竹籤を頭に刺されたオッサンと料理人の戦いは、決着がつかなかった。結局のところ、シャッターについている非常扉から入ってきた警察官達によって制圧されたのだ。警官達の動きは見事だった。一人が柔道技のようなもので組み伏せると、一気に五、六人がわーっとのしかかった。ああされてはさすがのゾンビもひとたまりもない。
「ねえ、ちょっとヤバくないですか」
俺が開けたドアの隙間から控えめにのぞき見ていた女子高生のガキが呟いた。
「は、なにが? どう考えても警察が勝ってるだろ」
「だって、あれゾンビなんでしょ? あの警官が全部ゾンビになったらヤバイじゃん」
またタメ口聞いてやがる、と思ったが、言われてみれば一理あった。俺がこれまで見た数本のゾンビ映画によると、噛まれた人間はゾンビ化することになっている。多くは病気からの昏睡を経てゾンビ化となるが、最短だと十秒ぐらいでゾンビ化するものもあった。いま目の前で警官の下敷きになっているあのイレイザー・ヘッドじみた竹籤頭のオッサンがどの設定のゾンビなのかはわからないが、場合によってはこの閉鎖された地下鉄の空間が地獄絵図となる可能性がある。
「どうするんですか」
ガキは俺を頼るような目で見上げていた。俺は「そうだな……」と答えてから、少し考えこんだ。どうすべきだろうか? そもそもゾンビというのは空想上のクリーチャーであり、映画の設定が正しいかどうかはまったく当てにならない。どの映画の主人公たちもそうだったように、いま目の前にあるものを見極めて生存確率を上げなければいけないのだ。
「とりあえず様子を見よう」
俺は決然と言い放った。仕事で俺や俺よりも偉い人達がいつも言うように。よくわからないものを前にして決断を急くことはない。前例がない出来事に対しては、その成り行きが理解可能なものになるまでじっと待ち、理解した瞬間から迅速に行動を開始すべきだ。ガキはやや不安げだったが、こうした大人の妙味がわからないのだろう。
一時間ほど経っただろうか、非常扉の開く音が聞こてて、消防隊が入ってきた。警察官達が制圧した竹籤のオッサンをストレッチャーに乗せていく。オッサンはまだ動いていたが、元気そうではなく、ぐったりしていた。竹籤の元の持ち主である料理人は警官達と数分のあいだ言い争いをしたが、「まあまあ」と促される形で連行されていった。どうやら、事態は収束に向かっていた。
「おい、なんかもう大丈夫っぽいぞ」
と、俺が声をかけると、ガキはうずくまったまま、抱えていた膝から顔を上げた。さっき流していた鼻血が、白い膝小僧の上で赤黒い後をつけている。
「大丈夫って、なにがですか」
「非常扉が開いたんだって。ほら、外に出れるっぽいぞ」
「外に出たら危なくないですか?」
「知らねーよ。警官いるし、大丈夫だろ」
ガキはうずくまったままだった。不安がそうさせるのだろう、さっきよりも奥へ移動し、清掃用具の並ぶラックの間に見を落ち着けていている。俺が我慢できずに「様子見てくるわ」と外に出ようとすると、ガキは「待って」と立ち上がり、駆け出した。
非常扉を登ると、さきほどパニックが起きたエスカレーターが見えた。警察官に促される形で、もう停止しているだろうエスカレーターを人々が登っている。力なく出勤するかのような光景だ。俺は半ば習慣的にその列に加わろうとしたが、ガキはそう思わなかったらしい。
「なんで外に出るんですか? 危なくない?」
「は? だってまだ電車動いてないだろ」と言いながら、俺は携帯でこっそり時間を確認した。「まだ三時だし、始発まで待つんじゃね」
「でも、中で待てばよくない?」
「なんだよ、じゃあ、お前だけ中に行けばいいだろ」
ガキはそう言うと、黙りこんだ。言ったこちらが申し訳なくなるぐらいシュンとしてしまっている。俺はエスカレーターを登る列に加わりながら、少し悪かったなと思いつつ、ガキのことをチラ見した。ガキの鼻血はもう止まっていたが、顔が少し青白かった。
「悪かったよ。ごめんな」
俺がそう言うと、ガキは小さくうなずいた。そして泣き出した。
「だからごめんって」
俺は繰り返した。ガキは再び頷きながら懸命に涙を拭った。
品川ツインタワーへと繋がる歩道に出ると、そこには白いテントが並んでいた。あの運動会でよく見るやつだ。救護活動が行われているのかと思ったが、そうではなく、警察が聞き取りのようなものを行っている。
「おい、俺タクシーで帰るけど、おまえどうする? 近ければ家まで送ってやるよ。俺、蒲田だから」
俺が尋ねるとガキは少し考えこんでから「西馬込です」と答えた。なんだその間は。ちょっと料金の上がる距離だが、そうケチケチすることもないだろう。
「じゃあ、ついでだな。送ってやるよ」
ガキは頷くと、俺の後をトコトコついてきた。俺は普段使わないタクシー乗り場を確認するために、地図を見た。指差し確認をしながら、駅前ロータリーにあるらしいことを突き止めたところ、「すみませーん」と話しかけられた。制帽に手をあてた警察官が、バインダーを抱えている。
「なんでしょう」
「あのー、どちらに行かれようとしています?」
「タクシーで帰ろうと思って。タクシー乗り場、あっちですよね」
「そうなんですけども、ええ、あの、現場にいた方にはですね、お名前とご連絡先を伺ってるんです」
警官はそう言いながら、そっと俺の前に立ちはだかるように形で身を乗り出した。警官になってから二、三年といったところだろう。職務の遂行にたどたどしさがある。俺も別にやましいところがあるわけじゃなし、かつての自分を救ってやるようなつもりで快くバインダーを受け取った。
――東京都大田区蒲田一丁目九番五号ヴェルデ大森二〇一号室 藤快斗
バインダーを突き返すと、警官はガキのことを見て「そちらは?」と尋ねた。俺は反射的に「妹です。ジュリです」と答えた。なぜそんな嘘をついたかわからないのだが、なんとなく見も知らない女子高生と一緒にいるのが後ろめたかったのが正直なところだ。ジュリというのは、前の月に社長と一緒にいったキャバクラの女の子の名前だ。
「わかりました」と、警官は疑う素振りを見せなかった。「ご協力ありがとうございます。また何かありましたらご協力お願いいたします」
警官はそう言うと、軽く敬礼をして白いテントの方へと戻っていった。
「なんで嘘ついたの?」
警官の姿が見えなくなってからガキがタメ口で尋ねた。
「だってめんどくさいだろ。援交とか疑われたら説明すんの難しそうだし」
「正直に言えばいいじゃん」
「大丈夫だよ。どうせ念のため聞いてるだけだから」
俺が答えると、女子高生は「ふうん」と口をとんがらせて黙りこんだ。少し突き出た下唇の瑞々しさを見ると、このガキはきっと優等生で、まだほんの子供なんだな、と思った。いかにも子供らしくて、まだ俺のように汚れていなくて、自分は何者かになれると思っている。
俺たちはタクシー乗り場の行列に並んだ。三人ほどが一様にくたびれた顔で立っている。タクシープールには一台も止まっていなかった。先頭のおばさんが語気を荒げて電話をしている。タクシー会社に送迎を依頼しているが、タクシープールにいるのだから迎車料金は払いたくないとかそんなところだ。電話はかなり長く続いていて、その顧客対応の理不尽さに同情した俺は、このオバサンより先んじるためなら千円だって払ってもいい、という気持ちでタクシー会社に電話をした。それから十分ぐらいが経ち、タクシーは「迎車」の文字を燦然と輝かせながら、すでにタクシー乗り場の行列を離れていた俺達の前に止まった。苛立たしげに俺を眺めているオバサンをちら見しつつ、俺たちは颯爽とタクシーに乗り込んだ。
まだ日も昇らない静かな第二京浜を通ってタクシーは南下していった。東急の線路をくぐったあたりで、ガキが唐突に「おじさん、LINEとかやってますか」と尋ねた。
「は? やってるに決まってるだろ」
俺は「おじさん」と尋ねられたことに動揺しつつ、答えた。俺がそう呼ばれたという現実をなんとか消化しようと固まっているうちに、ガキは俺のスマホを取り上げると、手慣れた手つきでバーコードをピッと読み取った。あっというまに俺たちは「ともだち」とやらになった。
「なに?」と、俺は尋ねた。「なんなの?」
「なんとなく」ガキはそういうと、スマホを手にも戻し、ペタペタといじり始めた。「おじさん、カイトって言うんだね」
「そうだよ。かっこいいだろ」
「うん」
あまりにも素直に答えられたせいで恥ずかしくなった俺は、ガキの真似をしてペタペタとスマホをいじり始めた。LINEの画面には「カズ」と表示されていた。プロフィール写真は前に抱えた愛らしい猫ちゃんと、このガキの顔の下半分が写っていた。
「おまえ、カズって言うんだ。男みたいな名前だな」
ガキは何も答えなかった。そして、西馬込の駅を少し過ぎたスーパーの前でタクシーの運ちゃんに停まるよう頼むと、子供らしくぴょんぴょんと跳ねながら路地に消えていった。タクシーの運ちゃんはほどなくして「かわいい彼女さんですね」と下卑た笑いを浮かべた。ムッとしなかったかと言われれば、そんなことはないのだが、いちいち説明するのも面倒だし、もし俺が三億円ぐらい持ってたら援助交際ぐらいしてやってもいいかとは思っていたので、「でしょ?」とだけ答えた。運ちゃんは俺の返しに勇気を得たのか、自分が好きな風俗店の話をいくつかした。俺はその話を聞きながら、こんなにもクソみたいな世界がこうして続いていることに驚きを覚え、どうしようもなく眠くなり、あくびを繰り返した。
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