Natural Born Fairies ~織田作之助について②~

九芽 英

エセー

4,415文字

オダサクの命日が十日戎で、尾崎紅葉と福沢諭吉の誕生日と同じだとは知りませんでした。この文章は10年ほど前に書いたものに手を加えているので、内容が大分古いです。オダサクを囲む環境は当時からは想像もできないほど変わっています。坂口・太宰・織田の関係は話のネタにしやすいですし、オダサクの絶妙なダメ感と、やるときゃやる感。高身長、イケメン、夭折の天才。最強のカードを持っていると言って良いですね。

【織田作之助について】

 織田作之助は太宰、坂口にとって決してオマケではない、実力を認め合った仲間である。少なくともこの点は否定できるものではない。しかし、七十年経って現在はオマケにすらなっていない。確かに、太宰と坂口に実力を認められていたとしても、それだけで文学史上の「戦後無頼派」の一員に加えてもらえるわけではない。彼は、実際にどれほどの作家であったのか。ただの飲み友達だったのか。

 

昭和十三年生まれの高松敏男氏は、「織田作之助論-その実存的考察-」の中で織田作之助との出会いを、

 

 「ぼくらの世代が織田作之助と言う個性の強い一作家の存在に出会うのは、外ならず敗戦直後のことでしかない。しかもそれとて敗戦直後ただちにと言うわけではない。と言うのも、あの敗戦直後の日本全土が混沌としていた状況においては、謂わばぼくらはまだ本当に幼い子供でしかなかったから。当時のぼくらは、現実に何が起っているのか、と言うことに対してすら大した自覚も持ってはいなかったのだ。だから当時のぼくらが、織田作之助の存在が何を意味するのか、確かな自覚に目醒めていたわけではない。ぼくらはただ呆然として、その混乱した社会状況の中で一躍流行作家として、世間の賛否両論の中でそれを尻目にじゃんじゃん小説を書き飛ばしていた織田の姿を知っていただけに過ぎない。」

 

 と、語っている。織田作之助がその身を削って小説を書きまくっていた時にまだ本当に幼い子どもであった高松氏の世代が、オダサクの存在を自覚することが出来ないのも当然の事と思うが、「余りにも永い間いためつけられて来た飢えと、賤しさと、卑屈な根性から、何もわかりはせぬまま逸早く世相に便乗し、ジープに乗って国道を走り回るアメリカ兵GI達の囓っている舶来の珍しいチューインガムやチョコレートに飛んでしまって」いた高松氏の目にもその華々しい活躍の姿は映っていたのである。

 

同じく昭和十三年生まれの矢島道弘氏は「戦後文学史観の問題」において、オダサクに対する強い理解と肯定を論じながら、織田作之助の作家としての活躍について、

 

 「無頼派とか、新戯作派といわれる作家たちを考えた時、終戦後、いち早く活躍しはじめた作家は織田であるといえる。逆に、文壇登場期は、坂口を先頭として、石川、太宰が昭和十年代の初、そして織田と田中は中頃と、一番遅かったわけである。戦後の織田の驚異的な創作活動と比して戦中もあの狂乱の嵐のなかで、地道に活動を続けていたが、出世作「夫婦善哉」は、文芸推薦作という華やかさに反してあまり評判がよくなかった。あまりに老成した饒舌体が評者の顰蹙を買ったのである。その後の作品も賛否相半ばした批評がつづき特別に目立った評価もなされないままに『文芸』や『新潮』などの一流文芸誌に書きつづけていたのである。

 ところが、戦後になっていち早く活躍しはじめ、それこそ〈ひとがいない時がなければ書くときがない〉とまで放言して悪鬼となって書きまくらなければならなかったのだろうか。織田の昭和二十一年の頃のモメ帳をみると、依頼原稿の多いことに驚愕するだけである。(中略)この命がけの戦後の蘇生ぶりは驚異的なもので、太宰などよりもてはやされた感がするのである。」

 

 と、評している。わずか一年半にも満たないこの時期、織田作之助は太宰治などよりもてはやされていた、とは現状を見れば、またまたご冗談を、と突っ込まざるを得ないが、昭和六年生まれの稲垣真美氏がその著書「可能性の騎手 織田作之助」のまえがきにおいて言うには、稲垣氏は長らくオダサクに関して、大阪の郷土作家、戦後無頼派という二つのレッテルを貼っていて、ほとんど関心がなかったようで、その関心がなかった理由として、「そのどぎついまでの印象を伴う登場振り」、「織田作や太宰治の文学のもてはやされ方に不快感さえも抱いた」と、ここでも太宰と並んでるのを見ると、どうやらホントのようだ。

 

織田作之助が生きていた時代に、幼いながらも一読者として過ごした三人が、太宰治と同じか、あるいはそれ以上の流行作家と言っている。

 

 続いて、織田作之助の死から半世紀以上経って彼に出会った人間にとって、オダサクはどのように見えるのか。僕自身が織田作之助について調べ始めた当初、彼から戦後などという香りは一切漂ってこなかった。織田作之助に関して調べ始めると、まず目に入るのが「改造社第一回「文芸」推薦作品『夫婦善哉』」。辞典レベルで調べている限り、まるで口裏を合わせたかのようにどこを切っても顔を見せるのは「代表作『夫婦善哉』」。

 

オダサクの代表作は、ほとんど満場一致で『夫婦善哉』なのである。これでは『夫婦善哉』が発表された昭和十五年前後がオダサクの最も油の乗っていた時期なのだろう、と脊髄反射的に連想したところで誰も僕を責めることは出来ない。この段階で彼が太宰や坂口と肩を並べる作家であると見抜いた人は、よほど文学に通じている人か、ただの妄想家である。

 

オダサクについて与えられる情報が戦中の作品ばかりなら、新たに知った読者はオダサクを戦中の作家と思い込むだけである。

 

 稲垣氏が、前述の「レッテル」の後にこう述べている。

 

 「私は、たまたま数年前に織田作之助の全集(昭和四十五年、講談社刊、全8巻)が刊行されたとき、編集担当の白川充氏からそれを贈られていたので、念のためその全頁をくってみているうちに、どうやらこれまで織田作之助に付されていたレッテル-とくにいま例にあげた二つの事柄に代表されるようなレッテルは、必ずしも織田作の人間や文学の本質を伝えるものではない、という事実に気がついた。

 第一に、織田作之助が文学的登場をしたのは、実は戦後ではなく戦中のことであり、しかも、その戦中諸作の主なものは、題名のみ通俗的に流布された『夫婦善哉』にせよ『わが町』にせよ、他の戦中諸作家にみられる軍部、官憲のしめつけに屈するふうは少しもなく、すべて自分の育った大阪の裏町で、貧しいながらも正直に純粋に生きようとした身辺の人々の人間性を、実にリアルにつたえていることを改めて知って、心打たれた。

 (中略)このような真のリアリズムが、織田作の初期の戦中の諸作に確立されていることは、私にとっては、従来のレッテルからすれば、意外とさえ思われたことであった。そればかりか、同じ作風の『青春の逆説』(昭和十六年)の作が発表当時発売禁止となったのでもわかるように、真実をまげぬ彼の筆致は、戦中抵抗に通じるものさえ持っていたのである。すなわち、織田作之助はこれらの点からすると、戦後無頼といわんよりは、むしろ“戦中無頼”といってこそふさわしく、私はその意味での織田作之助の文学の独自性を認めないわけには行かなくなった。」

 

このように、実際に調べてみると織田作之助は間違いなく戦中の作家という評価なのである。戦後の作品のほとんどは、瀬名秀明の言葉通り図書館の倉庫の片隅にある全集にあたらなければその存在を知ることすらできないのが現状であり、そこに到達するまで彼が戦後作家として語られるのは違和感がある、と僕もそう思っていた。

 

稲垣氏は、見るべき点は戦中の作品にもある、と言っているわけだが、作家として読者に広く認識されたのは、稲垣氏をはじめ、高松氏と矢島氏が体感したように、どうやら戦後、それも戦中以上の華々しい活躍だったのだ。そして現在、読者に与えられるとすれば、『夫婦善哉』というレッテルを貼られた、戦中の織田作之助。ここに一つの大きなギャップがあり、織田作之助を、無頼派の研究者にさえ取り上げてもらえないくらい、分かりにくい作家、一般に広まりにくい作家にしている要因があるのではないか、と僕は思う。

 

そういう点においては、昨年「文豪ストレイドッグス」とのコラボカバーで出版された角川文庫の『天衣無縫』。これは注目すべきである。なぜ、『天衣無縫』なのか。

 

これはどうやら「文スト」における織田作之助の能力名になっているらしい。本当にオダサクはこのタイトルで作品を残しておいて正解だった。能力名が「夫婦善哉」では人気も出なかっただろう。『天衣無縫』は、短編集のタイトルになったりしているので、代表作の一つと言ってもいいだろうが、『夫婦善哉』の延長にあるような、瀬名秀明の言う「大阪の人情噺を綴った、辛気くさい」作品で、特筆すべき点はない。

 

とはいえ、彼はオダサクの「初期の短編は面白い」とも言っている。確かに『天衣無縫』は『夫婦善哉』からタイトルを奪ったという点においては非常に価値が高い。今までオダサクと言えばパブロフの犬のように『夫婦善哉』だったのだから。

 

「天衣無縫」という言葉。僕はこの言葉が好きだ。「天人の衣には縫い目がない」から転じて「小細工のない完成された美しさ」。さらに転じて「無邪気で天真爛漫な様子」。「天の羽衣」を身に着けると人格が変わってしまうことにも関係しているかもしれない。この「天衣無縫」という言葉こそオダサクの作風に相応しい言葉であると思うのだが如何。

 

また、注目すべき点はタイトルだけではない。収録作品とその初出を一覧にしてみると、

  • 『夫婦善哉』 昭和15年4月「海風7号」
  • 『俗臭』 昭和14年9月「海風6号」※発禁処分
  • 『天衣無縫』 昭和17年4月「文藝」
  • 『放浪』 昭和15年5月「文學界」
  • 『女の橋』 昭和21年4月「漫画日本」
  • 『船場の娘』 昭和21年1月「新生活」
  • 『大阪の女』 昭和21年6月「ロマンス」
  • 『世相』 昭和21年4月「人間」
  • 『アド・バルーン』 昭和21年3月「新文学」

と、戦後作品の方が多いのだ。収録された作品を見ても、『女の橋』、『船場の娘』、『大阪の女』の三世代に渡る物語は、上記の通り時系列も初出雑誌も異なるので、同時収録されて初めて意味を持つものである。そして「可能性の文学」の一端を担う『世相』。実は『アド・バルーン』は、昭和20年6月に書かれたもので、その時は日の目を見ず戦後に発表されることになったのだが、細かいことは良いだろう。以上のように戦中と戦後の代表作がバランスよく収録された短編集となっている。

 

だからと言って、この短編集だけでオダサクの魅力が理解できるとは到底思えない。やはり短編集では、命を燃やして書きまくった連載小説群が収録できないからだ。それらはやはり、図書館の倉庫の片隅で見つけるしかない。

 

織田作之助の活躍についてもう少し見てみよう。

2017年1月12日公開

© 2017 九芽 英

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