女はコーヒーに口をつけながらラジオを聞いている。時折その口元が緩む。女の部屋は薄い橙色の室内灯で満たされていて、ほのかな温かみを感じる。お世辞にも広いとは言えないキッチンカウンターに女は肘をつき、バーチェアに腰かけて足をぶらぶらさせている。モニターに映る女の様子は昨日と変わりない。
監視は主に夜半前から夜中、そして朝方にかけて、女が部屋にいる時間帯に行う。必然、私の生活はほぼ昼夜逆転になる。仕事か何か知らないが、女が日中外にいる時分に私は睡眠をとる。そのあいだ女が誰に監視されているのか、またはされていないのかは知る由もない。なぜなら私は仕事の期間中、外に出ることを許されていないからだ。食料や生活必需品の類はほぼ毎日、同じ連絡員が届けに来る。おそらく私の仕事ぶりを見張る役目もあるのだろう。今回の連絡員は初めて会う小柄な男で、ネズミのように出っ張った前歯を見せながら、いつもにやついた顔をしている。
「今日も飽きずに覗き見か? 羨ましい限りだねぇ」
男は入ってくるなりそう言って、洗濯洗剤やシャンプー、歯磨き粉、髭剃りクリームの類を家政婦のように訳知り顔でてきぱきとしまっていった。
「こんなに恵まれた仕事もそうないんじゃないのかい?」
「それはどういう意味だ?」
「別に深い意味はないさ」
「そんなにやりたければあんたもやったらいい」
「やだよ。俺は夜、ベッドに寝転がってマスをかくのが生きがいなんだ」
ラジオは古臭い曲を奏でている。女は先週もその前の週もこの時間に同じラジオ番組を聞いていた。今月の特集は、ロックで英会話、ということである。パーソナリティーが曲を紹介すると、ジャニス・ジョプリンのハスキーな歌声が流れてきた。
「毎日どうやって処理してるんだい?」
「あんたほどには欲はないんで、毎日処理する必要はないんだ。それにもう若くもないしな」
男は納得したのか諦めたのか、餌をついばむ小鳥のように頭を振りながらキッチンへ行き、冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。モニターの中の女も曲に合わせて首を左右に振っている。女はゆったりとした部屋着姿で、監視されているとは知らぬようにリラックスしている。監視員は対象が部屋にいる間、およそ二時間ごとにその状況を書いて備え付けのパソコンから指定のアドレスに送付しなければならない。具体的に何かをしている場合、例えば今のようにコーヒーを飲みながらラジオを聴いている場合は、「19時5分、ラジオ『英会話の森』聴取、コーヒー、くつろいだ様子」という具合に記す。しかしこれには疑義がある。モニターに映る映像は録画されていて、見るべき人間はあとでいつでも見ることができるはずなのに、なぜ対象の行動を記したものを送らなければならないのか。そのことを連絡員の男にそれとなく投げかけてみた。
「そんなこと知るわけがない。だいたい監視の方の仕事に関して俺は何も知らされていないんだ。あんまり互いの仕事に干渉しないほうがいい気がするぜ。また契約書に制限が増えるとたまったもんじゃないからな」と言って、男は二缶目のビールを冷蔵庫から取り出した。
「連絡員は監視人を何人か掛け持ちしてるのか?」
「おいおい、よしてくれよ。あんたの契約書には書いてなかったのか? 自分の仕事については他言無用だって」
「割とまじめなんだな」
「処世術と言ってもらおうか。自発的な服従がものをいう世の中なのさ」
私にとって監視の仕事は今回が三回目である。体が悲鳴を上げない限りは続けられそうだと考えてはいるが、この仕事について気になることは山ほどある。契約書の内容もその一つだ。今回の仕事の契約書は、前回よりも規制の文言が大幅に増えた。中でも、「今回の契約が終了したあと、その仕事内容について一切思い起こしてはならない」という項目については、物理的に記憶を消すことができない以上、脅し文句と捉えた方がいいだろう。もちろん気にし始めたらどんな些細なことでも気になってきりがないが、やはり男の言った通り、契約書の内容には注意を払わざるを得ない。
「いま聞いていただきました『ベンツが欲しい』は1970年、ジャニス・ジョプリンの死の数日前に録音された曲で、アカペラで歌われている珍しい曲です。今日はこの曲に繰り返し出てくるフレーズ、won’t you~という表現を学んでいきたいと思います」
女の生活は規則正しい方だろう。逆に言えば単調で味がないとも言える。監視を始めて三週間弱になるが、一度だけ帰りが遅い日があった。外で飲んできたのか、そのままシャワーをしてすぐにベッドに入るということが一度、それ以外は帰ってきて食事を済ませてからラジオを聞くか、本を読むか、パソコンを開くかして、そのあとはシャワーをしてベッドへという流れである。しかし私が女の裸を見ることはない。洗面所とバスルームがカメラの死角となっているため、女が服を脱いでシャワーをして寝る態勢に入るまでの一連の流れはシャワーから出る水や唸るドライヤーの音で判断することは可能だが、それはあくまで推測に過ぎない。映像が伴わない限り音と人間の行為が一致しているとは限らないからだ。この点に限って言えば、女はまるでカメラの存在とその位置を知っているかのようですらある。もちろん、動き回る人間の人生すべてを監視することは難しい。世界全体が一つの監視システムみたいなものであれば可能かもしれないが、そんな高度な監視社会があるとすればそれはもはや監獄と同じだ。
「なんでこの曲にはバックの演奏がないんだ?」と、男がビールの缶のプルを引いて言った。缶の口から泡が垂れてきて男のミミズ腫れした指を濡らす。
「演奏を入れる前にジャニスが死んでしまったからだよ。この曲は完成前の準備段階みたいなもんなんだ」
女はよほど気に入ったらしい。連絡員が帰ったあと私は女の聞くラジオ番組をもう一度聞かされ、さらに飽きもせず次の日にもう一度。パーソナリティーの放つ、「Repeat after me.Won’t you buy me a Mercedes Benz?」というフレーズの繰り返しが部屋の中に空しく響いた。
私の方はと言えば、女の部屋を見飽きた。と言っても見飽きることも仕事の一つではあろう。しかし仕事としては見飽きぬうちに場所を移る可能性もある。契約書によれば、一回の仕事の期間の上限は半年と定められている。一日で終わるかもしれず、半年かかるかもしれない。ちなみに前回の監視は二週間で終わった。今は何とかなっているが、この先どうなるかはわからない
ただ、身の内に湧く疑問は決して飽き足ることはない。いったい、いつ、誰が、どんな目的で監視カメラを取り付けたのか? 女はなぜ監視される必要があるのか? 契約書にはこうある。
「理由、目的等、監視業務の内容に関して当局に問い合わせを行ってはならない。また接触する連絡員と業務内容についての会話を行ってはならない」
女の様子からは監視に値するような、例えば政治的、あるいは犯罪者的な臭いはしてこない。ただのラジオ好きで、規則正しい生活を実践する女だ。理由がないことが理由であるというようなことまで疑いたくなる。終わりが見えず、理由も目的もわからない監視は忍耐力を要求される。一方で、理由は行為に感情を生み出してしまいがちだ。冷静な判断力を伴う行為に感情はいらない。監視者は監視している自分自身に入り込む必要があるのだ。
鈴虫が泣き叫ぶような音でアラームが鳴った。日中女が突然帰ってきた場合に備えて、モニターに女が映るとアラームが鳴るようになっている。監視を始めてからアラームが鳴ったのは初めてのことだ。女には連れがいた。女より少し背の低い男が、体の前に首を突き出すような格好でいそいそとベッドへ歩み寄り、服を脱ぎ始める。男がベッドに寝転がっても女の動きは鈍い。もったいぶったような様子で女はラジオをつけてから、目に見えない観衆に見せつけるように一枚一枚大げさに脱衣する。ベッドの上の男の手は股間に伸びている。ラジオはまた例の英会話のようだ。
始まったセックスは、小動物の上から人間が馬乗りになる獣姦のようであった。女は男の上で務めて冷静な素振りで腰を振っている。定時連絡の時間ではないが緊急連絡として、「15時34分、ラジオ『英会話の森』聴取、一緒に帰ってきた男とセックス、落ち着いた様子」とメールに書いて送信した。送信すると同時に、まるで監視カメラの位置を知っているかのようにモニターに女の顔の正面が映った。そこへラジオパーソナリティーの言葉がかぶさる。「このwon’t you~という表現は日常の様々な場面で応用できます。例えば、won’t you help me?だと、すこし丁寧な言い方で、「助けてくれませんか?」となりますね。では皆さんもご自分の境遇に当てはめて応用してみましょう」
続いて男の顔がカメラの方へ向いた。女が腰を打ちつけるたびに彼の口から突き出た前歯が上下に揺れる様は、快感を得る前段としての従順の意思表示であるかのようだ。私はあくまで仕事としてその獣姦を視姦し続けた。しかしあられもない連絡員の顔を見ながら、これは私に見せるためのものではないかという変な考えが浮かんだところで背後のドアが開いた。そこにはモニターの画面上で腰を振っているはずの女が立っていた。
「テストは終わりました。あなたは我々の求める監視業務に耐えうると判断されました。私たちは監視員を正式にリクルートする前に常に準備段階を設けて、録画でテストしています。我々がしかるべきところに供給する監視業務は、高度に精神的、肉体的な耐久性が求められます。あなたはどのような場面でも動揺せず、また眠ることなく、定時連絡を怠りませんでした。よってあなたが望めば正式な監視業務へ登用されることとなります」
そう言って女は私に新しい契約書を提示した。なるほど、この監視業務には理由がなかった。監視されていたのは私であった。私はざっと契約書に目を通したが、特筆すべきは仕事の期間の上限が撤廃されていることであった。たった三週間で耐久性があることにされた私の体は実際どこまで耐えられるのか? というよりも私はここで断ることなどできるのか? 契約書にはまた例のごとく脅し文句が踊っている。「新規契約に至らなかった場合、これまでの業務に関する記憶を処理する場合がある」
もったいぶった様子で私を観察していた女はゆっくりとこう言った。「So,won’t you make a new contract with us?」
退会したユーザー ゲスト | 2022-03-22 22:55
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小林TKG 投稿者 | 2022-03-25 22:29
ある種の体験って、一回離れて、よくよく思い返す時間を設けると、
「あれは、異常で、大変で、最悪だったな」
ってなって、もう二度と出来なくなると思うんです。やってる時はなんか、茫漠としていて異常だけど、大変だけど、最悪だけど、なんかやってるんですけど。
えーと、だからつまり何が言いたいかというと、スカウトしたタイミング、正式に採用したタイミング、あれがベストタイミングだったなって思いました。はい。面白かったです。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2022-03-26 00:20
このアカペラの曲を聴きながら拝読しました。最後でそういう事だったのかとわかってからもう一度読み直すと、そういう寓意は無かったと思うのですが、自分らもどんな危機的状況にあってもそれを冷静に見てる自分がちゃんといるものだよなあ、ある意味自分の人生ってその監視者に見せるためのものかもなあ、などという考えが浮かびました。自分はその監視者の視点から書いてみたいと思っております。
鈴木沢雉 投稿者 | 2022-03-26 05:17
オチも含めて上手くまとまっていると思います。監視している方が監視されている、というある意味ベタなシチュエーションを、伏線を撒きながらも読者に気取られないように描ききっている。
大猫 投稿者 | 2022-03-26 20:44
面白かったです。単調な監視業務の合間に出てくる連絡役の男も良かったし、ジャニス・ジョプリンの歌が効いていました。この歌は初めて聞いたのですが、モニター越しに静かな部屋から聞こえて来るハスキーなアカペラはますます孤立感を深めるようでした。何もかも静かな世界で主人公の内面の疑問符だけが聞こえて来るような。
それにしてもこの契約を結んだ後、どんな監視業務が待っているのでしょう。続きを読みたいです。
Fujiki 投稿者 | 2022-03-27 20:58
どこか不条理劇を思わせる魅力的な設定で引き込んでいる。これまで私が読んできた本だとこういう不条理な設定の話はだいたい何も説明されないまま終わることが多かったので、最後に現実的なオチがついていたことには意外性と新鮮さを感じた。ただ、女が連絡員との「獣姦」を見せつける必然性がよくわからなかった。テストに合格したごほうびと連絡員の慰労の一石二鳥的な?
曾根崎十三 投稿者 | 2022-03-28 12:35
こういう系をよく読んでいたせいか「実は監視している方が監視されているのでは?」とずっと思いながら読んでいました。
セックスを見ても業務を遂行できるかの最終テストだったのかなとは思いましたが、私も大猫さん同様本業務がどんなものなのか気になりました。想像にお任せするラストなんだと思いますが、単純に気になりました。
曾根崎十三 投稿者 | 2022-03-28 12:36
すみません。元々そういう話と書いてますね。予定調和のラストだけれども、整っていて楽しめました。
松尾模糊 編集者 | 2022-03-28 14:21
誰かを監視するという行為は密接に権力と結びついている。彼らの後ろにいる組織、監視をする男、監視する男を監視する人々、それぞれの思惑が明かされないまま展開する話は引き込まれますね。これは長編で読みたいと思いました。
波野發作 投稿者 | 2022-03-28 15:26
無駄のない美しい作品。雇い主が登場するタイミングがバッチリでした。
Juan.B 編集者 | 2022-03-28 17:42
監視という行為はその時間分を相手に割くということでもある。それが不条理性に拍車をかけているのだろうか。面白い作品だった。