心はついふらりと

応募作品

春風亭どれみ

小説

4,993文字

自粛中、セーラームーンの動画ばかり見続けてあやうく〆切に間に合わなくなりそうでした。御年30歳。

「お墓参りくらい行かせてくれたっていいじゃないか、罰当たり。なら、せめてあそこにだけは行かせておくれ。だいたい減るもンじゃあないだろう。お兄ちゃんもお墓の中で泣いてるよ。まったくお前は不良娘だヨ……」
「あのね今、行ったらお母ちゃんの命なんか簡単に減っちゃうの。亡くなっちゃうの。萌々香もスマホで遊んでばっかりしてないでお祖母ちゃんに言ってちょうだいよ、ホラ」
「えー、祖母ちゃんにこの状況理解できないでしょ。それに萌々香、別にスマホで遊んでるわけじゃないから、大事なことしてンの」

昭和の中頃に建てられて以来、ロクに改修もされていない県営住宅の壁は今の基準で考えるとべらぼうに薄い。なので、聞き耳を立てたりしなくとも、隣の203号室の井村さんちの絶えることのない口喧嘩は一言一句漏れることなく俺の耳に情報として入ってくる。まして、俺も井村さん一家も近頃、休業状態で家の中に籠りっぱなしだ。もともと、職場と家の往復以外にすることといったら、贔屓のサッカーチームの応援くらいで、それ以外に取り立てた趣味を持たない俺は、世相がこうなってしまうと居間にゴロリと寝転がり続けて、本当にすることが何一つない。テレビもネットも俺の知らない人たちの真偽も分からない怒りばかりで、目に、耳にすることすら気後れする。なんなら、知らない人間の怒りよりも多少は見知っている人間の怒りの方が幾分、情報としてマシなのかもしれない。そう感じる今日この頃の俺なのだ。

 

井村さんちはおそらく離婚でもしたのだろうシングルマザーの……確か名前は明子さんといったはずの奥さんに年頃の中学何年生かくらいの娘さん、それに御年86歳の和子さんの女性3人で、俺が越してくるずっと前からこの団地で過ごしているようだ。そして、詳しくは知らないけれども、早逝した息子さんも1人いたらしい。和子さんの情報だけ他の二人よりも仔細があるのは、井村さんちの中で俺と和子さんだけが時折、会話をする機会があるためである。和子さんは俺の引っ越してくる少し前から認知障害が始まっているらしく、俺のことを昔、この部屋に住んでいたらしいケン坊だと思い込んでいて、自分のことと、それから少しばかり昔はヤンチャをしていたらしい奥さんの過去のことを、ばったり玄関先で会うと、こちらの状況もお構いなしに話してくれるのだ。

 

「アタシャ、昭和9年生まれで新制の中学校を出ているからね。あの娘はアタシのこと、痴呆の婆さんだ婆さんだ馬鹿にするけど、気持ちは殆ど変わらないンだよ。あの娘だって、自分のことを若いと思っているけど、萌々香にはアタシもあの娘も変わらないヨ」

普段はそれを、人生には活かしようもない情報を一方的にシャワーとして浴び続ける実に無駄な時間だと疎ましく思っていたけれども、最近はちょっぴり恋しくさえ思える。和子さんが拗ねて家を出ていくタイミングで俺は偶然を装い、紐の拠れたマスクをかけて扉を開けた。どうせ、今日は食料品を買いに出かけなければならなかった。どこかで結局は冷たい視線を浴びなければならないのだ。
案の定、和子さんは玄関先で腰をどっかと下ろして、センチメンタルな子どもにかえったかのように拗ねていた。それは時折、俺も目にする光景で、こうなってしまうと、和子さんも奥さんも長く、小一時間ほどずっとこのままでいることも珍しくなかった。奥さんが心配し、先に折れて扉を開けることは殆どなく、たいてい和子さんが腹を空かせて、ストライキを断念し、この誰も気にも留めない衝突は終わりを迎える。

失踪でもして、市の無線を通じて捜索願が出されることを井村の奥さんは心配したりはしないのか。
そんな声もあがりそうに思えるが、別に奥さんは薄情なわけでも浅はかなわけでもない。理由は今、和子さんの前に広がる僅か13段の団地の階段にある。この障害によって、和子さんはまるでレベルの低いRPGゲームの主人公のようにこれより先に進むことが出来ない。その為、失踪してしまう心配はないと井村さんはふんでいるのだ。働き世代には殆ど存在しないに等しいこの僅かな段差がなければ、杖を突きつつゆっくりではあるが、和子さんも歩を進めることが出来るのだけれども、この最初と最後の関門だけはいつも奥さんの背中を借りる以外、彼女には手立てがないことを隣人である俺も知っていた。その為か、奥さんはこうした状況になる以前からあまり頻繁には和子さんを連れて出歩くことには気乗りしない風ではあった。尤も、2階というまだ心理的にも耐えうるハードルである為に3人は同居をしているのであって、これが団地の4階や5階に住んでいたとなったら、和子さんは今頃どこかしらの老人ホームで日々の生活を送っていたに違いない。

 

「誰かと思ったら、ケン坊じゃないかい。アンダイその成りは。まるでゲバ学生じゃあないか。いい年してそんな恰好をしてたら佐藤さんも泣くよ。うちの娘といいいつまでたっても不良気分が抜けなくて呆れたァもんだあね」
どうやらケン坊は佐藤姓らしく、そして、今の俺はあくまでも和子さんと玄関先で偶然落ち合ったにすぎない。

「そうですよ、外は今過激ですから。どこに行くにも今はこれをつけてないと襲われちゃいますからね」

俺はそう言って、和子さんに男物のハンカチを渡した。広げれば小柄な和子さんの顔面くらいは覆える大きさのある布だ。ハンカチを手にしながら、まごつく和子さんに手を貸しながら俺は、一昨日、スーパーで見かけた、上下灰色のスウェットに烏みたいな黒いマスク姿でシールの付いた品を物色している井村の奥さんのことを思い浮かべた。

「ケン坊、アンタ、スーパーにでも行くンだろ。だったら、アタシも連れてってはくれねェかい。車を出してくれなんて贅沢言わねェヨ。スーパーに行って、帰りにちょっと公園に寄って帰る。それだけでいいからヨ」

和子さんは蠅のように手をすり合わせて、俺に懇願し出した。へりくだってはいるけれども、俺が観念して「分かりました、連れていきますから」とでも言わなければ、顔を頑としてあげようとはしない依怙地さが感じ取れる。尤も、俺はハナからスーパーに買い出しに行くつもりだったので、それを口にするのに、露ほどの時間もかからなかった。和子さんはよぼよぼと俺の背中にもたれかかり、「かたじけないねェ、かたじけないねェ」と念仏のように繰り返していたが、それを聞き流す俺は一人の人間の身体がこれほどに軽いものなのかとなんだが物寂しい気持ちになった。その命は、俺が日頃、職場に背負っていくリュックサックよりも遥かに軽い。別に命の重さなんてものはただの比喩であり、キログラムで測るものではないことくらい分かるのだが、その気持ちは一度湧いたら、理屈で止められるものではなかった。俺は、徒歩5分先にあるスーパーにその倍の時間をかけて到着するまで、そのまま彼女をおぶりつづけていた。

 

 

和子さんをスーパーの入り口に、まるで紐に繋がれた犬のように待たせてしまっていた俺は、迅速に買い物を済ませた。買い物一つ、周りの目を気にしなければならない難儀な時代だ。それにそもそも、和子さんは今、本当ならば、玄関先で膝を抱えていなければならないはずなのであり、用が済めば、俺は早急に和子さんを家に帰してあげなければならない。井村和子の名前が街角のスピーカーから流れることがあったら、俺にとってもコトである。

 

「悪いねェ、公園まで連れてってもらった上に、こんなものまで買ってもらっちゃって」
「まあ、それくらいは別にいいんですけど、そんなのをお婆ちゃんが飲むんですか」

 

和子さんがスーパーで俺に一つだけねだったものは、小瓶に入った炭酸の栄養ドリンクだった。俺も疲れた時、たまにお世話になる代物であるが、老人好みする飲み物だとはお世辞にもいえない品である。ついでに俺もそいつをもう一本買って、公園のベンチに腰掛けながら、ぐびりと一杯やってみた。公園といっても子どもが喜びそうな遊具があったり、また、鬼ごっこをするほどの十分なスペースがあったりするわけでもない。敷地一面に砂利が敷いてあり、俺と和子さんが座っているベンチと、今時珍しい金網のくず籠と、それにこの団地が出来る前からもともとあってどかすことが出来なかったと思われるお地蔵さんが一人……それだけの場所だ。存在は知ってはいたが、思えばここにどっかり腰をかけて、一息ついてみたりすることもなかった。何しろ、俺の部屋のある団地の棟と近すぎるのだ。
団地の灯りの中から、井村さんの家のものを探して、「これだけ近場なら、いざ奥さんに詰められても、本人が行きたがっていたから手伝ったと言い訳もつきますよ」と、和子さんに呟いた。

「そうだよ、これだけ近場なンだから、我慢してうちまで持って帰ればよかったンだヨ。そしたら、お母ちゃんがおかしいよ、そんな気味悪いのは捨ててきなって言えたンだ。でも、あの子は優しいからお母ちゃんか明子の為に持って帰ってあげたンだァね。ああ可哀想だ、可哀想だ……ナンマイダブナンマイダブ」

和子さんはふがふがと体中を震わせながら、お地蔵さんに近づき、その傍らに小瓶をそっと供えると、俺がかつていたという情報でしか知らない亡くなった息子さんの最期を、独り言のような口調で語り出した。その最期はなかなかに壮絶で事件性のあるものだった。地元の企業に就職し、毎日夜遅くまで働くようになっていた息子さんはよくこの公園にかつてあったという自動販売機で、栄養ドリンクを一杯飲んでから帰るのが日課になっていたのだという。その日も、いつものように自販機で栄養ドリンクを頼むと、何故か受け取り口の下には小瓶が2本あった。彼は機械の故障でたまたま多く栄養ドリンクが出てきてしまったとでも思ったのだろうか、そのうちの1本を鞄の中にしまい、もう1本の方をベンチでぐいと飲み干したが、彼が飲んだ方のドリンクは無差別テロの凶器としてあらかじめ仕掛けられていた農薬の混入された代物であり、紛うことなき劇物であった。彼は翌日、職場で体調の異変を訴えるとまもなく意識を失いそのまま帰らぬ人となった。

「リッパな無差別テロじゃないですか。こんな閑散としたベッドタウンでそんな凄惨な事件が起きていたなんて……」

俺はあやうくそんな言葉が口から零れそうになるのを押しとめ、「今、俺はケン坊なのだ」と改めて念じなおしてから、神妙な面持ちで和子さんの話に相槌をうちつづけた。さりげなく俺はスマホを取り出し、事件のキーワードを並べて検索エンジンにかけてみた。それはWikipediaにもコトの詳細が掲載されているほどには当時のワイドショーで取り沙汰されたこともあるニュースであったようだが、青く変色している4桁の西暦年にリンクしてみると、何故俺がその事件をまるで知らないのか合点がいった。

俺が生まれる1年前のその年はあまりにも惨い事件が多くありすぎたのだ。そのいくつかは俺でも知っていたり、それどころか教科書で習ったりするほどの大事件だった。

和子さんの息子さんの悲劇はまた新たな悲劇で上塗りされ続け、熱しやすくも冷めやすい人々の心から薄れ、消えてなくなっていた。つまりはそういうことなのだろう。その4桁の数字が19から始まろうが20から始まろうが、それに数字以上の違いがどこにあるというのだろうか。去年も一昨年も、そして、今年もまるで変わらないじゃあないか。

 

「今でもお母ちゃんこの時期になると、夢を見るンだヨ。こんな婆さんになっても、おかしいねェ、昨日のことのようにしか思えねェンだ。だから、ひょっこりお前が帰ってくるンじゃあないかって。明子も結婚して孫もいて、それだけでまだお母ちゃん恵まれているのかもしれねェンだけど、それでも、お前に会いてェんだ……」

 

和子さんが毎年、この季節に公園に出向き、手を必死にこすり合わせても35年間そうあり続けたように、けっして亡くなった息子さんが甦ることはないのだし、彼女の行動などで取り立てて何かが変わることはない。まったく不要不急の風習だ。けれども、俺はその不要を背負った後ろ姿に掛ける言葉も見つからないでいたのだった。

2020年5月18日公開

© 2020 春風亭どれみ

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"心はついふらりと"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2020-05-21 23:22

    江戸の長屋の人情譚をそのまま令和に持って来たような味わいがある。和子の下町言葉もいい。生活のスピードに対するイメージからか今回の合評会では高齢者の話が多いが、どれも三者三様の素晴らしさがあって甲乙をつけ難い。忘却された悲劇に迫るくだりは、ペーソスを効果的に演出していて全体のバランスがうまく計算されているなと思った。星五つ!

  • 投稿者 | 2020-05-22 19:56

    これはほんとに不要不急の外出なんかではないですね!こんなおばあちゃんがいたらほっとけないです。
    ユーモラスな語り口ながら今現在の災禍だけでなく主人公が生まれる前の惨劇にも言及し、のみならずそれらが風化していく哀しさも捉え、それらを耄碌しながらも小さな身体ひとつで受け止めているおばあちゃんが切ないです。
    とても広い視点を持った作品だと感じました。

  • 投稿者 | 2020-05-22 23:30

    殺伐とした世の中になり、自分の強いられた状況を他人にも怒りを用いて強要する人が増える中、側から見たら不要の外出に見えることでも本人には欠かす事の出来ない大切な用事であることがある。不要の価値は人それぞれに違う。読んでいて、その様なことを気付かされました。

  • 投稿者 | 2020-05-23 13:15

    主人公が和子さんの体の軽さに物寂しさを感じたくだりは、僕も以前祖母に対して同じ感覚を抱いたことがあり、はっとさせられました。
    会話の書き方が素晴らしいと思います、話している人の表情や雰囲気が感じられる描写だなと思いました。

  • 投稿者 | 2020-05-24 00:24

    人情物の落語のようだった…「外は今過激ですから」にクスッとしました。

  • 投稿者 | 2020-05-24 01:32

    セーラームーンにこんな話あったかなんて考えながら読み進めました。それはさておき、春風亭さんの作品を読むたびに思うのですが、お優しい性格が文章に現れていますよね。物語の構成もうまく、最後にほろりときました。

  • 投稿者 | 2020-05-24 04:02

    隣人同士の関わり合いが希薄化していく現代において、隣人の和子さんとのやりとりは「俺」にとって心安らぐひとときなのだろうなあと思いました。最後の和子さんの息子さんに語りかけるセリフには胸に迫るものがありました。

  • 投稿者 | 2020-05-24 12:26

    35年間、息子の菩提を弔い続けて来た和子さん、認知症になってもそれだけは忘れない、その胸の内を思うと涙が抑えられません。淡々とした語り口に登場人物のちょっと伝法な口調が引き立ちます。
    和子さんをおんぶしてみたらリュックよりも軽かった、のくだりにもじんわり来ます。本当なら息子さんが背負ったはずだったのに。

    そうか、「青酸コーラ事件」「パラコート事件」、あれからもうそんな時間が経ったのですね。たくさんの人が亡くなった身の毛のよだつような事件でした。自動販売機で飲料を買わなくなった覚えがあります。
    小道具に使うには、私にはこの事件は重すぎるのですけど、何十年分の悲しみ苦しみを抱えつつ体だけ軽くなった和子さんと、現実生活に適応して兄の死を乗り越えた娘の明子さんの姿が救いになったことでした。

  • 投稿者 | 2020-05-25 11:45

    人情物のような話と構成に、技術の高さを感じました。普遍的な正しさなど存在しない、ただ一人一人の人間にとっての正義があるだけだ、ということを思い出させてくれる小説でした。感動系のお話でありながら、自粛下の個人の自由を問うようなお話だと思いました。

  • 編集者 | 2020-05-25 17:57

    俺もuberの悪態考えてたら遅れた。不要不急なんて勝手にどこかの誰かが押し付けただけだという事を、和子の姿から改めて再確認させられる。会話が心地よい作品だった。

  • 投稿者 | 2020-05-25 18:31

    やや重い展開ながらも読後感は爽やかでした。外出自粛を他人事のように捉えている俺が、徐々に外出へと巻き込まれていく流れが読みどころかと思います。

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