小説系VTuberの如何屋サイと氏との付き合いは、そろそろ一年になる。小説系VTuberとは読んで字のごとしで、視聴者から送られてくる小説の読書および実況を主に行う。
氏の主な活動拠点はTwitchであり、読書実況を中心に行う。内容としてまず送られてきた作品のあらすじのみ実況し、視聴者投票で続きを読むかどうかの判定を行う。一定数支持を集めた作品のみが本編を実況される。創作関連だと、創作の悩み相談(マシュマロに寄せられたものに対し)や創作講座(三幕構成やホットスタートについてなど)、あらすじ添削なども行ったことがある。
創作以外の企画として、たまにゲーム実況や肉を食うだけの配信、時々Twitchの参加者のうちAmazonプライム会員のみで映画鑑賞も行ったりする。
確か去年の十二月の中旬に初めてTwitchのチャンネルに参加したのを覚えている。Twitterでバズりにバズった「大相撲令嬢」の作者の川獺右端氏からの繋がりで、川獺氏が毎日実況開始前にアナウンスをされていたので、気になって参加した覚えがある。
実況から感想、批評というスタンダードな流れで行っており、意見は割とストレートに述べるというスタイルである。(最近はその限りでもない)
初参加が十二月の中旬で、最初に拙作を実況してもらったのが暮の二十八日だったから、実質半月も経たないうちに拙作の「橋の下で」を読んでいただいた。
如何屋氏のTwitchに寄せられる実況依頼の掲載元は大体が「小説家になろう」や「カクヨム」「ノベルアッププラス」、時々「アルファポリス」といった具合である。
参加されている人の顔ぶれや得意ジャンルもファンタジーが多めだが、それ以外にも歴史やラブコメ、ホラー、それと後相撲(該当者一名)といった領域で書かれている人がいる。文芸で書かれる人もいるが、当破滅派からの参加は私が初めてで、そもそも破滅派自体初めて知ったという反応だったので非常に物珍しがられた。
その流れで読まれたのだが、どういう反応が帰ってくるかちょっと不安だったが、割と好評だったので自分としては安心した。
如何屋氏の感想や批評は割と率直なので人によっては反発を招きやすい。(破滅派的には藤城氏よりはまだずっとオブラートに包んでいるが)
ある印象的な配信があった。今年の二月頃だったと思う。読書実況をメインにしているVTuberや、あるいは読書実況を行ったことのあるVTuber四人で一つの作品を批評する企画があり、その時はTwitchではなくYoutubeの配信だった。
今回はその作品が何だったのかについては、特に許諾を得ていないため割愛するが、私の印象としては文体がやや生硬さを感じたこと、主人公の目的などがはっきりせず、主体性を感じなかったことなどを感じた。特にタイトルが漠然としている点が、大きく魅力を下げていると私は当時主張した。
それ以外はしばらく様子見をしていた。本文を論じるには少し難しい題材で、精読が必要だと感じたからだ。読み辛い生硬な文章の向う側にあるものが、まだ見えていなかった。
四人いるVTuberのうち、三人の評者は、大体がその文体に対して高く評価していた。三人のうち夜見ベルノ氏(同じく読書系VTuber)は茫漠としたタイトルに指摘をしていた。
最後に如何屋氏の評価になった。彼が最も低い評価をつけた。それだけではなく「一体他の評者は何を見て批評しているんだ」と、評価は他のVTuberにまで及んだ。文体論からキャラクター論、タイトルまで含めて全て低評価をつけていた。
これは批評というより、やや感想だと感じる点もあったが、批評だからそんなものだともいえる。批評とは、読者が自分は何を見ればいいのかという要求に答えるものだ。言い換えれば、自分は何を読まなくていいのか、という点にも応じる。それはまさに読まなくていいもの、という評価だ。その点で確かに読者の需要に答えているといえた。
だが、私は一つ、引っかかるところがあった。よく言われること(特に記憶に残っているのが大滝瓶太氏の言葉だったと思う)の一つに「作品と作者を分離しろ」というものがある。私は常々不思議に思うことがある。
これは一体誰から誰に対していうべきものだのだろうか。文脈に応じて本当に解釈が変わるフレーズだと思う。読者に対して向けるときは、作者の人格(だいたいこの文脈では、人間性に問題のあることが多い)と作品は別だ、というものだ。そして作者に向けるときは、批評される対象と作者は別だから、一々人格論として受け取るな、と。
これらは全てが腹落ちするものでもないが、概ね納得出来る点もある。だが、さっき述べた引っかかる点とは、この作者に向ける方の「作品と作者を分けろ」の部分だ。
それは評者が確かに「分けて論じた」場合に限る話ではないのか、と。私は先の如何屋氏の評価が、「分けて論じた」ものに見えなかった。どの点が分かれていなかったのか、というと私自身の文体論に寄せて述べる。
私は散文のメチエには一切口を出さない。理由の第一はただ単に散文の形式には加算はあっても減算がないので実質加算のみへの評価にしかならない。韻文詩のように、限られた枠の中に押し込むために、どの語を選び、そしてどの語を選ばなかったのかという選択を感じることがないと断言していい。
散文の中に、落とされた単語の痕跡を見つけるのは非常に困難だからだ。従って評価として不十分で意味がない。
(例外として、描写の解像度が不自然に乱高下するようなものなら評価は厳しくなる。平たくいうと普通に読み辛いので)
第二の理由として、文体と作家の人間性は極めて密になりやすいところがあるので、人間性への言及にどうしても入り込みかねないからだ。文体とは語り方だ。語り方とは脳内で主体を持って行われる。語っている主体とはなにか、それは作家自身か、あるいは作家によって強固に形作られたキャラクターだ。
文体論は語り方そのものであり、作家自身の側面が強く出やすい。作家の人格からも切り離したキャラクターが前提である風に判断するなど、少なくともアマチュアの作家に対して行うには、あまりに過酷すぎる。
その点、構成論とかだと批評がやりやすい。純粋に対象に対する言及であり、作家の人間性とも無関係に論じることができる。純粋に創作物への話であり、作者の人格とは無関係だ。
だから批評家が文体論まで踏み込んだ批評を行った場合「人間性とは切り離して考えてます」というエクスキューズなど寝言でしか無い。「思いっきり尾を踏んでるぞ」と思う。
人間性まで踏み込んで批評したいなら好きにすればいい。ただしその場合、作者からビール瓶で殴られても私は知らない。ただし、その場合殴る側へ突っ込むだろう。
「殺すつもりなら何で角で殴らない!」とか。
またそれとは逆に、キャラクター論で作家の人間性を見ようとして微妙に遠慮しようとしてる手合をたまに見かけるが、それは勘違いといえる。
なぜなら私小説を書いてキャラクターに作家の人間性を反映しようとするのはそれは作家の自己責任だからである。キャラクターと同一視されるのが嫌なら、私小説など書くべきではなく、そんな遠慮は批評する側の責任ではない。
という私の批評論を開示した上で、先のジャッジへのジャッジを総評するとこうなる。
梗概論、タイトル論、キャラクター論、構成論に於いては大体指摘の通り。
しかし文体論については作者からビール瓶で殴られても文句はいうなというほどの領域侵犯だ、と。
以上をまとめた上で、先の配信で私からいうことはなかった。Noteにでもまとめようかと思ったが、そのモチベーションも湧くことがなかった。完全に行き場をなくして、私は暫く彼とも関わらなくなっていた。
と、いっても別にそれから喧嘩別れしたわけでもなく、数か月後は普通にまた配信に参加していたりする。ただ単に多忙の時期と被ったというのが理由として大きい。
読書実況以外で面白い企画だとAmazonプライム・ビデオの無料枠の映画を同時視聴したりなどだ。これはTwitchの機能として備わっている。(TwitchがAmazonの傘下であるため)
「残穢」と「シン・エヴァンゲリオン」の二本を見たが、後者が特に面白かった。ピンク髪の子(確か北上ミドリ)の作中のセリフの「もう明日生きてくことだけを考えよう」というセリフがお互い特に印象に残ると意気投合していた。
それからも十五分で一本の掌編を書く即興小説会など、様々な企画が上がったり、今でも続いていたりする。氏自身も創作を行っており、たまに自身の作品の実況を行う。面白いのが参加者も参加者で批評に手抜きがない。そのため氏の作品も酷評されることもあるが、本人はそれをきちんと受け止めるところが真摯だと思う。
千本松由季 投稿者 | 2021-11-21 12:16
確かに、作品を考える上で作者の人格が気になることはありますね。私は非常に偏った見方をする人で、女の作家は信用しないし、理屈っぽい作品は嫌いだし、純文学純文学した作品はよっぽどの義務がない限り読みません。
春風亭どれみ 投稿者 | 2021-11-21 16:51
ここ意外での合評会や批評会の空気を知らなかったので、新鮮な気持ちで読めました。
松尾模糊 編集者 | 2021-11-22 22:46
文体は難しいですね。文体の舵を取るにも、文体の目的地が見えていないとやりようがないので。
ところで、合評会での真氏の発言を聞いていて思っていたことですが、今回の作品で確信しました。BFCのジャッジに向いていると思います!
古戯都十全 投稿者 | 2021-11-22 23:08
自分の書いたものに文体なんてあるのだろうかとたまに考えることがあります。読んだものや見たものに影響されて考えて出てきたものなのでそれが文体なのでしょうが、他の人の書いたものと比べるとやはりどうしても自分の書いたものはいったい何なのかと考えてしまいます。
しかし、なるほど文体とは作者の人格と無関係ということであれば、自分の書いたものもそれなりに納得できるような気がします。人格や性格のようなものはそうそう変えられるものではないと思うので、同じく文体とも気長に付き合っていくしかないということでしょうか。
大猫 投稿者 | 2021-11-23 01:09
概ね同意します。特に私小説ですと、作者自身が「ビール瓶で殴られる」覚悟で書いているはずで、のっぴきならなさとかイタさとかグダグダとか、ゲンナリ感とか切なさとか、そこから匂ってくると思うのです。
このあたり、「アウレリャーノ」を起こされた時の真さんの感想を聴いてみたいです。
鈴木沢雉 投稿者 | 2021-11-23 04:49
なんだか、文学とリアルタイムメディアって徹底的に相性が悪いのかなと改めて思ってしまいました。筆者の当惑に妙に共感が湧くのはそのせいかなと。
波野發作 投稿者 | 2021-11-23 13:31
私小説なんて一度も書いたことがないので何言ってるか全然わからなかったですがエッセイとしては素晴らしかったです
Juan.B 編集者 | 2021-11-23 14:42
大事ですぐ結論の出ない話だと思うが、合評などをやる上で心に留めておきたい話だと思った。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-11-23 15:07
そんなチャンネルもあるのだなぁと興味深くて読ませていただきました。VTuberの状態で批評をするんですね。
知らない世界を知りました。
一希 零 投稿者 | 2021-11-23 17:00
勉強になりました。書き手と作品は分けられない、と私は思っています。他方で、一人称で書くとなんでも私小説と思われてしまう問題もあるなあ、と最近思ってます。
小林TKG 投稿者 | 2021-11-23 20:02
私はクソほどに人格が出ます。それで時々書いたあと自己嫌悪になります。