俺は立ち止った。
「早く行こうよ」
ミキはそう言うが、俺は地下通路の柱の向こうにいる男を見つめていた。
「どうしたの」
「あれ……」
褐色の男には二人の警官が威圧的に付きまとう。何を言っているのかは分からない。雑音と間を通る通行人の中で、俺だけがそれを見ているようだった。
「職質でしょう? どうでも良いよ」
「……」
「何病ンでんの、あんた心当たりないでしょ」
ミキは俺の腕を引く。仕方なく俺は付いていくしかない。だがその時、褐色の男が振り向き、俺と目が合った。
「ロナウド……」
「え? 」
その緊張に引き締まった顔は幼馴染のロナウドの様に見えたが、印象がおぼろげで、更に視界が柱に隠れてしまい良く見えない。そのままミキに引かれ、エスカレーターで地上に出た。ミキに引かれている俺の手は薄黒い。あの男の顔が俺の脳裏から離れない。
「職質なんてさあ、どこでもある事じゃん」
「……あの人もハーフだったような」
「んもー被害妄想だよー」
カフェで割高なジンジャエールを飲みながら、俺は外の激しい人通りを眺めた。ミキは備え付けの服飾雑誌を広げ見入っている。
「大体フランシアに心当たりないでしょ? あるの? 」
「無いけど……」
「無いなら良いじゃん、大体ああ言うのは従っておけば直ぐ終わるんだし」
俺はミキの話を聞き流しながら、窓ガラスに反射する自分の顔を、ロナウドの印象に作り替えた。彼は俺が17の時に自殺している。だが彼は電撃的に俺の中に蘇っている。彼が死んだ時には俺はほとんど何の関心も抱かなかったのに、時間が経てば経つほど、俺の生きる風景のあちこちに顔を出すのだ。ただ、ミキにも見えている。つまり混血だったにせよ別人で、俺が勝手にロナウドを投影してしまっただけなのだろう。そう思いたい。
高校半ばの頃、何気ないある日のことだった。高校から帰宅すると既に母親が誰かと電話しており、ほとんど主体的に話をせずスペイン語で単調な返答を続けていたが、突然と言えるタイミングで電話を切った。
夕食時、母親と父親との会話をぼんやりと聞く中で、幼馴染のロナウドがどうも自殺したらしきことを聞かされた。ロナウドの家とは家族ぐるみの付き合いで、小さい時はよく一緒に遊んだが、中学以後はたまに顔を合わすくらいの仲だった。だが俺は話に割り込むこともせず、ただ黙々と飯を食い続けた。父親はロナウドと俺が小さい時によく遊んでいたことや、ロナウドの父が今日本にいるのかいないのかをスペイン語で盛んに母親に聞いていたが、俺にはついにその事について話しかけなかった。俺は自室に戻って横になり、特別な感情も生まれぬまま天井を見つめた。それが俺の高校時代のトレンドだった。気力はない。特別な事は何もない。俺は特別ではない。ロナウドも、特別ではないはずだ。ドラマチックな雷雨も、倒れる写真立ても、急に枯れ萎える花々もない。1分に60秒が過ぎる、何気ない普通の一日だった。
後に、自殺は確実となった。ロナウドの母親は今でも自身のFacebookに、ロナウドの遺影――どこかの水辺で柵に寄りかかりつつ振り向き笑う彼の笑顔――を載せている。
「ねえ、何見てるの?」
スマホでFacebookを見る俺の視界の上方にミキが割り込んできた。
「ロナウドのページ」
「何それ? あ、さっきの人? 何? 」
ミキは状況を呑み込めていないようだったが、俺にも説明のしようがない。ただ、そのページをミキに見せてやった。
「友達? 」
「ああ……最近会ってないけど」
そう言った方が良い。職質の話題ですら気まずいのに自殺の話など……。
「やっぱり知り合いガイジンが多いの?」
「ああ」
「やっぱりねーフランシア君やっぱり日本人ともっと付き合った方が良いよ」
「……」
「さっきの職質のもそうだけど気にし過ぎだって、私がこうして付き合ってんじゃん、みんな気にしないって、警察はお仕事してるだけだし」
「……」
俺は、こう言う時ただ微笑んで頷く。それしかない。日本人には何気ない機会、何気ない風潮が、俺には貴重で二度と巡り合わせのないことのように思える。女性と付き合うのも、仕事にありつくのも。だが、ロナウドにはどうだったのだろうか。また彼が現れた。彼は俺の前頭葉に柵を作り寄っかかり、あの笑顔のまま俺を見ている。目の前のミキに視線を移すと、薄く化粧したその顔の向こうにロナウドがいる。
「もう行こうか、ちょっと曇って来たし」
「ああ……帰ろうか」
駅前まで行くと、幅の広い壁の様な百貨店の前で、右翼団体が街宣していた。ミキは不快そうな顔をしながら手前の地下入り口にそのまま入っていった。
「ウザッ、ああ言うの右翼って言うんでしょ」
「ああ」
「もっとお爺ちゃんお婆ちゃんの多い場所でやれば良いのに」
母親がパソコンでスペイン語衛星放送を見て奇声の様な笑い声をあげている。ソファに横たわる俺はそれに一瞬振り向きつつ、もう一度ロナウドの画像を見ていた。彼は何の答えも出さない。君は俺にレゴブロックを譲ってくれた。君は俺と緑色のチャリに二人乗りした。君と俺は親がコストコに行ってる間に二時間遊び放題のゲーセンに放置され一緒に奇妙なガンシューティングをプレイした。君は本当に俺とよく遊んだ……。母親が飲み物を取りに立ち上がった所に、俺はスマホの画面を示した。
「n? 」
「ロナウド」
「Ah」
母親は何知らぬ顔で飲み物を取りに行き、グアバジュースを持って戻ってきた。
「Cuántos años ya pasaron……¿Qué edad tenías?」
「俺? 俺がディエスシエテアニョのモメントだよ、だから」
「18」
「うん」
「Muerte miserable……」
母親はただ頭を振った。そしてジュースを飲み干すと、写真立てを指さした。俺が5歳、ロナウドが6歳の時、公園で家族ぐるみのBBQをした際の写真だ。俺とロナウドがコンロの前で並んで立っている。
「Ese momento fue lindo,Ahora……」
いつのまにかロナウドではなく俺の話になっている。
「今は、何だよ、マロか」
「Malo」
そうして母親はまた頭を振り、その横の写真を指した。20年以上前の、両親の着物姿の結婚写真だ。奇妙な日本人の横にダイアナ妃を三割引きし偏頭痛を持たせたような女がいる。
「Yo también」
「ああ、あいつは地雷を処理したが、あんたは地雷を産んだよ」
「? 」
一週間後、俺はミキと待ち合わせ駅前に向かっていた。
「もう少し早く出ればな……」
ふと道路の向こうに白黒二色で構成された車が見えた時、私は急に不安を感じた。その車が私の横で速度を緩め、急に窓を開けてきた時、不安は最高潮になった。開いた窓から、中年の警官が急に話しかけてきた。
「ヘイ! ウェアユーフロム! 」
「……」
「ワッアーユードゥーイング! ワッ、アー……おい、ちょっ、止まりなさい、ストップ! 」
いきなりヘタクソな発音の英語で”どこから来た、何をしている”等と言われても、どうせよと言うのだろうか。こんな無礼なやり取りをする必要があるのか。私は警官を無視して歩き続けようとした。その時、パトカーからもう一人の、こちらは若い男の警官が降りてきた。
「ま、待ちなさい」
「……」
「どこから来たの?ウェアユーフロム!?」
「……私は日本人ですが」
「そう、へえ、ふうん」
「……」
「荷物見せてもらえるかな」
俺は警官の面を一瞬見た。なるほど、自分が正義だと確信している顔だ。俺が一番大嫌いな顔だ。
「その様な必要はない」
「止まれ、止まらないか、おい日本語が分かるんだろう」
「……」
「パスポートを出せ!」
「俺は日本人……! 」
「証明出来るのか、証明できる物を出しなさい!」
「俺は……! 」
無数の通行人が、俺とこの警官が視界に存在しないように通り過ぎて行く。俺は日本人でありながら日本に存在していない。道路の向こうにミキがいるのを見えた。俺は手をそちらに突き出そうとしたが、ミキは俺の様子を見ると急に奇妙な顔をして、駅とは反対の方向へ駆け出して行った。何かが壊れた、のだろう。
「……俺が何だと言うんだ」
俺は警官よりもミキに対してそう呟いたが、警官は俺の耳元でなお叫んでいる。
「不審人物だからです! 」
「何が不審なんだ」
「何がって、そんなの見りゃ分かる! 」
「俺は日本……人じゃない」
そうだ、俺は日本国籍を持っている。だが、日本人ではない。日本人ではないなら……。通行人一人一人が俺を一瞥しては去っていく。その顔はロナウドだ。
「何? 」
「俺は……! 」
その時、いきなり側でクラクションが鳴り、警官も俺も通行人たちも腰を抜かした。
「俺の友人に手を出すな!」
緑色のカブリオレに乗った、サングラスをした褐色の男が叫び、俺に手招きしている。
「乗れよ! 」
「あ……」
警官が手を出し止めるのも聞かず、俺は後部から飛び乗る。褐色の男が大笑いし、警官に対し親指を下に向けた。
「オマワリ、俺の友達を見つけてくれてご苦労! 」
カブリオレは急発進し、速度を速めていく。男はサングラスを外し、俺に笑いかけた。
やだーミキ久しぶり、急に何、へえーさっき、あ、彼氏に? え? 別れたの? どうしてーあ、職質ー!? 彼氏あれハーフだっけー! まあハーフじゃー職質されやすいかもねー、そー、あ、職質なら良いんだけどお巡りさんと言い争いしてたの!? 最悪ー! なんか、こう、問題起したがり? キモイよねー、なんかこう、法律守らないってマジやばい、それ言えてる、本当に、別に職質なんかすぐ見せて終わりじゃん? まず職質に合う方が悪いよね、こう、悪い事してるんだから職質に合うんだよね、ミキそんな奴と別れて正解だよ、やっぱりハーフはいろいろありそうだもんね、止めて正解、日本人の方がやっぱりいいでしょ? 顔目当てだったんでしょ? 金も出すし、あー何? まだ二度しかデートしてないの? もっと奢られなきゃソンじゃねーもうでも仕方ないよ、ミキ正解、堅実だよね、もっとイイ人いるって、大体最近あっちほら、仮に付き合い続けても話出来ない宇宙人が相手の親だよ、嫌じゃん? そうそううちの先輩もねーイギリス人と交際してたんだけどね、教会行くんだって教会! キモくね? 教会なんて結婚式の時に行くだけで良いじゃん、いや文化合わせてほしいよね、日本に来ンならさー教会とかシューキョーとか? 訳分んないのいれないでほしい、あでもドレス憧れるよねーそーいえばさーほらこの間話したアムウェ……
Fujiki 投稿者 | 2018-09-21 10:23
視覚的に強烈な印象を残す作品。同じ風景を見ていても、見えているものが違う男と女。二人の対話は成立せず、男は口ごもり、女は結末で友人の饒舌に呑み込まれる。映像を想起させる表現も優れている。特にオープニングの「その緊張に引き締まった顔は幼馴染のロナウドの様に見えたが、印象がおぼろげで、更に視界が柱に隠れてしまい良く見えない」という部分や「目の前のミキに視線を移すと、薄く化粧したその顔の向こうにロナウドがいる」という表現はまるで映画の1シーンのようだった。全体的に洗練されており、引き込まれるように最後まで読んだ。
以上のように作品の出来に関して不満は一切ない。ただ、本作には今回の合評会のお題に対する応答が一切見られない。本作を「嘘だと思って」読むことが倫理的に正しいことなのか私は疑わしく思う。本作がフィクションに仮託しつつ語ろうとしていることは真実なのではないか? 嘘で片づけてしまっていいのか?
一希 零 投稿者 | 2018-09-21 21:32
フアンさんが「本当のこと」を書くときは、主人公(語り手)に物語の後半で実際に主張として語らせるか、心の声として地の文に綴られることが多いと思っています。他方、今回の小説では比較的主人公の感情の爆発の描写は抑制され、代わりに、ラストのシーンでミキの友達(?)の台詞が長々とまるで呪いのように書かれました。お題を踏まえ、僕はこの最後の箇所を嘘だと思って読みました。あるいは、過去の作品の主人公が、ラストで自死するケースが多いのに対し、今回の主人公は助けられる、その結末を「現実ではありえないこと=嘘」として描いているのだろうか、とも思いました。フアンさんの小説を全て読んでいるわけではないので、的外れかもしれません。
長崎 朝 投稿者 | 2018-09-22 14:19
最後に主人公を助けたのが、死んだはずのロナウドなのか、そうでないのか、助けられたということ自体が嘘か幻想なのではないか、というところがテーマに沿ったポイントになっていると思います。そこへの入り方が、わざとらしくなくすんなりなので、それがまた程よい曖昧さを残していてぼくは好きです。「本当にあった嘘みたいな話系嘘だと思って読んでください」
未来のアダム 読者 | 2018-09-22 16:15
身勝手かもしれないが、ほかのホアンさんの作品より希望を感じる。他人の目が入ってるからかな。カブリオレに乗るところが爽やかで好きだし、前の自殺する話と違って、逃げてるから希望がある。最後の彼女のシーンに辛さが凝縮されていると読んだ。
大猫 投稿者 | 2018-09-23 00:38
ブラボー!と叫びたくなったのは、混血の彼の家族が登場したからです。夫婦が外国語で喋っていて日本育ちの子供がテーブルを立っていく、というのはまさに我が家で見る風景です。彼を混血とさせた首謀者であるお母さんが出て来て、子供の頃のロナウドとフランシアの写真を見ながら「ひどい死に方だったよ」と呟くところ、とっても良いです。そんなつもりで、そんなに苦しめるつもりで産んだのではないと勝手に心で翻訳をしました。
Juanさんの場合、見事に書かれるものは決まっているので、テーマなんかこの際どうでもいいのではとどうでもいいのではと思ったりもしますが、一応、「嘘だと思って読んでください」の趣旨からいうとあんまり嘘っぽいところがなかったような。最後に車に乗って助けに来た友達はロナウドなんだろうなと思うけど、そこはハッキリロナウドだって言わなくちゃ。そうすると「嘘だ」が成り立っていたでしょう。
亀頭院性 投稿者 | 2018-09-23 18:39
「テーマを満たしてない」などと無粋なことを言うお歴々がいるけど、今回の「嘘だと思って読んでください」というテーマは、詳細な解説がないのでこういう解釈も許されて然るべき。「まぁ、俺の作品に書いてることは全部嘘なんだから、そうカッカするなって、目くじら立てんなよ」そういう風にも解釈できるはず。
作品の評価としては、筆舌に尽くしがたいくらい素晴らしい。ありふれた排外主義をさりげなく伝えてる作品。
波野發作 投稿者 | 2018-09-25 02:35
今回のお題に対しては私も非常に悩んだのだが、アプローチは3通り考えられた。あからさまな嘘を並べる方法(河童やマンホール)。嘘か本当か煙に巻く方法(私はこれ)。そして嘘だからと言い訳できる前提で本当のことをダイレクトに書いちゃうという方法。である。本作はその3つ目のアプローチなのではないかと感じた。直接作者本人にのみ降り掛かったことではなくとも、身近に実在するエピソードをピックアップして構成したものではないかと思わされるリアリティがここにある。つまりこれは「(重いんで)嘘だと思って読んでください。(事実だけど)」ということだ。これもまたお題に対する王道のアプローチではないかと思う。