孤狐

渡海 小波津

小説

17,500文字

孤独な狛狐の見る景色。

   孤狐

 

ある町の外れにあります人気の少ない通りに沿ってお歩きになりませば獣道にしては立派な石階段が左手に見えるかもしれません。

そこを上っていきますと左右に並ぶ杉の木が急に開ける場所に出ます。開けると申しましても、どこの家にも祀ってありますような名負いそうなほどの社殿と、またそれと釣りあわぬほどのかつては立派な朱をしていたのでありましょう鳥居が、やっと朽ちぬというようにある開けた場所に出ます。

そして、その不釣り合いな社殿と鳥居の間におりますのが、この地を守護している稲荷の狐でございました。正しくは石彫りの狛狐なのですが、物も信仰が集まりますと良くも悪くも神格化するものでございまして、此度のお話は、昔々の狛狐の話にございます。

 

秋の風は、木々の間を抜けながら淋し気に吹いている。杉の擦れた皮の音を立てながら鳥居の前でつむじを立て消えた。残った音は林から薄ら聞こえてくる虫の命の叫びだけだった。
「今宵も静かでございますね」

ちょうど真上まで昇った月が声を降らせる。
「ですね。今年はいかがでしたか?」

私は月見の頃も過ぎたと思いたずねる。
「この頃は期待もしていませんよ。ついこの間まで皆軒先、縁側に出て眺めるでなくも眺めてくれていたのですがね。聞くに月見団子は店先に並んでいるそうなのですよ」
「なら人は見ずとも団子は頂だいできるということですか。何とももったいない」

この月もずいぶん気分屋で、今日のように満月に近いとたいそうよく喋るのだが、顔も細まると次第と声も細くなっていく。しまいには本当に隠れてしまうのだ。
「いやいや、近頃の団子は餅米が変わったのか全然おいしかないんですよ。中はすかすか、まったく噛み千切れやしない。丸飲みしてみたら腹を壊す始末ですよ。一体どんな米を作っているのかと田畑に目を向けても、とんと昔と変わりはないわけですわ」

なるほど、月の疑問もよくわかる。
「しかし、その変てこな団子ではあってもまだ供えられるあなたはいいではないですか。私なぞ、ここ数十年もしやするとそろそろ百も過ぎたか知りませんが、人の願いは耳にすれど、お礼の一度もないままですよ」

それを聞いてか、月は顔をわずかに雲に隠した。
「それは失礼なことを言ってしまいました。まあ、彼らも私を眺めてきたのですから、私もこれからは少し団子を眺めるだけと致します」

言い終えると雲の一行が前を横切る。次の雲間が見えた時分にはすでに月は林の奥へと傾いてしまっていた。

また遠くから虫の声が聞こえてくる。階下の道は何一つ通る気配もなく、ただ夜という概念がひっそりと底に鎮座しているようだった。

私は、細い目をなお細めて、暗い秋の星を探しては見ながら長い夜のゆくのを待つでなく待って過ごした。

時折、風がつむじを立て鳥居の前で消える。

草木も眠り、一刻、二刻、時の過ぎる間に左の林から鳥たちの挨拶を交わすのが多くなっていく。風も夜の舞いをやめて、オリオンのごとく西へ吹き抜けてしまったらしく、夜露のじんと土から滲み出て宙へ霧散する音が涼しく辺りを満たしていく。

夜の暗幕はゆっくりと薄いベールを後につけ西へ西へと開けていくと白円たる欠けることない、曇ることのない、獣も鳥も植物も、人でさえ求めぬ者のない神々しき光を纏いし御天道様の御顔が囃子の影を吹き払いながら現れる。
「おはよう、けつねさん」
「おはようございます。調子はいかがですか」

林の上まで昇ってきた太陽と交す。
「彼岸もだいぶ過ぎましたからね。こちら側はこれからあまり顔も出せない時期になりますね」

夏のカンとした太陽も彼岸を過ぎると薄く空を滑るように西へ沈んでしまい、冬など出たと思わぬうちに沈んでいる。
「それはまた寂しいことですが、だからこそ有難味も増すのでしょうね」

太陽ならと、少しこぼすように私は言う。
「そうでもないものでしてね。昨年は冬も寒かったろうと夏に照らしてみれば皆嫌がり、なら冬は控えれば愚痴を言うわけですよ。とりわけ犬猫は近頃よく言いますね」

なるほど、言われてみれば皆不平不満をよく言うもので、求めるわけではないが見返しはない。
「犬猫ですか。私のところには以前は人がよく来てましたが、他人の不幸を願ったり、己の幸を願ったり、昔のことですが」

目を細めればかすかに遠い昔のような人とのふれ合いも思い出せる。後ろの社が今の物に換わる前のことだ。記憶に映る鳥居の色はそれだけが美しく朱色を際立たせ、他はおぼろに黒白として浮かぶ。
「鳥居の赤かった頃ですか」
「ええ」

太陽は昇る間のことであれば何でも知っていた。そして何もかも今しがたのことのように覚えていた。
「もう昔のことになりますか――」

太陽もまたあまりに私との時の流れ方の差異に思うところもあるのだろう、高い空に陽を霞めながら天頂から西へと下がり始めた。

石段の方から雀の子らが今年の米はうまいって、と噂をしながら鳥居の上へと三羽留まった。そのまま太陽が御機嫌ようと林の向こうへ消えるまで、ぴーちく、ぱーちく喋り続けていた。

ふと――、久しく聞くことのなかった声が階下からしてくる。雀らもそちらに気付いたらしく、一羽が飛んでいくとすぐぴっと旋回して戻るや否や他の二羽も追うように社殿の方へと去ってしまった。次第に声は近づいてくる。まるで知らない世界に来たようにはしゃぐ元気な子らの声だ。
「この上、何あるんかな」
「山賊の隠れ家とかあったりして」
「人ん家だったらすぐ帰ろうよ、ね」

声はおおよそ三人分。石段から一つ、三つ、毬栗頭とお河童頭の人の子が上ってきた。
「何だ、ただの神社かよ」
「何か出んじゃねえか」

一人がいたずら気に笑う。
「怖い話はよしてよね」と、お河童の娘が念を押すように言った。
「ぼろぼろだなァ」

鳥居の下まで来た子が言うと、後から二人も下に立ち見上げて言った。
「何て書いてあんだ?」
「汚れててよく見えねえな」
「神社の名前じゃないかな。こんなとこにあったなんて知らなかったね」

社号のことだろう。幾年も雨風、砂に晒され換えられもしないままにしては、崩れぬ方が驚くべきことなのだが、子らには唯々その古めかしさのみが感じられているようだ。
「お賽銭入れるとこないね」

以前はあったが、今は崩れ朽ちた材木か、土に還っているのだろう。

私すら、ここに長く居ながらに神体を祀る社の風化に抗うこともできずいる。後になれば、石材である私を残し、この鳥居すら消えるだろう。その時がいずれ確かに訪れることを考えると、祀られる身としてはあまりに情けないほど、無力だった。
「何もないねえ」
「なあ、この奥は何かあるんべか」

秋風が、今だけは昔の時を運んでいるようだ。木々の葉が風にざわめく。音の波は鳥居を抜け子供たち追い抜いて消える。

残る子らの声に静けさに似た懐かしさを感じる。
「せっかくだし、お参りしていこうよ」と娘が奥へ行った男子らを呼ぶ。
「何も言わんと罰当たるかも知れないしな」と返しながら戻ってきた。

不揃いにぺちぺちと手を合わせている。

この時ばかりは、無力な私も務めを果たさねばならない。本来の私の役目は神体を祀り、崇める者の願いを聞くことにあった。しかしいつ頃からか人々は私たち狐そのものを、まるで神体であるかのように畏れ敬うようになってしまった。そういった人々の都合によって建てられたのがこの社だった。
「おもちゃ買ってもらえますように」
「ばあちゃんの腰が良くなりますように」
「走るの速くしてください」

よい願い事だ――。三人の願いを胸に刻み心の内で詫びる。

子らはどこか満足した面持ちで私の横を通り過ぎ、石段の底へと消えていった。

寂れた社に久方ぶりに人の想いが寄せられる。社も、鳥居も石像も、全ては私たちが存在する証にすぎない。目に見てそこに神という想い寄せる対象を人が認識することが重要なのだ。その一か所に想いが集まってこそ、私たちは神格としての力や理性、意識を得る。

廃れれば、忘れられ消えてしまうのだ。山や海のように永遠そこにあれば話は違うのかもしれない。しかし社とは、本来人が己のために造り、私たちを創り出すのだ。願いを与え使命を決める。私はそうしてこの地で、力が及ぶ限り人を見、声を聞き、長く留まってきた。

今や聞くも見るも草木や動物、自然と呼ばれる者のみかと思っていたが、子供というのはいつの頃も変わらないもののようだ。

この三人の願い、叶えられぬのが心底残念だった。昔は、叶えてこそより信仰が集まり人々に必要とされたものだが、戦争の後には皆必死さからくる忙しさによって神に頼る暇すらなくなったのか、不確かなものより自らの力を頼ることを選んだのか、誰一人と神を敬うことをしなくなり、力の衰えに反して人は力をつけていった。

この国の人々と神の交信は古から形を変え、様式を変え続いてきた。私の仕える神はそこまで古くからの者ではないが、それでもやはり長く人と関わってきた。今でも話に聞くと正月には参拝の習わしがまだ残っているようで、南の神社では賑わいも続いているそうだ。

つまり、土地や祀られる者によって神が取捨されるようになってきたのだろう。確かに人が増えたといえ、この国には神がいささか増えすぎた。そして古くから見出されてきた神々とは異なり、人的に創られた私の神が時の流れの中で盛衰するのは、人に創られし故に人のまにまに、その摂理に従うしかないのだろう。

そして何より信仰の集いに寄らず、今の私には人の、否何者の願いも叶えられずにここに居る。

今宵も月が昇る。虫が叫ぶ。風が通り抜ける。夜露が染みる度に夜毎葉の色を黄、紅に変えていく木々。杉の葉すら死んだゲジのように土に降っている。秋の匂いとは、なぜ豊穣の香りを運びつつも、こうして死の気配をさせるのだろうか。その気配が鳥居や社殿を年々朽ちさせてゆくも、時に残されているようにこの身は然程の変化も見えずにいる。いやむしろ、人の望む姿に常に移り変わっていたのではないか。それが、今は人が望まぬ故に変わらずにいるのではないだろうか。

心が、――心も石のようになる。

溜息を一つもらす。
「さて、彼らの願いも保留だな。そのうちにもしやすると偶然として叶うやもしれん」

誰に言うでもなく言葉にしてみた。天に託すとはまさにこのことだろう。

葉擦れの音がする。杉の足元から草が鳴る。月の下、青白い光、一匹の子鼠。

辺りをキョロキョロ見回してから、忍び足でとんとん跳ねると鳥居の陰からこちらの様子を覗うように顔を出す。
「あ、あのう……」

恐る恐る声を出す。闇に吸われるようにしんとする。
「ぼく、あ、私の話を聞いてください」

鼠は、一息おくと、次のようなことを話しはじめた。

 

子鼠は、親兄弟と昔ながらに人家の屋根裏に暮らしていたそうだ。

その母鼠が言うには、今の人間は鼠を捕まえずに殺すのだとかで、実際に兄弟の何匹かは白い物を口にしてから死んでしまったことがあった。人は怖い、人は怖いが母鼠の口癖で、青い蓋のあるバケツからしか物を食べなかった。

子鼠の兄たちはほとんどが一人前――、一匹前になっていて、どこからか嫁をみつけてきて暮していたり、野山に越して暮らしたりと各々でやっていて、この子鼠だけがまだ一匹母のもとにいるのだった。
「あんたもいいかげん、いい娘でもみつけてきなさい。あたしはあんただけが心配だよ」

そんな母の心中を知らぬ風に子鼠は髭の手入れをして言う。
「まだいいよ。八番目の兄ちゃんだって、二、三日前に結納したばかりじゃないか」
「でも、七番目は子もいるし、六番目は孫まで嫁いでいるじゃないかい」
「仕方ないさ。鼠なんだから」

まだいいよと言って手から脇腹、後ろ足へと毛繕いをしていく。
「母さんだっていつ人間や猫に殺されるか知れないんだよ。あんただけが心配なんだからさ、いつまでもこうやってたっていいことなんかないんだよ。だからさ、いい娘でもみつけてきなさいよ」
「そのうち探すよ」

子鼠は言うと鼻を二度ひくつかせ、もう一度髭から毛繕いをはじめる。

母鼠も一息溜息をつくと耳の裏を毛繕いしはじめた。

翌日、子鼠が外から戻ろうとするとその途中に母鼠がいた。甘い香りがむせるくらいにその場を満たしている。母鼠のすぐ後ろには、すでに生き途絶えているのだろうか、一匹の――兄鼠の子が横たわっていた。
「いいかい。決してこっちに来るんじゃないよ」と言う母鼠の目には強い光が宿っていた。

子鼠はそのあまりに突然で今まで見たこともない状況に、どうするかという考えをすることもできずにいた。
「もうここはよして他へ行くんだよ」

強く、それでいて落ち着いた声だった。

動くことはできなかった。去ることはなおできなかった。

母鼠は半身を着色された床に着け、そこに触れた毛だけやたらと湿って粘ついているようだった。

子鼠は思ったのだろう。母の言うことに従うべきだと。――それでも、この場を離れることはできない。

母鼠は、それから二日はその場で呆けている子鼠に説得しようと話しただろうか。三日目に子鼠がようやくその場から動いた。母鼠は心残りもあったが、安心して眠った。

どれ程眠っていたのか、日の高さからすると夜に近い頃だろう。母鼠は自由の利く片目を動かして確める。すると、去ったはずの子鼠が同じように立っていた。
「あんた、何してるの」

母鼠の声は弱々しかった。母鼠自身、声の力ないことに若干の驚きを感じた。
「母さん、……これ」

言って木の実を一つ取って見せる。
「あんたがお食べ」
「うん。ぼくは食べたから。これ、母さんの分」
「いらないよ」

ぴしゃんと言う。しかし、迫力など当になかった。
「あたしがそれを食べたところでね、ここから動けはしないんだよ。いずれ人間に捕まっちまうのさ」

子鼠は、ならば自分が母の世話をしようと思った。
「あんたもいつまでもここにいると捕まるよ。そしたらあたしは泣くに泣けないじゃないかい」

子鼠は言いたい言葉をそこで止めた。

その時、一匹の銀蠅が力強い羽音を立てて飛んでくると、母鼠の奥の方でぶんぶんと円を描く。意識していなかったが、――極力意識から逸らしていたのだろう。子鼠のすでに死んだ姿は一目に眠っているようにしか見えなかったが、銀蠅の力強い羽音がお経の抑揚のように唸ってそれとわかる。

そして、それがそのまま母鼠に迫る死だと感じた。
「嫌だよ、嫌だよ母さん……」
「仕方ないの。あたし達は賢く生きなきゃ殺されちまうんだよ。これはあたしが甘かったのさ」

子鼠は動けなかった。半身動けずにいる姿の母を少しでもその目に焼き付けておきたいと思った。

そこに人間の足音が近づいてきた。子鼠は驚き物陰へ駈け込んで息を潜める。忍ぶ気もない足音が止まる。そして再び遠ざかっていった。

大丈夫だろうかと、子鼠は顔を出すと、目玉の丸いのをなお丸くした。そして驚いた。母鼠も子鼠の死体も、忽然と消えてしまっていたからだ。

残っていたのは、踏み潰された木のみだけだった。

 

しかし、子鼠の望みは母鼠のことではなかった。
「鼠の身で、御狐様に頼むというのも変な話ですが、これから冬ごもりの季節がやってきます。その前に、私に妻をもたせてくださいませ。食糧も住処も用意してあります。あとは雌鼠が来てくれたら、私はそれ以上何も望みません」

私はなるほど、孝行な鼠だと感心した。それ故に、この者の願い叶えてやれないことが、私の中に悔しさという感情を強く認めさせる。

確かに本来は唯の神の遣いであり、然したる力もない狛狐にすぎないのだが、稲荷狐として人々から長く信じられていたため、力を与えられたのが今の姿だ。そして阿吽に倣い二体で仕えるのが習わしだった。

私が授けられたは鍵であり、私自らが願いを叶えることも力を使うこともできないのだ。できないからこそ、この胸に、またこの鼠の願いも刻み込んでおくしかできない。

鼠は鳥居の陰から、私のもとまで来ると、山葡萄を置いて小走りに去っていった。供え物までとは、真に感心する。きっとよい妻を迎えられるだろうと、感謝と詫びを込め、彼の行く末を天に託した。

星の薄い夜空には、四角形で模した天馬が西を目指して駆けていく。東には神の子のベルトが瞬いている。虫の声も淡い光となって薄らぎ、つむじ巻く風も消えはじめている。

朝は靄が一層濃くなり陽が木々の合間を縫って射し込むとバターの膜のように黄色い軟らかな光となって空気を照らした。

陽の高くなるにつれ、鳥の囀りが一羽、二羽と木々を抜けて聞こえてくる。石はじっとしているように湿って冷たい。それが次第に暖まると、蝶でも舞いそうな陽気で、珍しく階下を車でも通ったのだろうか、排気の人工的な匂いが風に混じる。以前は嫌な臭いだったが、それが人々の豊かさの証しと知ると何故だか悪い気はしなくなっていた。

日中、太陽とのひと時の会話を過ごすと、木々は茜に染まり葉も幹も燃えているようだった。鳥居までがかつての色に染められて、記憶の中の景色が鮮やかに蘇る。

それもまたひと時ですぐ、陽は暗く沈み、底から冷えていく。景色だけが黒白のまま残された。それもまたすぐ闇に沈んだ。

虫の声に代わって林からは湿った冷気が流れてくる。夕暮の名残りを大気ごと換えていくように――。

太陽が沈み、月が昇るまでの空は星が棘を出し輝いて、静かだった。

その静けさに水の滴るような靴音が響く。冷たさに沁みる音が階下から聞こえてくる。

重くもなく軽くもない、無表情な足音。石段から頭を出したのは大人だった。闇に紛れているが、栗色の肩にかかる長さの髪から女性だろう。女は鳥居をくぐり、社殿へ向かう。湿った空気に乾いた二拍が響く。

女は社殿に何かを置いて去る。来た時より幾許か靴音に感情がこもっていた。

女が置いていったものは、一通の手紙だった。手紙の入った包みだった。

女はそれをしたため、手に持ってここまできたのだろう。湖面に突き出るマネキン人形の足のような奇妙さで包みだけが不気味な温かみを纏っていた。

恐らくここに綴られたことが女の望みなのだろう。私は無力さを知る故に、はじめから天に託してしまおうかと邪念が過ぎったが、すぐ本分に尽くすべきだと思い直し、せめてこの胸に留めようと、為せることを為そうと己に誓い手紙の中へ意識を向けた。

 

この手紙は私の決意であり、誓いであり、彼への呪いです。

彼に読まれることはないだろうと思って全てを書くことにします。そして読まれないだろうところへ置いて、この呪いを成就させるために書きます。

まずはこれを読んでくださる神様、私はあまり信心深い方ではありませんが、一生のお願いです。この呪いだけは決して解けることがありませんようにお願いします。

私は今、哀しみと憎しみと愛しみがぐちゃぐちゃになった気持ちです。今は少し落ち着いています。ですが、彼を悲しませたく、彼を奪った彼女を困らせたく、そしてこんな感情を抱いてしまっている私自身を殺してしまいたい、死んでしまいたいと、――彼を想う度にこの頭は思考をめぐらせ、そう結論付けてしまうのです。

もちろん、私は彼のことを愛しています。彼も私のことを好きだと言ってくれています。それでいてなぜか彼女は私に別れろと言い、彼と付き合っているというのです。彼にきけば、友達だと言うし、付き合ってないと言います。確かに彼が何度か彼女に家に遊びに行くことを告げられたこともあります。彼女が彼の家に来るからと彼の家の近所で時間を潰したこともあります。彼女から彼とのセックスについて聞かされたこともあります。私は彼が出掛けた部屋で待つ間によく二人の行為について想像しました。彼女は私よりうまくて、彼はそれを望んでいるのだろうかと考えました。彼は私とするとき、言葉ではいいと言ってくれます。でも気持ちよさそうではありませんでした。きっと彼女との方がいいのでしょう。一度だけ彼が激しく求めてくれたことがありました。私の誕生日に、私がいつものように彼の上へまたがると、ふだんは出さない艶のある低い声で、達しそうになる私にダメと囁くのです。私はその声にどきりとしてそのまま絶頂を迎えてしまいました。その時は少し彼が恐いとも思いましたが、あの時の声は今でも忘れられずにいます。そしてその日にプレゼントされたのが彼の部屋の合鍵でした。嬉しく思いました。でも、それから彼はよく彼女の家へ行くようになりました。

彼の想像はきっと現実と一致していました。彼は彼女と関係をもっているのでしょう。だから私は彼を確めました。すると彼は、私が一番好きだと言ってくれました。キスもしてくれました。私はだから、全部彼女が悪いのだと考えました。彼女が彼を誘惑して唆しているに違いないのです。

そこで私は彼女を一番困らせることを考えることにしました。彼女の家のベランダで吊ってやろうかと、車で突っ込んでやろうかと。でも、そんなやつのために自分の命を捨てるのかと思うと、ひどく悲しい気持ちになり、バカバカしいと思えました。だから結局は彼女に何もできませんでした。

次に私は彼に振り向いてもらおうと努力しました。優しくしたり、手首に少し切り傷をつけたり、タバコを喫ってみたり。彼の嫌がりそうなこともしてみました。でも彼は私をビンタして叱るだけでした。

私が何をしても変わらなくて、全部嫌になってしまって、死にたくなりました。でも、いざとなると怖くて。私は想像の中で何度も何度も私を殺してみました。彼は悲しんでくれるだろうか。彼女に嫌な顔をさせられるだろうか。私は自分が堪らなく嫌な人間になっていると気付きましたが、彼はそれでも好きだと言ってくれるのです。私はこの言葉が全てで、これを、彼を信じないと、もう気がおかしくなってしまそうで仕方がないのです。

私は板挟みです。別れろと言う彼女と別れたくないと言う彼。私の論理では、矛盾した答えがぶつかるだけで、その両方を満足させる解答が見つからないのです。

でも一つ、これを書いて気付いたことがあります。私がこうして苦しんでいることは彼にとっても辛いことなのではないかということです。彼女のせいにしても彼のせいにしても、何も変えられないのだから、私が全て心にしまって我慢するしかないのでしょう。

神様、私はあまり信心深い方ではありません。ですが、せめてこの嫌なこと全てを私の中に閉じこめてください。永遠にあふれ出ないように鍵を、心にかけてください。

これは呪いです。私が彼を愛した代償です。神様、お願いします。解けない呪いを私にかけてください。お願いします。

 

これは、女の心の強さからか、それとも耐え切れなかった弱さからか――。

どちらとしても、私はやはり本来ならば、この願いを叶えなければならない。それが祀られる者の務めだからだ。願いの善悪の価値は人が決めることだ。おおよそ、女の願いは悪なのかもしれない。しかし、彼女にとっての救いの形でもあるのだ。人に創られた神にはその願いを叶えたり、叶えなかったりと勝手な判断は許されていない。望まれる通りに応え、信仰を得る。それが私たちの生き方なのだ。

だが、もちろん私には力が無い。故にせめてこの心の内に全て預ろうではないか。

これが私に残されたできることであり、為せべきことなのだろう。

これは私個人の願いだ。あの女に心の平穏が訪れんことを――。

私は願いを天に託し、空を仰いだ。月は鋭い程に欠けて、薬包紙の透かしたような雲にかすかに七光を差している。

林の木々も枝を目立たせ冬の仕度に入っているようだ。もう誰も訪れない石段は闇に眠っている。昇ってくるのは、日に日に冷やされる空気だけだった。その寒気が石段を昇り切れば冬が来る。

雪の降る土地ではないが、年明けの冷え込む日は夜方降ることもあった。積もる程になるのはそれこそ年に一、二度しかない。

雪の積もった日のここは目の覚める光景だった。半紙のような新雪の中に朱の柱二本が生えて、澄んだ空気をさらに研ぎ澄ます。低く雪を落とした雲も晴れ、カンとした高い空が無色の光を何者にも遮られず雪肌に注ぐ。表面はよくみれば溶けかけの砂糖のように透明で、光を染み込ませている。音はしないが、雪の陽を受ける音が聞こえそうだ。

そういった雪の降る日以外は、春のように暖かいか静寂しきった日ばかりだった。

その冬がやって来る。太陽もそっけなく昇れば沈み、月も星も刺々しいばかりの冬だ。

夜が更けるにつれ空気は仄白み、じっとする。鳥居は靄を纏い湿る。木綿布を通してみるように星の光も柔かく淡くとける。光をとかした粒子の一つ一つは柱や石、葉や幹、この場にある物すべて飲みこんで、次第に命の吹き込まれたようになる。宙で結び、柱に一流の滴を成し、土へ還り土より湧く。

動くものはなく、時のみが刻々と動いている。

これからの季節は夕暮時がもっとも明るく、その次は夜明けだろう。

牛乳色の光が朝の時間に流れて満ちる。

夜は霧に混じって空へゆっくり昇っていき、土は蒸気を吐き出しそれも空へ昇りとけて消える。朝が生まれる静かな時間が流れ出す。 しかし今日はあいにく雨だった。夜霧は空に溜まり朝日は雲の裏で跳ね返されているのだろう。秋の雨よりは心持ち重さを増した雨が肩や背を打つ。剥がれ残った柱の朱だけが鮮やかさを増していた。

とんとん、とんとん、と社殿の切妻屋根から滴る音がしている。鳥居から落ちる滴は、とん、――とん、と。私の背を打つ雨は足元にぴちょぴちょ跳ねつけていて、石に染みた雨が香りを放つ。
「もしもし、狐さん狐さん」

ふと、後ろからかと思えば前のような、足元からかと耳を向ければ上からのような声を聞く。私はどこへ意識を向けたものかと思っていると、
「おはようございます狐さん。私です、雨でございます」とまたどこからとも定まらぬ声が言う。
「なるほど、どこからということはない。そこら中にいましたか。おはようございます」

今日の雨は粒は大きいが穏やかな雨のようだ。
「朝からごめんなさいね」
「いえ、お構いなく。雨の朝というのもいいものですよ」

実際ここ数日、秋晴れか小春日和のような空で石が乾いていたのも事実だった。
「何かご用で声を掛けられたのでは?」
「そうそう。あ、でもたいしたことではなくてね。言ってしまえば愚痴なのですが、近頃困り事が多いせいか肩が凝るんですのよ。それでちょっと聞いて頂けないかと思いまして声を掛けたんですの」

なるほど、それで今朝の雨は雲が低いのだろう。
「私でよければ、ぜひ聞かせてください」
「ありがとう。この頃ね、本当に最近なのだけど、大気も海も汚れが目立つみたいなの。ほら私、海から空へと立ち昇り大気を抜けて地に戻るでしょ、大地の汚れを抱えては大気の汚れを纏いつついづこの街を湿らせて、汚れを撒くのが辛いのです」

この雨はあまり神格化された者ではないが、太陽や月に次いで古くから存在していて、海よりも昔に生まれていると聞く。
「辛いというのは私のわがままなのかもしれません。海も大気もその広さにはまだまだ余裕があるようで、それまでの星の変化に比べれば心配ないと言っていました。ただ気にするならば、人の手により短い間に変わったことにあるそうです」
「そうですね。私がここに仕えてからでさえ人は多くを壊し、作ってきたと聞きました。特に戦争は悲惨だったと聞きましたが……」

あの頃はこの土地には外から人が来ることの方が多く、時折黒い影が空を横切る程度でその後耳にした噂の惨事は起こらなかった。

だから、戦争という種同士の争いが、街ごと人を消したり、木々や家々を焼き払っていたとは知らずにいたのだ。それくらいこの地は小さな人里だった。
「そうですね。人間の争いは今に始まったものでもありませんが、もっとも破壊的に終えたものは類を見ないでしょう。私の口からは一言では語れぬ程に怒り、悲しみ、慈しみ涙を流しました。そして何より、大地も大気も私の身も穢されました。人間が今や軽々と私たちに干渉してくる力を持っていることにはいささか恐怖を感じるのです。彼らは山も海も形を変えます。川を堰き止め、大気に鉄屑を降らせ海に汚物を溶かし込みます。未だに自然を恐れながら、絆した手綱にわずかばかりの安堵を求めて、感じているように思えるのです」

人は以前はもっと自然に関心をもっていたように感じる。記憶に残る祭りや正月は人と神と自然とが一つになっていたはずだ。雨の話を聞けば確かに人にとっての自然は恐れると共に支配すべき存在になっているのかもしれない。そういった意味では、未だに関心はあるのだろうが、この身として哀しく思えるのは雨も同じなのかもしれない。
「しかし、本当に心配なことは、この星が汚れ切ることでも枯れ果てることでもありません。それは神として祀られる狐さんの方がよくご理解しているのではないでしょうか」
「大きな力を持つことの意味、否持つ者の在り方ということでしょうか」
「そうね。そうなのです」

雨は粒を細かくして言う。
「私はただ過ぎ、渡す存在ですから、空も地も水も大気も人のこともわかりません。ただ風のように流れゆくだけです。川や時のよりも遥か刹那的に」

絹糸ほどに落ちる雨――、雲を解くように、気付けば薄氷を透かしたような陽光が射し込んで仄かに辺りを明るくする。東から風を感じると、
「ずいぶん長居させてもらいましたが、お陰様でだいぶ心軽くなりました。ありがとうございますね」と、雨が言う。
「いえ、私こそお話聞けてよかったです」

最後の滴を葉に落とすと、雲は陽に溶け風に散り蜘蛛の糸のようにいつのまにか消えていた。潤った正午前の大気を爽やかな太陽が、
「どうも」と言って通り過ぎていく。

雨の話は世界に横たわる根深い問題だった。
そして、その一端にまさしく私にまで至る枝々が伸びているのだ。しかし、そのどれも、――神・科学・思想もが、人によりつくられ、人によりつかわれ、人のためになり、人を苦しめている。それこそが我々の死だった。

今在る所以はむしろ、この数か月の者の願い、望みだった。その良し悪しはなく我々を信じる、すがる心のみがあるのだ。

雨の去った後に吹く風は陽の陰るにつれ冷たくなり階下まで訪れているらしき季節を濃く感じさせる。

その夜は噛みつくような寒さだった。夜更け前には冬が天頂まで満ち空を持ち上げたせいで星はなお瞬いた。

オリオンの左下の星は何と言っただろうか。かつて月から聞いた星々の話を思い出しながら、ベテルギウスの訃報だけがよく残っている。星の死を誕生と名付けたのは人だ。

すなわち、冬もまた死ではなく、生まれくる季節なのかもしれない。

訪れた冬は深々とこの里山を包みこんでいく。月日は絵巻物のように、固く結ばれた紐を解き、すっと左手で巻き広げ右手で巻き納めていく。その静かに動かぬ読み人が冬だ。

にわかに人々が活気付き、段差なく年を越える。他は知れずもここは相変わらず冬だった。

年も明けて里も平静を取り戻した頃、今朝方降った雪の融けた石段をべっちゃべちゃと上ってくる音がする。足音からは人だろう。昨年にしろ、今年にしろ、珍しく人のよく来ることに不思議とともに感謝の念を感じた。

防寒着を纏った若い、――若干の幼さを残した女性が石段を上って来た。足元は土と雪解け水が混じり、ぐちゃぐちゃだった。そしてまた、彼女の顔も別のものでぐちゃぐちゃだった。

朝の雪しぐれは水晶色の水となり、鳥居や木の枝から滴を蕾ませている。その中を女性は汚れた靴で歩く。石畳のまだ澄んだみぞれ雪を踏みながら真っ直ぐ社殿へ歩く。涙で汚れた顔も、瞳は油虫の蜜のようにきらきらとして輝きを失っていなかった。故に女性は汚い顔の綺麗な表情だった。

雪原に立つ若竹のようにしなやかに息を漏らす。空気が痺れる程に手を打ち鳴らす。
「志望校に合格したい」

それは叫びだった。そして破れた竹のごとく吐露は続く。
「判定はぎりぎりだけど、二次試験がうまくいけば大丈夫だと塾の先生に言われました。私はその大学に行きたい。でも親と学校の先生は一つ下げたほうがよいと言います。あと三十、三十点よければ言われなかったかもしれない。だけど今はできることしかできないから――、だからせめて志望校を受験させてください。せめて、それくらいは、お願いします。私、頑張るから、受けさせて!」

力強い拍子は飛び込みに失敗したような音を響かせて弾けた水のように清々しい。

なんと――、なんと欲の美しいことか。

そう思ったのは雪の後だからか、彼女の瞳のせいか、様々な意を孕んだ言葉一つ、一つが私には太鼓のごとく、芯に響いた。

彼女はもう一度手を打つと、「お願いします」と声を上げて、来た時以上に顔をくしゃくしゃにして笑顔で去っていく。

空気は反響の後、貼り立ての障子紙のように沈黙を取り戻していた。

――年明早々に私はまた己の無力さを再認識させられた。これは罰なのか、試練なのか、ただ訪れるべくしてあるだけなのか――、叶えることのできない望みを聞くこと程辛いことはないのではなかろうか、鼠の、鼠の母の願い、女の呪い、雨の悩み、彼女の不安。きっとこれからも多くはなくとも多くの想いを聞き留め、全て天に委ねることになるのだろう。これも世の運命と呼ぶならば、その命に従うしか――。

願いの叶えることができた頃、少しばかり前のことだが、この社殿にも日に六、七人の参拝や子どもたちの遊ぶ姿があったが、向かいの石台には私に似た阿の口に球体を咥えた狛狐があった。上は霊力の象徴であり、神に代わる身となった私たちの力の根源でもあった。――だが今はいない。

私は今、気が弱くなっているのだろう。その頃の玉の狐の言葉がふいに思い出された。
「あなたはこれからも人々の信仰を信じることができるか」

私は人を信じていた。人が私を信じるように。
「信じるよ。それが私たちの在り方ではないか」
「ああ。私も信じている。――だが信じなくなった者が戻ってくるようにも思えないでいる」

玉の狐の言い分は理解した。信仰こそが私たちの存在を保つ。それが人に創られた神の在り方だからだ。
「もし、仮にこのまま昔のようでないままなら、私たちを保つことは難しいのかもしれない。知っての通り御神体の神は黙したまま、依然として私たちに任せてくださっているようだが、――だが、私は一つ決断をしようと考えている」と玉の狐は神妙な面持ちで言った。
「決断? 私たちに何が決められるのです」

私にとって彼の言葉は不可解だった。
「何も決められないさ。願いを叶えることしかできない。それができれば存在意義は満たしているけれど、それしかできない」
「ならそうすべきです。意義に反して何ができますか」

私は一種の裏切りに近いものを感じていた。
「この玉の効力は制約をもたない。人も虫も鳥も動物も自然でさえ対象とできる。力と充足される謝礼があればそれで足りるのだ」

紛れもない。
「それは裏切るということか」

私は咥えている鍵をガチリと鳴らして言った。
「だから決断と言った」

ぴしゃりと言う。
「今はいい。いずれ、信仰が薄まれば、私たちは消えてしまう。だが、仮にどちらか一方が去れば、信仰は変わらずとも存続はできると考えた。私は玉を授かっているから去るわけにはいかない。そこで、あなたにここを去って頂こうという策だ。だから決断は私ではなく、あなたにして頂く」

細く閉じて再び目を開く。
「私は、――私に神に仕えることを辞めろということですか――」
「無理にとは言いません。人々に願われる存在として在り続けるか、石に戻るかです」

私たちのやり取りは続いた。――そして、私は確かに決めたはずだった。

それが何故、何故私はここに残っている。神に背いた罰だろうとまず思った。そして、試練だと考えた。

今、――忘れられた社にわずかばかりの願いが集まっている。

私の使命は初めからこれだったのではないかと、今はそう感じている――。それでもやはり、私は願いを聞く度に力の無さが意識に上ってくるのだった。

結末は変わらぬまま、薄れゆく信心とともに消えてゆくしかないのだろうか。この胸に灯る者たちの願いまでも、私とともに石と化すことになるのだろうか。

寒さの底に夜がじっとしている。

私はあの女性が去ってから同じところを巡り続けていた。かつても同様に悩み続けたこともあった気もしたが、その時に得た結論はすでに記憶としては残っていない。

空気すら無いような静かな夜だ。しかし、その静けさを意識すると、思考は再び決断の時へと逆戻りまた頭の内が騒がしくなっていく。

昨年末より、私の心は疼いているらしい。それまでは一人すら訪れるかどうかだったこの社がわずかばかり賑やいだことで、私は気持ちがどこか浮いたように地に着いていないのではないだろうかとさえ思った。

一体何をそこまで浮かれているのか、人の来ることか、願いの集うことか、どれも理由のようではあったが、わからなかった。

思考はぐるぐると静けさの底へ沈んでいき再び夜があるだけのここへと戻ってくる。

何度目だろうか、廻る思考の渦に巻き取られるように新たな季節へ準備を始める生き物たちの気配が色着いていくようだ。

誰だったか、夏は生命にあふれていると言う物があったが、私は冬こそしかりと感じている。自然の多くが静止して見えて、その内では次の季節への蓄えをしたり、蓄えたものを消費したりと命の色を濃くする。一方夏はと言えば、虫も草木も暑さの中で無理して活気付いているような勢いで命を消耗して見える。その上、蟬たちの路傍で仰向けに眠る姿程、無機的な死を感じるものはなく、一際大声で夏を謳歌していた者がころりと逝ってしまい、数日後には蟻たちに羽、脚もがれて消えてしまう。夜の虫たちが涼し気に声を上げ始める頃には昼の声もまばらになり、生を遂げ遅れた寝坊蟬の空しさがなおさらに命の色を淡く映す。

それ故に私は冬にこそ命を強く感じているのだった。

死よりも生に目が向くのは、私の仕えし御神の名による性からなのだろうか。それともこの地の人々の願いから得た私としての質からなのだろうか。どちらにせよ、やはり冬にこそ生命の強さを見出さずにはいられない。

その静なる季節が誰にも気付かれることのない摺足でそっと動き出している、そんな気配を感じる頃になっていることに、木々の呼吸から、はっと気付かされたのだった。

太陽や月、雨や山、海といった古くからの神々からすれば、季節の移ろいもまた刹那なのだろうか。人や動植物から見れば私とて永い生と言えるのだろうが、神としては若い部類だ。さらに私自身は仕える身であり、人々の認識故にこうして神格化されているに過ぎないのだ。だからなのだろう。この頃の思考が自然とする理由――神という認知。

次の思考から呼び戻したのは確かに梅の香りだった。空気も空の色さえもまだ冬のままだったが、匂いだけは春を帯びていた。

春というのは、一度気付いてみると思わぬ外に次々と気付けるもので、鳥の囀り、瑠璃唐草、鼠の巣穴から出入りする音、次々と感じられる。冬が動き始める。命が吹き出る、溢れ出る。梢は萌え、幹は温もりを取り戻し、山は息づく。衾雪は足音のように融け、山肌を谷へ谷へと歩む。谷は水に潤い、木々たちは喉を鳴らしながら足踏みをする。土は湿ると顔色を変え、日光を吸い込む。地温に目覚めた蛙は顔を出し、忘れられていたような種子は根を、振る尾のように突き出す。風も徐々に湿っていくと空気も空の色も春だった。

梅の香りも薄らぎはじめたある日、陽光の水溜まりの中へ一匹の鼠が現れた。
「御狐様、昨年は誠にお世話になりました。あ、私は秋の頃参りました鼠です」

言われてやっと鼠の面影を見る。たくましい雄鼠の姿には、あの時の世間に放り出された飼い猫のような、悲哀に満ちた様子は見られなかった。
「お陰様で、私にはもったいないようなよくできた妻を迎えることができました」

なるほど、わざわざお礼参りまで来てくれたわけか。そう言えば、はじめに参りに来たときも、わざわざ供え物をしていったのだったな。
「春になりまして妻も子を儲けましたようで、これも御狐様の御加護のお陰と思っております。これで母も喜んでいることでしょう。本当にありがとうございました」

鼠は両の手を合わせて何度も頭を下げると林の奥へと去っていった。

春の陽気のせいだろうか、何かほっこりとした気持ちに胸が温かくなった。鶯がどこかでカッコン、と鳴いた。

春の陽が影を長くする時分、まだ冷たさの残る風が里から桜花の弁を一片、二片運んで鳥居を抜けていく。鳥居の前に一枚、向かいの石台に一枚、そっと置かれるように降りる。
「あと一つ――」

どこか懐かしい声がどことなく聞こえた気がした。辺りには誰の姿もなく、ただ先程の桜花はすでに石台からは消え去っていた。

再び風が、今度はつむじを巻くように吹くと鳥居の花弁をくると舞い上げる。舞い上がるとひらりひらりと、口に咥えた鍵の上に乗る。

後一つ――。心の内に浮かんだのは、私に残される時間のことだけだった。しかし、何が一つなのか、それは皆目見当もつかなかった。

次の風で、鍵の上の花弁もどこかへ消えてしまった。

風花のように時折舞ってくる桜が増えることは、それが多く散っている証であり、春から緑葉の初夏へと移ることを知る。里はもう葉桜の頃だろうか。

そう言えば、以前に月が言っていたことがある。桜の木の下には他の動物は近寄らないのだそうだ。いるとしたら他の国から来た蛾の幼虫のみだという。それが若葉が青々と茂りだすと土鳩や雉鳩が木漏れ日を踏むようにして歩いているそうだ。

一度、桜の満開の頃にその下を歩いてみたいものだ。狐を模した身に過ぎないが、一匹の狐が桜の森の中を歩む姿を想像してみる。妖美な景色の中を太く艶やかな尾をなびかせ一面白桃色の上を行く。鳥も動物もなく、孤影漂わせる姿が浮かぶ。藪を一つ越えれば里の人々が宴を催しており、それが静けさや妖美さを打ち消していくだろう。

と、春一番がわっと吹くと、どこから集めてきたのか一塊の花弁が蚊柱のごとく眼前で渦巻き立ちながら舞い狂う。

後には石台と社殿、そしてかつては赤々としていた木肌色の鳥居があるだけだった。

 

石段を誰か人が上ってきます。

それは一人の老婆でした。老婆は足が悪いのか、一段一段をゆっくりと上って来ます。鳥居の前まで来ますと、一礼をして社の前に立ち、二礼二拍の後に、このようなことを言っていきました。
「両親と大喧嘩しながら受験した孫娘が、無事合格致しまして、その御礼に参りました。これも御稲荷様の御陰でございます。ありがたいことでございます」と、また一礼した後に来た道を戻って行きました。

なるほど、以前ここに参った娘の親族だったのでしょう。

ところで、この神社の神体は居なくなってしまったのでしょうか。

いいえ、狐は御遣いとして去り、その願いを叶えし神体は、まだこの地を見守っています。

狐がその後どうなったかと申しますと、人里に降りまして軽自動車に轢かれてしまいました。

しかしそれは、狐の姿としてであり、神格たる狐は今なお、虫や鳥、動物や雨、あらゆる者の中に生き続けているのでございます。

季節はもうじき夏でございます。

石段の下からは、祭囃子の笛の音がまだ不慣れな様子で聞こえてきました。

 

2015年12月17日公開

© 2015 渡海 小波津

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