それから数日後、何事もなかったかのように佳穂ちゃんが塾にやってきた。Bコマに入った英語を受けに来たのだ。すでに授業開始時刻を十分ばかり過ぎていたが、佳穂ちゃんは慌てるそぶりも見せなかった。
記録を確認すると、最後に彼女が塾に顔を見せたのは一ヵ月半も前であった(尤も俺は、二週間ほど前に彼女の自宅に受験票を届けに行ったときに一目顔を見ているわけだが)。よくもまあ授業料も払わず授業も受けに来ない生徒を辞めさせないものだと、甚だ呆れ、それと同時に、少しだけ愉快に思った。
「よく来たね。」
と俺は言った。「模試は受けなかったんだね。」という言葉を、すんでのところで抑えた。
なぜか学校の制服を着てきた佳穂ちゃんは、コクリとうなずいた。そして、肩にかけた黒い鞄のチャックを開けて、白い封筒を取出し、俺に手渡した。見ると、「塾長へ」とある。
「くれるのかい。」
そう問うと、佳穂ちゃんは又も同じようにうなずいた。そして、俺の「ありがとう。」という言葉も聞かずに、教室に入って行った。胸騒ぎがした。封筒の中から、佳穂ちゃんの赤ちゃんが透けて見えた気がした。
俺は、フリスクを数粒口に放り込み、少しだけ頭が冴えたのを確認すると、その封筒を開いた。中には、四つ折りになった便箋が入っていた。その文面は、いつもの消え入りそうなほどに低い筆圧で一言、
好きです。
とあった。眩暈がした。はっきり、目の前が暗くなった。俺は両方の手のひらで自分の頬を強く打った。痛みが感じられなかった。自分の中の誰かが、始まったぞ、と言った。ひっそりと呟いた風であったが、俺の耳にはよく聞えた。自然、俺の手はフリスクの箱を摑んでいた。
周りを確認した。もちろん、誰も見ていない。しかし今見られていないからと言って、放っておいて好い代物ではない。あまりにこれは危険すぎる。
だがそうは言っても、俺にはこの手紙を安全に処分するスベがなかった。当然ながら、塾のゴミ箱に捨てるのは論外だし、引出の中に締まっておくわけにもいかない。
俺は折目に沿って手紙を折り直した。それから更に一回折り、もう一度周りを確認し、スーツのポケットにそっと締まった。自分の中に嵐を封じ込めた気持であった。
しばらくしてから見回りのために教室に入った。佳穂ちゃんの様子は、一ヵ月半前とまったく同じ風に見えた。俺にはそれがたまらなく恐ろしかった。
教室には修一くんの姿もあった。小林先生の英語を受けている。普段であれば五分少々遅刻して塾にやってくるのだが、今日に限って時間通り席についていた。加えて、無駄口を叩くことなく真面目に授業を受けている。それは先ず以てありえないことだった。修一君は、どの教科であろうと、あるいは担当が誰であろうと、口を閉じておくということが出来ない子なのだ。このことと佳穂ちゃんの件には、何か因果があると思えてならなかった。
授業が終ると佳穂ちゃんは挨拶もせずに帰って行った。それはしかし、いつものことである。そしてこれもいつも通り、流れ作業のごとく俺は、彼女に「おつかれ!」の一言をかけたのであったが、今日ばかりは意識的に無視された気がした。こうしたよそよそしさは陳腐だが、そう言って哂えるものではなく、極端に言えば、犯罪の片棒を担がされたに等しく感ぜられた。
一方の修一くんは、補習のために自習室に残されているらしかった。小林先生共々、教室から姿を消しているので、これは間違いなかった。
Cコマが始まる直前に、佳穂ちゃんの担当である茨木先生が授業報告書を見せに来た。すでに彼は帰る準備を済ませ、右肩にリュックサックを掛けていた。俺は、コピー機の後ろで壁に立てかけてあるパイプ椅子を出してきて、そこに彼を座らせた。
「強引だなあ。」
と茨木先生は言った。そうして、大半が白くなった頭髪をボリボリと搔いた。彼からは、強い香水の匂いがした。それで俺は酔いそうになった。
茨木先生は、当塾では数少ない、年配の講師である。前職では私立高校で教鞭を取っており、三十年務めたのち、定年まであと六年を残したところで、奥さんの死を機に退職したという。子どもは好きだが、もう少し生活にゆとりが欲しくなったらしい。
「今日の佳穂ちゃんの様子はいかがでしたか。」
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