追い詰める爺の腕を確と掴み、百合は首を横に振る。
「良いのよ脆弱、写真は無事に戻ったんだし」
逃げる辛さを知ってる風に、百合はふふ——と、聖母の笑みを顔に浮かべて、識らぬ女の味方に成った。他人の見せた優しさを袖にするのは言語道断、無理強いはすまいと決めた、爺が思い浮かべる相貌は、其れでも矢張り、素知らぬ顔で歩突き回る悪党面で。
「写真が有れば其れで良い、というのは如何も解せんがな……優し過ぎぬか」
「良いでしょう。私が良いと言うんだし。女受ないよ」
「此の歳で女受て堪るか」
「虚言。強がりよ」
爺の固い侠気など、冗談水で颯と流して、百合は眉を雁の形に曲げて、ふふふ——と、漏らす。撓垂れ掛かる百合の首筋は、静脈の青も清かに麗々しくて、馥郁たるは薔薇の香、幽かに混じる驟雨の匂い。悪い気しない。不思ゝゝ伸ばす鼻の下、拂と横切った不安の影は、蛇に睨まれ竦む蛙の其れと同じか。爺蛙は頤の肉を抓んで呆気を払う。
「そう苛めるな。兎も角も、写真戻った目出度い付手、脆弱の真物探しに行くぞ」
「そんなの無理よ。余りに人が多過ぎるもの」
と、断念の良い訳知り顔が、恋の名残りに強張った。爺は胸に手を入れて、緊と握るは弁財天の御神籤——待ち人来る。御利益を百合に遣るも悪くない。
「おい百合、持っていろ」
差し出した御神籤を視て、百合は両手で押し返す。好意を無碍にされたのが腹立たしいという気は無いが、眉根が搾と、厳しく寄った。
「何故拒む。信じる神が他に有るのか」
「左様じゃなくって、真正無理なの……見つからないよ」
「何だ弱虫、無理な事かよ。誰かに訊けば済む事だ。おい、御兄さん……」
と、怒り混じりに呼ぶ口を塞いだ物は百合の手。白魚なんて物じゃない、飾る詞も思い付かない柔らかさ。
「未だ無理い。御願いだから。心構えが……」
「心構えと言ったって、絶対会える確証なんて無いだろう。確か浮浪離と寄ったのが、御前の謂いじゃなかったか」
「左様だけど。今夜は何故か、遭えそうで……でも今夜駄目だったなら、ずっと遭えずに終わりそう……」
「恐くて逃げる。良いのか、其れで、地縛霊」
百合は首を震ゝと、赤い唇、其の端に御髪の先端を咥え込む。稚い毛を白魚の指で引き抜き、唇噛んで、焦れったいのに踏ん切り付かず、眉を顰めて、子供然と首を振る。強い想いが徒に成り、不在と解る事が嫌。覚悟を決める儀式のように、逝った我が子の写真を眺め、静かに時をやり過ごす。
「嬉しかった。こんな可愛い子が生まれ、暫時だけでも居てくれて。こんな惨めな女でも、赤ちゃん産めたと思えたものね。良い人生よ」
百合が漏言。幼い母の健気な意地に、流れよ涙……老いたる爺の涙腺は、乾き死ぬほど緩み切る。写真を眺める百合の朱い眼も滲む。侘然と、靄が雫を結ぶよに、覚悟が固くなっていく——。
と、踊場から、全員、合唱、朋——と、確かな合唱で呼応合戦。合唱、朋ゝ——と、さらに合の手求めれば、朋ゝ——と、陽気な合唱で返り来る。終いには、朋ゝゝ——と、三つも求め、客は三つ、朋ゝゝ——と、感極まって雄叫び上げる。
侘然を打ち破られた爺と百合、虚噸と顔を見合わせて、肩の力が抜けたよな。
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