裏切りの水曜日

応募作品

中野真

小説

5,347文字

「憂鬱な月曜日」という言葉があります。それを乗り越えた僕は水曜日にイオンの立体駐車場で仕事をサボっている時に友達から貸した金を返せと連絡を受け、自分の全財産が三千円であることを告げました。そうして書きあがったのがこの小説です。

夜を照らす信号が少し先で赤に変わった時、咥えていたプルーム・テックのバッテリーが切れていることに気づいて笑った。棒ならなんでもいい痴女みたいになってる、なんて友達にLINEを送ると、白いのが出る棒なら何でもええんやな、と返信が来て吹き出した。頭いいな、と送ると「賢しいって言って」と返ってくる。いつものやりとりだ。

 就職してから一週間がとても早く感じるようになった。今週もまた、何事も起こらないまま日々は駆け足で過ぎ去っていくのだろう。このまま歳をとることに漠然とした恐怖を覚えるがだからといって何かをする元気もない。そんなあり地獄を感じながら家に向かう交差点を曲がり損ねた僕は鞄の中のプリント用紙を思い出し、そのまま真っ直ぐ進んで大通り沿いの喫茶店を目指した。そこは半年前までアルバイトをしていたところで、僕がいつもやりたいと思っている京子が今日も働いているはずだ。

 初めて見る男に喫煙席に案内され、しばらくメニューを眺めてから呼び出しボタンを押した。何か食べようと思っていたが、結局コーヒーだけを知らない男に頼んでプリント用紙の束を鞄から取り出した。シャツの胸ポケットからボールペンを抜き取ったかと思ったがそれはプルーム・テックだった。昨日はプルーム・テックを吸おうとしてボールペンを咥えていた。大差ないと思い僕はそれを口に咥え、改めてボールペンを抜き取ってから白い蒸気を吐き出した。

 プリントに印字された文字が頭に入ってこない。昨日書き終わった小説のようなものを推敲するつもりだったのだが、いつものように長い文章を書き終わってからしばらくは脳が文章を拒絶しているようだ。今の僕にはそれがとても良く書けているように見える。しかししばらくたってから自分の書いたものを読み返すといつもいつもひどいありさまだった。

 以前ツイッターで武井壮が質問に答えると言っていたので「小説家になるにはどうすればいいですか」と送るとひとこと「小説を書け」と返ってきたことがある。文章が上手くなるにはそれしかないのだろう。小説家になるのもサッカー選手になるのも同じで、練習するしかないのだ。しかしどうすれば先へ進めるのかわからない。進歩が見られず苛立ちと不安を抱えた夜に返信を受けた僕は武井壮にそれらをぶちまけた。絶対にサッカー選手になることができる練習がないように、小説家になるための正しい練習なんてものも存在しないし、好きなことを信じて続けるしかないということは頭ではわかっているのだが、果たして僕は小説を書くことが好きなのだろうか。正直に言ってわからない。いつしか小説を書くということは僕の人生の逃げ口上になっていた。しかしまれに、どうしても小説を書きたいと悶える夜がある。その欲求に抗うことはできない。

「え、宮岡さんじゃん来てるなら言ってよ!」

 頭の中で意味を紡がない文字の羅列をぼんやりと眺めているところにコーヒーを持って京子が現れた。僕は片手を上げ制服をつっぱる彼女の魅力的なバストに挨拶した。

「何、小説書いてるの?」

「いや、うん、まあ、書き直してるというか」

「えー、読ませてよ、もうすぐあたしあがるから!」

 呼び出し音がなって彼女とともに席番が表示されるモニタを見上げた。今でもこの音を聞くと体が反応してしまう。そう言うと京子は「またバイト入りなよ」と笑った。

 コーヒーをひとくち啜り、相変わらず酸っぱいなと思いながらテーブルの端に置いてある筒からコンデンスミルクとスティックシュガーを抜き取った。コンデンスミルクは古くなっているようで固まっていてほとんど用をなさなかった。

 コンデンスミルク三つとスティックシュガーのゴミをテーブルの端に寄せてから泥水のようなコーヒーをスプーンでかき混ぜ、紙タバコを吸いたいと思った。ひとくちふたくち吸えば十分な僕には好きな時に好きな分だけ吸えるプルーム・テックは相性が良かったが、やはり吸いごたえがない。そして上手くもないコーヒーを啜りながら京子の胸のことを思った。

 彼女が初めてアルバイトに来た日、一緒に閉店まで働いた僕らは連れ立って居酒屋へ行った。そして甘ったるく話し続ける彼女の胸を見ながらよくわからない相槌を打っていた僕は、途中からずっと手を握り合ったまま自分のアパートまで歩いた。缶ビールを二つ開け、ピザポテトを肴に彼女はもうしばらく話し続けた。ようやく話すことがなくなった彼女は姿見の中で髪をとかし、僕は鏡の中の彼女と目を合わせたまま後ろからそっと抱きしめた。しばらくそうして彼女の柔らかい感触に浸ってから、そっと首筋に吸い付いく。彼女は男が望む反応をするのがうまかった。僕は首筋に吸い付いたまま右腕を彼女の頭の後ろに回し引きっぱなしの布団の上に二人の体を横たえた。上に乗り欲望を貪る唇を少しずつ下へ導きながら左手で服を弄る。

「胸おっきいの、コンプレクスなん」

 京子は色めいた吐息とともにそんなことを漏らした。「かわいい」と言って彼女の指示通り僕はその胸を堪能した。触れた肌に伝わる若く肉付きのいい体の柔らかさは頭を痺れさせる媚薬のようだった。白く滑らかな彼女の肌は僕の唾液で扇情的に煌めく。張りのある乳房は乱暴にズラされたブラジャーに上から押し下げられても美しい形を崩さなかった。しかしそこで僕は彼女の乳輪の大きさにいささか躊躇いを覚えた。しかし唾液に滑る頭は淫らな流れを途切れさせないようにすぐさまそれを口に含む。左手は乱暴に右の乳房を揉みしだき、舌先は左の乳首をこねくりまわしては強く押し付け、それに反応する彼女の声が目を瞑った僕の脳を浸していく、はずだった。

 しかし僕の頭は急速に冷めつつあった。脳裏には今見たばかりのどでかい乳輪が焼きついていた。それは失敗した目玉焼きのようだった。頭の下に回したままの右手が痺れだしていることにも気がついた。やがて彼女の鼻にかかった嬌声も気に障り出し、僕は体を離して女の顔を見つめた。化粧の崩れた京子には公衆トイレのタイルのような生々しさがあり、口の中に溜まった唾液を飲み込むと吐き気がした。とろんとした目を開けて見上げる彼女に微笑み、僕はそっと頭を撫でた。彼女の髪だけは、今でも美しかった。

 それから僕らは仲の良い友達として、時には泊りがけで出かけることもあったが、あの日以来そういった関係になったことはない。僕は頭の中で何度も彼女を犯していたが、実際にそこにいる彼女に手を出すことはなかった。

 そんなことを思い返しながら頭に入らない原稿をめくっていると、バイトを終えた京子が可愛らしい小柄な少女を連れて現れた。

「ねえみて、この子唯ちゃん!最近入ったんやんな。めっちゃかわいない?」

「かわいい、結婚して」

 唯は苦笑いを浮かべながら京子とともに僕の前に腰掛けた。何か頼む?と訊くとすぐ帰りますから、と首を振った。

「宮岡です、ちょっと前までここでバイトしてた。よろしく」

「京子さんから聞いてます。小説書いてるって」

「ああ、うん。小説好き?」

 彼女の視線に促され、僕は原稿の上に手を置いた。

「はい。宮沢賢治とか、吉本ばななとか」

「ああ、キッチンの人。なんか、力強い文章書くよね。エネルギッシュな」

 唯は原稿に目を落としたまま曖昧に笑った。違ったのだろうか、と適当なことを言ったのを少し後悔した。僕が読んだことのある吉本ばななの文章といえば、東日本大地震が発生した直後に複数の作家に向けてコメントを求めた文芸雑誌の企画だけだった。彼女は確かその企画に一番初めに原稿を返した作家だった。

「母が特に好きで、吉本ばななさんのこと。それで私も読んでるんですけど」

「いいなあ、僕んちは誰も本読まんから、小説について話したりできんのさな」

「ポテト頼んでいい?宮岡さんのおごりで」

 京子が僕の承諾を待たずに呼び出しボタンを押し、先ほどの知らない男がすぐにやってきた。唯はまだ原稿を見つめていた。「読んでくれる?」と尋ねるとようやく顔を上げ「母も小説を書いているんです」と少しだけ微笑んだ。僕は真っ直ぐにこちらを見つめるその瞳に少し動揺した。ありきたりな言い方をすると唯は「小動物のような」という比喩が実によく似合う顔立ちをしている。そして冷めた表情の中で煌めく大きな瞳は男が一瞬見惚れざるを得ない種類のものだった。鳶色の瞳に長い睫毛が影を落とす。僕は彼女の瞬きをスローモーションで見た。

「おー、どんな小説?」

 僕は何故か慌てて問い返した。

「それこそ吉本ばななさんみたいな。結構面白いですよ。少し前に出版しないかみたいな話も来て」

「マジで?すごい、なんか賞とったんですか?」

「いえ、自費出版で出さないかって話だったんですけど」

 それでも誰かの目に止まった小説を書く人が近くに住んでいると思うと嫉妬で胸が痛かった。他人と比べる前に自分の小説をしっかりと書け、と胸の内で言いつけるが、痛みはじわじわと体中へ広がっていった。

 フライドポテトが届くと唯は「そろそろ帰ります」と腰を上げた。後ろ姿を見送っていると京子がだらしない口にポテトを咥えながら「かわいいやろ」と低い声で呟いた。

「うん、付き合いたい」

「あかんよ、唯ちゃんには医学部の彼氏がおるから」

「そりゃ勝てんな」

 それから僕は京子の愚痴を聞き流しながら推敲の続きをするふりをしばらく続け、知らない顔がラストオーダーを訊きに来たので原稿を鞄にしまった。

 京子と手を振って別れ車に乗り込んだ僕は突然強い性欲に襲われた。無性に人恋しかった。誰かに目を見つめて欲しかった。脳裏に浮かんでいたのはもちろん唯の瞳だったが、触れているのは京子の体だった。暗い車の中で隠れるようにデリヘルを検索してみるが、給料日前で全財産は三千円だった。そうやって性欲を高めるだけ高め、思わずさっき別れたばかりの京子にカラオケいかないかとLINEまで送り、深いため息をついてエンジンを回した。海へ行こう。暗い海に全てを飲み込んでもらおう。しかし、それでどうなる?今日を耐え抜いたからといって、どうして明日を生きようと思えるのだろうか。

 コンビニでピースを買った。久しぶりの紙タバコに咽ながら窓を開けた。蒸し暑い風が妙に生々しい。わけがわからないまま車を走らせた。何を考えているのだろうと考えていた。どうすればいい?未来のない印刷会社でさぼりながら無難に営業をこなし、ゴミのような小説を書いて、価値ある他人に嫉妬して、そして、独りで、それで、どうなる?どうすれば、生きていると言えるのか、どうすれば、そこにある現実を受け入れ、きちんと今を生きられるのか、どうすれば、僕は僕であることを認められるのか。生きていくということは、大人になるということは、諦めるということではないと思いたい。どうすれば、そこにある生を、一生懸命に愛せるのだろうか。軽薄で被害者意識に満ちた自分の言い訳を聞かずに済むようになるには、何をすればいい?

 夜の海には、思っていたよりも人がいた。ベンチで談笑する外国人グループと、夜釣に来た若者と老人。埠頭で煙草を吸いたかったが、電子タバコを買ってから携帯灰皿を持ち歩いていないことに気づき、人の多さに諦めた。そんな風に周りを気にする自分の小ささに吐き気がした。車内でピースを一本吸ってから外に出ると、潮風に目を瞑った。海の拒絶を感じながら、その方向へ歩いた。釣り人の長いタモ網の柄を潜り抜け埠頭を進む。目の前で老人が煙草を海に投げ捨てるのを見てまた自分が恥ずかしくなる。それから、黒い油のような波を見つめた。

 風に背を押された重そうな波は想像以上の速さで浜に向けて打ち寄せていた。埠頭からの視界には暗く果てしない海だけが見え、それらは簡単に地上を飲み込んでしまうように思えた。海は、僕を見てすらいなかった。飲み込まれるのは、僕の勝手だった。それは僕の無力のせいであり、海は何もしていない。海はそこに在るだけで、僕はどこにも居場所がない。

 誰にも届くことのない僕の小説は、いつの日か望む場所まで連れていってくれるのだろうか。そんなことを考えているから、僕の小説はどこにも届かないのだろう。僕は僕の足でしか、歩いていけないのだから。何を望んでいるのかもわからず、何から逃げていて、何から救われたいのだろう。老人が投げた赤く光る浮きが波に揺れるのを見つめ、惨めさに浸る自分に苛立ち始めた頃、ようやく波の音が耳に届き始めたので、目を覚まさなければと思った。

 車に戻り、出会い系アプリの掲示板で「公衆トイレで。興味ある人」という募集を出していた顔写真のない女にメールを送り、すぐに返ってきた「ごむありいちごでいいですか」というメールに「おーけー」と応じ、向こうが指定したコンビニまでナビで向かった。金は足りなかったが、生きる必要があった。何が起こるかわからない不安へ足を向け、生きたいと叫ぶ自分を想像した。間違っていると思った方へいつまでも自分を裏切り続けるのは、この世に救いが現れるのを今でも信じているからなのか。馬鹿らしくて反吐が出る。性欲に理由付けしようとするな。京子からお風呂入っとったとLINEが届いた。既読スルーして顔を上げる。赤信号が目に沁みた。

2019年7月27日公開

© 2019 中野真

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