その日の仕事が終わって塾を出ると、駐車場に車が停まっていた。CLAクラスのメルセデス・ベンツである。それは、亮介おじさんの車であった。窓が開き、「おーい!」と大声が飛んできた。塾に鍵をかけ、車に近づくと、彼は窓から顔を出し、「助手席、どうぞ! 入って入って!」と言って、振りかぶるような手招きをした。俺はその言葉に従った。車内には、オーデコロンの香りが漂っている。呼吸が苦しかった。
「やあ。悪いね急に。」
おじさんは車内ランプを点けて言った。
「いえ、こちらこそ……、待っていただいていたようで。」
「いや、こっちが勝手に待っていただけだ。」
と亮介おじさんは身もふたもないことを言った。「十二時頃に津々井校の前を通ったら、まだ電気が点いててね。オッと思って、前に停めさせてもらった。」
「すみません、仕事が終わらなくて……。」
「いやいや、そういうことではないですよ。月々の電気料金云々で説教するために待っていたわけではありません。」
と言って亮介おじさんはドリンクホルダーから何かを取出して、俺に手渡した。キャップつきの缶コーヒーであった。「夜は冷えるね。ちょっと一口どうですか。」
俺はそれを自分の方のドリンクホルダーに置いて、
「せっかくですが、コーヒーは一日に嫌というほど飲んでいまして。目がさえて眠れなくなるので遠慮させていただきます。」
「最近眠れてる?」
亮介おじさんは前を向いたまま言った。言うまでもなくそれは、俺の精神を支配している問題の急所であった。
「あまり眠れていません。」
「飯田さんから電話が来てね。君が危険な状態にあるのではないかと心配してらしたよ。」
危険な状態……、まったくそれは、尋常の言葉ではなかった。
「なぜそのように思われたのでしょうか。」
と俺は言った。
「君から送られてきたメールが支離滅裂だったらしい。申し訳ないが、わたしも見せてもらいました。普段の君は端正な文章を書く。それは知っています。だけれど……、確かにあれは支離滅裂と言って良いものでした。」
その文章は記憶になかった。書くのに随分時間がかかったのは覚えているし、何度も言葉を選びなおした記憶はつい一瞬前のものと思われた。だが、文章は如何にもきれぎれで、「悩んでいます。」とか、「修一くんにつきましては、」とか、そういった言葉の断片が、記憶の片隅で窮屈そうに躰をまるめているけしきであった。俺は黙した。
「君に睡眠障害があるのはよく知っています。それについては、君も一生つき合っていかなくてはならない問題だと思います。手を取り合って、ダンスを踊るというわけにもいかないとは思うけれど……、マ、そういうものだよね。」
「はい。」
と俺は言った。ダンスという単語が躍った。
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