鉄の扉の向うから鐘の音が聞こえる。僕らはその響きを掻き消すかのように、卓というのにもお粗末なマットの上でひたすらに麻雀牌を洗い続けていた。
「しかし、これ本当に麻雀用のマットだったんかねえ。パターゴルフとかそういうやつのなんじゃねえの」
自身最後の親であった南三局もあっさり、3900(ザンク)で蹴られ、オーラスの一局を僅か4000点という寂しい懐事情で迎えなければならなくなっていた「シーブリーズ」はすっかり集中力を切らしていた。シーブリーズというのは勿論、彼のあだ名である。入学して早々に行われたオンラインオリエンテーションで一日も経たぬうちにそのぬらぬらと黒光りした広大な額を茶化されるようになっていた彼は、面識の浅い面々の雑なからかい文句に対して、
「だから大丈夫なんだよ、俺は毎日シーブリーズで洗っているから!」
という決まり文句を、肩を怒らせつつ、吐き捨てることで、学部内の全員にとってすっかり顔馴染みの存在になることに成功していた。その場では一声も発することのできなかった僕は、「これがコミュニケーション強者という存在か」とマグカップに入ったぬくいカルーア・ミルクを啜りながら、ぼんやり遠くに感じたものだったが、そんな彼とは英語の授業や講義内でのロールプレイで言葉を交わしていくうちに思いの外、仲良くなった。藤井風をYoutubeのカバー動画の頃から追っかけていたり、乗代雄介の小説を好んで読むような青年に小中高通じて僕は今まで会ってこなかった。仲の良い友達はいたけれども、そんな話を日常の会話の中に織り交ぜながら、話すことになる最初の友達がまさかヘディングのし過ぎで弱冠20歳にして、既に頭皮が寂しくなったお調子者になるとは、その当時の僕は思ってもみなかったのだ。何せ、河に4枚目の牌が流れてくると、すぐに暗刻を明槓し、僕らにドラを増やしてアシストした挙句にあっさり振り込んだりするような軽薄を絵に描いたようなやつだ。偏見だが、そんなやつが乗代雄介を読むなんて僕は想像だにできなかったのだ。
そして、今、卓を囲んでいる4人とは、そんな話に浸りながら、日々の生活を送るようになった。上家に座る「加藤専務」とは、歳こそは親子以上に離れているけれども、丸紅茜の漫画を紹介された縁で仲良くなれたし、対面に座る「文化」こと東山とは、それこそオンライン麻雀の為に作ったSNSのアカウントをお互い大学の同学部同級生であると、知らないままフォローしあっていた時からの仲である。トップ争いとは少し離れた3位につけながらも、自身に親が回ってきた「文化」の目は「シーブリーズ」と違いまだ死んでいなかった。しかし、見様見真似で一枚ずつ積み上げた牌山から手牌をこさえていく度に、首をひねったり、もじゃもじゃの頭を掻きむしったりもしていたので、どうやらあまりいい配牌とは言えない状況のようだった。
「文化にこそ、シーブリーズが必要かもしれねえな」
「シーブリーズ」がくすくすと笑いながら、僕に耳打ちした。ところどころ黴臭く毛羽だった翠のシートの対面にははらはらと白いフケが舞い降りて、窓の外の景色とどことなくシンクロしているようだった。オンラインの液晶画面越しに話している分には、永遠に気づかなかったことだったろうが、そんな彼の新事実を別に知っても喜ばしくも、そして、思ったほどは不快にも感じなかった。ただ、「パルメザンチーズみたいだな」と呟く「シーブリーズ」のことを黙殺して、僕は、僕の手牌たちがどんな形でもいいから、孤立せず、緩やかにくっつくことを願いながら、牌山を掴んだ。
学生寮で陽の目を浴びず、おそらく数年間眠り続けていた麻雀牌たちの手触りは気味が悪いほどに瑞々しく僕の乾いた指に吸い付いた。僕はこの感触をどこかで知っているはずだった。亡くなった祖父母の家にあったペンギンのお子様プレート……滅多に使われていないはずなのに、盆や年末、限られたシチュエーションで食器棚から取り出される度、あのプレートも僕の指によく馴染んでいた。
🀔🀎🀔🀟 🀌🀀🀝
一際、僕に吸い付いて離れなかった牌には🀉の文字が記されていた。この先、どうとでもなりそうな牌だ。ドラの🀋とも近い。
けれども、目下のところ、トップとは僅差の2位につけている僕にとって、この牌が都合の良い存在になりそうな匂いが仄かに漂っているのを感じた。トップを40200点で走る「加藤専務」とその差は1200点しかない。この際、役なんて何でもいい。ただ彼より早く上がればいいのだ。
しかし、「加藤専務」の麻雀はオーラスのこの局に至るまで、一貫して堅実そのものだった。和了る時は、メンタンピンにドラや三色を絡めたりして、確実に満貫なり、2600オールなり、そういった形に手牌を仕上げ、貰い事故のような振り込み以外では基本、放銃も一切しない。そんな麻雀を展開する彼がこの状況で、僕に直接振り込んでくることは考えづらいし、何より、「加藤専務」自身も最短経路で和了りまで、駆け抜けてくることは容易に想像される。このオーラスの局は名残惜しいけれども、年が明けるまでにカタがつく。僕と専務との短距離走であることは、卓ならぬシートを囲む4人全員がおそらく感じ取っていることであった。
「いよいよ、オーラスですねえ。僕も昔は、家族なり、友人なりと、こうして、牌をジャラジャラと洗ったり、自風牌をさっさと切られたことに腹を立て、口角沫を飛ばしながら、言い合いをしたりしたものですよ」
割れた爪でしなやかに牌を捌く「加藤専務」に僕らは少し目を奪われながら、不器用な手つきで牌を摘まみ、河に捨てた。東一局で「文化」が17の牌を失敗したシガーボックスのように盛大にぶちまけてから、場の風にあわせるように1枚ずつ山を積み上げるようになったことからも見受けられる通り、いつも安穏とした「加藤専務」だが、それだけに、入寮の際、帰省をしないこの4人で年越しで、卓を囲もうと提案したことには、僕は驚きを抱いていた。
「やってみませんか、実際に卓を囲っての麻雀。オンラインじゃあない。見つけたんですよ、年季の入ってそうな麻雀セットが。鞄のデザインもなんだか、ルイ・ヴィトンに似せたチンケな代物のようですが……ニュースのコメンテーターが無邪気にアプコンの人たちは遊びをした経験が足りませんからねえ……なんて、談笑をしているのを見て、僕は……いても経ってもいられないんです。もしよければですが、共犯になってやくれませんか」
アプコンとはアプレ・コンフィネ。籠った後……その後の世代、すなわち僕らの世代のことを指す言葉として、どこかの教授が言い始めてからというもの、あっという間に巷間に流行した新語だ。僕らはとかく経験の足りない世代と言われている。こんな風に面と向かって、口元すらも裸の状態で、卓を囲ったりなんか、当然、したこともなかった。まったくもって初めてだった。
高校を出て、すぐに社会で働き、土に塗れながら、現場監督、支局長、そして、最後は叩き上げで専務にまでのし上がった「加藤専務」は、「僕にはみんなのような学も一を聴いて十にも二十にもくみ取れる聡明さも備わってはいませんが、時代に恵まれて沢山、遊んだ……ふざけた。そのくせ、まだまだ遊び足りないと思っているような救えない男なんですよ」
そう、言いながら🀚を一瞥し、河に捨てて微笑んだ。先ほどからもう3巡もこうして、「加藤専務」は悪戯な笑みを浮かべて牌をツモ切りしている。1巡目の🀅ならまだ分かる。けれども、ドラでもある🀋やまだ河に流れていない🀚のような牌を即リリースするようならば、これはもう十中八九、「加藤専務」は張っている。何しろ、トップの「加藤専務」に立直をするメリットなど薄いのだ。
僕は慌てて、その🀚をチーして、手牌をイーシャンテンまで持っていった。ドラも絡んできそうだし、和了るだけなら喰いタンでだっていい。もしかしたら、この状況下なら、最後の最後にトップからの直撃で逆転勝利を収めるなんて幸先のいい新年の幕開けを迎えることもできるやもしれない。2巡後の🀍もいただいて、僕も張り合うようにテンパった。
🀌🀍🀎🀚🀛🀜🀝🀞🀟🀔🀔🀉🀊
「加藤専務」が🀋をツモ切りしたすぐ後に、僕が🀊を引いたのは実に歯痒い流れだった。なんだなんだ、この牌、ちゃんとまざっていないんじゃあないか。デジタルとアナログのどちらの方を危うく感じるのか、また、信頼を置くのかは人それぞれだろうが、僕らアプコン世代は慣れ親しんだデジタル側につく者が大多数になるだろう。こんな風に直接、赤や黒の分かりにくいポッチのついた点棒のやり取りをしていると、うっかり落語の「時そば」のようにチョロまかされないか心配に思えてくる。
こうしている間にも、危険牌である🀟をまたツモ切りする「加藤専務」が、
「いやあ僕ァ、やっぱり麻雀ってやつが好きなんだなあ。将棋もいいですよ、年甲斐もないかもしれないけれども、アプリゲームのRPGも面白いです。でも、ずっと勤め人だったからですかね、駒の方に心を寄せちゃうんですよ。昔は飛車角を恨めしく思うしがない歩兵のようでしたが、柄にもなく最後にと金にさせてもらった時にね、何だ僕らはみんな駒じゃないか、取られたら終わる玉将を含めたって、それは変わらないんじゃないかって、プレイヤーはもうね、人間ですらないんじゃないかって……でも、こいつは違う。どんなに囲碁将棋の名人がAIに打ち負かされても、この世界には運否天賦もオカルトもある。僕ら人間によっぽど適している。一期一会の大河の一滴なんです」
そう独り言ちると、「文化」が眼鏡の蔓を持ち上げて、
「ああ、分かる気がします。先の戦いはもう人間対ウイルスなんじゃなくて、人工知能対ウイルスの勝負なんじゃないかって、こども心に思ったものですよ。戦争の前線はいつだって、地獄ですよ。戦局なんてものに関係なく、駒が討った討たれたで、悲劇です。同じ駒同士なのに、立場だ、メンツだで、いがみ合ってね。誰に頼まれるでも、読まれるでもないネット小説をせこせこ上げ続ける僕なんかはもう殆どウイルスみたいなものですよ、人の感情の襞に寄生して、生き永らえようとしながらも、ポンコツ過ぎて社会って免疫に阻まれる……五炭糖……そうはうまくいかないな、二炭糖になっちゃいました」
分かった顔をしながら、🀈を河にリリースした。
それはまさしく、僕の和了り牌だった。
「ロ……ロ、ロン!」
涎が滴り落ちるかのように、その言葉が僕の口から零れ出た。不敵なこのオーラスの局で僕は最初にテープを切ることができた。「加藤専務」より先に、和了ることができたのだと。逸る気持ちがそうさせた。しかし、これがとんだ早計であることにはたと気づいたのは、年が明けたことを意味する除夜の鐘が、コンクリート打ちっぱなしの学生寮の角部屋にもしかと届ききった後になってからのことだった。
「おーい、高橋貴司ちゃーん、チョンボより酷ェよ。1翻30符……1000点ぽっきり。お前の負けェェ!」
「シーブリーズ」がケタケタと哄笑しながら、僕に抱き着いてきた。やっぱり、僕らアプコンたちは経験が足りないらしい。だったら、こんな瞬間もまた、噛み締めたら、いいんじゃないだろうか。
「焦りました。完全に加藤専務……加藤利充プロにしてやられました。この中で、群を抜いて童顔な僕はずば抜けてひよっこでした。改めまして、加藤利充さん、東山蓮さん……シーブリーズさん、明けましておめでとうございます」
僕は新年早々、屈辱の口上を述べて、頭を下げた。
「なんで俺だけあだ名のままなんだよ、高橋!」
叫ぶ「シーブリーズ」に、僕は「だって本名なんだっけ」と、軽口を叩いて答える。
「半沢だよ! 尚は向かう……みたいな字を書く方で、それで半沢尚樹!」
「紛らわしい」
「その名前であだ名がそっちに引っ張られないってどんだけお前シーブリーズなんだよ」
「そもそも、お前の負けってそれ、半沢のセリフじゃないから」
コンクリートの壁と鉄の扉に守られて、僕らの哄笑はいつまでも室内にこだまし続けた。
小林TKG 投稿者 | 2021-01-21 07:19
漫画で読みたい。漫画で読んだらすごくいい気がする。そんな風に思いました。絵も欲しいという感じの話。ただ卓を囲むだけのあまり動きのない漫画になるかもしれないけども、でも漫画で読みたい。そう思いました。漫画を欲しました。それをお酒飲みながら読みたいと思いました。
退会したユーザー ゲスト | 2021-01-22 22:16
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Juan.B 編集者 | 2021-01-23 21:47
文章で見ると、麻雀に馴染みのないものにとっては、全く架空の競技に思えてくる。麻雀で異世界のような体験をするとは思わなかった。これは爽やかな終わりと始まりを迎えられたと言う事なのだろうか。牌フォントの使い方は純粋に役に立っていると思うのだが。麻雀を学生の時にでも覚えておけばよかった……。
アプレ・コンフィネ、俺も使おうと思う。時代はアプレゲールじゃなくてアプレコンフィネだぜ。
Fujiki 投稿者 | 2021-01-24 12:58
ボキャブラリーがさっぱりわからないのがつらい(私自身の問題ですね)けど、チルい時間が流れてるなと感じた。一晩じゅう麻雀に没頭してしまう人々はこういう時間性の共有を楽しんでるのだろうか。
松尾模糊 編集者 | 2021-01-24 13:46
麻雀を窘めてないので入り込めなかったのですが、藤井風や乘代雄介など流行り物を取り入れるところに優しさを感じます。シーブリーズ、体育授業後の夏の匂いという世代感も懐かしいです。今はドルガバもひとつの世代を象徴する匂いなのでしょうか。
大猫 投稿者 | 2021-01-24 14:21
新春麻雀というかただの徹マンじゃないかという感じがしないでもありませんが、リード文の通り、麻雀用語は中華の重い歴史を背負っているせいか美しく荘厳で、なんだかすごく偉くなったような気持ちになりますね。ただのギャンブルなんだけど。
登場人物それぞれの人柄ゆえか、賭けマージャン独特のいやらしさ、ヤニ臭さや酒臭さがないのが良いですね。そこはかとなく文明批評も論じられていて、知性ある人が書くとこうなるんだなあと。
私は麻雀はド素人レベルなので一翻で上がれたら万万歳です。ていうかそれでしか上がったことないです。牌の回りが早すぎてついて行けないです。麻雀上手い人はすごいな。感心ばかりになってしまいましたが。。。
川獺右端 投稿者 | 2021-01-24 17:20
麻雀はよくわからないのですが、まあ、お正月から大変ですね。
松下能太郎 投稿者 | 2021-01-24 18:05
麻雀をやりながら交わされる会話にはどこか淡い光のようなものがあるなあと思いました。ラストは「ああ、新年だなあ」と思わせるような締めくくりで、なんだかよく分かりませんがじーんときました。
古戯都十全 投稿者 | 2021-01-24 20:48
近未来アプレ・コンフィネ麻雀小説ここにあり、と言う感じですね。
久しく牌を触っていませんが、まさにそういう人間の心をくすぐらんがためにあるような作品かと思います。
点差と喰いタン狙いからうっすらとオチが想像できたりもしましたが、コンクリートと鉄に囲まれた男たちのやるせない台詞や、ソーシャルディスタンスに抵抗して集まって騒ごうとする一種の抵抗姿勢などが考えさせられるところが多く、面白く読みました。
波野發作 投稿者 | 2021-01-24 23:37
わかるー
諏訪真 投稿者 | 2021-01-25 16:40
シーブリーズという辺りが若いなと。(麻雀はほぼ素人として
諏訪靖彦 投稿者 | 2021-01-25 16:47
中高と麻雀ばかりやっていたので楽しめるけど、麻雀のルールを知らない人を置いてけぼりにしてやないかと思いつつ、知らない人でも雰囲気で読めるなあ、さすがだなあと。計算できなかったのはお酒でも飲んでたのかしら。私はお酒飲みながら麻雀すると染め手ばかりになってしまいます。
鈴木 沢雉 投稿者 | 2021-01-25 22:28
麻雀ってみんなどうやって覚えるんでしょうね