宮崎氏が失踪した。私がその知らせを受けたのは、件のフォーラム開催を一週間後に控えた十二月一日の夕方であった。刑事が伝えに来たのだ。否、私を疑って来たのだ。
その日は金曜日で、外に出る用事が無かったため、家で一日書き物をしていた。一年程前に一度、『群像』誌上で作品の好意的な書評を書いた事のある作家が、今度は来月末に新作長編を刊行するとの事で、又も書評を任ぜられ、その送られて来たゲラを読んでいた折、インターホンが鳴り響いたのであった。
インターホンは、連続して七回鳴った。先ずこれが、尋常ならざる事態を私に予感させた。ピンポン、ピンポン、ピンポン……。ひどく間抜けな音には違いないが、その間抜けさと、七回も鳴らすと云う執拗さが、この上なく不気味で、遂に殺される時が来たのだ、と不思議に落ち着いた心地に成ったのが又、我ながら不気味であった。
私は、クリップで簡易製本された新人作家の新作長編のゲラを机上に置き、階段を下った。そう言えば、『真冬の炎』の冒頭の所に階段を下る描写があった。あの小説の主人公である老いた小説家は、夜のうちに膀胱に溜まった尿の具合を心配しながら階段を下りていたが、あれは尊文の経験に拠るものであろうか。未だそんな歳ではないとおもうが、なんだったかのエッセイで、「うつ病のときに薬を飲んでいた時、その薬の影響で下のコントロールの出来ないことがあった」と書いていた。してみると、「老人ぶることはわたしの幸せであった」と書いたのは、其れと同じエッセイであったか、どうか。いずれにしても、『断腸亭日乗』の荷風ではないが、「老人ぶる」趣味が尊文には在る、と云う事は言えそうだ。
私が下りる間、インターホンは一度も鳴らなかった。だが不思議と、来訪者が帰ったのだとはおもわなかった。
ドアを開けると、黒の背広を着た男が二人、立っていた。定年間近とおもわれる白髪の男と、黒縁眼鏡を掛けた、背の高い、三十代前半とおもわれる男の二人組であった。
先ず白髪が、警察手帳を示した。「川本文雄」と云う味気ない名前と、役職の「警部」と云う文字が確認出来た。
眼鏡の方が、私の名前を確認し、
「宮崎竜彦さんが失踪しました。」
と言った。無論、宮崎と言えば宮崎氏が想起せられたが、下の名前には記憶が無かった。
そうして私が黙っていると、
「宮崎達治の本名です。」
と、白髪の男が補足説明をした。其れで私は、「ああ。」と言った。
「あれ? 本名はご存じありませんでしたか。」
と眼鏡が言った。
「付合いが薄い物ですから。」
と私は言った。
「偽名である事は周囲にもずっと隠しておられたようですよ。」
"岡本尊文とその時代(十七)"へのコメント 0件