ノーシーボガール

中野真

小説

29,975文字

ある大雨の日、小学校の教室で大河は意識を失った。それから少年は自分は呪われているという言葉を繰り返し、食べたものは全て吐いてしまう。相談を受けた塾講師の結人は認知心理学者を自称する友人を伴って少年の「呪い」を解くために奮闘する。小説推理新人賞落選。

プロローグ

 

 暑いのになんだか寒いな、と野々村大河は思った。廊下の窓に吹き付ける雨は校舎全体を脅すように揺らしていた。体にはまだ夏休みの太陽の光が溜まっていたので、少年の肌は真っ黒に焼けていた。蛍光灯はどういうわけかいつもの半分ほどしかその明るさを発揮していないようだった。三年二組の文字が見え、少しホッとした気持ちで廊下を駆け出した。先生達はみんな体育館で生徒の整列に忙しいので、今は怒られる危険性はなかった。ランドセルの横につけてあるキーホルダーたちがカシャカシャ音を立てる。勢いよく教室のドアを開けると、誰もいないと思っていた教室に女の子がいたので、驚いてもう少しで叫び声を上げるところだった。それをなんとか堪えている間に、彼女が夏休み明けに転向してきた桐生一二三だと気がついた。一二三と書いてドレミと読むその名前が大河は気に入っていた。そして一二三はとても美しい少女だった。クラスメイトがみんな日に焼けた真っ黒焦げの笑顔を見せるのに対して、どこか遠くの都会から引っ越してきたという彼女の肌は輪郭がぼやけるほどに白く、その顔に表情は乏しかった。その都会的な美しさのせいか、数日経っても彼女はあまりクラスに溶け込めていなかった。それはその容姿以上に彼女の態度のせいかもしれなかったが。例えば、大河が勢いよく教室のドアを開けても彼女は窓際の自分の席に座ったまま外を見つめ微動だにしなかったように。そんな態度から、まるで自分はおまえたちとは違うんだ、と言われているような雰囲気を、おまえたちには興味がないんだと言われているような無言の抵抗を感じるのであった。それでも隣の席で教科書を見せている大河は、彼女の綺麗な文字や、たまに発せられる小さな、透き通るような声に不思議と胸を高鳴らせることが多かった。触れれば冷たく溶けてしまいそうな彼女の隣にいると、何故か体温が上昇することに気づかないほど子供ではなかった。

「ドレミちゃんまだいたん?はやく行かんと怒られるよ!」

 隣の席に駆け寄りながらそう言うと、少女は無表情でゆっくりと振り返った。その大きな瞳の黒さに大河はドキリとして無意識に足を止めた。

「君はどうしたの?」

「忘れ物。てかまだ僕の名前覚えてないんかーい」

「覚えてるよ」

 君だけは、と小さく呟いたような気がして、大河は顔が赤くなるのを隠すように大きな音を立ててランドセルを机に置くと、俯いたまま机の中から弁当箱を引っ張り出した。今日は給食が休みの日で、お昼は外でお弁当を食べる予定になっていた。しかし突然の大雨で、気象庁から大雨洪水警報まで発令されたので、小学校は午前中で終わり、急遽早退が決まったので学校はお祭り騒ぎとなっていた。

「ならいいけどさ。そろそろ君って呼ぶのやめてよ、なんか恥ずかしいよ」

 言ってしまってから、一二三が傷つかなかったかなと思い、少し後悔しながら横目でちらりと覗き見た。少女はまた窓の外に顔を戻していて、その横顔からは何も読み取れなかった。

「お迎えこやんの?一緒に乗ってく?うちのぼろっちい軽でよかったらやけど」

「大丈夫」

「ほんまに?まあええけどさ、とりあえず体育館行かんと、先生探しとるかもよ?なんか尾崎先生とかめっちゃ機嫌悪いし。まーた竹刀持ち出しとるんよ。あれ大丈夫なんかな、教育委員会とかに言う人おるんちゃう?僕わりと尾崎先生のこと好きやからいなくなったら嫌やなあ」

 大河は教育委員会なんて大人な言葉を使ってみた自分に少し陶酔を覚えながらいつになく早口で話した。もちろんそんな言葉は親からの受け売りなのだが。

 まくし立てる大河に構うことなく、少女はゆっくりとした動作でスクールバッグからお弁当を取り出した。自分たちと同じランドセルではなく、中学生が使うような紺色のスクールバッグで彼女が登校してくることも、クラスメイト達の反感を買う要因となっていた。しかし大人っぽい青の風呂敷に包まれた小さな弁当箱は、シナモンロールのかわいらしいものだった。それを見て大河は少し安心した。

「お腹空いたん?」

「ううん」

 一二三が弁当箱を開けると、中には俵形の海苔巻きとウインナーしか入っていなかった。弁当箱のかわいさに反してとても質素な内容に、大河はお母さんが今日お弁当の日だって忘れてたんだな、と少し同情した。それから少女は何を思ったのか、細く白い指先で一口サイズの海苔巻きをひとつ取り出すと、大河の方へ差し出した。

「ん、くれるん?」

 コクンと頷く少女の瞳に促され、大河はそれを手にとって、どういうことだろうと思いながらも、なんだか少し嬉しくなった。自分がそれを口に入れて咀嚼する様子を一二三が無表情で見つめるので、大河は恥ずかしくなって口を動かしながらランドセルを背負い直した。

 その時、窓の外が激しく光り、追いかけるように腹の底を揺らす雷鳴が轟いた。大河は思わず肩を竦ませた。そして目の前の少女が無反応なのを見て、少し自分が恥ずかしくなった。

「すっごい雷やったね」

 大河が言い訳のようにそう言って照れ笑いを浮かべると、少女はすくっと立ち上がった。それと同時に、雨の音がより一層強くなったような気がした。いや、今まで気にしていなかったそれが、突然耳の中に迫ってきたのだ。大河が口の中のものを飲み込むと、少女が口を開いた。無表情の彼女の言葉が大河の体に染み込んでいく。そしてまた、今度はもっと近くで雷が光った。大河の目の前で、少女以外のものが真っ黒に染まった。足元が揺れ、胃の中に落ちていくものを感じながら、大河は意識を失った。

 

 

「病院で診てもらっても異常はないって言われて、薬局でも売ってるような整腸薬を出されるだけで、でも大河、あの日から何も食べないし、無理やり食べさせても全部吐いちゃうんです。他のお医者さんに行っても同じようなことしか言われないし、これ以上いろんな検査を受けさせるのもかわいそうで。それからもう自分は死ぬんだなんて言って部屋に閉じこもって顔を見せてもくれないんです。僕は呪われてるんだって泣き叫んでて。精神科のお医者さんとかも紹介してもらったんですけど、そもそも連れ出すこともできなくなってしまって。もう私どうすればいいか……」

 目の前で泣き崩れる野々村香をなだめながら、桃田結人は大河の妹の茜がやり終わった問題を採点していた。また足し算と引き算を見間違えている。赤ペンを止めてそのことをやんわり指摘しながらプリントを返し、もう一度頭をひねっている茜から母親に視線を戻した。

「うーん、とりあえずしばらく好きなようにさせておけばいいんじゃないですかね」

「そんなこと言ったって、あの子はもう二日何も食べてないんですよ!本当に死んでしまったらどうするんですか!」

「じゃあドアの前にご飯だけ置いておいて、声はあまりかけない方がいいかもしれませんね。本当にお腹が空いたら自分で食べ始めるでしょう」

「そんな、親なのに何もできないなんて!休んでいる間に学校の授業も進んでいくし……」

「今はまあ勉強のことはいいじゃないですか。それより大河くんはどうして呪われてるなんて言っているんですか?」

「それがわからないから困ってるんですよ!こっちが何度訊いても僕は呪われているんだもう死ぬんだって叫ぶだけで」

「できた」

 茜から返ってきたプリントに赤ペンで大きく丸をして百点と書く。娘は母親の癇癪には慣れた様子でマイペースを崩さない。卓上用の小さな箒で消しゴムのカスを集めてゴミ箱に捨てると、さっさと片付けをして他の子達のトランプに混ざりに行った。たいしたもんだ。

「原因がわからないとどうにもなりませんねえ」

「それをなんとか突き止めてもらいたいんですよ、ですから桃田先生に……」

 ゆいとせんせーはやくー、と子供たちが呼ぶ声に結人は手を上げて「今いくよー」と応えてながら席を立った。野々村香がすがるような涙目で見上げてくるが、自分より十五も年上の人妻のそんな表情はあまり見たいものではない。

「桃田先生……」

「……わかりました。はやいうちに時間を見つけて伺いましょう」

「今日はダメなんですか?」

「今日はちょっと……」

「でもうちの大河は今も何も食べられず苦しんでるんです」

 そこで野々村香は桃田の手をとった。結人は心の中でため息をつくしかなかった。しばらくの間逡巡したが、そんな光景を長引かせるのも馬鹿らしかった。

「わかりました、今日の十九時ごろお伺いします。でも大河くんには言わないでくださいね」

「ありがとうございます!でもどうして言っちゃダメなんですか?」

 結人は解放された手首を軽く回しながら「僕はサプライズが好きなんです」と言って子供達の方へ向かった。どういうわけか彼の手札はとても多かった。

「ねえ、ずるしてない?」

「してないよ!」

「してないしてない!」

「ちゃんとババ一枚にした?」

「あ!二枚入ってる」

「はーい配り直しー」

 えー、と叫ぶ子供達の頭をわしゃわしゃ撫で回してトランプを集める結人は、どうしたもんかと考えていた。医者でも精神科医でもない自分にいったい何ができるのだろう。しかし心配なことにはかわりないし、やはり一度声をかけに行った方がいいかもしれない。何ができるかは、その場へ行ってみないことにはわからない。ただ、今日は間が悪かった。久しぶりに彼女と夕食に行く予定で、店も予約してあったのだ。奈緒、怒るだろうなと思いながらも、結人はだいたいいつもこのような頼みを断れないのであった。

「帰り道、気をつけてくださいね」

 振り返った野々村香は、赤い目を子供みたいにきょとんとさせて、それからゆっくり頷いた。手をつないでいる茜がなんだか不安そうに母親を見上げている。本当に大丈夫かなこの人、と思ったが次の生徒が来るので結人は見送ることしかできない。ありがとうございました、と頭を下げた野々村香がもう一度すがるような目で結人を見つめ、小さな声で「今夜、七時に待ってます」なんて意味深そうに言うのだから、他の先生が見たらおかしな噂を立てられそうで少し笑顔が引きつった。

 次の生徒が来るまであと十五分を切っていた。土曜日は予定が立て込んでいて、休む間も無く準備をしないといけないはずなのだが、職員室の先生たちは暢気にコーヒーを飲みながら野々村家の話題に夢中になっていた。結人が勤める個人塾は進学向けではなく、学校で勉強についていけなかったり、時計が読めない、椅子にじっと座っていられないといったような子供達のためのものである。職員は彼以外みんな女性で、それも身内が半分ほどであった。なのでというわけではないが、一度話し始めると他のことを忘れることも多く、話題転換は終わりがないのだ。結人は扉の外でバレないようにため息をついてから中へ入った。

「このへんで一番いい内科ってどこだっけ?」

「佐々木クリニックじゃない?」

「野々村さんはどこ行ったんだろう?」

「精神科なら玉井先生のところがいいって聞いたけど」

「精神科ってなんか信用ならないんですよね」

「どうして?行ったことあるの?」

「いえ、ただのイメージですけど、精神科に行って良くなったって人あんまり聞いたことないですし」

「そんなことないでしょ」

「でも薬で心の病気が治るって信じられます?」

「まあ、確かによくわかんないけど。あ、桃田先生もコーヒー飲む?」

 結構です、と笑顔で断ると結人はわざと音を立てて次の生徒のためのプリント類をデスクで揃え、さっさと教室に戻った。そのプリントも昨夜彼が自宅で夜遅くまでかかって作ったもので、他の先生たちは「すごーい!」と褒めながらもそれがささっと簡単に作られた物のように自分の授業でも使い捨てている。まあいいけどさ、と思いながらも小さな鬱憤は日々募っていくのであった。子供達のため、という気持ちが強くても、このように扱われては彼もやる気を保つのが難しい。どうしてみんなそんなに能天気で何も考えていないのだろうか。いや、それは自分の思い込みで、みんなそれぞれにいろんなことを考えているのだろう。しかし今日の晩御飯や旦那の愚痴、次の連休の旅行日程の心配などというものは彼の仕事とは何の関係もなかった。

 それから思い出して奈緒に謝罪のメッセージを送った。

 ごめん、今日ある生徒の家に行かないといけなくなった。どうも引きこもってご飯も食べてないみたいで。この埋め合わせは来週、絶対。ごめんなさい。

 しばらく自分が送った文章に既読がつくか眺めていたが、どうしようもないので頭から遠ざけることにした。こういった場合の返信を待つ恐怖は、あまり頻繁に感じたくないものだった。そう思っていたところに返信の振動が来たので、驚いてプリントの束を落としてしまった。本日何回目になるのであろうため息をつきながらとりあえずプリントを集め直し、恐る恐るメッセージを確認した。

 岩戸隠れみたいに踊ってこい。それから「絶対」とか軽々しく言うでないぞ。

 結人は頬が緩むのを感じ、ありがとうございますの文字の後ろに踊っている絵文字をつけた。すると、踊るのはその子の家に着いてからにしなさい、とたしなめられ、思わず笑い声を漏らしたのであった。絶対好き、と返信し、その返事を見るのは仕事終わりの楽しみにとっておくことにした。おそらくひとこと、知ってる、と返してくるだろうと思った。

2019年6月16日公開

© 2019 中野真

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