三
ある朝、三吉はれいの風呂敷包を背負はずに露地を出て行きました。これは近年珍らしいことでした。木島おたねにもはじめて見ることでした。
「三吉さん、あんた背中の荷物はどうしたの?」
木島おたねはあやしんで訊ねました。
三吉は、
「胸に一物、背中に荷物。」
と言ひました。
さうして露地を出て行つて、やがて三吉は身輕な體で、ひよいと郊外電車に乘りました。「大和川」という驛でさつさと降りました。驛から直ぐ大和川の河原に出ます。三吉は白足袋を脱ぎました。それをふところに入れました。そして、尻からげしました。それから下駄を脱ぎました。
身支度が出來ますと、三吉はふところからかねて用意の茶碗を出しました。そして、川の中へ足を入れました。餘り深くありません。膝小僧が濡れるか、濡れなゐくらいの深さでした。けれど、着物の袂は濡れました。茶碗で川の底の砂をすくつたからであります。けれど、三吉は袂ぐらゐ濡れても良い覺悟でした。
三吉は一心不亂に砂をすくひました。さうして、隨分あやしい手つきで「碗がけ」をしました。「碗がけ」とは、碗を搖つて碗のなかの砂から異物を選りわけることを言ひます。一寸どじようすくひの格好に似てゐます。
三吉は何度も何度も砂をすくひ、何度も何度も碗がけをしました。その結果、砂のなかには時には小石がまじつてゐることがわかりました。けれど、雜魚一匹おりませなんだ。三吉にとつてはしかし、雜魚なぞゐてもゐなくても良いのでありました。三吉が砂のなかに探し求めてゐるのは、砂金でありました。
三吉は昨日ある得意先を訪問しました。この頃は三吉はどこの家へ行つても餘り歡迎されないのが常でありました。ところが、その家では非常に歡迎してくれました。といつても、なにも反物を買うてくれたといふわけではありません、ただ、永年中風で臥てゐるそこの御隱居が話好きで、良い話相手が見つかつたとばかり、三吉を枕元に引きとどめて、なかなか歸さうとしませなんだ、といふわけです。
御隱居はどうも頭が變ではないかと思はれる節があり、また舌がもつれてゐるせゐもありまして、一體なにを喋つてゐるのかと三吉には腑に落ちかねることが多かつたので、しぜん三吉は隨分退屈しましたが、御隱居が、
「ところで、話は違ふけど、大和川に砂金があるちゆうことを、あんた知りはれしめへんか。」
と、言うた途端、思はず三吉は膝を乘りだしました。
「え? 初耳だんな。」
「誰にも喋らへんか。」
「喋らしめへん。」
「ほんなら、敎えたる。慶長十九年大坂冬ノ陣においてやな……」
御隱居の話は隨分だらだらと續きましたが、三吉にはちつとも長いとは思へませなんだ。話の途中で御隱居は、
「えらい濟んまへんけど、小便さしたつとくなはれ。」
と、言ひました。三吉は御隱居のうしろにまはり、御隱居の脇の下をかかへて、小便をさしてやりました。御隱居の小便はあきれるほど手間が掛りました。さうしてまた、その間ぢつと御隱居をかかへてゐることは、隨分骨の折れる仕事でありました。けれど、三吉はちつともそれを苦にしませなんだ。大和川に砂金があると敎えてくれた代償としては、輕すぎるほどであると思ひました。
小便が濟むと、御隱居は、
「よつこらしよ。」
と、再び床の上に臥つて、暫らく、
「ああ、しんどかつた。ああ、ええ氣持やつた。小便さしてもろて、ほんまにええ氣持になつた。ああ、しんど……」
と、言つてをりましたが、やがてまた話を續けました。
「……と、まあ、言うやうなわけでやな、大和川には砂金があるねや。誰にも言ひなや。」
「言へしめへん。なにが喋りまつかいな。」
今日三吉が大和川の河原に出掛けて來たのは、そんなことがあつたからでした。そして、こつそり砂すくひをやつてゐるわけです。
さうして、大分時が經つた頃のことでした。
「あんた、何したはりまんねん?」
不意に聲を掛けられました。三吉はびつくりして振り向きました。むやに背の高い、痩せた男が、鳥打帽をあみだにかぶつて立つてをりました。
眼付きが鋭いので、三吉はぎよつとしました。私服の警官ではないかと思つたのです。
「鮒でも獲つたはりまんのか。」
「違ひまんねん。」
三吉は思はず、さう言ひました。
「そんならなに獲つたはりまんねん?」
男は再びききました。三吉はもう隱し立てが出來ぬと思ひました。三吉は大和川に砂金があることは、誰にも喋りたくなかつたのでした。それ故、さうしてひとりこつそり砂すくひにやつて來たのです。けれど、三吉は根が正直な男でありますから、たづねられると隱し立てができませなんだ。
「砂金でんねん。砂金採つてまんねん。」
さう言ひながら三吉は、内緒で砂金を竊つたりするのは、罪になるのではなからうかと、蒼くなつてをりました。
「なに? 砂金?」
男は吃驚りした聲をだしました。さうして、
「そこ動かんやうにしとくなはれ! ぢつとして! ぢつとして! 茶碗を川のなかへ突つ込んだまんま、ぢつと動かんといとくなはれ!」
と、命令するやうに言ひました。
「あえらいことになつた」
と、三吉は思ひました。三吉は、自分が拘引されるのだと、早合點したのです。三吉は指紋をとられるだらうと、思ひました。
けれど、その男は三吉の指紋なぞとりませんでした。その代り、寫眞を撮りました。
さうして、その男は三吉を叱りつけもせず、それどころか、
「パチリツ! はい、よろしい。いや、どうも御苦勞さん、おほけに……」
と、禮まで言ひました。
三吉は大變恐縮しました。
男は寫眞を撮つてしまひますと、あたふたと驅け出して行つてしまひました。
三吉は再び砂すくひをはじめました。
夕暮まで河原に居りましたが、しかし結局砂金を發見することは出來ませなんだ。
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