時々窓辺で眠りに落ちている彼女をベッドに運んでやるのが、晩年の二人にとってはほとんど唯一の接触といってもよかった。
最後の数ヶ月、ライラは抱き上げても手応えを感じないほどやせ細り、その体温が手のひらを湿らせることもほとんどなかったが、どれだけ深く寝入っていても抱き上げればハジの胸元に吸い付くように頬をよせ、静かにわらった。その顔を見下ろすたびに、ハジは罪悪感に胸が苦しくなった。
「ママはまたここで寝ちゃったのか、しょうがないなぁ」
しょうがないなぁ、とエレノアは首をすくめて真似をした。しかし手にした幾何学模型をいじるのはやめない。
言葉を喋るようになる前からエレノアは幼児用の玩具には全く興味を示さなかった。その代わり床に丸くなって規則正しくカードをならべたり、びっしりとノートに記号をかいたり、ダイニングテーブルの木目の調査に勤しむほうが好きな子どもだ。どちらかといえばハジの子供の頃にそっくりで、おそらく数年後には天才児養成スクールに入学することになるだろう。
「ママに風邪引いちゃうよって言った?」
「言ったぁ! でもね、そこがいいんだって。だからね、エリね、今日はここで遊ぶの」
ライラをベッドに運び、念入りに上掛けでくるんでやる。ここ数ヶ月、ライラはほとんど眠っている。若い頃からあまり体力がなかった彼女だが、極端に体重が落ちてきた今、覚醒を維持できるのはせいぜい一時間だ。その短い時間が授業時間と重なってしまったことが彼は悲しかった。
ライラの分があいた窓際に戻り、ハジはエレノアの向かいに腰を下ろした。幅広の木枠の上には模型が三つばかり並べてある。エレノアがいじっているのは座標点を入力して変形させると数式が自動で計算される教育用幾何学模型だ。
「それはデュパンのサイクリッド曲面?」
「うん。エリ、これ好き。あ、でもローマンも好き」
「ママは幾何学が苦手だったはずだけど、退屈してなかった?」
「してなかったよ。だってママ、数学好きだもん」
きっぱりと言葉をおいて、エレノアはまた口を結んでしまった。ハジによく似たまつげの長い目をぱっちりと開き、やわらかい頬を少しふくらませている。集中をするときの彼女の癖だ。
しばらくハジはだまってエレノアの手元を眺めていた。彼女の指が座標点を置くたびに、幾何学模様は大きくうねって数倍もの大きさになるが、彼女はちっとも驚く様子を見せずに微修正をする。背中を少し丸め、首を突き出して、ずっとそんな格好でいてはさぞかし体が痛くなってしまうだろうとも思うが、集中し始めたエレノアは誰も邪魔ができない。多分、一時間でも二時間でも納得行くまで模型をいじっているだろう。
ハジは息を吐き、窓の外へと視線を巡らせた。
三人が住むのはビューリーズ大学の職員寮である。ハジもライラもこの大学の卒業生で、ハジは数学科の教授になった。二人がここに移ってきたのはハジが生命工学の講師をする傍ら大学院の数学科に入学した年のことだが、馴染み深い場所で最後の時を過ごすのはライラの願いである。
彼らの部屋は職員寮の最上階にあり、講義棟と隣接している。窓を塞ぐように建つ古い講義棟は雨風に浸食されたレンガの角が丸くなり、黒ずんで、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。壁は一面緑の蔦の葉で覆われ、職員寮へ入るための小道の両脇には、古木が枝を広げている。
ライラはこの景色をどんな思いでながめているのだろうか、とハジは静かに息を吐きながら思った。少し波打ったガラス窓に額を押し付けていると、いつの間にか頭のなかの熱が奪われてしまう。秋が始まろうとする夕暮れ、外気は思いのほかさがっており、あと数週間もすれば暖炉に火を入れねばならないだろう。それまでライラは持つかどうか――
「ママは数学好きなんだよ」
「そうなの?」
「うん。だってパパの講義、聞いてるもん」
不意に言葉を発したエレノアは確かめるように模型の表面をなでた。なにか納得がいかなかった箇所があるようで、座標点を人差し指にくっつけて調整をしている。ガラスから頭をもちあげ、ハジはそんな娘を見下ろした。
「それは昔のこと?」
「ううん。さっき。ここからなら三三一教室が四分の一くらいみえるでしょ」こましゃくれた調子で言ったエレノアは、珍しく顔を上げてハジを真正面から見上げた。濃い緑色の瞳の中に夕暮れの寂しげな木漏れ日が映っている。「パパはぁ、だいたい二、三分に一回くらい西側に歩いて来て五分くらい止まってるからぁ、授業の全体の時間でいったらえっとぉ、八十%? ううん、違う、六十五%くらいかな。ママはね、口が動いてるのが見ればなにを言ってるかわかるんだって。だからそのくらいは聞いてるの」
「…………」
「エリ、整数論は苦手だから本読まなきゃわかんないのに、ママは聞いてるだけでわかるんだからきっとすごいんだよ」
無邪気な声だ。だがハジは答えられなかった。後ろめたさがまた胸をつまらせたのである。
すったもんだとあるにはあったが、ライラと結婚することになったのはおそらく、ハジの短い人生の中でもっとも喜ばしい出来事だっただろう。ライラにとっても同じだったかどうかはハジにはわからない。いつの間にかそっと肩によりそい、老犬のように静かな呼吸を繰り返していた彼女の体温を思い出すたびに、彼はくよくよと悩んだ。
ハジが大学に進学したのは十五歳のときだ。数千年に一度の天才とまでいわれたハジは大学入学資格を七つで獲得したが、渡航費と学費を用意できなかったせいで八年も足踏みをしていた。しかしそれも悪くなかったとハジは思っている。
彼の家族は非常に貧しい祖国の中でも特に貧しい砂漠の小さな村で羊を飼って暮らしており、大学費用どころか子どもたちに教育を施すことすらままならない。そもそも彼らはハジの才能を理解することすらできず、いっぷう変わった子供で扱いにくいとしか思っていなかったのだ。そんな両親だったが、ハジが好きなことに没頭できるようにと、首都ですごせるように環境を整えてくれた。
両親のかわりにハジの才能を認め、本格的な教育をしてくれたのは首都に住んでいた外国人研究者夫婦である。政治には疎い彼らだったが、ハジの才能を信じて祖国の奨学金枠の拡充を申請したり、最貧国の支援を目的とした奨学金基金の設立のために動いてくれたりとなにかと力になってくれたものだ。彼らがいなければハジは首都に出ることもなかったし、ましてや大学に行くこともなかっただろう。あの砂の中の小さな村で羊を追うだけの一生だったはずだ。感謝はいくらしてもたりない。
そんなふうにしてハジは大学に入った。特別奨学生として採用されたのが十三のとき、それから煩雑な事務処理に追われ、大学に入学する直前に彼は十五になった。
ライラに出会ったのはそれから二年後、ハジが大学三年生になった秋のことである。ハジは十七歳、新入生として寮に入ってきたライラは十八歳、貧しい国からより抜かれた国際留学生の多いビューリーズではかなり歳を重ねてから大学に入るものも少なくないので、ライラは数少ない同年代の若者の一人だった。親しい仲になるのは当然といえば当然だろう。
しかしハジの卒業後、二人の親交は九年にわたって途絶えた。なにか特別な出来事があったというわけではないが、かといって頻繁に連絡をとりあうようなきっかけもなかったからである。再会したのは大学時代の共通の友人の結婚式で、珍しくライラが満面の笑みでハジを呼び止めたのがきっかけだった。
長い空白を取り戻すように、ライラは早口で様々なことを語った。学生時代は比較的寡黙だった彼女だが、聡明な語り口で人を引き込む才能はその頃からだ。
ホテルのロビーでちょっとした立ち話のつもりが、気づけばカフェに移動し、レストランに移動し、そこからさらにバーに移動しても、まだ彼女の口は止まらなかった。彼女の熱に取り込まれるようにして、ハジも多くの話をした。
卒業後、生命工学の研究者に誘われて他の星にいっていた時のこと、祖国に戻って働いていた時のこと、今の仕事のこと、はじめての一人暮らしのこと、大学に戻って数学の道に進もうかと考えていること、今の悩み――ハジはいつもそうだが、出会った人々とその人々が生きる土地のことについて語り始めるとどうも話が長くなる。ライラは唇を軽くすぼめ、時々目を細めてこらえきれないように笑い声を漏らした。楽しい話も悲しい話も、辛く苦しい悩みも、不思議なことにするすると口から流れ出し、思わぬところから会話が広がって話は途切れる気配を見せなかった。
(私――)
ふとあの時のライラの声が耳に蘇って、ハジは論文から顔を上げた。窓の外の空は藍色にそまり、青い瓦屋根の上に白くまたたく星がいくつか見えている。
エレノアに食事を出して寝かしつければ、その後は仕事の時間だ。ライラが起きた時に少しでもそばにいられるように、ベッドルームの窓辺にソファを移動させ、そこですっかり夜が更けるまで過ごすのがこのところのハジの日課だった。木枠の上にのせたコーヒーはすっかり冷め、窓ガラスにげっそりとやつれたハジが半分溶けかけて映っている。彼はため息をついて、ライラの寝息に耳を澄ました。
「私、もう先が長くないから」
あの時も彼女はそう言った。
ホテルのバーの閉店時間が来て椅子から追い立てられた二人は、足をしのばせてライラの部屋に行った。廊下を走り抜けるときはくすくすと笑い合っていた二人である。部屋についてからは、少し疲れているライラのためにハジがレモネードをいれてやり、彼女は目を輝かせてそれを待っていた。そんな不穏な影はなにもないそんな時間の中で、不意に彼女が言ったのだった。
胸の底に触れた冷たい空気にそろそろとハジは視線を上げ、ライラを見つめた。ほとんど色味のないアイスグリーンの瞳でライラもハジを見つめている。薄氷のように繊細なその色の中に、瞳孔が大きく花ひらいている。
彼女はまだたったの二十九歳で、ふつうなら死について考えるのは少々早すぎる年齢だろう。でもハジは知っている。ライラはせいぜい三十半ばまでしか生きられないと余命宣告を受けていた――その言葉を十代半ばの彼女がどうやって受け止めたのか、ハジには想像がつかない。
ほとんど無に等しい表情をのせた彼女の顔はデザイナーズチャイルド並に整っているが、表情がほとんどないせいで本当に人形なのではないかと思うことがある。色の消えかけているほんのりと赤い唇を少し開け、彼女は膝の上に肘をつき、顔を両手で支えている。前下りにカットされたプラチナブロンドの髪の毛が控えめなホテルの照明の下でもうっすらと光を放っていた。
「この間、また言われたの。脳の活性度を調べる検査をしたんだけど、五年前に比べて八%低下してるって出て」
「それは、だいぶ悪いの?」
「かなり。今みたいに働くのは五年が限界かも」
ごく淡々と、実験の被験体の話でもしているようにライラは言い、目を輝かせて手を差し伸べた。熱いから気をつけるようにと注意をして、マグカップを渡してやる。ライラはにこりと笑って礼を言った。
「前はもうちょっと猶予があるって言ってなかったっけ」
「そうなんだけど……前職が、やっぱり効いてるみたい。激務の時もあったし、覚えてなきゃいけないことが多くて――」
「今の仕事は? 大丈夫なの? 新しいことが多いってさっき言ってたけど」
「大丈夫。忘れても問題ないから。それにみんな理解があるし」
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