釣糸

渡海 小波津

小説

14,808文字

落選作

釣糸

 

肉の隅々にまで入り込んだ小骨、その小骨を統合するように一本、動きに合わせて畝る背骨、さらにその先端には頭骨、尾鰭があり、腹には内臓を溜め込んで、醜さを覆い隠すように光沢を失った薄皮を被っている一匹の小魚がいる。水は淀み、視界は緑色に霞む。水底の方には、昆布が繁茂し、海底は見えない。一方、水面はひどく穏やかで、鰯の群が生き生きと頭上を過ぎていった。なんとも静かな水底である。すると、潮の流れが少し変わったような気がしたので、小さく身を捩ったところ、視界に入ったものが突如私に襲い掛かってきて反射的に逆へ逃げようとしたが飲み込まれてしまった。

どうやら私はイサキの群にでも遭遇したらしかった。

体を銀色に光らせてイサキがくねる。藻掻きながら、意思とはまったくの正反対に次第に水面へと引き寄せられるように群から離れていく。他の仲間は、その様子を見るなり、四方へ散ってしまった。昇るイサキは暴れ疲れたのか途中、力をなくしてぐんぐんと吸い寄せられていく。その先には一艘の影。イサキはそれに向かっていた。

 

竿が大きく撓る。水面近くで魚の影が見えてくる。
「浩介、網だ。網持ってこい」僕は慌てて駆け寄った。
「さぁ、受け取れ」そう言うと、父は竿を大きく引き上げる。水飛沫をあげながら、銀の魚が宙に躍り出る。船に打ち上げられそうになる魚を、僕は網でキャッチした。
「イサキだな」父が針を外しながら楽しそうに言う。黒い模様が三本背にある魚は針と一緒に小魚を吐き出した。

こうして日曜に父と海釣りに来ているのは、昨日の夕飯のときの話からだった。

 

「期末テストは再来週からか」僕はうんと返す。
「じゃあ、その前に息抜きでもしないとな。釣りでも久々に行くか?」幼い頃、僕はよく父に連れられて釣りに行ったことがある。しかし、中学校に上がる頃から、ほとんど行かなくなっていた。理由は簡単で、勉強が大切だからだ。それでも、父の誘いを受けないわけにはいかないので、やはりうんと返す。
「よし。今日は早く寝て、朝四時に出発するぞ」父は機嫌好さ気に笑って、この時期は、などと釣りの話を続けた。

 

波間を船が駆けていく。五月の朝はまだ肌寒く、潮風がパーカーを湿らせるのを感じる。
「塾での勉強はついていけてるのか?」波を眺めていると、父から話かけてきた。ほら、息抜きなんて昨日は言っておきながら、実際に来てみれば、勉強の調子はどうだとか、来年は受験だから遊んでいられないだとか、進路やその先は決まったかと人のことにあれこれ訊いてくるのだ。
「とりあえず大学には行くつもりだよ。近くの公立高校を受験するつもりだから」僕は父の意向に沿うように、そう答えておいた。事実、将来を考えれば大学は出ておかないとまずいだろう。
「近くだと松林高か。あそこは偏差値高くないだろ。少し遠いかも知れないが海浜高の方がよくないか?」父は地元の人間で、海浜高校のOBだ。父の頃は県内上位校として、多数の難関大合格者を出していたらしいが、今では偏差値六七の県二位である。最近ではむしろ松高の方が進学実績は良いと聞く。
「海高は遠いからいいよ。歩いて高校通うつもりだし」いつもの言い訳を取り出す。
「お前がそう言うなら、強くは言わないが、大学受験は高校受験より大変だからな。今みたいに二年生だからって遊べないぞ」父は顔は笑って言っているが、どうせいつものように内心では、成績が全てだ、結果で示せと思っているのだろう。
「まあ、勉強のことは忘れて楽しもう」自分から話しておいてと思いつつ、うんとだけ返しておいた。

それから二、三匹のイサキを釣って、日も高くなった頃、家へと戻った。

 

「ただいま」夫と息子が帰ってきた。私は、玄関まで行って、釣果を聞く。
「たくさん釣れたのね。それで、どう、楽しかった?」親子で語り合ってきたのだろうと思い訊いてみる。
「浩介の将来の話だよ。な?」夫が確かめるように息子に言う。浩介はうんとだけ答えた。
「そう、それじゃ来年からしっかりと頑張らないとね。あと期末も近いし」
「期末テストの勉強も早いところ始めるんだぞ」両親から応援されているからか、俯いたまま何も言わずに浩介は部屋へいってしまった。中学生にもなると素直でなくて困るけれど、今日はいろいろ話してきたようだし、私も気合を入れて捌くとしましょう。夫から保冷ケースを受け取ると私はキッチンへと向かった。

一匹は刺身に、もう一匹はホイル焼きにしようと、刺身包丁を取り出して、鱗を剥ぎ、鰓に刃先を刺し込む。腸を取り除き、三枚に卸して、一口大に分ける。もう一匹はその間、オーブンで炙られている。

頃合を見計らったように夫と息子がリビングへやってきた。
「浩介、少し手伝ってえ」無言で、膨れっ面気味の息子が来る。
「嫌々手伝うなら、いいわよ」そう言うも無言で皿や箸を用意する。私は少し頭にきたが我慢した。本当、中学生になってから反抗的になってばかりだ。言うことも聞いているのかいないのかわからない始末だ。ふと、聞いているのかいないのかと言えば、一昨日の三者面談が思い出される。

 

「まあ、お母さん、今の調子で頑張ってもらえば、来年にはもっと点数も伸びてきますよ」中間テストの結果、前回の模擬試験、塾のテストを並べて、私は本当にこのままで大丈夫なのか訊ねた。この先生の言うことはどうしても信用できない私がいる。と、いうのは、昨年から変わらないこの担任は、一年前も同じことを言っていたからなのだ。
「先生、それ昨年も聞きましたが、浩介はまったく変わってませんよ。来年は受験なのにこのままだったらどうするんですかね」担任は、愛想笑いを浮かべながら眉をかいた。
「来年になれば部活動も終わりますから、そうすれば、本人ももっと頑張りますよ。私からも言っておきますから」
「そんなの他の子も同じじゃないですか。もっとうちの子のことを考えてもらえますか」私は語気が強くなっていることに気付き、目を逸らす。その後は担任のその場凌ぎのような提案を聞き流していた。
「それではよろしくお願いします」挨拶としてそういうと教室を出た。次の保護者が廊下で待っていたが、学年十位に入る子の親だとわかり、会釈だけで去った。

 

「今度のテスト、頑張りなさいよ。前回もそんなに良くなかったんだからね」それを聞いていた夫も、イサキを摘みながら、
「明日からでも頑張るよな。志望校も決まったし、これからは真面目にやるさ」そう言ってイサキを口に運ぶ。
「どこにしたの?」問うと、浩介でなく夫が、「松林高校だよな」と。頑張れば海高も行けると思うのに、なぜ松高にするのかしら、を飲み込んで、
「あそこもそんな楽に行けるところじゃないのよ。しっかり頑張ってよね」と労った――大人は頑張れと無責任に言うなと思う。僕の努力は一体誰がわかってくれるのだろうか。

 

月曜日、僕は昼休みに呼び出された。
「言わなくてもやっていると思うが、面談の日にお母さんも言ってたから、今度の期末テスト、頑張れよ。先生も応援してるからな」まったくもって無意味だった。

大人とは、子どもに頑張らせてどうしたいのだろう。自分たちがそれなりに働いて、家ではくつろいでいるではないか。金を稼いでくることがそんなにえらいのか。一般的な収入で何故そこまで威張れるのか。子どもに努力させて、結局老後に楽したいとでも思っているのではないだろうか。そう考えると勉強が馬鹿らしく思える。だが、自分が将来ニートになるのはご免だ。大学までいって、苦労しない程度の企業につければいい。給料に困らず、休みがあればいい。別に将来なりたいものもやりたいこともないのだ。普通でいいではないか。それを何故ここまで頑張らせるのか。他の同級生は、ゲームをしたり、遊んだりしている。自分はといえば、休日に父と釣りに行く程度ではないか。あとは塾、塾、模試、塾。ここまでやってできが悪いと文句を言うわけだ。あれか、僕を追い詰めてどうにかしたいのか。僕が発狂でもしないか試しているのか。分らないが、そうかもしれない。そうなら、僕は戦わなければ、せめて自由になるまでは、自分を守らねばならない。僕はそう考えた。そう考えたと同時に、先月から、クラスのK山が学校に来ていないことを思い出した。原因は知っている。いじめだ。K山もまた、自分を守るために行動を起こしたのだ。今なら気持ちが解る気がする。だが、その一方で決定的な違いがあった。それはK山には僕がいたことだ。陰ながらではあるが、味方だと告げてはいたのだ。しかし、僕は違う。味方はいないのだ。K山に味方したことがばれるのも面倒だし、奴らに合わせて悪く言うのも嫌で、自然と僕はクラスの人と関わることを避けるようになっていった。今では、仲の良い二、三人がたまに声をかけてくれる程度で、それ以外はそっけないものだった。だからといってK山が登校しない今、標的が移ったかというとそうなっていない。何故なら、奴らの中では、まだ続いているからだ。机にパンを入れたり、ロッカーに落書きをしたり、咎められない程度に楽しんでいた。仲間を作るための共通項として、何故K山を使ったのか。ゲームでもテレビでもよいではないか。それとも、そういったものに飽きた大人になりきれない奴らなのだろうか。思いつきのように言葉を浴びせる奴らの姿が浮かぶ。

 

「よう、K山。今日も来たんか」これだけ聞けば、ただのあいさつに聞こえなくもないが、彼らは別に私の返事を望んでいるわけではない。反応すれば、しゃべったと言って笑い、相手を見れば、きもいと言うのだ。だから私はただ下を向いていることにしている。こうしていれば多少の我慢で済むことが幸いだ。彼らも本当は度胸がないのだ。いじめが知れれば面倒なのだろう。過ぎたスキンシップは特になく、私は日々、言葉と、クラスメイトからの憐れみの顔を堪えればよいのだ。しかし、こんなことをあと一年半続けるのかと思うと、この青春時代とやらも何とも無駄なものだと感じる。彼らも彼らで、殺すでもなく、ただ仲間とのくだらない縁のために私を使うのだから、憐れと言えば憐れだ。

美術の時間。実技教科は本当嫌になる。先生もいい加減で、皆ふざけてばかり。席を替えて友達同士で話ながら絵を書いている。普段はしっかり授業を受けている子も何人か席を替えているほどだ。
「おい、見てみ。糞みたいな色してるぞ」
「うわ、本当だ。くっせぇ」嘘ばっかり。臭いなんかしないくせに。何が面白いのかさっぱり解らないが、この後どうなるかは容易に予想できた。
「なぁなぁK山。これうんこだ。くっせぇ」そう笑いながら絵筆を私の鼻先に突き出してくる。長めにしてある前髪に着きそうで、不快だ。
「K山、くそ着いてるぞ! うわ、くせえ、臭うわ」何人か振り向いたようで、視線が痛い。くそくそ言って楽しんで、小学生か。私は前髪の絵の具を落としに洗面所へ向かった。
洗面所で前髪を濡らす。生乾きの絵の具が水に溶け、指先が黄土色になる。それを洗い流して前髪を拭いていると、視界の外から声をかけられた。
「K山。」浩介だ。彼とは幼稚園からの付き合いだ。とはいえ、小四くらいからは互いの家に行き来することはなくなっのだが、私は、返事もせず、前髪をいじっていると、
「辛かったら言えよ」とだけ言われた。辛かったら言えよ。彼の言葉が残る。それだけ言うと浩介は去ってしまった。私は、途端に暗闇に落とされた気持ちになった。彼も同じだとわかったからだろう。結局、私のことを可哀相としかみていないのだ。私は面倒だとは思っても、辛いとも悲しいとも感じたことはない。唯一辛いこと? 服を汚して帰って、母に咎められるくらいだろうか。言い訳をするのが心苦しいのだ。

それにしても、浩介は何でわざわざ声をかけたのだろう。中途半端に同情をかけるくらいなら、黙っていた方が安全だろうに。彼らに狙われて嫌なのは自分だろう。それを省みずに言った言葉があれだよ。気が利かないというか、なんというか。まあ、訳の解らないこの残念感は家でゆっくり考えるとしよう。私は蛇口をきつく締め、美術室へと戻った。

戻ると、また数人の視線を感じながら席に着く。浩介をちらっと見たが、黙々と作品に向かっていた。そして私の作品には、先程の黄土が小さな星屑になって青空に降り注いでいた。私は藍をパレットから出して水を入れ、青空に平筆を走らせた。

 

K山をちらと見ると、黙々と作品に向かっていた。結局何も言わなかったな。奴らから悪口を言われ、嫌なことをされて、何も言い返せないとしても愚痴くらい言ってくれてもいいのではないだろうか。昔みたいにいつも一緒にいることはなくなったけれど、僕はK山のことをよく知っている。泣き虫で我侭で言いたいことは何でも言ってきたあいつが、黙っているんだ。辛くない訳がない。毎日言われたら、ストレスだって溜まるだろうに、何故平気でいる風なんだ。親に言えば心配されるかもしれない。先生に言っても何も解決しないかもしれない。だったら、だからこそせめて話してくれないだろうか。僕も何もできない。心配するだけかもしれない。それでも心の負担を請け負える自信はある。言葉を浴び続ける気持ちは分け合える。でも向こうから歩み寄ってくれなければ僕は何もできない。だからこうやってたまに様子を窺うしかないのだ。せっかく手を差し出したんだ。黙ってなくてもいいではないか。

教室を出る際、K山の脇を通ったが、やはり気付いていない素振りをしていた。意地を張っているように見えるK山を後に、僕はいつもの見届けるだけの生活に戻る他なかった。

 

今日は、大して服も汚れずに済んだ。
「おかえり。背中、チョークの粉がすごいわよ」帰るなり母が早速汚れチェックをする。最近服を汚してくることが気掛かりらしく、帰るなりこうするのだ。
「ただいま。ちょっと友達とふざけただけ」それだけ言って部屋へと向かった。戸襖を閉め、鞄を机に置く。服も着替えずに畳に寝転がる。外からは学校帰りの小学生の声が聞こえた。何故彼らあんなにも楽しそうに叫んだり、笛を吹いたりしながら帰れるのだろう。その一行が過ぎるのを天上に下がる和電灯の紐を眺めつつ思う。そして、小学生の頃とはまったく変わってしまった自分に気付く。何でこんな毎日を送っているのだろう。浩介の言葉とともに頭に浮かんでくる生活。母の笑顔に送り出され、学校に着くなり声をかけられ、ちょっかいを出され、幼馴染に同情され、先生に、クラスメイトに放っておかれ、帰れば服装チェック、またこうしてごろごろして明日になる。この毎日が辛いのだろうか。いや違う。私はどうしたいのだろう。このまま生きて何がしたいのだろう。わからない。わからないが、こんな学校という狭い中で何が見付かるというのだ。勉強と部活と三十人程度のクラスに何を望めるのか。私は違うと思う。堪え切って、こんなところを抜け出して自由になるのだ。誰の視線も受けず、やりたいことをやって悠々自適に暮らすのだ。それまで一年半我慢すればよいだけなのだ。と、そこまで考えた私に、まったく方向を変えた考えが浮かんできた。何もただ堪えていなくてもいいのではないだろうか。中学校は義務教育だ。そうとうのことでは退学はありえない。実際、犯罪を犯した生徒でさえ世間では卒業扱いになっている。ならば、学校を休んでも――。あとは勉強だ。こんな中学で私は一生を腐らせては阿呆のようだから、せめて高校に入って、大学受験できるくらいにはしておきたい。高校でもちょっかいを出された場合は、と思ったがそれこそ勉強だけに専念していたら大丈夫だ。大学を出て働きさえすれば自由だ。一人で生きれば誰も文句は言うまい。私は早々にこの人生プランを開始しようと母のいる台所へと足を急がせた。
「ねえ。お母さん、私明日から学校行くの辞めるから」台所の入口から暖簾をまくって言うと、母は南瓜に包丁を入れながら、
「そう。あなたが決めたならそうしなさい。でも、後で人や自分を責めないようにね。それだけは言っておくから」そう言って包丁の柄を力一杯叩いた。南瓜が割れ、金色の種が溢れている。案外簡単に母は納得してしまったようで反って私が驚いた。
「高校はどうするの?」食後のデザートはいるのか訊くように尋ねる。ただ母は南瓜を煮物用に一口大に切っていて表情はわからない。だから私もお餅の個数でも答えるように、
「わかんない。でも行くと思う。大学行ったら家出るから」言い切ると返事は確かめずに部屋へと戻った。
母はいいと言ってくれた。夕食時も特にそれには触れられず、南瓜が甘いだ、明日になれば皮まで柔らかくなって美味しいだと話していた。

次の日から、私は早速書店へ行き、中二用五科目のまとめを買い、自室にこもった。図書館もいいかもと思ったが、昼間からいると怪しまれるし、夕方だと中学校の人に見付かる可能性があると考え、結局自室に落着いたのだ。気ままに勉強できるということが、楽しく感じられた。

 

あの日からK山は学校に来なくなった。

休んだ初日、僕は珍しいと思った。休めば冷やかされるいい材料でしかなくなるだろう。また、休んでいる間に机やロッカーなどの私物に何をされるかわからない。僕はせめてK山に、奴らが何をしたかだけ伝えようと、静かに様子を窺っていた。

その日の昼休み、机の中に水が入る。清掃の時間に知らずに運ぼうとした当番が服を濡らし、ちょっとしたハプニングに。ロッカーの資料集などの本の間に工作用の澱粉糊を塗る。その度に奴らは、やばいよとか、怒られるぞなどとはしゃぎながら言っていた。

どうせ、やばいとも、怒られるとも思っていないくせに。いじめという悪事をしている認識などないくせに。内心ではいくらでも言えた。僕の心の声は、いくらでも奴らを罵倒でき、責めることができ、K山を擁護できる。しかし、口を開き、喉を絞り、声を出す気力が起こらない。そうしようと手に力を込めても、腹に込めても、すぐまた別の自分が言うのだ。言ってもどうなる、その後はわかるな。でも言うよ。言う必要は本当にあるのか、何も変わらないだろう。言葉は弱いのだ。どんな詭弁を用いても奴らは拳で黙らせる。それでお終い。

言葉はこんなに無力なのだろうか。古くから意思伝達の手段として使われ、戦後は議事での中心的手段とされ、日本では暴力で解決させるなど愚劣だと刷り込まれている。その言葉はこんなにも無力なのだ。奴らには通用しない。相手が言葉で問題を解決しようとしないからだ。まじめなサッカーをラグビーのルールでするようなものかもしれない。では、暴力に法で対抗できるだろうか。訴えると言えば先生に言うより大事になる。でも駄目だ。証拠がない。証言。このクラスに確かな味方などあるだろうか。それに先生たち、学校の名が知れれば教育委員やら、PTAやらが黙っていない。そうなれば揉み消そうとする。結局奴らは散々好き勝手やりながらも、このクラスや学校という組織から守られているのだ。いつでも少数派は我慢を強いられる。立場の弱い者は強者の都合に組み込まれるのだ。強者のルールの中でひっそりと生き、目に付けば、がばっと噛まれるのだ。だから、K山はそれを知ってこの外へ出たのだろう。家であれば、ここより敵は少ない。自室に籠もり生活さえ可能ならば、どうとでもなる。勉強は塾でもできる。ならば学校など必要ないのではないだろうか。K山にとって恐らくそれが答えだったのだろう。それならば、K山のいないクラスがどうなるのか、それを僕は見ておこう。別にK山に伝えるとかではなくとも、たぶん学校に来ないだろうK山を中心に奴らがいつまでいじめを続け、周りが無意味な心配をし、先生たちが彼女の欠席と原因についてこれから話し合っていくのか、みんながいつ気付き、どう対処させるのか、僕はそれを見てみたかった。

きっとK山もそんなことを考えていたに違いない。でも、どうだろうあいつの性格からして、――いや、するかもしれないな。一番表層にいる内の自分が、そんなK山のことを考えて今の状況を楽しんでいて、そんな自分に僕は嫌気が差すのであった。

二日目、昼休みの間、机に花瓶が置かれていた。三日目、四日目と同じようなことが繰り返される。チョークで、歩道橋下の柱にあるスプレー文字みたいのを書いたり、マークを描いたり、ロッカーに石を入れたりしていた。靴箱の中身は五日目の放課後には消えていた気がする。

一週間が経つと教室中で、登校拒否だろうといった空気が濃くなっていた。やつらもやり過ぎたかとか、お前じゃね? とか言い合って、変わらずK山を話題の中心としている。逃げた、勝ったと奴らは軽い言葉を吐き出すが、勝つとは何に勝ったのだろう。

六月十九日。僕は先生に呼ばれた。

「K山のことなんだが、何か心当たりはないか」何故僕に訊くのかという素振りをする。
「何も知りません」そう言うと、先生はデスクチェアに腰掛けたまま、考えるように腕を組む。その様子を黙って見下ろしていると、
「じゃあいい。すまなかった、呼び出して」と言った。僕は軽く頭を下げ職員室を後にする。

クラス、学年中にまで知られ始めているようで、そろそろ先生たちも表面上心配せざるを得ないといったところなのだろうか。

 

「S先生いかがでしたか? 何て言ってました?」美術担当のN崎先生が、さも何か聞けて当然と言いたげに、口元に微笑をつくり尋ねてきた。
「いえ、特には言ってませんでしたよ」
「おかしいですね。以前授業中に二人で洗面所へ行っていたので、てっきりそういうのかと思ったんですけどね」一昨年前に転任してきたこのN崎は美大出身で留学経験あり、まだ二十七歳だったと思うが、何か不気味で気が合わない。含んだような調子が恐らく合わないのだろう。それを言って反ってごねられても嫌なので、体裁だけは整えておく。
「まあ、ただK山さんについては、今後も少し気にかけていきましょうよ」
「そうですね」言葉だけ合わせるように答えるN崎は、自分の担当クラスの生徒の問題で何が可笑しいのだろう。にやにやしながら言うことに、私は嫌悪感をさらに抱いた。
「それでは、また何かあったらお願いします」私はN崎にそう言って、教頭へ報告に向かう。

コツコツ。中から教頭の返事を聞く。
「失礼します」教頭の下へ行くと生徒数名から聞いた現状を報告した。
「S先生、そう気を張らなくても構わないからね。お母さんとも話したのだけれど、しばらく休学させたいということで、家で勉強はしっかりやっているそうだから」
「は、はい。わかりました。また何かありましたらご報告致します」教頭の言葉に疑問を感じながら、私はその場を去った。が、私は別に気を張ってなどいないし、ただK山が元気に通ってくれればと考えているだけだ。それなのに教頭は何故自宅学習を許したのだろうか。この日、私からもK山の家に電話をしておこうと思った。

 

この日、昼過ぎくらいからやたらと電話が鳴り続いている。電話は一階の階段脇にあるのだが、どうせ勧誘か何かだろうと思い、私は我慢していたのだが、電話は二十分間くらい、七、八分置きに鳴っていただろうか。その電話も一時が過ぎる頃には鳴ることはなくなり、五時半過ぎに鳴ったときには母も帰っていたので、それ以降は鳴らなかった。

夕食時、
「担任のS先生からもお電話あったわよ。学校来いってさ」母はとりあえずといった口調で私に言ってきた。
「別にいいよ。まあS先生はねえ。ちょっと熱血好きみたいなところ、たまに出るから」私もとりあえず話題の一つとして返した。学校に関してはそれだけの他愛もない会話の食卓。

 

「そういえば、同じクラスのK山さん、登校拒否してるそうじゃない」他愛もない食卓でふとママから思わぬ言葉を聞いてどきりとした。たしかにうちのクラスのK山さんは学校を休んでいる。噂では登校拒否らしいが、恐らく噂は正しいのだろう。
「うん、なんかちょっと前から来なくなった」あまり話したくないと感じ、あたしはそれ以上言わないでいた。
「やっぱり、いじめとか?」そんな気も知れずママは質問してくる。
「なんか男子がいたずらしてて、たぶんそれだと思う」夕食が美味しくなくなる。噛むご飯の甘さがやけに口の中で意識される。
「あんたは何もしてないんでしょ?」何もってなんだろう。うん、何もしてない。
「何もしてないよ」裏も表も何もしていない。あたしたちはただ傍観しているだけだ。別に止めても仕返しされるのがというより、一人正義者ぶったみたいに思われるのが嫌だった。そして、K山さんが、どんな子かもよくわからなかったから、余計に助けたいと思えなかった。社会科見学など、グループを作るときは必ず残され、気遣いのできる女子二、三人が一緒に組んでいるという感じだ。あたしには、まず声をかけるなんてできない。
そう思えば、近頃男子でも一人孤立してる子がいた気がするが、まあ男子はそういうものなのかもしれない。群れるのはだいたい馬鹿なことをしているやつ達だろう。彼は、勉強はできるみたいだから、独りが好きなのかもしれない。あたしはいたって自然な思考でそう結論付けることにした。

 

食事が終わると私は、部屋に戻り明日の学習計画を立てる。目標と結果を日々記録して区切りがついたらテスト用問題集で確認をする。我ながらに効率よく進めていると思う。わからないものは母に聞いたり、図書館のパソコンで調べたりしている。案外お金も懸けずに成果が出ているのも満足していた。

翌日、学校が終わると浩介が私の家に立ち寄ってきた。インターフォンを鳴らしたので、誰かと思って見ると、俯いた浩介が何かを言いに来たようだった。開錠しドアを開けると浩介は何か苦しそうな表情で言う。
「久しぶり。――、ああ」私は久しぶりと言われると、すぐ上がってと言った。浩介もそれに、ああと答え、おずおずと靴を脱ぎ始める。どうせ学校に来いとか、大丈夫かとか言いに来たのだろう。だから私は、部屋の問題集でも見て帰ってもらおうと考えたのだ。階段を先に昇り、戸襖を開けて中へ通す。
「どう? 久しぶりに来た感想は」予想外だったのだろうか。幼馴染の部屋に四年振りに来て何を言おうか考えているらしい。本当、浩介は何か言うときは真面目すぎるほどに真面目で黙っている時間が長い。そんな考えながら話さずに、思うことを口にすればいいのにと思うのだが、真っ当なことを言うからなまじ文句も言えないのだ。
「あんまり変わらないな」前言撤回だ。考えあぐねて出た言葉なわけがないと思った。
「勉強なら自分でしてるから、その心配だったらいらないから」中学に入って模様替えもした。変わらないわけがないのだ。
「学校には、もう来ないんだな?」うんと軽く答える。座りなよと言って座布団を寄せる。変わったと思うんだけどなと内心それが一番の気掛かりになっていた。浩介は、そっかと言うとまた考え込んでしまう。なんだか気まずい。この考えながら話すのを気にしだしたのは小学四、五年生くらいからだろう。それまではよく私の言ったことを確かめるように聞き返していたように思う。

例えば、そうだ。私がイサキ釣りの話を聞いたときだったと思う。浩介に、
「イサキ好きなの?」と言ったら、
「……食べるのが? 釣るのが? それとも見るのが?」と言うわけだ。私はどれでもいいと思った。何気なく訊けばこうなるわけだから、恐らく浩介みたいなのは、女子がよく使うかわいいの意味など一生理解できないのかもしれない。

だから、浩介の言葉はほとんどが何か思いつめたように考えて出した言葉か、考えた結果何も出てこず困ってしまったときの言葉なのだ。

もうすっかり夏模様で、閉め切られた部屋に若干蒸し暑さを感じる。前髪がおでこに張り付くように感じる。
「嫌だったかな。やっぱり……」浩介がぽつんと呟く。
「いじめも、とやかく言われるのも辛いよな」今度は少しはっきりと聞こえた。
「あのさ。勘違いしてない? 確かに面倒とは思ったけど、別にされたこと自体が堪えられなかったとか、辛かったなんて思ってないから。全然平気だからね私は」間――。
「こうして勉強だってしてるし、進学も考えてるから平気。学校にいたときよりもむしろ身が入って進んでるよ」何か不服そうな顔つきのまま浩介はやはり、そっかと言うのだ。――間。
「来た用ってそれだけ?」いつまでも不服そうなのと、この間に堪え切れず、つい帰る確認じみたことを口走ってしまった。間もなく、
「いや。まあ、そうかな」と言うと、それじゃあと加えて浩介は立ち上がって鞄を持つ。私も。うんと言ってそのまま玄関まで見送る形になってしまった。
「じゃあ」「また」そう交わして、私は部屋へ、浩介は家へと戻っていった。

僕は帰り道、先ほどまでのことを考えていた。あの返事が最善だったろうか。あいつは辛くないと言ったが、本当にそうなのだろうか。薄い言葉をぶつけられて、奴らの暇潰しにされる。それが辛くないはずがないと思うのだ。実際学校で学ぶべきことを独学でやっていること自体間違っているのではないだろうか。奴らはのうのうと学校に来ていて、K山だけ来ない。やはり僕はそれがおかしいと思ったが、その傍ら、K山のように先々を考えながら、学校が全てではないと思い至ってやっていくのもよいかもしれないと思えた。

夜、いつものように塾へ向かう。

必要なものは学校でなくても今は揃う。塾に行けば、同じレベルの生徒がいて、それなりのコミュニティ形成をしている。学校ほど多種多様な活動はしないけれど、目標に向かって切磋琢磨し高め合い、励まし合っている。高校、大学と進学すれば、さらにその集団は同質化が進んでいくのだ。僕は高みを目指すだけだ。今から打ち込めば志望校も不可能ではない。K山のように独学でなくとも塾との併用をすればよいのではないだろうか。そんなことを授業の合間で考えていた。

塾が終わり家へ帰る。
「ただいま」十時過ぎに一人夕飯の残りを食べながら母に言ってみた。
「K山さ、今学校休んでるんだよ」母はふうんとだけであまり興味はなさそうに、空いた皿を片付け始めた。
「今日家に寄ってみたんだけど、あいつ一人で学校の先取りしてた」何で? と食器を洗浄機に並べつつ、母。
「いじめだよ。本人は平気だって言ってたけど――」
「大変ね。でも内申に響く中で頑張ってるのね」と、よそはよそと言わんばかりに素っ気無い反応。内申と聞いてそれが気に掛かった。学校は必要なくとも、行かねば相応のペナルティがあるわけだ。しかし、他で勉強しているのだったら代わりでよいと思うが、本人が高校入試で実力が出せればよいのではないだろうか。

K山の真意は知れない。辛くはないと言っていたが、果たしてそうだろうか。僕の場合、進学のために勉強をし、親の期待を受けながら、成績を気にして、学校での友人は極力つくらず、高い学校を目指す人と関わるべし。遊びは控え、娯楽は読書を好むべし。運動は適度で、部活はやらず、勉強時間を捻出すべし。親は学校に、プライベートに口を出し、僕の空間と時間をみるみる限られた世界へと変えていく。それだけの生活になることは僕には堪え難い。だからこそ自由を求めて僕は進学して大学へ入るために今の状況を甘受しているのだ。
「Kちゃん、大学とか将来のこと考えてるのかしら?」食後のホットミルクを僕の手前に置きながら母は椅子に掛ける。
「まあ、自分なりにやろうとしてるなら進学は考えてるんでしょうけど、少し心配ね」
僕は牛乳を口に含むと、その甘ったるさがやたらと喉に引っ掛かって気持ち悪かった。
「たまには勉強でも見に行ってあげてもいいんじゃない?」言われずともわかっている。どうせそんな暇があるなら自分の勉強をしろと言うのが、あなただ。
「たまにね」一応そう返したが、後になって行く気もないのにたまになどと言ってしまったことに後ろめたさを感じた。K山自身も勉強を見てほしいとは考えていないだろう。

それから部屋に戻り、社会のワークを解きながら、あいつも同じようにやっているのだろうかと思うも、すぐまた集中しようと問題に向かう。背中の壁掛け時計がコツコツと時を刻むのがやけに気になった。

こうして生きていることは、辛いのだろうか。僕が大人になったとき、やはり同じことを強いるのだろうか――。

 

私の新しい学習スタイルにも慣れてきて、季節は刻々と過ぎていった。

私は出席日数も無事問われずに高校進学が決まった。浩介は駄目だったらしい。先日道で出くわしたとき、私は合格を告げると、浩介は少し悲しそうな表情で俯き気味におめでとうと言ってくれた。彼は結局父の勧めた海高を受けたが、偏差値の割りに倍率が高い海高は、浩介をはじいてしまったのだ。本人もかなり落ち込んだと言っていたが、両親の責め様にひどく疲弊しているらしい。滑り止めの私立からまた大学を目指すとは口にしていたが、そのときの彼には、その行動を起こすだけの気力は微塵も感じられなかった。

三月初旬のこと、まだ春という名ばかりの季節に風は冷たいと感じる。そう思えば、浩介がぼやいたのを私は初めて聞いた気がした。

 

三月も残り少なくなってきていた日曜朝。息子を連れて海へ来た。一つは心の療養に、もう一つは気分転換に。気分転換はもちろん浩介にとってであるが、同時に自分に対してもであった。というのも、息子が受験だと知っている社内の者たちが、口々に尋ねてくるわけだ。それが次第に触れてはいけないというような対応に変わるのがわかって、それが余計に私を惨めに感じさせるのだった。
「最後に来たのは中二の夏休みだったか。あのときは何匹釣ったんだっけ?」勉強には触れない。
「三匹。小魚を飲み込んだやつ入れると四匹」

端的に答える。受験が終わってから、益々浩介は口数が減ったように思う。受験結果を思うと、海高を奨めたことに後悔することもある。確かに私立は金が掛かるが、それでも仕方がない。やるだけやってだめだったんだ。三年間で自分のペースを取り戻してくれるだろう。私はいろいろ渦巻く悩みを振り切るために、波を見た。水平線まで一面きらきらと朝日を跳ね返す白波が広がる。船は水面を切って進み、新たな波を生む。静かな朝にボートの音だけがやけに大きく感じられた。風はまだ冷たいが、日も高くなれば和らぐだろう。そんなことを考えながら、船はいつもの場所まで来た。

いつものポイントで竿を準備する。浩介はその間に、ぱちゃぱちゃと撒き餌をする。幼い頃から変わらない光景だ。それでも、そこで撒き餌をしているのは小学生の浩介ではなく、身長も私を越えようとしている十五歳の息子だった。釣糸を針につけ、錘を垂らす。それを放ると、どぷんと小気味よい音を立てて沈んでいく。あとは引くまでただ待つ。浩介も波を眺めている。高校生活まであと二週間、大丈夫だろうか。受験に失敗した浩介の気持ちを理解しようとしたが、きっとその辛さは本人しか分からないのだろう。悔しくもその辛さがわからない自分には、気の効いた言葉もろくに浮かんでこないでいた。

鈴がなる。

別の竿に小魚が掛かったので、それを生餌にもう一度竿を下ろす。

錘を抱えた小魚は深く、そして深く沈んでいく。水底では全てのノイズが消えてゆく。栄養価の乏しい冬を過ごした魚たちは、どれもぶよぶよの脂がどろりと、こ削げ落ちている。目下には数多の砂粒が、百の、億の、那由多の解釈を許し、群生する海藻は、良し悪しのコインを投げ、一斉に裏を返す。私の、その裏を集めた体は、二の何十乗分の一の確率でここにあって、今という状態を有している。釣針と水面へと昇るための釣糸が私をここに縛り付ける。

 

辛いという他者の理解が及ばない存在を、僕は理解することができずにいる。K山の辛い生活は、卒業とともに終わったのだろうか。

僕の気持ちは卒業しても特別変わった気はしない。あの日、K山から合格したと告げられたときの表情からは、そうなのだろうと感じられた。

 

大きな魚影が私を飲み込む。

船上の竿が大きく撓る。大きな弧を描き、先端は水面に着こうとしている。父が竿を引く。慌てて持ち上げたものだから、上げた刹那釣糸はぷつりと水底へ吸い込まれていった。

父は、幹糸を六号へと取り替える。

2015年3月17日公開

© 2015 渡海 小波津

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