手を合わせて「いただきます」と頭を下げた。ひとくち食べて、彼女はとっても素敵に微笑んだ。

「おいしい。ありがとね」

「やればできる子でしょ」

「うん、えらいえらい。じゃあこれから毎朝頼もっかな」

「それは、どうだろうか?」

 わかりやすく顔をしかめた僕に笑いかけながらミナは「冗談だよ、私が作る方がおいしいもん」と余計なことを言う。

「どうせ僕はなんでもそこそこですよ」

「うむ、謙虚でよろしい」

 さっとシャワーを浴びたミナと共に大学へ向かう。彼女は昨日の夜帰ってこなかったことなんて何でもないことのようにいつも通りで、そのことについては何も言わなかった。だからやっぱり僕が心配性だっただけなのだろう。

 校門の前にはハチマキを巻いた集団が弾幕を持って何かを訴えていた。そこには「記憶社会反対」と赤い文字で大きく記されていた。

「お、なんかこういうの久しぶりだね」

「朝っぱらからご苦労なこと」

「やっぱり通り魔事件の影響?」

「だろうね。今だとばかりに騒ぎ立てちゃって」

 目の前に突き出されるビラを僕は無視したが、優しいミナは受け取った上に熱心に読んでみたりする。今更アリシアのない生活に逆戻りなんてできっこないのに。

それにあの集団だってきっと日常的にアリシアに頼ってるに違いないんだ。僕らはもうそれ無しでは誰とも連絡を取ることすらできないような生活をしているんだし。

「アリシアじゃなくて私自身が覚えてることってどんなことなんだろう」

「さーねえ。アリシアがあることで人間の記憶力はどんどん低下しているって主張もあるけど、取り外したことないから実際どうなのかわかんないなあ」

「記憶って、海馬にあるんだっけ?」

「うーん、昔は短期記憶は海馬、長期記憶は大脳皮質に収められてるって考えられてたけど、今の常識だと記憶が保存されてる場所っていうのはないんだ」

「え、じゃあどうやって記憶してるの?」

「うーん、なんていうか、記憶っていうのは脳のシステムそのものだと考えられてるんだよね」

「んん?よくわかんない」

「んとね、制御分子やイオンチャネルの状態、酵素、転写プログラム、細胞、シナプス、ニューロンのネットワークとかは常に機能的、構造的に変化してるわけで、ある記憶の状態で脳が固まってるわけじゃないんだ。シナプスに可塑性がなかったら僕らはすぐに容量オーバーになっちゃって繰り返し作業のロボットみたいになっちゃうからね。でも僕らの脳は時間という概念を持っていて、不思議だけどその時の状態を覚えているみたいなんだ。つまり、ニューロン、制御分子、それによって生じるシナプスには関連する全ての副次的事象がその発生した時系列とともにエンコードされて、経験全体がひとまとまりとしてタイムウィンドウ、時間窓の中に収められてる。そしてその時間窓にもいろんなスケールがあって、アリシアみたいに階層分けされていくつにも分岐してる。僕らが何かを思い出そうとするとその時間窓にアクセスしてその瞬間の脳の状態を思い出すわけだ。だから同じ階層の時間窓に閉じ込めれていることも芋づる式に思い出したりするんだって」

「んー?よくわかんない」

「だね、実は僕も話しててよくわかってない。講義の記憶をアリシアから引っ張ってきてるだけだからね」

「だと思った。コータがそんな言葉遣いできるわけないもん」

「どういう意味かなー?」

 僕らがつつき合っていると後ろからリョースケが「朝っぱらからウザってーなあ」と言いながら黒いGIANTのロードバイクに乗ってやってきた。

「リョースケおはよー。今日も寝癖がキマってるね」

「あのね、何度も言うけど俺あんたより年上だからね。呼び捨てやめよ?」

「どうせ今年は留年するでしょ?一緒に卒業する仲間じゃん」

「おいコータ、お前の彼女なんか素でひどいこと言ってんだけど」

「まあまあ、間違ったことは言ってないし」

「おいおい、俺が留年しないようにレポート書いてくるのがお前の仕事だろ」

「そんなこと請け負った記憶ねーよ。僕のアリシアハックしてみろ」

「お、今日もレポートくれるってこと?」

 どんな解釈をすればそうなるんだ。「でもあんまり隅々まで見ちゃったらミナに悪いからなあ」なんてニヤニヤ笑いながらリョースケはロードバイクで去っていった。

「じゃ、私あっちだから行くね」

「今日は四限まで全コマあるんだっけ?」

「そうだよー、大変だ」

「そっか。じゃあ終わったら連絡してね」

「あら、まだ甘えんぼさんなの?その後一緒にバイトじゃん」

「そーだけど、一応ね」

 かしこまりです、と敬礼ポーズなんてして見せてミナは教育学部の講義棟の方へ歩いていった。僕は彼女の揺れる黒髪をしばらく見つめた後、いつも通りだよと自分に言い聞かせて講義室へと足を向けた。

2019年8月6日公開

作品集『隣にいる君を探して』第4話 (全13話)

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© 2019 中野真

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