信雄の母
空の広い田舎では、田と空が遙か彼方で交わる。
天気の良い日には、その田の向こうに浮かぶ北関東連山を見るのが信雄は好きだった。
信雄の家は公園に面しており、公園を抜けると唯一まともに舗装された国道が走っている。まともといっても歩道のない片側一車線だったが、押しボタン信号があった。しかし、そこまでいくことは滅多になく、行動の範囲は、めっきり公園とその東にある雑木林、裏手の田んぼ、そして家の西側のチョーエくらいだった。
「出かけてくる」
「どこいくの?」
母の声が台所から飛んでくる。
「チョーエ」
「遅くならないようにね。迷惑だから」
信雄は自転車にまたがると炎天下を駆けだした。受ける風は熱風だった。土で固められただけの道がひび割れている。二、三分すると目的の家が見えてきた。
庭側に回ると、薄汚れた赤い首輪のチビがけたたましく吠える。
「せーくん」
せーくんは一つ年上の子で、清造だが、なぜかずっとせーくんと呼んでいる。動物が大好きで特に昆虫について詳しい。だから信雄は、小学一年の頃から夏になると毎日のように清造と遊んでいた。
清造の家は町営住宅のひとつで、赤茶けた木造の平屋だ。だから信雄はチョーエと呼んでいた。
「せーくん」
窓から清造の母が顔を出す。
「清造なら出かけてるよ」
信雄は頭だけでおじぎをし、また自転車を走らせる。こういったことはよくあった。
が、公園へ着くと清造がいじめられていた。どうやらヘルメットを取られたらしく、それと清造を挟んで二人の子どもが、受け渡し投げ合っている。一人は清造と同い年の子で、もう一人はその兄だ。たしか兄は五年生だった。二人のことは信雄も知っており、意地が悪いので好きでない。関わりたくなかった。だから離れた場所から見ていることしかできないでいた。
清造はしきりに、お願いだから返してくれと頼んでいたが、兄弟は嫌だよ、ばーかと言いながらヘルメットを差し出す素振りをしたり取ろうとすれば引っ込めたり、また投げ合いを始めたりと繰り返した。――と、清造がこの野郎と言うなり弟へ掴みかかる。襟元を掴んで地面に押し倒し首を前後に揺すり返せ返せと叫んだ。それまでいじわる気に笑っていた弟の顔は怯えに変わっていた。その傍で兄は凍りついたようにヘルメットを持って立ち竦んでいる。
信雄はそれまでも清造がからかわれて怒ったところを見たことはあったが、今見ている清造、頭を揺さぶられる弟、立っている兄。それらからは、何か清造の知れない怖さを見た気がした。
その後、兄が清造を引きはがし、逃げるように去っていってしまった。
「へえ。それであんたは眺めてたの? 助けてやればいいのに、いくじがないねえ」
家に帰ってから、あったことを母に話すと、そう言われた。
「だって敵わないよ。ぼくまでやられちゃう」
「そんなの当り前でしょ。やられたらやり返すんだよ」
信雄の母はなんでもそういう人だった。
「大事になったら出てってやるよ」
実際、信雄がいじめられて公園で泣いていると、母は表まで出ていった。時には例の兄弟と仲間に向かって叱り飛ばすことも少なくなかった。信雄は、それを種にまたからかわれるのが嫌で、彼らが来ると逃げるようにしていた。またそういったこともあってか彼らも追いかけてまで手を出してはこなかった。
その日、信雄ははじめて一つ先のスーパーまでおつかいを頼まれた。
いつもは近くの商店なのだが、豆腐がないと、借りた電話口で話したら車で十分かかる先のスーパーまで行くよう頼まれたのだ。
七時前でまだ空は藍よりは青かった。行きは自転車を飛ばして調子よく着いた。そして豆腐を買ったところまではよかったが、帰りは荷物が多く、また外も夕陽が沈む頃であったためか、心ばかり行きと調子が違った。
対向車の来る度にライトに目を細め、気を緩めるとハンドルを取られ前輪がおかしな方へ向きそうになるのでぎゅっと握りしめる。前を行く人もなく夕陽が消えていくのがよくわかった。そして、後ろから夜が近づいていることも信雄は感じていた。
それが心細かった。
信雄はなんとなく歌を口ずさんだ。同じ歌を口ずさむうち夕陽はどんどんと沈んでいき、空気はひんやりしていった。
細さが極限に達し頬を伝った。夜が怖いわけでも、一人が嫌なわけでもなかった。
ただ、心細かった。
そして家に着くと袋を母に渡しながら信雄はいつまでもめそめそしていた。
「別にそんな泣かなくても、――」
そう言って数回、頭をぽんぽんとやった。
信雄の母は、そんな母であった。
別の日、信雄はお菓子の空箱をもって公園へと出かけた。
信雄はあちこちに這うカブトムシを摘まんでは箱へと入れていく。
上半分もあれば、下半分もあった。
夜のうち電灯へ集まってはぶつかるのだろう。毎日二、三匹は雌雄のカブトムシがいた。それを信雄は箱に入れて動かなくなったところで、ぶなの木の下へ埋める。半分になっても動くカブトムシが不思議ではあったが、別にそれだけだった。
学年が一つ上がった信雄の行動範囲は少しだけ広げてもらえた。一番家が近いのが健介で、信雄の家の裏の道をまっすぐいったつきあたりのすぐ先に家はあった。また健介の家にはゲーム機があったことも信雄にとっては魅力だった。信雄の家にもあったが、健介はいつも新しいソフトをもっていた。自分の部屋があり、二階建ての家に上がるだけで、わくわくした。
「おじゃまします」
「上がって!」
二階から健介の声が返ってくる。靴をそろえて階段を上り、部屋と入るとクーラーの冷気が充ちている。テレビの前に腰を下ろすと信雄も健介も何を言うでもなく、爆音やビームを撃つ音のするテレビを見つめていた。
少しして健介の操る機体が爆発すると、信雄は貸してと、手を出す。
ゲームは、交代が暗黙のルールで、時おり信雄は見ているだけなこともあった。それでもクラスの話題には充分ついていけた。
するとふいにドアが開く。
「けんちゃん、あと一時間したらサッカーだからねえ」
健介の母が顔を出す。子どもながらに信雄には化粧の濃さが印象的だった。
「わかってるよ」
不機嫌そうに健介は言う。
「サッカーやってるんだ?」
「うん。みんなやってるよ」
クラスに一年の頃からやっている子がいるのは知っていた。しかしそういった子たちは関わらないグループだったので、サッカーも興味はなかった。
「楽しいよ。そうだ、一緒に行かない?」
「――うん」
運動じたいあまり得意ではない信雄だったが、健介がいるなら楽しそうだと思った。そして母に電話し了解を得ると、二人は学校へ向かった。
校庭にはすでに健介と同じ格好をしたユニホーム姿の子たちがボールを転がしていた。知らない顔もあったが、クラスメイトや下級生の知った顔もあった。
健介は自転車を降りると、カゴからボールを取って彼らの中に唯一混じっている大人のところへ走っていった。何か説明をしてくれているようで、その人がこちらを見る。信雄は目が合うと頭でおじぎをした。
すると健介がこちらを向いて手招くので、呼ばれたのだと、二人のもとへ走った。
「信雄君はサッカー好きなの?」
「はい」
思わずそう答えた。
「じゃあ、今日は体験してみようか。それでお家の人にきいてみるといい」
そう言うと、コーチと呼ばれたその人は集合をかけ、子どもたちに練習の指示をした。
どうやら上手さで分かれて練習するようで、信雄は下級生の多いグループに入れられた。
二人一組になり、はじめはその場でボールのパスを、その次は間隔を広げてロングパスの練習をした。だが、ロングパスになると信雄のボールを右へ、左へといってしまい、相手の方も要領の悪さにしだいにイライラしてきたのだろう。文句が多くなるにつれてパスが鋭くなってきた。だからしだいにボールに追いつかず取りこぼしが多くなってしまい、ますます上手くできなかった。
休憩の時間には信雄の運動音痴は下級生たちに広まっていた。信雄自身もわかっていたので何も言い返せなかったが、ただ居づらい気持ちになっていった。休憩後、チーム対抗戦になり、信雄はコートの外で見学となった。コーチが叫び、ボールが右左行き来した。
終わる頃には辺りは暗くなり、見上げていた空の端には一番星が輝いていた。信雄は初めて星が星形であることを知った。そしてその日以来、サッカーには誘われることも、行くこともなかった。
また別の日。その日は雨だった。霧雨が少し降るほどだったが、信雄の出かける気を鈍らせるには十分だった。何をするでもなくいると、廊下の電話が鳴る。電話は清造からで、遊びに来いという。
信雄は清造の家に一つ前のゲーム機があることを思い出し返事をした。
「誰?」
電話が終わると母が尋ねる。
「せーくん」
「遊び行くの?」
「うん」
「雨だから暗くならないうちに帰ってくんのよ」
「わかったあ」
六月になりだいぶ日も延びていたので、信雄は六時に帰ると言うと、五時半と返された。
「守らないと鍵するからね」
「いってきます」
合羽をカゴにつっこみ信雄は清造の家へと自転車を飛ばした。
土の道はぬかるむほどでもなく、小さな水たまりをいくつか踏んで自転車を家の脇に停めた。
清造の家で二人は、散々やったはずのゲームを引っ張り出して夢中で遊んだ。
信雄が時計に気付いたときにはすでに六時だった。しまったと思い飛び乗るように自転車にまたがる。雨は本降りになっていて服をどんどん濡らしていく。合羽を着る余裕などなかった。
自転車を止め玄関のドアを引くと手応えが返ってくる。茶の間の電気は点いているのだから誰もいないわけではない。信雄はドアを叩いて開けてと叫ぶが、何も返ってこない。しまったと思った。母は怒っている。信雄はそれがわかるとドアを叩いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
すると磨りガラスに影が映る。前髪から滴を垂らして信雄は懇願した。
「お願い。開けてよ!」
「何時だと思ってるの! 開けないよ」
それきり、信雄が何を言っても叫んでも、母の影は映ることがなかった。
結局、信雄が家に入れたのは父が帰った七時過ぎのことであった。
涙はもう乾いていた。
梅雨明けをキャスターが告げるのを聞くと信雄の心も急に元気になった。もらって蒔いた向日葵も芽を出し日毎に高くなっていく。その日も信雄は今年一番のカブトムシを埋めていた。
「ノブオー」
清造の声と自転車の音がする。
錆びたチェーンがギアを噛むたび、ビビッ、ビビッと擦れた音がする自転車は、振り向く前から清造だとわかる。
清造は自転車を停めて虫カゴを取る。
「そろそろコクワがいるかもしれないから行くぞ」
「うん、母さんに言って来る」
信雄は一度家に戻り、母に行き先を告げる。そうでないと後の説教が恐ろしい。公園を横切って円墳を越えるとけやきや樫の雑木林がある。その真ん中の一本がいつもの場所だ。
見上げると三メートルほどの高さに以前落雷でもあったのか、生え際より折れた枝の洞があり、カナブンやオオムラサキが群れている。今日はスズメバチはいなかった。根本には根と根の間に小さな穴があり清造は腹這いになって覗いていた。
「いないなあ」
隣の穴に手を突っ込む。信雄も反対側に回り屈んで穴を見てみるが、それらしいものはなかった。
「まだだめだな」
いつの間に掘り出したのだろうカブトの幼虫を、手のひらに転がしながら清造はクワガタの話をしてくれた。
三つ向こうの森まで行くと大木があって、そこでミヤマを取った話だ。
信雄は話を聞いた日、家に帰ると図鑑でミヤマを調べた。ノコギリクワガタとは違う、大きな二本の歯と均等に並ぶ小さな歯をもつ顎、頭部は二つの瘤をもち甲冑のようになっていていかにも強そうな風貌だ。
それを見て信雄は自分もミヤマが欲しいと思った。しかし三つ向こうの森は遠い。そんな遠い森でミヤマを取った清造がうらやましかった。
夕食後、信雄は本に載っていたクワガタの取り方を母に話した。仕掛けは簡単で、脱脂綿を砂糖水に漬けこみ、木の幹につけておけばいい。それで真夜中に再び行けば、虫たちが集まっているということだった。
信雄は母とけやきに向かった。普段より遅い時間の雑木林は不気味だったが、なぜかそれほど怖いとは思わなかった。八時過ぎであった。
信雄はなにを話すでもなく、母の照らす道を歩いた。虫取りにも関わらず信雄の心は落ち着いていた。
古墳を越えたところに一本の外灯が立っていて、その周りだけほのかな神秘さを纏って見える。黄色い灯は、まるで夜の割れ目から日差しが洩れているようだ。
近づくにつれ、黄ばんだ光に蛾やカナブンがたかっているのが見えた。そこはやはりよく知る林であった。
けやきに着くと信雄は目の高さくらいにある窪みに脱脂綿を詰めた。
「早くしてね。蚊がいて帰りたいんだから」
懐中電灯を振りながら催促する。
「あと一つだから待ってよ」
信雄は近くの木に詰めた。
帰り、公園に出ると月が見えた。半月よりわずか欠けた月だった。
辺りには何かの虫の声が聞こえる。
「ねえ、ブランコ乗っていい?」
「いやだよ。もうあちこちかゆいんだから」
母が先、信雄が後となって影が並んで歩く。
家が近づく。
幻想的な夜が終わると、信雄は夜中に起こすようお願いし、いつもより早くふとんに潜ってしまった。
気付くと体を揺すぶられていた。眠くて眼は開かない。
「あんた、起こしてって言ったんだから起きなさいよ。クワガタ取らないの?」
信雄は眼を開いた。だがまた閉じそうになる。
パジャマのまま信雄はうとうと歩いた。
けやきに着くと仕掛けには、ノコギリ、コクワ、カナブンがいた。虫カゴにノコギリとコクワを引きはがし、取り、入れた。
思ったほどの収獲はなく、眠いという記憶だけが信雄には翌朝残ったいた。
翌日信雄は清造に、晩のことを話した。
「それじゃあ取れないよ」
「本の通りにやったんだよ?」
「匂いがしないと集まらない。ゼリーが売ってるからそれを塗っておくんだ」
「そっかあ」
信雄は本に載っていないことを知っている清造がすごいと思った。対して信雄はそれまでクワガタやカブトを飼ったこともなく、仕掛けも初めてだった。
その日もけやきに行ったが大物はいなかった。昨日の脱脂綿がカチカチになって貼りついていた。カブトもノコギリもいなかった。
「いないなあ」
清造はコクワを左手に持ちながら穴を覗く。信雄はコクワを見ていた。それぞれに脳みそがあるようにばらばらに動く六本の脚、胸の付け根から頭を前後に動かして、小さな歯のある顎を開いたり閉じたりしていた。そうしながらぎぃぎぃ鳴いている。
信雄は、無機質な外形に生き物らしさを感じ、諦めずによく頑張る。そう思った。
「今年はまだかなあ」
清造が起き上がり、三メートル先の洞を見る。信雄も追うように見上げる。カブトはいないがノコギリはいる。オオムラサキとコガネも見えた。ただ見上げることしかできなかった。
以前、洞に向けて枝を投げたことがあった。けれども虫は落ちてこなかった。三メートル先は細部まで見え、手に取るようだった。その分信雄は、手の届かないことに歯がゆく感じていた。でも、取れないものは仕方ないのだ。
それは次の日に起こった。
信雄が朝目覚めると前日と同じく虫カゴのクワガタを覗く。ノコギリもコクワも脚をみな折り畳んで縮まっている。信雄がカゴを少し傾けてみると皆同じ方へと滑っていく。仰向けになったコクワが隅で揺れている。ノコギリの目は前日と何も変わらずにいるのに動かない。あれだけ勝手に動いていた脚がみな同様に腹の上に置かれていた。夜中にごそごそ音をさせていたのが今は静かでいる。
信雄は昨日のようにそれらをつまみ上げることができなかった。
そのまま放っておいたら昼ごろ母に叱られた。信雄は虫カゴが惜しかったが、やはりどうすることもできず、むしろ朝と同じく無機的に転がっているそれを見ると震えた。
信雄は怒られたくないと思い、カゴを物置に入れてしまった。――しまったといえば、信雄が年長の頃、母と夕暮れの散歩へ出ては公園で蝉の抜け殻を探したことが思い出される。それをビニール袋に入れて毎日数えていた。だいたい七、八十匹分だったろうか。袋一杯になった抜け殻は口を縛って下駄箱の隅に入れてある。今でも入っている。信雄は、抜け殻を見ては、そこから出てきた白い蝉に、白い身体に透明な薄羽をもつ蝉に馳せていた。六年も地中にいて飛び立つようになる蝉が解放的で夏らしかったからかもしれない。
と、母が茶の間の網戸を叩いている。蝉がビビビと鳴いていく。
「ああ、五月蝿い五月蝿い」
七月も終わり蝉たちも盛りをむかえていた。公園のカブトも相変わらず多い。
でも信雄は、クワガタを飼ってからは埋めるのをやめてしまっていた。
「でかけてくる」
「どこ行くの?」
「健介のとこ」
「遅くならないようにね」
信雄は自転車にまたがり裏の道をまっすぐ行く。道の左側に沿って大きな用水路が水を満たしている。幅が一メートル以上あると小川のようにも思えるが、コンクリートで固められて、いるのはカワニナくらいだった。それでも壁に生える水草が水になびくのを見ていると気持ち良さそうだなと信雄は感じた。途中、道は左からの丁字路になっていて、水路はそこで右に曲がる。道の下をくぐるように抜けて行くためそこだけ欄干のようなものがある。そして右に道はない。このまま水路は利根へと続いているのだろうか。
信雄は通りから健介の家の庭を確かめた。自転車はなかった。約束をしていたわけではなかったので、来た道を信雄はゆっくり戻ることにした。
田は青く、遠く山々まで見える。西に霞んで見える妙義、北西に山裾をのばして座る赤城、田の先には威厳のある風にそびえる男体山。その後ろに覗くのは女峰山か大真名子山だろうか。田と山と空、そういった景色を見ていると、どんなに日が強くとも、つき抜けるような涼しさを感じられた。また入道の白さがそれをいっそう強く感じさせた。
家を過ぎ、公園で自転車を停めた。ぶなの木が大きく茂り、ちょうど良い日陰になっている。古墳の方からは蝉の声が滝のように響いている。信雄はしばらく木陰で涼をとっていたが、いつも埋めているカブトの姿が思い浮かび、急にいたたまれなくなってしまった。身震いがした信雄は、立ち上がると自転車にまたがった。
そしてすることもなしに古墳から公園、公園から古墳と自転車で往復を繰り返した。
行きと帰りで蝉の音が低くなったり、高くなったりするのが楽しかった。
「おーい、ノブオー」
前カゴに仔猫を入れた清造がチェーンを軋ませながらやってくる。ビビッ、ビビッという音に柔らかい鳴き声が乗ってきた。
「どうしたの?」
ブランコで猫をなでる清造にたずねる。
「捨てネコだったから連れてきた。かわいいなあ」
猫を見ながら答える。猫が清造の太ももに爪を立てるたびに痛たたと言ってシャツに仔猫をつかまらせるのを信雄は横で見ていた。
信雄は猫や犬が怖かった。引っ掻いたり、噛まれたりするのが痛く嫌だったから清造がなでるのをただ見ていた。
「この猫、どうするの?」
「ここで世話する」
信雄は母に動物は駄目だと言われているから清造がなんとかするのだろうと思った。
「パンとかもってきてやるから大丈夫だろ」
そういえば清造の家も犬を飼っているのだった。いつもは裏口から上がるので、わからないが、表の庭にいるのだ。
「せーくんの家はだめなの?」
「チビがいるからだめだなあ」
「そっかあ」
夕方、清造は家から段ボール箱を持ってきて古くなったバスタオルを敷いて猫を入れた。仔猫は箱の中でみいみい鳴いている。それは母が恋しいのか、お腹が減ったのか、信雄はただ嘆かわしくて鳴いているようにしか感じなかった。
猫の毛先に夕日の色が映って見えた。
夏は続いた。信雄は午前のうちに必ず公園へ行っては箱を覗いて新しい水に換えてやった。そして昼になると清造がやってきてパンをやる。それが日課になっていた。
その日、久しぶりに誘いの電話があったので、炎天下の中自転車を走らせ健介の家へと向かった。
庭には自転車が四、五台並んでいた。チャイムを鳴らし、玄関へ入る。
「上がってきて!」と言われ、階段を上がると、ドアの向こうは賑やかだった。ドアを開ける。冷えた空気とゲームの音が流れてくる。入るとみんながこっちを向いた。みんなサッカークラブの子だった。
いつものように交代でコントローラーを回していたが、待つ間の信雄は、ずっとよそよそしい気持ちがしていた。
それも二、三巡目くらいになると気にならなくなり、気付くと同じ話題でわいわい騒ぐくらいにはなっていた。
西日は陰りがちになって気付いてみると、しまったと思った。
急いで階段を下り自転車に乗ったが、時間は六時を回っていた。
家に着くと、案の定鍵は閉められていた。信雄は先月も一度やっているので、ドアを二度ガタガタやり、仕方ない、と玄関の前に座り込んだ。物置の影が足元まで伸びている。信雄は外に出されると、あることを考えるようになった。母はぼくがいらないのではないだろうかと。このまま帰らなかったとしても平気でいるのではないだろうかと。しまいには、死んだら悲しむのだろうかとさえ疑えてきて、膝を抱えていろいろな方法を考えた。苦しいのはだめ、痛いのは嫌だ、迷惑はかけたくない、でも死んじゃいたい。でも最後には片づける人のことまで考えて、どれもできないなと結論付ける――。空が紫色になる。朝顔の花弁のような色の夜が夕暮れに溶け込んでいく。信雄はすっかり物置の影に飲み込まれていた。そして悲しかった。心の中には、おつかいを頼まれた日、口づさんでいた歌が流れていた。
父が帰ったのは八時過ぎのことだった。
それから六回目の夏が終わると、信雄は部活動を引退し、放課後を図書館で過ごすことが多くなっていた。下校の放送が流れるとみんな帰った駐輪場で、自転車にまたがってゆっくり家へと向かう。そして用水路の曲がるところで自転車を一度止める。
土を固めた道は舗装され、アスファルトになっている。外灯が並び、日は暮れているが暗くはない。
公園はフェンスが増え、グラウンドが整備されたので、日曜になると野球チームが練習をする。ブランコも塗装がされてオレンジと水色になった。回るジャングルジムや黄色いシーソー、藤棚や花壇のパンジー、チューリップが増えると公園は賑わいだ。
外灯の並ぶ道を見ながら信雄は思い出すことがあった。幼い頃、ある夏に、仲良くしていた近所の子が仔猫をいじめていたことを。
彼はその猫をかわいいと言いながら、軽く上へ浮かせ高い高いをしていた。仔猫が浮く時間はだんだん長くなり、キャッチをやめた。それでも猫は体をひねって着地した。次に彼は叩きつけた。奇妙な声を上げ猫は地面に横たわった。
なぜ彼がそうしたのかわからない。けれども彼がそうするのを見て、怖いと思ったことを今でも覚えている。そしてその夏、信雄は初めて猫の死体を見た。
信雄はゆっくりとペダルを踏みだした。右にはだいぶ枯れた用水路がある。きっと上流で止めているのだろう。稲穂は実っている。穂が風に揺れると波のようにうねる。音だけはどこまでも続いていく。もうひと月すれば刈られるのだろう。そして、また冬が来て関東連山に雪が降るのだ。
錆びたペダルが軋む。外灯が近づくと影が縮みながら隣に並んで前へ来る。薄らいで闇に消えそうな頃に、また次の外灯が影をくれる。
自転車を止めて前カゴからジャージの上着を取り出した。昼は暑いが、日が沈むと途端に秋の匂いが濃くなる。上着を着てまた踏み出す。最後の外灯を曲がると家だ。
自転車を降りると信雄は鞄から鍵を取ろうとした。そしてないことに気付く。どうやら今日は忘れてきてしまったらしい。いつもなら後から出る信雄が掛けるので必ず鞄に入っているが、今日は先に出てきてそのままで来てしまったようだ。
仕方ない。
そう思い信雄は玄関に腰を下ろした。家はしん――としている。
公園の電灯がほのかに庭を照らしている。夜の木漏れ日のように。
どこかで蝉が寝ぼけて鳴いた。抜け殻はまだしまってある。
信雄は今、昇り始めたペガススに想いを馳せている。一体誰が星形など考えたのだろう――などと。
そういえば、昨日物置を見たら、使われていない虫カゴが空になってしまわれていた。
父が帰ったのは一時か二時を過ぎた頃だった。
了
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