五
三日經ちました。三吉は永年住み馴れた家を疊んで、露地を出て行きました。鑛山へ働きに行くのです。
三吉はまごまごした身の廻りのものを大きな風呂敷に包み、それを背負つて朝八時に露地を出て行きました。
けれど、白足袋ははいてをりませなんだ。
三吉と並んで露地を出て行つた木島おたねは、しかしいつもの素足ではなく、足袋をはいてをりました。春先きではありますが、木島おたねは鑛山は冷えるでせうねと言つて、わざわざ毛糸の足袋をはいてをりました。用意周到と申さずばなりますまい。かつ、それはちよつとした乙なものでありました。
あ と が き
ここに収めた九篇の短篇のうちでは、「素顔」「勸善懲惡」「子守歌」「婚期はづれ」の四篇がややましかと思つてゐる。出來れば、他の五篇をあとにしてこの順序で讀んでいただきたい。
この四篇のうち、作者の色彩のもつとも濃いのは「素顔」であらう。抒情を殺しすぎたとも思ふが、今のところ、これが作者の手法で、致方ない。
「勸善懲惡」はたのしんで書いた。が、後半のいくらか感傷的な場面がなければ、作者はこの作品を二度と讀む氣がしない。その點「子守歌」も同様である。作者のこの作品に於ける戯畫の手法は、やはり、最後の子守歌で救はれた。けれど、作者はこの手法はここに至つてもなほ抒情を殺した。この最後の數行はもうすこし、素直に、くどく書いてもよかつたところであつたかも知れぬが、手法の變改といふことは、容易ならぬことである。
「婚期はづれ」については、別に言ふところもない。
他の五篇については、更に言ふところはない。强ひて辯解すれば、それらはそれぞれ讀者層を考慮に入れて氣樂に書いた讀物である。
昭和十七年十二月
大阪にて
織 田 作 之 助
作品解題、青山光二(『底本織田作之助全集第三巻』文泉堂、昭和五十一年四月二十五日発行)
「大人の童話」
初出誌不詳、作品集『素顔』(撰書堂、昭和十八年一月刊)所収。
物資ようやく欠乏して“贅沢は敵だ”の掛け声がかかり、呉服物の担ぎ屋などは商売にならなくなった時代の一面を諷刺的に描いた、才気あふれる軽妙の作。主人公が河原で砂金さがしをやっているところを新聞記者が写真に撮り、その記事がもとで、閑人がわっと河原へ押しよせる、とか、そこへ鉱山監督局の役人がやって来て、鉱山労働者徴募のアジ演説をぶつなど、この作品は、段取りのより、いくつかのアイディアで成り立っているともいえる。役人の演説も、ウィットに富んだ饒舌調だ。
因みに、昭和十四年から十五年にかけて日本工業新聞の記者だった頃の著者は、主として鉱山監督局詰めであった。
この作品が、もし、鉱業関係の雑誌にでも掲載されたものだとすると、これ以上、発行者側の要望にぴったりの小説はありえなかった、ということになろう。戦争の進展にともない、鉱山もおいおい、人手不足どころのさわぎではない時期にさしかかっていたのである。
もっとも、この小説を読んで、さっそく鉱山へ働きに行く気を起こすあわて者が、そうザラにいるはずがないのは見易い道理だ。作者はむろんのこと、当局にも、それぐらいのことはわかっていたはずだが、それでいて、この態の戦争協力が文芸に要求されていた。このあと、政府の言論弾圧はしだいに拍車を加えるのだが、“工夫に富める大阪の作家”を自称していた著者にとっては、弾圧もまた愉し、の気概がないでもなかった。“大阪の適応性”は又、かねて彼の宣伝するところでもあったのだ。
『織田作之助――生き、愛し、書いた。』大谷晃一(沖積舎、平成十年七月十八日発行)※p215より引用
作品集『素顔』が撰書堂から刊行されたのも、十八年一月である。短編『素顔』以下を収めた。このうち『大人の童話』は執筆時がはっきりしない。中身は数年前のことである。十四、五年に作之助は日本工業新聞記者で大阪鉱山監督局に詰めていた。十七年に同局の文化委員になった。十二年ごろ妹登美子の夫西沢多四郎の呉服の行商は次第に窮屈になった。そんな知識を巧妙に結びつけた。
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